26、ラストファイト
金曜日、予定通りリユースされた家具も搬入され、リフォームは終了した。
お引き渡しのために約束の時間にオフィスに着くと、溝口さんが両手を広げて歓迎してくれる。
「おめでとー! 国館さんと付き合い始めたんですってね!」
「壮一とは付き合わないって言ってたのに、どういった心境の変化?」
半分からかい、半分探るような様子で言う田端部長に、わたしはにっこり笑いかける。
「同情でないことだけは間違いないです。壮一さんのことは決して不幸にしないので、その点ご安心くださいね」
「先回りするなぁ。そんなにひやかされるの嫌?」
部長のひやかしは祝福してくれてるって感じがして、嫌な感じはしないけど。
わたしは笑顔を崩さず答えた。
「そういうわけでもないんですけど、今日は仕事に来たんで、そろそろ仕事をさせてください」
わたしは溝口さん、そして壮一さんにも目を向けて、気持ちを仕事に切り替える。
「ええっと、リフォームが終了いたしましたので、すみずみまでご確認ください。不具合がございましたら、早急に修正させていただきます」
確認を終えた壮一さんが、ビジネスライクに声をかけてくる。
「何も問題はなかったです。どうもありがとう」
「ご使用の間に不具合を発見されましたら、お気軽に社のほうまでご連絡ください。ご相談と簡単なメンテナンスは無料となっております。これにてお引き渡しも完了しましたという事で、こちらの書類にサインをお願いいたします」
壮一さんがサインをしてくれるのを、感無量で眺める。
一人で初めて受け持った仕事だった。いろいろ、ほんっとーにいろんなことがあったけど、無事に終了できてよかった。
書類を確認終えると、わたしはそれをブリーフケースにしまって丁寧に頭を下げる。
「それでは、これで失礼いたします。オフィスリフォームをお申し付けくださり、ありがとうございました」
そのまま帰ろうとすると、溝口さんに慌てて呼び止められた。
「え? もう帰っちゃうの?」
残念そうな口ぶりを嬉しく思いながらも、わたしは控えめに微笑んで会釈する。
「もうちょっとおじゃましていたいのはやまやまですが、会社に戻って仕事しなくちゃいけないんです」
部屋の奥で立ち止まったままの壮一さんに、田端部長が声をかけた。
「壮一、送ってかないのかよ?」
「粕谷さんがけじめをつけたいって言うから、尊重しようと思ってね」
「おまえ、まだ名字で呼んでるのかよ」
「悪いか」
堂々と言い返す壮一さんに、田端部長は苦笑した。
「まあ、おまえのペースってもんもあるからな」
「美樹ちゃん、レストランの件聞いたわよ。近いうちに四人で一緒に行きましょうね」
「はい。楽しみにしてます」
にこにこしながらオフィスを出て、わたしは駅へと向かう。電車に乗って、会社のある駅で降りる。
駅を出て、歩道に沿って少し歩いたところで、通りに立っていた人に声をかけられた。
「粕屋、美樹さん?」
今までに会ったことのない女性だ。でも誰なのか聞かなくてもわかった。スーツでかっちりきキメた赤い口紅の似合う女性。
荒倉、志乃子。
壮一さんたちには言わなかったけど、壮一さんの業務時間内の送り迎えを断ったのは彼女が接触できる隙を与えるためでもあった。
何しろわたしの今の生活じゃ、ほとんど隙がないから。
帰りは壮一さんが迎えに来てくれるし、昼間は会社からほとんど出ない。まだ一人前じゃないので、国館建材さんの仕事以外は蓉子先輩のアシスタント。プレゼン資料の作成をずっとやってた。
壮一さんから聞いた話では早起きするようなタイプとは思えなかったから、接触を図ってくるなら、国館建材さんへの行き帰りしかないと思ったの。
荒倉さんは、取り巻きの誰かに見張らせてたんだろうな。わたしが電車を使って移動してると連絡を受けて、待ち伏せしてたに違いない。目的地と駅の間のわずかな時間に接触するなんて偶然、そうそうあってたまるものですか。
「はい。そうですけど?」
まずは普通に答えると、荒倉さんは愛想のいい笑みを浮かべて近寄ってきた。
「ちょっとお話があるの。お時間あるかしら?」
“ない”と言いたいところだけど、改めて約束するのは面倒くさい。
「何でしょう?」
「ここでは何だから、どこかに入らない?」
「いいえ、ここでお願いします。お店に迷惑をかけたくないので」
愛想のよかった荒倉さんの笑顔に、邪悪なものがにじんだ。
「壮一から何か聞いてる?」
「はい、全部」
