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新世代巡洋艦「阿賀野」型

作者: 山口多聞
掲載日:2026/02/10

架空戦記創作大会2026冬お題③で参加します。よろしくお願いいたします。

 日本海軍は水雷戦隊旗艦用としていわゆる5500トン型と言われる類似艦型の軽巡洋艦を多数整備し、以後は軍縮条約の締結などもあって、しばらく実験艦の「夕張」を除いては、軽巡洋艦の整備を行わない予定であった。


 しかし昭和2年に発生した美保ヶ関事件において「神通」ならびに「川内」が駆逐艦と衝突事故を起こして沈没するという事態が発生し、軽巡洋艦の数に不足を来したことなどから、新たな軽巡の整備に動き始めた。


 ただしこの不足する軽巡洋艦を、将来的に重巡へと変更する「最上」型のような大型艦とするべきか、それともあくまで5500トン型の代替とするべきかという議論が発生し、軍縮条約によって制限された排水量や、予算の絡みもあって、具体的な建造計画となるまでに数年を要した。


 昭和10年代に入ると、さすがに5500トン型の老朽化と性能の陳腐化が進んだことと、それ以前の「天龍」型などの置き換えや軍縮条約の失効を見据えた結果として、ようやく次期軽巡洋艦の建造が決定した。


 これが「阿賀野」型で、主砲は15cm連装砲3基6門。8cm連装高角砲2基4門、61cm4連装魚雷発射管2基8門に水上偵察機2機を搭載可能としていた。


 主砲門数では5500トン型のものより1門減少していたが、主砲口径は若干増大し、なおかつ連装砲塔に纏められているため実用性は向上している。また高角砲や高角機銃も増強され、魚雷も最初から酸素魚雷の運用を想定した四連装発射管にするなど、5500トン型よりも大幅な進歩が見受けられた。


 航空機の運用に関しても、搭載する水上機の数は倍となり、整備のし易い飛行甲板が設けられたことで、運用能力は格段に良くなっていた。


 最初の「阿賀野」が昭和12年に起工され、同年中には2番艦「能代」も起工された。さらに翌年度の予算で3番艦「矢矧」と4番艦「酒匂」が起工された。


 「阿賀野」と「能代」が「神通」ならびに「川内」の代艦、そして「矢矧」と「酒匂」が「天龍」型代艦の位置づけであった。


 そして昭和15年3月に「阿賀野」が、その半年後に「能代」が竣工した。折しも支那事変が勃発し、その解決もできぬままに、米英など連合国との関係悪化、そして同年に開催された紀元2600年記念の観艦式への参加要請もあり、その完成が急がれた故のスピード建造であった。


 なお、実際のところ観艦式への参加時は残工事があり、戦闘可能状態になったのは翌年初頭のことであった。


「阿賀野」は日本海軍水雷戦隊の花形である第二水雷戦隊旗艦となり、続いて「能代」は第一水雷戦隊旗艦となった。


 2隻の完成と前後する形で「天龍」「龍田」の2隻が予備艦となり、旧兵装を全廃して高角砲と機銃のみの武装で、大発や陸戦隊の搭載を可能とした高速輸送艦に種別変更した。当初は「秋月」型の旗艦となる防空巡洋艦への改装も計画されたが、旧式化と費用面から流れている。


 艦隊に配備された「阿賀野」と「能代」は、様々な面で5500トン型よりも進歩しており、乗員たちから喜ばれた。もちろん、軍艦としての性能面でも同じである。


 一方で不満の声も聞かれることとなった。この時期米海軍は新鋭の軽巡として「セントルイス」級や「アトランタ」級の建造を開始しており、いずれも「阿賀野」型より大型で強力な兵装を有しており、実戦で撃ち負けるのでは?という懸念が生まれていた。


 さらに対空兵装として搭載された新型の98式8cm連装高角砲が威力不足なのではという声も上がった。口径がそれまで主力となっていた12cm高角砲や12,7cm高角砲よりもスケールダウンしているのだから、もっともなことである。


