第九話 姉、友人の子を預かる
菜々子が友達の子供を預かってきた、
友達は看護師で、保育園が閉鎖して仕事を休めないらしい。コロナで現場が崩壊しかけてるんやと。電話口で泣きそうになっていた友人に、菜々子は「うちに連れてきな」と言った。
やってきたのは五歳の拓也くん。にこっと笑って、利発そうな子だ。
僕は子どもが苦手だ。何を話したらいいか分からん、泣かれでもしたら面倒くさい。だから僕は仕事部屋にこもって翻訳と記事に没頭していた。
リビングを覗くと、菜々子が床に座って拓也とパズルを広げていた。
子ども用じゃない、やたら細かいやつ。
「これ、どこのピースやろ?」
菜々子が首をかしげる。
「これはねー、まだ違うよ!」
拓也は元気いっぱいだ。
「今はスヌーピーの体だから! 赤いのは違う、スヌーピーは白やん!」
「せやな。じゃあ白いとこ探そうか」
菜々子は笑って、ピースをつまんでいた。
二人はマスクをしたまま、肩をくっつけて夢中になっている。頭と頭がぶつかりそうで、ほんと楽しそうだった。
コーヒーを入れにキッチンへ行くと、拓也が「お茶ほしい」と言った。小さい声じゃなく、きちんとしたお願いだった。僕はコーヒーをいれるついでに麦茶を注いでやった。
「ありがとう!」
彼は素直に礼を言い、ダイニングテーブルの椅子に座って、両手でコップを持ってお行儀よくお茶を飲む。
子供の小さい頭、手足、それらすべてがなんとなく僕は不安になる。
「お兄ちゃん、なんのお仕事してるの?」
「ライター。文章を書く仕事だよ」と答えたら、拓也は「ふーん、すごいね」って言って、すぐパズルに戻った。
テーブルの上にはスヌーピーの細かいピースが並んでいて、もう半分くらい完成していた。五歳にしてはすごいな、と僕は感心した。
「パズル好きなのか」
「うん! できたら面白いねん。お母さんがそれは『たっせいかん』やからその気持ち大事にしなさいねって言われてるねん」
そう言って笑う顔は、まぶしい..
無邪気に語られた達成感。仕事に向かう自分はそんなものを最近、感じてない。
コロナ関連の気の滅入る仕事ばかりだ。
台所では菜々子がホットケーキを焼いていた。
焼きすぎて焦げてて、ホットケーキやののチヂミぐらい薄い。
「ふわふわパンケーキとは真逆のカリカリホットケーキやな」
僕が言うと姉は「これがうち流のホットケーキねん」と堂々と答える。
「パンケーキにも流派とかあるんや」
「あるで、知らんけど。さーて、できたでたぁ、食べよう」
「やった、ホットケーキ。ハチミツかけて!」
菜々子はにこにこしながら、 ハチミツをたっぷりかけてあげた。
三人で食卓を囲むと、拓也は「おいしい!」と両手を叩いた。菜々子は得意そうに笑っていた。
うん、カリカリでちょい焦げだけど、これはこれでおいしい。
夕方、友人が迎えに来て、拓也は手を振って帰っていった。拓也の母はすみませんと何度も僕に謝られた、よれたマスクで疲れがにじみ出てる。
医療崩壊の現場にいる人の苦労を、肌身に感じる。
リビングに静けさが戻ったとき、菜々子がぽつりとつぶやいた。
「……もし産んでたら、あの子くらいかな」
僕は顔を上げる。
「……堕ろしたことがあるんよ」
菜々子は笑わずに続けた。
「若いとき、なんにも考えてへんかった頃。あのとき産んでたら五歳くらいになってたんやろなって、ふと思って」
声は軽く装っていたけど、目は寂しそうだった。
僕は、返す言葉が見つからなかった。
安っぽい慰めは違うと思ったし、何を求めているのかもわからない。
「……そう、ですか」
結局、それしか言えなかった。
菜々子は「ま、昔の話やけどな」と笑った。けれどその笑顔は、ホットケーキを頬張っていたときのものよりずっと弱かった。
その夜、僕は眠れなかった。
子どものことは、やっぱり苦手だ。
菜々子も僕も、よい母親には恵まれず、幸せな子ども時代じゃなかった。
子どものことを考えると、どうしてもそのしんどさが蘇ってくる。
暗い天井を見つめながら、僕は寝返りを打ち続けた。
ぼやけた母の顔の記憶、あの人は僕にパンケーキを焼いてくれたっけ。覚えていない。父は愛してくれたが、やはり忙しかった。
小さい子供を見る度に「この年齢の時の自分は、何を思い生きていたのか。何をして遊んでいたのだろう。
ショッピングモールで泣きわめいている子供を見ると、僕はあんな風に全力で泣かれへんかったやろな、と思いうらやましくなる。
全力でわがままを言って駄々をこねて泣く子供は、親の愛情を受けて安心してるから。
全幅の信頼がないと、泣きわめいたりできない。
朝、起きて気づいた。
パズルが1ピース、テーブルに残っていた。それは緑色、一体、どこのピースなんやろ。




