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29、運命は二人で

 社長には、行きつけのバーにいるから安心してくださいとメールした。それで安心してくれるならよし。でも迎えに来るだろうと思ってた。

 社長がつき合いを諦めようとしないなら、わたしたちはもう一度話し合う必要がある。話し合わなければならないなら、早く終わらせたほうがいい。そしてそれは、酔いの助けがなければできそうになかった。



 ダイニングバーにやってきた社長に、わたしはにっこり笑う。

「ちょうどいいタイミングです、社長」

 たくさん飲んだアルコールのおかげで、胸は痛んでも言葉はするりと出た。

 それを聞いて、社長は眉をひそめる。

「酔ってますね?」

「酔ってませんよぅ」

 多少舌足らずになってる。でも、このくらいで酔ったとは言えないでしょ? ちょっとばかり思考能力が落ちてるけど、話をするのに全然問題ない。

 でも社長はこの点については信用してくれてないのか、ひそめた眉をさらにひそめて近寄ってきた。

「すみません。粕谷さんの会計をお願いします」

 言いながら財布を取り出そうとする。わたしは慌ててショルダーバッグを手元に引き寄せた。

「自分で払いますって。あ、でもちょっと待ってください。ラストオーダーが……」

「このお店でずっと飲んでたんですか?」

 社長は非難の目をマスターに向ける。マスターは悪びれた様子なく肩をすくめた。

「ちゃんと連絡するって約束してくれたし、ウチはお客サン第一ですから」

 わたしがショルダーバッグから財布を取り出す前に、マスターは社長からお金を受け取ってしまう。……まあいいや。あとで返そう。

「帰りますよ」

 社長はわたしをスツールから降ろす。

「でも、ラストオーダー……」

 名残惜しくカウンターを見るわたしを、社長は手首を掴んで引っ張った。

「これ以上飲んだら駄目です。──それではおじゃましました」

 怒った様子を見せながらも、律儀に挨拶する。

「ありがとうございました~。今度こそ二人で来てくださいね~」

 マスターの陽気な声が、社長と社長に引っ張られて店外に連れ出されようとするわたしを送った。



 社長は無言のまま車のところまで来ると、助手席のドアを開けて乗るように促した。わたしが乗り込むと、フロント側を大股に移動して、運転席にすばやく乗り込む。

 お店の駐車場から出て通りを走り出したところで、わたしは遠慮がちに訊ねた。

「なんか怒ってますか?」

 心配かけたら怒るかなとは思ったけど、この怒り方は予想外。沈黙怖いよ。

 社長はすぐには答えず、赤信号で車を止めたところでようやく口を開いた。

「怒ってますよ」

 その怒り、冷めやらず──ってところですか? わたしはおそるおそる謝った。

「……スマホの電源を切って、行方をくらましちゃってごめんなさい。ちょっと時間がほしかったんです」

「僕と話し合うためにですか?」

「……はい」

 尋問でも受けてるみたい。

 冷や冷やしながら次の言葉を待っていると、信号が青に変わって車がまた走り出した。

「心配もしましたけど、僕が怒ってるのはそれ以外のことです。──何を怒ってるかわかりますか?」

「……別れを切り出したことですか?」

「そうです。話は帰ってからにしましょう」

「帰るって、どこへですか?」

「ですから黙っていてください。ハンドルを誤ってしまいそうだ」

 ハンドルを誤りそうって、どれだけ怒ってるのよ?

 でも、わたしだって簡単に別れを決意したわけじゃない。わたしもだんだん腹が立ってきた。

「わたしに怒ってるなら、ちょうどいいじゃないですか。このままわたしをアパートに送っていって、それで終わりにしましょう。ここで降ろしてくださってもかまわないですよ? 街中だから何とかなります」

「黙っててくださいと言ったでしょう!」

 社長の怒声とハンドルを殴る音に、わたしはびくっとする。身体を竦ませドア側に身を寄せると、社長は我に返ったように怒らせていた肩を下げた。

「すみません。今は運転に集中させてください」

 普段あまり怒らない人の激昂に恐れをなし、わたしは話しかけることができなくなった。


 社長のマンションに着くと、不安は最高潮に達した。車を降りたわたしを、先回りした社長が有無を言わせず引っ張っていく。

 不安はピークに達しようとしていた。エレベーターに乗り込もうとする社長に逆らって、わたしは足を止める。

「やっぱりわざわざ社長の部屋に上がるまでもないですよ。わたしと付き合ったら社長のためにならない。だから社長とは付き合えない。それだけなんです」

 まさにそれだけのことだ。なのに何でもう一度話し合わなきゃならないって思ったんだろ? 酔ってぼんやりした頭で考えるけど、考えがうまくまとまらない。

 ともかく部屋までついていきたくなくて、わたしは社長の手をふりほどこうとする。けれど、強い力でエレベーターに引きずり込まれてしまった。転びかけた体を支えられ、壁に押さえつけられる。社長の顔が至近距離まで迫ってきて、わたしは息を呑んだ。