 加えて昭和12年に勃発した日中戦争や、昭和14年に勃発した欧州戦争などの戦訓からも、航空機の急速な高速化や防御力の強化が伝わっているのも大きかった。


 そのため「能代」から半年遅れで竣工した「矢矧」ならびに、4番艦の「酒匂」からは25mm機銃の搭載数が増強されている。


 1941年12月8日の太平洋戦争開戦時、竣工していたのは「阿賀野」「能代」「矢矧」のみであり「酒匂」が竣工間近であった。


 それぞれ、第二、第一、第三水雷戦隊旗艦として開戦を迎えた。


 このうち「阿賀野」は真珠湾攻撃からはじまる南雲機動部隊の護衛艦として転戦するが、対艦戦闘の機会は恵まれないまま、運命のミッドウェー海戦に至る。


「能代」と「矢矧」は南方作戦に参加した結果、米英蘭豪艦艇との水上戦闘の機会を得て、いずれの戦闘でも水雷戦隊旗艦としての期待通りの働きを見せた。一方で、開戦前より懸念されていた対空火器の不足が露呈することとなり、以後「阿賀野」型巡洋艦は戦争全期間を通して、対空火器の改善と増強に努めることとなる。


 一方昭和14年度予算で建造が開始された2隻は、米英の艦艇の増強などを受けて、主砲を1基、対空砲を2基増強し、それに伴い全長と排水量も増した拡大型として建造が開始され、艦名も「四万十」ならびに「木津」となった。


 後に改「阿賀野」型と呼ばれる2隻である。さらに翌年には米国の艦艇増強などの報を受け、4隻の建造が決定した。しかも、このうち2隻は米国で建造を開始した「アトランタ」型への対抗と、建造が開始された「秋月」型駆逐艦の戦隊旗艦となるように、主砲を全て10cm連装高角砲へと変更した。


 改「阿賀野」型は「九頭竜」「揖斐」、対空型は「綾瀬」「有田」となった。


 もし戦争が起こらなければ、日本の軽巡建造は米国の「アトランタ」級や「クリーブランド」級に対抗する形で「最上」型ベースの大型艦、もしくは「阿賀野」型をベースとしつつも設計を一からやり直し、水雷ならびに航空装備を整理して10cm連装高角砲を12門程度搭載した新型防空艦へと進化したことだろう。


 しかし太平洋戦争開戦後の激増する損傷艦艇の修理や、より建造の優先順位が高い空母や「秋月」型「松」型、各種海防艦に輸送艦などの建造に忙殺された建造現場では、もはや新規に軽巡を設計し建造している余裕はなかったのである。


 開戦以前の日本軽巡の系譜は「有田」で潰えることとなった。


 なお、余談だが本来「阿賀野」型で置き換えられる予定であった5500トン型軽巡洋艦は、一部が重雷装艦、簡易防空巡洋艦、高速輸送艦に転用されたものの、半数ほどは軽巡のまま戦争を戦うこととなる。


 さて、1942年6月に発生した「ミッドウェー」海戦時、この時点で戦闘可能だった「阿賀野」型4隻のうち「阿賀野」は第一機動部隊に「能代」「矢矧」が連合艦隊主隊に、そして「酒匂」が攻略部隊の一隻として海戦に参加した。


 だが海戦自体は機動部隊の航空機を使った航空戦が主となり、しかも敵発見が遅れた日本側が米側の奇襲を許して早々に空母「加賀」「蒼龍」を失い、米空母2隻を道連れにしたもののさらに「飛龍」を失ったことで、惜敗した。


 その後撤退する米空母の撃攘を図るため、第一機動部隊から分派された艦艇が米艦隊を追撃した。


 この中に「阿賀野」があり、米空母撤退を援護する米水上艦艇と戦闘が発生した。


 この戦闘は戦艦を擁する日本側が水上戦闘では圧勝したが、最終的に残存する「エンタープライズ」の逃走を許し、さらにミッドウェー島の基地機によって巡洋艦「筑摩」が中破するなど、完勝とはならなかったが「阿賀野」は当初の設計通り、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と共に魚雷攻撃を行い、米艦隊に打撃を与えることに一役買っている。


 続いて「阿賀野」型が活躍する舞台となったのは1942年9月に米軍がガダルカナル島への攻撃を開始したことで勃発したソロモンの戦いである。


 同島には日本側が飛行場を建設し、米軍の攻撃が始まった時点で既に航空隊も進出していた。


 しかし、米側は投入できる航空母艦全てと2万名近い海兵隊を動員してガダルカナル攻略を開始し、同島守備隊2000やラバウルから来る基地航空隊との激闘の末、9月15日に飛行場を確保した。