「じゃあ話が早いわ。──壮一と別れて」
「話はそれだけですか? この件についてあなたと話し合うつもりはないので、失礼します」
さあ、戦いの始まりだ。一応暴力も警戒して神経を研ぎ澄ませながら、わたしは踵を返して歩き出す。
そんなわたしの背中に、荒倉さんは言葉を投げつけてきた。
「あなた、かなりの悪女だそうね?」
どくん、とわたしの心臓が嫌な脈動をする。
わたしは故郷を離れ、両親との連絡も絶った。わたしと過去を結ぶ線は、何もないはずだった。
それをものの一週間の間に暴き出したこの人にぞっとする。
でも、わたしは壮一さんから、彼女が異様なくらい情報を集めるのが得意だと聞いている。
だから、“これは想定内だ”と自分に言い聞かせて落ち着きを取り戻す。
荒倉さんは得意げに話を続けた。
「ひとの婚約者を奪おうとして、それに失敗すると嫌がる同僚にもちょっかい出して。おまけに既婚の上司を誘惑しようとしたんですってね。それで社内の空気を著しく乱すってっことで、会社をクビになったって聞いたわ」
過去の記憶が心を切り裂く。冷や汗がじっとりにじむのを感じる。でも逃げるわけにはいかない。
戦わなくちゃ──。
わたしはゆっくりと振り返った。
「今は、そんな噂になってるんですか」
「すぐに認めるなんて潔いのね」
勝利を確信した笑み。わたしはそれを冷ややかな目で見つめた。
「それは噂であって、本当のことは当人しかわかりませんから」
「“火のないところに煙は立たぬ”っていうじゃない? 言い方を変えたところで、事実は変わらないわよ?」
そうやって塗り固められていった“嘘”に耐えきれず、わたしは以前逃げ出した。
でも、今度は逃げ出すわけにはいかない。“わたしのところに来たら思いっきり返り討ちにしてあげます”と壮一さんと約束した。
自分が言った言葉を思い出す。
──自分のためでなく、他の誰かのために強くなってください。
強くならなくちゃ。たった今。壮一さんのために。
「──そうですね。事実は変わりません。ある男性が二股をかけていたことが発覚し、そのうちの一人と結婚の約束をしていたことも。もう一人のほうは別の男性ともほんのちょっと親しかったことをやっかまれて、会社内でいじめに遭ったことも。いじめの一環として流された噂を真に受けた上司がおおっぴらにセクハラをして、それを誰もとがめようとしなかったことも」
「何の話?」
荒倉さんは、さっぱりわからないというように眉をひそめる。
わたしは、自分で自分の心を切り裂いた。
「今話したことが“事実”です。──二十歳の小娘だったわたしは、あこがれの男性社員に告白されて有頂天だった。社内恋愛はあまりいい顔をされないからという彼の言葉を真に受けて、つき合いを内緒にすることを承諾してしまった。好きだったから、電話やメールは苦手だという言葉を信じて連絡先を教えてもらえないことにも納得した」
荒倉さんはうんざりしたように話を遮った。
「わたしはね、あなたの話を聞きに来たんじゃないの。壮一と別れなさいって言ってるのよ」
そんな荒倉さんを、わたしは一喝する。
「黙れ! 物事を片側から見ただけで、それが事実だと思うな!」
わたしの剣幕に、荒倉さんは怯んだ。
「何熱くなってんのよ。馬鹿じゃない? 話にならないみたいだから今日は帰るわ」
荒倉さんはいったん退くべきと思ったのか、自分優位を保ったままこの場を立ち去ろうとする。
そんなことさせるもんか。わたしの過去を暴いたお礼に、わたしが今まで心の中に溜め込んでいた憤りをすべて叩きつけてやる。
わたしは彼女の腕を掴んだ。
「あんたが先に始めたことでしょう!? 責任もってちゃんと聞きなさいよ!」
荒倉さんは恐怖に表情を歪め、硬直する。
わたしはその隙にとうとうと語った。
「デートはいつも彼からの連絡待ちで、わたしはいつでも彼の誘いを受けられるようにするために、友達づきあいも控えるようになったの! 彼の連絡がいつ来るかってやきもきして、毎日が苦しかった! そんなわたしに同僚の男性が気づいてくれて、相談に乗ってくれたの。わかってくれる人がいることをすごくありがたく思ったわ。
そんな頃、付き合ってた人が同じ会社の女性社員と婚約してるって噂が流れたの。わたしは二股をかけられていたことを知ったのと同時に彼との付き合いを社内に知られて、“他人の婚約者を奪おうとした女”っていうレッテルを張られた。
