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第十話 発熱と元カレ

 コロナのニュースばっかりで、朝から晩まで気が滅入る。医療崩壊で看護師さんが泣きながら訴えてる映像、重症でも自宅療養の辛さ。

 スーパーでも人はピリピリしてる。


 今まではなかった、店の前に置かれた消毒液。これを手に擦り込まないとお店には入られへんという新しいマナーにようやく慣れてきた。どこもかしこも消毒液の臭い。


 うちは相変わらず古着をメルカリで売って、ちょっとでも生活費の足しにしてる。写真撮って、説明書いて、発送準備して。ルーティンみたいにやってるけど、気分は晴れへん。


 ある日、メルカリにメッセージが来た。

「バイトを辞めさせられました。申し訳ないですが代金を払う余裕がなくなりました、キャンセルでお願いします」


 読んだ瞬間、胸がぎゅっとした。

 しゃあないやん、そんなの。うちも困ってるけど、みんな大変やねん。キャンセル処理しながら、なんかこの先ほんまにどうなんのやろって、不安でいっぱいになった。


 そんなとき、浩くんがぐったりして帰ってきた。顔赤いし、熱あるんちゃう?っておでこに手を当てたら──


「触るな! コロナかもしれんやろ!」って突き飛ばされる。


 うわ、嬉しい。しんどくても、うちをコロナから守ってくれているっ。


 浩くんは「一人で行く」と言って検査を受けに行った。結果は陰性で、ほんまにホッとしたわ。熱もすぐ下がってよかった。


「疲れ溜まると熱出る体質なんやねん。コロナでこの体質がさらにしんどいわ。いちいち検査しに行かなあかん」


 浩くんがソファーでココアを飲みながらぼやく。

 確かにそうやな。今までやったら「風邪かな?」ぐらいで様子見できたけど、今や熱が出たら「コロナか!?」といてもたってもいられない。


「熱出るまで頑張る癖を見直すときちゃう? しんどくなるまで働くのは体に悪いって」


 注意したが、浩くんは答えない。

 うちはファンタを手にソファーの横に座り、テレビをつけてNetflixを開く。最近、二人で『ブレイキング・バッド』にはまってんねん。意外とうちと浩くんはドラマの趣味が合う。


 ウォルター・ホワイトが「俺の名前を言え」と言ったシーンで、インターホンが鳴った。


 え、ハイゼンベルクか?


 浩くんが立ち上がってインターホンのモニターを見る。浩くんの肩越しにモニターを見ると、スーツの男性が立っていた。長髪で前髪で顔は見えない。なんかのセールスの人かな。


 浩くんが「あ、」と呟いて下を向く。


「知ってる人?」


「あー、うん。…………どうしよ。えーっと。とりあえず、姉は二階へ」


「なんで?」


「これ、元カレ。前、話したいことあるってラインきたけど無視してた。でー、家まで来たってことは、なんかあるやろ。はぁ、どうしよ。無視したいけど、できひんなー」


 浩くんはため息をつく。彼はけっこう家にいると独り言をいう癖があり、思ったより自分のことを色々と自然に打ち明けてしまっている。その結果となっているのが、おもしろい。