 対する日本側はまずトラック島から出撃した第三艦隊の空母部隊が、米空母とガチンコの戦闘を行い味方喪失空母なしで「エンタープライズ」「サラトガ」を葬り、さらに損傷退避中の「ワスプ」を潜水艦が撃沈したことで、空母部隊同士の戦闘で言えば日本側の圧勝となった。


 しかし、この戦いで搭載機を消耗した第三艦隊は撤退し、ガダルカナル救援には失敗した。以後はラバウルやトラックから出撃する水上艦隊が主役となる。


 そして水雷戦隊旗艦であった「阿賀野」型は、機動部隊の護衛艦となっていた「阿賀野」以外の4隻が実戦に参加した。


 このソロモンの戦闘でも「阿賀野」型は米艦隊相手に奮闘し、戦艦「大和」と米新型戦艦「ワシントン」「サウス・ダコタ」との戦闘となった第4次ソロモン海戦でも活躍し、この際に「能代」が被弾し中破しながらも、火災炎上しながら戦場離脱を図る「ワシントン」に遠距離雷撃を仕掛け、2本を命中させて撃沈に追い込んでいる。


 これが「阿賀野」型による唯一の戦艦撃沈戦果となった。


 このガダルカナル島を巡る戦いは、双方共に対数の艦艇と航空機、兵員を消耗する戦いとなったが、最終的には補給の限界に達していた日本側が、ガダルカナル島を放棄して戦線をブーゲンビル島に下げる1943年5月まで続いた。


「阿賀野」型もまた「阿賀野」が空母「瑞鶴」護衛中に米潜水艦の雷撃で中破し「能代」がラバウル停泊中に空襲で大破するなど、小さくない打撃を受けたが、沈没艦はなかった。


 そしてこのガダルカナルを巡る戦いでは、米側も多数の艦艇と航空機、兵員を消耗した結果中部太平洋、ならびにニューギニアでの攻勢が遅れることとなった。ただし、それも一時的なことであった。


 ガダルカナルの戦いの終結から3ヶ月後、米軍は中部太平洋、中部ソロモン、ニューギニアの三方面で同時攻勢を開始した。


 それは巨人米国の軍事力から吐き出される軍備が、いよいよ本格攻勢を開始したことを意味した。


 これに対して、日本側は中部太平洋方面では機動部隊を含む艦隊による反撃を実施したが、ソロモン、ニューギニアでは基地航空隊と潜水艦部隊が主戦力となってこれにあたった。


 戦力の劣る日本側では、これが限界であった。ただし、主として戦線の整理のためや補給のために艦隊が派遣されることはあり、この戦いに「阿賀野」型巡洋艦は数度投入されている。


 そしてここで、最初の犠牲が出る。


 1943年12月、日本軍はソロモン諸島の防衛戦をラバウルまで縮小(同時にニューギニアも東部を放棄し西部に集中)することとなり、その撤退を援護するため水雷戦隊+巡洋艦による小艦隊を幾度か派遣していた。


 ここで発生したのが第3次ブーゲンビル島海戦で、撤退を援護する日本の第三水雷戦隊を基幹とする援護艦隊と、これを阻止するべく出撃した米豪新連合艦隊が正面から激突した。


 この際に、第三水雷戦隊旗艦に配置換えされていた「阿賀野」は駆逐艦を率いて先頭にたって進撃し、結果的に敵艦隊の砲撃を諸に浴びることとなった。


 同艦は潜水艦からの雷撃による損傷修理に伴い、電探、逆探、対空火器を増設し、この海戦でも敵艦隊探知に功績を挙げたが、ここで武運尽きることとなり、多数の被弾により大破炎上。最終的に味方艦の砲撃で自沈処分となる。


 海戦自体は魚雷攻撃で巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を撃沈するなど、トータルで勝利と言えたが、これが戦争における「阿賀野」型最初の犠牲であった。


 また翌月には、マーシャル諸島沖で「酒匂」が戦没した。同艦は「矢矧」とともに、機動部隊である第三艦隊に所属していたが、マーシャル諸島に侵攻してきた米機動部隊と、その迎撃に出動した第三艦隊との間で戦われた同海戦で、米空母機の雷爆撃の前に敢えなく没した。


