111.怒れる執事
「……それで、逃げ出した、と……」
「……」
俯いたままリンが頷いた。
「ハアアァァ~~~~……」
グッドマンは大きく息を吐いた。
しばしの沈黙がその場を支配した。リンにとっては拷問のような沈黙だった。自分がグッドマンをはじめ、ミリアムやリチャードの友情を受けるに値しない人間であることを、すっかり告白してしまったのだから。いわんや、アクセルの至上の愛情をや、である。
いつ、グッドマンが冷たく席を立つのか、戦々恐々としながら待つしか他に為すすべはない心地がする。
ところがーー。
グッドマンは考え事をするそぶりで、一向に立ち上がらないのだった。
そんな老執事の態度を見て、リンの中に、都合の良い希望的観測がむくむくと沸き上がってきた。
(もしかしたら、許してもらえる?十分反省した、って思ってもらえるかも?
そこまででなくても、ステラの親権について、交渉の余地くらいは与えてもらえるかも……)
そんなことを考えている。
ところがそんなリンの思索をバッサリと切って捨てるかのように、グッドマンは言った。
「それで?バクスター様。逃げられましたか?」
いつもの飄々とした口調だった。表情にも特に目立った所はない。
グッドマンは自分の話を聞いていなかったのだろうか?リンは訝しげに、
「え?」
と顔を上げた。
そんなリンのぼんやりとした様に、変わらず飄々とした口調でグッドマンは続けた。
「ご自分の醜さ、激しさ、人を憎むのに十分な、マイナスのパワーといった、そういう、まぁ、要するにダメなご自分、といったものから、逃げることはできましたか?とお訊きしております」
そこまで聞いて、ようやくリンは気付いた。どうやらこの好々爺とした風体の愛すべき執事に、自分は皮肉を言われているらしい。その程度には、この執事は、怒っているらしい。
「えっ……いえ、その……」
怒っているだろうな、とは思っていた。心配をかけたことを詰られるだろうな、とも。しかし、こんな風に淡々と、皮肉を交えてネチネチと叱られることになるとは思いもしなかった。
しかも今この瞬間、一番の問題は、リンにはグッドマンの問いの意図が、まったくわからないことだった。リンはグッドマンが何を言いたいのか?どんな答えを期待しているのかが分からず、口ごもってしまった。
「大方、今も『逃げ』ているのではないですか?」
黙り込んでしまったリンを尻目に、グッドマンは手に持ったペットボトルから安っぽい量産品のグラスに、これ以上ない優雅な手つきで冷たい紅茶を注ぐと、これまた流れるような手つきで口元に運んだ。
「自分のダメさ加減を相殺したくて、身体を酷使して必死に働いて、一人でも多くの患者さんを助けるといった善行を重ねることで、なんとか気持ちの帳尻を合わせようとでもしているのではないですか?」
驚きのあまり目を見開くリン。一方、そんなリンの様子に、心底呆れた様子でグッドマンは片方の眉毛をキュっと上げた。
「図星でしょうか?」
まったく、今日のグッドマンは容赦がない。リンは無言でコクリと頷いた。
「はああぁぁぁ~~~」
グッドマンはディスカストス侯爵家にまつわる様々な情報のコントロールを行う、という、筆頭家令執事としてのリンの知らないもう一つの顔をさらけ出し、再び大きく嘆息した。その様子はまるで、出来の悪い生徒を前に、どう言って物事の道理を説明しようかと考えあぐねる、教師のようだった。
それを見て、生まれて初めて感じる居心地の悪さに、もぞもぞと身体を動かすリン。というのも、今の今まで常に優等生で通ってきたリンは、年長者からそんなふうに、心底呆れた態度を見せられるのが、生まれて初めてだったからだった。
相変わらずリンを真正面からじーっと見ながら、グッドマンは無言で足を組み、ソファの背もたれに深々と沈み込んだ。足を組むグッドマンを見るのも初めてなら、椅子の背もたれに背中をつけるグッドマンを見るのも初めてのリンである。
初めて見る完璧な執事の意外な一面に、驚きのあまりただただ呆然と見入っていたリンに向かって、グッドマンは言った。
「それで?逃げることはできそうですか?
この2年余の間、逃げ続けたワケですから、まぁ、バクスター様なりに手応えくらい感じられましたでしょうか?少しは自分の中のマイナス分をうち消せる見通しは立ちましたか?
忘れられそうですか?ダメな自分を?自分の中の暗闇を?」
左手で右手の肘を持ち、その右手でグラスをゆらゆらと揺らしながらグッドマンは問うた。依然として背もたれに深くもたれて、口調は飄々とした軽薄さと冷淡さを併せ持っている。
しかも、その問いかけの中身は、至って鋭く、かつ、答えづらいものだった。
なんとかグッドマンの問いかけに対して、返答を誤魔化したいと思ったリンだったが、そう上手い言い訳も考えがあるわけでもなく……。とうとう観念して、頭を振った。
そう。グッドマンの問いかけというか、指摘は、リンの痛い所を的確にグイグイと抉ったのだった。