 何がおもろいって、本人はそれに無自覚やねん。


「そんなん聞いたら、姉として立ち入らずにはおられへんわ。ストーカーとかなってたら困るわ」


「あ、それはないと思うねん。そういう人ではないって。あ、電話鳴ってる」


 浩くんが電話に出る。うん、うん、ぅん、と相槌をしてから──


「わかった、話聞くからちょっと待ってて」


 と電話を切って、いきなり着ていたスエットを脱いだ。


「どうしたっ! まさか、元カレをゆ、誘惑っ。待って、なんかエロい展開やったらコンビニ行くから待って、お願い、弟のそういうのは見たくないって」


 うちは目を閉じて叫ぶ。


「ちゃうわ。元カレに会うのにヨレたスエットはダサいやろ」


 浩くんはそう言って、ベランダから干していた白いシャツを取ってボタンを止めた。


「なんか、ややこしい話みたいやから、しゃーなしであんたもおって。コーヒー入れといて」


 浩くんはそう言って玄関に向かった。うちは慌ててお湯を沸かしてドリップコーヒーをマグカップにセットする。


「どうも、いきなり失礼してすみません。高木雄介と申します。その…………弟さんとお付き合いをしていました」


 スーツの男性がリビングに入ってきて、うちに頭を下げる。いえいえいえ、弟がお世話になっていましたと頭を下げる。


 とりあえずダイニングテーブルに座ってもらい、コーヒーを出す。


 高木さんの目の下には深いクマがあった。よく見ると白髪が多い。


「ちゃんと話してください。どうしてボクなんですか? ボクは飲食店ライターでもコンサルでもないのに、店の経営について元カレに相談したいって意味がわからない」


 浩くんが淡々と言う。わざと感情を消しているみたい。

 手は膝に置いて、コーヒーに手をつけない。

 高木さんも俯いて、白いコーヒーカップを見つめている。


 高木さんは、ゆっくりと話し始めた。

 彼はイタリアンレストランを経営していて、前はうまくいってたらしい。でも今はコロナで客はゼロ。店も閉めざるを得なくて、貯金も底をついた。


「この先、どうしていいか、本当にわからなくなった………今まで何もかもうまくいきすぎていたから、本当に突然のことで、わからなくなったんだ。それで、店のワインを飲んで」


 高木さんは一旦言葉を止めてから、眉間にシワを寄せた。


「店の在庫のワインを飲んで、酔っ払って荒れて、店の中をめちゃくちゃにしてもうて………周りは逃げていった。もう誰もおらんようなって、それで、こういうとき、傲慢な俺にズバリと言ってくれたんは君だけやったって思い出したんや…………なんでもっと君の言ってたことを聞かなかったのか。なぜ、あんなにケンカして別れたか、自分が恥ずかしくなって。ごめん、もう君しか、いてない。俺はどうするべきやろうか」


 感情が雪崩れるように、高木さんは強い声で白状した。


「俺は俺を信頼してくれていたスタッフも失望させた。俺は一人になってようやく、自分が一人では何もできないと気づいた」


 高木さんの疲れた目から、涙がこぼれ落ちる。

 うちはスッと彼の前にティッシュ箱を差し出す。


「店を畳んですべて清算しましょう。そして、コロナ災害を乗り越える“いのちと暮らしを守るなんでも電話相談会”というところに問い合わせください」


 浩くんはマスクを下げて、コーヒーを一口飲んだ。


「あなたは疲れ切っているし、ひとまず休んでください。生活保護を受けてもいい状況です」


「でも、それは。生活保護は、その……」


 高木さんがティッシュで涙を拭いて、言い淀む。


「プライドの高いあなたのことだから、生活保護受けることに負い目を感じるでしょう。でも、恥ずかしいことじゃない。助けてくれる制度を利用して何が悪い」


 浩くんは真剣な眼差しを高木さんに向け、言い切った。


「…………あの、うちもそうやと思います。とりあえずなんの心配もなく休む時って大事ですよ」


 うちはそっと言った。


「そう、ですよ。…………うん、やっぱり。浩は、ちゃんと俺をわかって、言ってくれる」


 ようやく高木さんは、肩の力が抜けたようだ。

 彼がマスクを下げてコーヒーを飲んだ時、やつれた頬が見えた。ほんまにコロナは災害や。いきなり根こそぎ今までの生活を奪っていく。


「今日は本当にありがとう。君の言う通り、相談し生活保護も考えてみる。お姉さん、失礼しました」


 高木さんは深々と頭を下げて、帰っていった。


「弟がゲイで、なんか思った?」


 浩くんは黙ってこっちを見てきた。


「あ、そうか。そういえば、あー、そうやな!」


 うちは目を丸くして言う。


「はぁ、あんた変わってんな。普通は元カレとか言われたら戸惑うと思ったけど。元カノじゃなくて」


「いや、そういうこともあるやろし。せやけど、年上の元カレに頼られるってあんたほんまにめっちゃしっかりしてんなぁ。さすがやで」


 うぃうぃ、と肘で浩くんをこづく。


「別に、あれぐらいのことは誰でも言えるやろ。まぁ、ボクはあの人には助けられたとこもあるし」


「ほぅ、具体的には?」


「もう、元カレの話はええって。なんか深刻そうにして来たけど、落ち着いて帰ったし。はい、もう終わり。『ブレイキング・バッド』の続き観るぞ」


 浩くん、ちょっとだけ耳赤くなってる。


「…………あんたって、おおざっぱやけど、まぁおおらかではあるよな」


 ポツリと浩くんが言う。

 うちはそれを聞いて、へっへっへと笑った。


 ウォルターが勝ち誇った顔で「俺の名前を言ってみろ」と言う。


「「ハイゼンベルク」」


 うちと浩くんは声を合わせて、それに答えた。

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