 同艦は戦訓を反映して魚雷発射管を1基降ろす代わりに高角砲を2基増設し、機銃も増設していたが、圧倒的な航空機の数の前に組み伏せられてしまった。


 海戦自体も基地航空隊との協同で正規空母1、軽空母1、戦艦1隻を葬ったが日本側も正規空母2、軽空母1隻と、航空機の3分の2を失う大損害を被り、最終的にマーシャル諸島救援にも失敗して敗退した。


「エセックス」級ならびに「インディペンデンス」級空母を中心に編成された米機動部隊の実力は、新型艦載機の性能と相まって、かつての米機動部隊より数段上であった。さらに、圧倒的な工業力を背景にした補充能力も目を見張るものがあった。


 この海戦の痛手から日本機動部隊が復活するには、少なくとも3ヶ月以上掛かるのに対して、米側は2ヶ月後の3月にはトラック島へ大空襲を仕掛けた。


 日本側はこれに対抗する艦隊戦力を持たず、事前に主力艦艇をパラオ方面に避退させるのが精一杯という有様であった。


 そしてトラック諸島への空襲で「能代」が撃沈される。損傷修理を終えて、再びソロモン方面への前進を前にしての無念の戦没となった。


 このトラック空襲では、日本側も基地航空隊をかき集めての迎撃や反撃を試みるも、圧倒的な機数の敵機に組み伏せられ、150機あまりの撃墜と軽巡1隻の撃沈の代償に、大小艦船30隻あまりと航空機250機を喪失し、トラック島の基地機能も大幅低下し、艦隊泊地としての能力を事実上喪失してしまう。


 ここに大日本帝国海軍は、戦線を縮小せざるを得なくなる。そして絶対に米軍に明け渡せない地となったのが、マリアナ諸島とフィリピンであった。


 マリアナ諸島は、この頃既に中国奥地から日本本土空襲を開始していた超重爆撃機B29が、東京を含む日本本土を空襲可能圏内に収められる地であり、ここを取られることは本土の空を蹂躙されることを意味していた。


 そしてフィリピンは、南方資源地帯と日本本土を結ぶ航路の拠点であり、ここを取られれば戦争遂行は絶望的となる。


 そして次に米軍がやって来たのは、マリアナ諸島であった。1944年8月、米機動部隊と上陸部隊がマリアナ諸島沖合に出現した。


 これに対して、日本側も再建した空母機動部隊である第三艦隊と、戦艦部隊である第二艦隊、さらには基地航空隊を総動員して迎撃を行った。


 この海戦には「矢矧」「四万十」「木津」「九頭竜」「揖斐」「綾瀬」が参加し、ほぼ全ての軽巡が「阿賀野」型以降の新世代巡洋艦に置き換えられていた。とりわけ、主砲を全て10cm連装高角砲とし「秋月」型と戦隊を組んだ「綾瀬」への期待は高かった。


 また既存の「阿賀野」型や改「阿賀野」型も戦訓から高角砲、機銃を目一杯増強して対空戦闘に備えていた。


 結果から言うと、連合艦隊は作戦目的であるマリアナ防衛には成功した。米機動部隊に正規空母2,軽空母1,戦艦3撃沈の打撃を負わせると共に、他の艦艇も相当数を撃沈破し、以後の作戦行動を断念させるだけの打撃を負わせた。


 もちろん、連合艦隊も高い代償を支払うこととなり、戦艦「陸奥」「比叡」「金剛」と空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」「千代田」「龍鳳」を喪失し、空母搭載機に至っては85%喪失という、文字通り壊滅した。


「阿賀野」型も「四万十」が失われ、残る艦も大なり小なりの打撃を負っていた。


 こうして、マリアナ諸島陥落は免れた。しかし、米軍の回復力は日本の比ではない。おそらく3ヶ月もすれば戦力を再編し、再びマリアナ諸島攻略に動くと思われた。


 また中国大陸より飛来するB29も、爆弾の搭載量減少量を甘受する形で、燃料を増載して航続力を伸ばし、中部九州や関門海峡付近にまで出没するようになり、また満州、朝鮮、台湾への爆撃回数を増やしてきた。


