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28、人生は戦いの連続だ

「粕谷さん! ──美樹! 美樹!」

 声の限りに呼んだけど、電話は切れてしまった。僕はすぐにかけ直す。けれど耳にあてたスマホから聞こえてきたのは『おかけになった電話番号は~』という定番のアナウンスだった。

 二度かけ直した後、僕は別の番号に電話をする。

「すみません。国館建材の国館壮一ですが、本日のお約束は後日に改めさせていただくことはできないでしょうか?」

 約束の変更を『いいよいいよ』と快諾してくれた取引先の人に、何度も謝罪してから電話を切る。

 それから綿谷デザインの事務所に電話をかけた。


 電話に出たのは綿谷所長だった。

『やあ、国館君』

「すみません。そちらに粕谷さんから連絡はあったでしょうか?」

『粕谷君? ああ、さっき急に気分が悪くなったから早退させてほしいって電話が入ったけど、国館君と一緒だったんじゃなかったのか』

「すみません。僕のせいです。僕が警戒を怠ったせいで、昔付き合っていた女性に粕谷さんを傷つけられてしまいました」


恋に浮かれて、荒倉さんのことを忘れかけていた。粕谷さんなら大丈夫、とどこか油断していた部分もある。──無責任な言い訳だと自分でも思うが。

 粕谷さんの過去を調べ上げることくらい、荒倉さんだったらできると気付くべきだった。粕谷さんが過去を暴かれた時に、どれだけダメージを受けるかということも。


 心配そうな綿谷所長の声が聞こえてくる。

『粕谷君は怪我をしたのかい?』

「いえ、それは大丈夫だと思います。相手の女性は言葉で人を傷つけるのを得意としてますから、粕谷さんの心の傷のほうが心配です。さっき電話に出てくれた時は、ひどく傷ついている様子でした。今は電話が通じません。これから心当たりを回ってみようと思うのですが、粕谷さんが行きそうなところをご存知でしたら教えていただけないかと」

『そういうことなら、末芝君に聞くのがいいな。今代わるよ』

 所長が言い終わるのと同時に、電話口から保留音が流れてきた。


 待つなどと言わずに、先に聞き出しておくべきだった。そうすれば粕谷さんへのダメージを減らすことができ、別れを切り出されることもなかっただろうに。

 そうだろうか?

 粕谷さんは僕のことを信じると言った。今夜、僕に話してくれる約束になっていた。

 それが、荒倉さんとの接触でくつがえった。

 何を言われたんだ? どうして別れるなんていう結論に飛びついてしまったんだ?

 ふと湧いた疑問から、別の感情が湧き上がってくるのを感じる。


 保留音がふっと切れ、僕の心は現実に引き戻された。

『お電話代わりました。末芝です』

「末芝さん。お世話になっています、国館です」

 考え込んでる場合じゃない。今は粕谷さんを見つけなくては。



 ──・──・──



 駅からも会社からも遠ざかり幹線道路に行きあたると、わたしはそれに沿ってとぼとぼと歩いた。

 アパートには帰れない。きっと国館社長が探しに来るから。

 そう確信できるほど、社長のことを信じている自分に泣けてくる。

 評判が落ちるからといって、社長はわたしを切り捨てたりしない。だからわたしから離れるしかない。

 今追われたら、終わりにすると言った自分の言葉を撤回したくなる。別れなくていいと言ってくれるだろう社長に甘えたくなる。


 そんなことしたらダメだ。


 社長は国館建材さんの顔で、社長の信用で会社は成り立ってる。国館建材さんを通じて建材を販売する人たちがいる。国館建材さんを通じて建材を仕入れる人たちがいる。その建材を使って家や職場が内装されるのを待ってる人たちがいる。

 社長がわたしなんかと付き合ってると知ったら、その人たちを失望させる。みんなの役に立ってきた国館建材さんが信用されなくなる。国館建材さんを頼ってきた人たちが困ることになる。


 だから別れることが正しいのだと、自分に言い聞かせる。

 国館社長が、社長でなかったらよかった。そうしたらわたしの過去がリスクになることがなくて、諦めなくてもよかったかもしれないのに。


 しばらく歩いたところでファミレスを見つけ、中に入った。時間はいつの間にか昼過ぎで、昼食時のピークを過ぎたのか、店内はそんなに混み合っていない。

 わたしは席に案内されると、ドリンクが飲み放題になるメニューを注文した。お昼を食べてないのにお腹はまるで空いてなくて、食べ物は喉を通りそうになかったから。

 ジュースを一杯注いでくると、わたしはそれにほとんど手をつけないまま、ぼんやり席に座っていた。うとうとしてははっと目を覚ます。それを繰り返しているうちに、大きな窓から見える空は、いつの間にか茜色に染まっていた。

 店内が混み始めてきたところで、わたしは席を立つ。


 まだ六月の、しかも夕方だというのに、外は真夏に猛暑が来ることを予感させるような暑さだった。そんな中、わたしは来た道を戻る。

 道は西のほうに伸びていた。少し郊外だからか駐車場の広い店が多く、街中より空が開けている。そのため、刻一刻と沈みゆく太陽を眺めることができた。


 ふと立ち止まって思いにふける。

 今日という日が暮れるのを見ていると、社長と一緒に観覧車から眺めた夕暮れの空を思い出す。

涙がこみ上げてきて、わたしはぐっとこらえた。

 泣くんじゃない。

 負けるな、わたし。


 人生は戦いの連続だ。受験、就職、転居、様々な人付き合い、……ありとあらゆるところに試練が待ち構えている。

恋愛もそう。恋のために戦い、敗れた後も、その恋を諦めきれずに泣く自分とまた戦わなくてはならない。


 わたしはこれまで、それらの試練を乗り越えてきた。

 今回も大丈夫。

 あんなひどい失恋からも立ち直り、社長を好きになれたんだもの。

 この失恋の痛みが癒えたら、わたしはきっとまた恋をすることができる。



 駅に戻る途中にコーヒーショップを見つけ、そこで夕食の時間帯を潰した。

 蓉子先輩とよく行く店にも立ち寄れない。国館社長は、先輩にわたしが行く場所の心当たりを訊ねているだろうから。蓉子先輩も、わたしを探し回ってくれてるかもしれない。

 そう思える先輩に恵まれたことをありがたく思うのと同時に、大丈夫だと連絡できないのが心苦しい。一方的にメールをしたところで、余計心配させるだけだろう。電話にすれば、社長と話し合えと説得されるのはわかってる。