「僕は納得していません。何故僕たちが──」

 怒りに燃えていた瞳がふと揺らぎ、社長は気まずげに目を逸らす。

「いえ、この話は部屋に入ってからにしましょう」

 社長はわたしの片手は離さないまま、後ろを向いて操作盤に手を伸ばす。いつの間にか閉まっていたエレベーターは、すぐに上昇を始めた。



 社長は片手で部屋のドアを開けると、わたしを押し込むようにして中に入れた。そのあとから入ってきて、ドアに鍵をかける。

 どうやら、話が終わるまで帰らせてもらえないみたいだ。

「コーヒーでいいですか?」

 こんな時でも礼儀正しく飲み物を出してくれようとする。キッチンに向かおうとした社長に、わたしはつれなく言った。

「いらないです。早く話を終わらせて、帰らせてください。もっとも、わたしの話は終わってますが」

 社長は頑ななわたしをソファのところまで手を引いていくと、やや強引に座らせてその隣に座った。

「車の中では、怒鳴ったりしてすみませんでした。粕谷さんに怒っていたというのもありますが、半分以上は僕自身への怒りです」

 社長自身への? 首を傾げかけたけど、すぐに気付いたので口にした。

「荒倉さんのことなら気にしないでください。あんなに上手くいくとは思いませんでした。荒倉さんの怯えっぷり、社長にも見せてあげたかったです」

 会社を退社してでも縁を切りたいと思ってた荒倉さんの、あのパニックに陥った姿を見たら、人のいい社長でも胸がすく思いがするだろう。

 にんまりするわたしに、社長は呆れたような、ちょっと悲しげな笑みを見せた。

「電話でも、十分怯えていましたよ。粕谷さんの作戦は大成功です。でも、そのせいで粕谷さんは傷ついてしまった。僕は“粕谷さんなら大丈夫”と用心を怠ってしまった自分が許せないです。そのせいで粕谷さんの、僕に対する信用を失ってしまった」


 え──?


 思いがけない言葉に、わたしはしばし言葉を失う。その間に社長は言い募った。

「だってそうじゃありませんか? 今日の午前中までは僕を信じてくれていたのに、荒倉さんと接触した途端、別れを切り出してきた。──粕谷さん。荒倉さんから何を聞かされたんですか? それは僕を信用できなくなるほどのことだったんですか?」

 何でそんな話になるの?

 わたしはふるふると首を振った。

「わたし、社長のことは信じてます。別れようと思った理由は、電話で話したじゃないですか。会社の顔である社長がわたしなんかと付き合ったら、会社の評判まで落としてしまうって。だから社長は、わたしと付き合わない方がいいんです」

 社長はわたしの肩を掴んで、自分のほうに向きなおらせた。

「僕は粕谷さんのことを“なんか”なんて思ってません。会社の評判だって心配いらないです。僕たちは取引を、信頼の置ける人たちとしかしてません。もし粕谷さんのことを悪く言う人がいても、その人とは取引をやめるだけの話です。偏った情報を信じて他人を非難する人とは、どのみち信頼関係なんて築けませんから」

「でも、取り引きする人はよくても、その人のご家族は? 世間の目は? 取引を限ったって、その周りの人たちの目もある。信じてくれたって、世間一般の目が気になって、考え方を変えることだってあるでしょう?」

 わたしは泣きそうになりながら反論する。すると社長は、一呼吸置いて訊ねてきた。

「それは、粕谷さんの経験ですか?」

 その一言に、わたしは息を呑んで目を逸らす。


 わたしを信じかけていた両親も、外で噂を聞いてきてわたしを責めた。

 たとえわたしの話を信じてくれたとしても、親しい人から別の話を聞けばわたしの話のほうを信じられなくなってもおかしくない。


 何も言えずにいると、少しして少し苛立ちの混じった声が聞こえてきた。

「粕谷さんがどれほど辛い思いをしたかわかるなんて、軽々しいことは言えません。乗り越えるのだって、並大抵の努力じゃなかったでしょう。でも、これからは僕もいます。何があっても、僕だけは粕谷さんの味方だと信じてください」

 嬉しくて涙が出そう。でも、だからといって社長の手を取るわけにはいかない。

「付き合いを続けることにしたら、社長はいつかきっと後悔します。もみ消してももみ消しても消えない噂に疲れて“こんなことになるなら付き合うんじゃなかった”って」

「粕谷さん!」

 社長の鋭い呼び声が、わたしの言葉を遮った。

「僕の本気を見くびらないでください。粕谷さんと付き合えるなら、後悔なんてするつもりはないんですよ。粕谷さんと付き合うことで会社の評判も落ちるようなら、会社を和弥に預けて僕は身を引きます。粕谷さんのことでとやかく言われても、僕は粕谷さんを信じることをやめません。──僕が一番怒ったのは、僕にはこれだけの覚悟があるのに粕谷さん、あなたが僕の考えを聞こうとせずに僕と別れると言いだしたことです。僕のことがそんなにも信用できませんか? あなたの信用を得ようと僕が積み重ねてきた努力は、全て無駄だったんですか?」