 それに対して、日本側も本土防空戦隊の強化や、比較的高高度まで届く大口径高射砲の配備をするとともに、海軍では佐世保や関門海峡の出入り口付近に、高射程高角砲を搭載した艦艇を配備し、防空戦闘に積極的に参加させた。


 その中に「阿賀野」型の流れをくむ、最後の軽巡である「有田」の姿もあった。


 同艦は1944年9月の竣工後、日本近海で訓練をしつつ、佐世保や門司での対空配備に就いた。


 そして1944年11月の佐世保軍港へとの空襲の際に迎撃を行い、B29の初撃墜を記録した。


 さらに同月にはマリアナ沖海戦の損傷から復帰した同型艦の「綾瀬」も、必要に応じて対空戦闘に参加し、両艦合わせて終戦までに5機のB29を撃墜した。


 この間、太平洋では11月に再度米軍がマリアナ攻略作戦を開始した。


 日本側の艦隊は8月の第一次マリアナ沖海戦の痛手から回復できず、艦隊による迎撃は潜水艦以外不可能であった。


 ただし、では日本側が3ヶ月の間何もしていなかったわけではない。この間にマリアナ諸島の民間人の疎開を進めると共に、兵力や陣地を強化し、さらに後方支援基地である硫黄島の機能も強化すると共に、陸海軍共同の決戦航空隊を編制し、総力を挙げた迎撃戦闘を行った。


 マリアナ諸島には陸海軍合わせて300機あまりの戦闘機が集中配備され、硫黄島からの支援を受けながら3日間マリアナ上空の制空権を守りきり、その間にマリアナ諸島や硫黄島から昼夜問わず出撃する航空隊による攻撃が米艦隊を襲った。


 この航空戦で、日本側は500機の航空戦力を消耗したが、その見返りに200機の撃墜戦果と航空母艦「バンカー・ヒル」と巡洋艦2隻を撃沈した。


 さらに海戦開始5日目に米軍によるマリアナ諸島上空が始まると、潜水艦や沿岸部の基地を発進した特殊潜水艇「蛟龍」や突撃艇「震洋」が波状攻撃を行い、それでも上陸を敢行した海兵隊や陸軍部隊には、要塞化された島の各所から反撃が始まった。


 米軍側は機動部隊や、上陸部隊の護衛艦隊に附属する護衛空母の搭載機、それから戦艦部隊の艦砲射撃の支援により、どんなに苦戦しても1ヶ月もあればマリアナ諸島全てを攻略できると読んでいた。


 しかし、島の内部に堅固な要塞を構築し、必要に応じて機動的な反撃に出る日本側の戦術に、米軍は大苦戦を強いられることとなった。


 上陸2ヶ月後、年が1945年になっても米軍はマリアナ諸島の主島であるサイパン島のようやく3分の1を制圧できたところという有様であった。


 そしてこの間の12月中旬には、日本の機動部隊が日本本土から南下し攻撃を敢行した。第一次マリアナ沖海戦の半数の航空戦力であったが、新鋭機「烈風」「流星」を投入し、また米機動部隊の半数が補給のために後退したタイミングを狙っての攻撃であった。


 この作戦には「阿賀野」型のうち「矢矧」と「九頭竜」のみが参加していた。本来であれば対空型の「綾瀬」と「有田」も参加するべきところであったが、既に連合艦隊の戦力(練度充分な艦艇)が払底していたのである。新造艦に関しては、空母や護衛の「秋月」型駆逐艦を確保するだけで精一杯だったのだ。


 とは言え、この艦隊は米機動部隊の後退中を上手く捉えられたことにより、正規空母3隻を軽空母1隻を見事撃沈し、味方の損害は駆逐艦のみという、久々のワンサイドゲームを決めた。


 相手がマリアナで陸上基地攻撃や、基地航空隊との度重なる戦闘で疲労していたのも大きな要因であった。


 そして、このマリアナ沖での戦闘の最中、日本海軍が莫大な予算と資材を投じた航空潜水艦「伊400」型3隻と「伊13」型2隻による第二次真珠湾攻撃が敢行された。


 わずか13機の「晴嵐」攻撃機であったが、各機800kg爆弾を、燃料タンク群に投下し、燃料基地と周辺施設に大打撃を与えたのであった。


 この第二次真珠湾奇襲は、米国に物心両面で大きな影響を与えた。


 まず燃料タンクの破壊により、漏れ出した重油により周辺地域が汚染されてしまったこと。もちろん、炎上した分もあったが、漏れ出した方が遥かに問題であった。


 喪われた重油の補給や、タンクの再建は米国の国力からするとものの数ではなかったが、重油の回収や洗浄は巨大な労力と手間を要することであったからだ。


 さらに日本をマリアナまで押し込んでいるにも関わらず、遥か後方のハワイへの攻撃を、しかも二度目の奇襲を許してしまったことは、場合によっては米本土攻撃もあり得るという可能性を取り沙汰するものであった。