 申し訳ないけど、今は何も話したくないし、何も考えたくない。


 先輩も心当たりを回り切って諦めただろうと思う頃、わたしはほとんどお客のいなくなったコーヒーショップから出た。

 そして、ここから歩いて行ける距離にある、よく行くダイニングバーに向かう。



 重たい扉を押して中に入ると、入口正面から見えるカウンターから、お店のマスターが声をかけてきた。

「いらっしゃいませ~──ってあれ? 美樹ちゃん! 心配してたんだよ。蓉子サンとか前に美樹ちゃんを迎えに来た社長サンとか探しに来てね」

 心配してたと言う割に、マスターはあっけらかんとした口調で言う。

「じゃあ、今はいないですか?」

「うん。美樹ちゃんが来たら連絡くださいって、連絡先もらってるけどね」

 あ、やっぱり。わたしは申し訳なくて肩をすくめる。

「あとでちゃんと連絡するんで、ちょっとの間かくまってもらっていいですか?」

「いいよ。ウチはお客サン第一です」

 そう言ってマスターは愛想よく笑った。


 カウンター席に座ってアルコール飲み放題を注文すると、マスターとぽつぽつ話をした。

「マスター……蓉子先輩や社長から、何か話聞きましたか?」

「何も聞いてないよ。ただ、すごく焦ってるみたいだったな。何で連絡経ってるのか、聞いてもいい?」

「うん……今はちょっと、話できる気分じゃなくて」

「そっか。じゃあせっかくの飲み放題だから、じゃんじゃん飲んで忘れるといいよ」

「わたしがどれだけ飲んでも記憶を飛ばさないの知ってて、それ言う?」

「あはは、そうだったね。自慢の体質も、こういう時は困るよねぇ」

 ホントにそう思う。でも、マスターと他愛のない話をして、程よく酔いが回ってきて、少しは気分がよくなってきたみたい。


 わたしはショルダーバッグからスマホを取り出し、電源を入れた。うわー入ってる。不在着信がずらりと。メールも何件か。良心をちくちく痛ませながら、わたしは蓉子先輩の一番新しいメールを開いてみた。“遅くなってもいいので連絡ください”と書いてある。

「ごめんなさい、マスター。ちょっと電話してきます」

「どうぞ、ごゆっくり~」

 わたしは出口のほうへ行き、外扉と中扉の間で電話をかける。

 先輩はすぐに電話に出た。

『美樹ちゃん! 今どこ!?』

 第一声が大慌てなこの言葉で、わたしは申し訳なく思いながら謝る。

「すみません、先輩。心配かけちゃって」

 幾分安心したような声が返ってきた。

『そんなことはいいのよ。社長さんの元彼女が押し掛けてきて、大変だったんですって? 大丈夫なの?』

「大丈夫ですよ。国館社長から聞いてません? 元彼女さんは撃退できたって」

『聞いたけど、でもひどいこと言われたんでしょ? 社長さんは詳しい話はしなかったけど。そうだ! 社長さんには連絡した?』

 忙しく話題を変えるところは先輩らしい。わたしは苦笑しながら答えた。

「これからするところです。お騒がせしちゃってすみませんでした」

 “また来週。おやすみなさい”と挨拶してから電話を切る。


 カウンター席に戻ると注文しておいたドリンクが置かれていて、それを飲みながらメールをした。

 メールを送信し終える頃には飲み干してしまっていて、わたしはすぐに次の注文をする。時間制限があるから、その間じゃんじゃん飲まないとね。


 悪酔いしないし記憶も飛ばないけど、眠気はくる性質なので、いつの間にか眠ってしまったらしい。

「美樹ちゃん」

 マスターが呼ぶ声が聞こえてきて、わたしははっと顔を上げた。

「そろそろ制限時間だけど、ラストオーダーどうする?」

「もちろん頼みます」

 手元のグラスを飲み干して注文を伝えると、マスターは「了解」と言って用意を始める。

「美樹ちゃんはさ、酔って寝ちゃっても声かけたり近寄ればすぐに起きるし、どんなに飲んでも自分の足で帰ってくれるし、いいお客サンだよ」

「……前彼の影響なんです。気まぐれで怒りっぽい人で、彼に嫌われたくないって思うあまり、神経質になっちゃった」


 夜遅くでも電話してくるくせにすぐ出ないと切ってしまうから、スマホを片時も手放せなかった。着信音だけでなく物音にも敏感になりすぎて、一時不眠症にもなりかけたことがある。

 あの歪な関係が間違いだったとわかっている今でも、あの頃に染みついた習慣は抜けない。


 そういえば、社長と一緒の時は目が覚めなかったな……。


 感慨にふけっていると、不意に後ろから声をかけられた。

「それで、どんなに飲んでも大丈夫だと自信満々だったんですね」

「ちょうどいいタイミングです、社長」

 わたしは振り返ってにっこり笑った。

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