 そんなことない。

 わたしはこの上なく、社長のことを信じてる。

 でも、社長はわたしとなんか付き合っちゃいけない。


 社長は、押し黙って俯くわたしの顔をのぞき込んだ。

「粕谷さん、あなたは降りかかった運命を、自分一人の力で切り開いてきた。あなたが人生を諦めず、もう一度立ち向かってくれたから、僕たちはこうして出会うことができた。あなたは僕を助けてくれた。今度は、僕があなたを助けさせてくれませんか? そうやって二人で支え合えば、どんな運命でも乗り越えていけると思うんです」


 目がしらが熱くなり、唇がわなないた。


 この言葉を聞きたかったの。

 誰か一人でもこう言ってくれる人がいたら、わたしはきっと、地元からも職場からも逃げ出さなかった。

 人生をやり直そうと、頑張ってよかった。

 おかげでいい出会いに恵まれて、欲しくて仕方なかった言葉をもらえた。


 そう言ってもらえて、もう十分。

 ありがとう。


「それとも、僕はあなたにふさわしくないですか?」

 間近に感じた吐息に、わたしの心は震える。

 失いたくない。人を好きになることをもう一度教えてくれたこの人を。

 その気持ちをどうにか抑えて、わたしは身を切る思いで口にした。

「そういうことじゃないんです。わたしは、社長にそんな風に言ってもらう資格なんてありません。──元彼は、わたしのことなんて好きじゃありませんでした。ただ、誘ったら乗ってきたから相手にしたんだって、元彼からそう言われたんです。“だから本気じゃなかった。おまえも楽しんだんだからいいだろ?”って言われて、わたしはそれを否定できなかった。……薄々気づいてたんです。元彼がわたしのことを好きじゃないってこと。なのにわたしは、彼を自分につなぎ止めておきたくて自分の身体を使った汚い女なんです。そんな女を相手にするなんて、社長だって嫌でしょう?」


 自嘲で口元がほころんでくる。

 わたしは過去を克服しきれてなんかない。それは記憶の奥底に押し込められていて、時折浮上してくる。浮上してきたらそう簡単に押し込められない。自虐が込み上げ、わたしを責め苛む。


 元彼にとって、わたしは性欲のはけ口でしかなかった。それに薄々気付いていながら、わたしは喜んで身体を差し出していた。そして使い捨てられた。

 そんな女が、何で恋愛できると思ったんだろう。

 男が恋愛するに値しない女。それがわたしなのに。


 ホント、馬鹿みたい。こみ上げてくる笑いに、わたしは肩をゆすり始める。

 そのわたしの二の腕を、社長は強く掴んだ。

「粕谷さん! そんな風に自分を貶めないでください。あなたは騙されただけで、汚れてなんかいません!」

「違いますよ。元彼の言う通りなんです。愛してくれない男に抱かれて、それがわかっていながらわたしは悦んでた。わたしも愛のない男女の関係を愉しんでたんです」


 酔いのせいか、あまり辛くない。

 これだけ言えば、さすがに幻滅したでしょう? 快楽のためだけに身体を開く女を、男が本気で愛するとは思えない。

 だからもう、わたしのことは忘れて。


 わたしは帰るために立ち上がろうとする。それを社長は二の腕を掴む手に力を込めて止めた。

「それで言うなら、僕はもっと汚い人間です。荒倉さんとは完全に身体だけの関係だった。荒倉さんのことは人としてあこがれた時期もありましたが、付き合っていた当時から女性として好きという気持ちはありませんでした。僕にもその……性欲というものがありましたし、誘われれば一緒にホテルに行く──そんな関係だったんです。あなたはそんな僕を汚らわしいと思いますか?」

 わたしは少し考えて、首を横に振る。

「合意の上の大人の関係なら、とやかく言うことじゃないと思います」

「なら、粕谷さんも同じじゃありませんか? 元彼と大人の関係を愉しんだ。それだけのことです」

「じゃあ、社長はわたしのことを抱けますか?」


 社長は鋭く息を呑んだ。


 見開いた目で凝視してくる社長を見て、わたしの口元は嘲りに歪む。

「ほら、やっぱり嫌でしょう? 気にしないでください。他の男が使い捨てた女を欲しがるひとなんて、いるわけないんで、す──」

 言い終わらないうちに、わたしの口は社長の唇に塞がれる。


 わたしの唇の奥まで荒らし回った後、社長はわずかに顔を離してささやいた。

「僕がどれだけあなたを欲しがってるか、そんなに知りたいなら証明しましょう。……途中で嫌と言われてもやめられませんけど、いいですか?」

 欲望にきらめく瞳を見て、わたしの胸は高鳴る。

「嬉しい……」

 微笑んで言ったその言葉を合図に、社長は再び唇を奪う。


 頭の片隅に何かが引っかかったけれど、それはこみ上げてくる喜びに押し流されていった。

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