 日本海軍がそんな秘密兵器を有していたのかというショックである。


 加えて米市民にも、日本への敵愾心以上に、軍や政府の不手際を責める声や、開戦直後以来の米本土攻撃への恐怖を呼び覚ますに充分な事態であった。


 既にヨーロッパでの戦争は終わりかけており、日本もマリアナは抜けていないが、相当に押し込んでいる。下手に追い詰めるより、ここいらで米国に圧倒的有利な条件で講和すれば良いのでは?という声が起きるのも当然であった。


 そして、既に水面下で始まっていたスイス等の中立国や情報機関同士で行われていた交渉が、俄にクローズアップされることとなった。


 この停戦交渉は3月から本格化した。


 もちろん、交渉が始まっても戦争は続く。


 米国は爆装備を減らす代償に、機内燃料タンクを増設して航続力を伸ばしたB29を配置し、日本本土への爆撃範囲を広げた。


 この作戦は爆弾搭載量が激減するので、戦果自体は少なかったが、日本人の頭上に米国の爆撃機が直に飛び交うことで、当然日本国民に与えたインパクトは大きかった。


 対する日本側も第二次真珠湾奇襲以降も、潜水空母艦隊を活用した敵後方拠点へのゲリラ攻撃を行い、米国側を揺さぶった。


 既にどちらの国も限界に来ていた。日本側はヒトモノカネの全てが。連合国側も、あの米国でさえも資金の枯渇が目前だった。


 結局4ヶ月の交渉の末に、日本側が全占領地からの撤退と、満州帝国の解体と国連による委任統治への移行、台湾、朝鮮、南洋諸島は戦後5年を目処に独立か日本領に残るかの住民投票。そして軍備の縮小で手打ちとなった。


 講和条約の締結地となったのは、米国のサンフランシスコとなり、日本側の代表団を病院船から急遽復帰した「氷川丸」が乗せ、その護衛に同行したのが、皮肉にも練度の不足から内地に留め置かれ、新品同様の状態であった「綾瀬」と「有田」であった。2隻が準備されたのは、万が一太平洋上で故障した場合に備えてのことであった。


 1945年7月15日にサンフランシスコ講和条約が締結され、太平洋の戦火は一先ず止んだ。


 しかし残された「阿賀野」型巡洋艦は、戦後の軍縮によっても残された。


 その後時代がミサイルをはじめとする誘導兵器の時代に移行すると、1930年代の設計の「阿賀野」型は性能の陳腐化に直面するが、戦争による傷跡は大きく、特に軍事費に充分な予算が投下できない状況では、必然的に優先されるのは本土防空を担う戦闘機や、ジェット機を運用可能な大型空母、そしてその護衛に特化した大型駆逐艦となり、巡洋艦は改装を加えられながらも現役続行を強いられた。


 最終的に経済が回復し、軍事予算も充分に付くようになった1970年代から退役が始まり、最後の「綾瀬」が退役したのは1985年のことであった。


 時代の趨勢により、直系の後継艦こそ現れなかったが、最後まで日本の海に尽くした艦生であった。


 残念ながら保存艦はないが、各艦のゆかりの地名の資料館などに部品が寄贈され、特に「矢矧」は2026年現在も愛知県岡崎市内の公園に、2番砲塔から艦橋とマストまでの上部構造物が、解体後移築されて現存している。


 

 

 

 

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― 新着の感想 ―
主砲は史実通りの「50口径四十一式15cm砲」なんでしょうか? もし可能であったら最上が載せてた「60口径三年式15.5cm砲」を連装にして載せたいですよね。 (重くて無理でしょうかね?)
能代がトラック空襲とマリアナ沖海戦で2回沈んでますよ
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