会社の人たちから非難と好奇の目を向けられて辛かった時、相談に乗ってくれていた同僚に交際を申し込まれた。ずっと前から内緒で付き合ってたことにすれば、悪い噂をなかったことにできるからって。ありがたい申し出だったけど、断ったわ。わたしはその同僚に好感は持っていても、好意は持ってなかったから。それに、同僚に想いを寄せる女性社員がいることにも気づいてた。本気でないのに同僚と付き合うのはいけないことだと思ってわ」
わたしが異常だと感じたんだろう。荒倉さんは我に返ると手を振り払って逃げようとした。わたしはそれを許さず、彼女の腰にしがみついて話し続ける。
「でも、そんなわたしの誠意は同僚には通じなかった! これまで散々優しくしてきたんだから、二つ返事で交際をOKしてもらえるって思ってたんでしょうね。断られてプライドを傷つけられて、その仕返しに同僚はわたしに付きまとわれて困ってるって、同僚に想いを寄せる女性と彼女を応援するグループに相談したの。彼女たちは喜んで、わたしを排除するためにいじめをエスカレートさせた。──それまでも、仕事の連絡を回してもらえなかったり、話しかけても無視されるっていう嫌がらせはされてたの。でも頼まれたことが彼女たちの免罪符になったんでしょうね。ロッカーの扉をずたずたにされて中にあった私物をめちゃくちゃにされたり、トイレで水をかけられたりもしたわ。上司は事なかれ主義で、ロッカーのことを訴えても“備品を粗末にするな”と言って始末書を書かせ、びしょぬれで廊下を歩くわたしを見て“だらしない恰好をするな”って叱った。上司がそうだったから、誰も助けてくれなくて見て見ぬふりだった。
そのうちわたしがあばずれだっていう噂が流れて、それを真に受けた隣の部署の上司がセクハラをするようになったの。それもみんな見て見ぬふりだった。──ううん、一部の人たちはにやにやしながら眺めてた。誰にも相談できなかった。友達とは疎遠になってたし、両親はわたしが大げさに騒ぎ立ててるだけだと思われて。
隙を作らないよう必死に逃げてたのに、その上司の下に異動が決まって、いよいよ身の危険を感じて会社を辞めたのよ!」
「離しなさいよ! 離して!」
恐怖を感じた荒倉さんは、わたしの腕をもぎ離そうとし、腕を振り回して殴ろうとする。
背中側からしがみついたわたしに、有効な攻撃が入るわけがない。
わたしは荒倉さんの恐慌を無視して最後まで語り切った。
「わたしは一年以上自宅に閉じこもって自分を責めたわ。どうしてこんな目に遭ったんだろう。わたしの何が悪かったんだろうって。仕事を辞めたわたしを、母は怒って父はもてあました。両親でさえわたしの言うことを信じてくれなかったのが辛かった。──物事を正しく判断できるようになった時、このままじゃいけない。人生を潰されたままでいて、わたしを不当な目に遭わせた人たちを“いい気味だ”って喜ばせてなるものかって思って。それで頑張って、今まで人生を立て直してきたのよ!」
言い終わったその時、暴れる荒倉さんに振り回されていたわたしの身体が街灯の支柱に当たる。わたしは歩道の上に倒れ込んだ。荒倉さんは肩で息をしながら、ようやく自分から離れたわたしを見下ろした。
「あんたの話なんてどうでもいいのよ! ともかくわたしが言いたいのは、社長である壮一の恋人があんたみたいな女だと、会社の評判に響くってこと! 社長っていうのは会社の顔なのよ!? あんたみたいな女と付き合ってると知れたら、評判はガタ落ちだわ!」
身体を起こしかけていたわたしは、それを聞いて息を呑んだ。
わたしの顔色が変わったことに気付き、弱点を見抜いたと思ったんだろう。荒倉さんは悦に入って話し出した。
「あんたが壮一と付き合い続けるっていうなら、さっきの話を壮一の会社の取引先にばらまくわよ。取引先は昔堅気な人が多いみたいだから、あなたみたいな評判のある人を許さないんじゃないかしら?」
「……そうですね」
荒倉さんはわたしを見下ろし、勝ち誇った声を上げた。
「じゃあ壮一と別れるのね!」
「別れませんよ。何で別れなきゃいけないんです?」
返答が予想外だったのか、荒倉さんは眉をひそめる。
「わたしが言ったこと、聞こえなかったの?」
わたしは荒倉さんに荒んだ笑みを向けた。
「聞こえましたよ? でも、そんなの別れる理由になんかならないです。だって、わたしのことを非難されたら、今わたしが言ったことを説明すればいいだけのことですもん。又聞きしただけの薄っぺらなあなたの話と、わたしが血を吐く思いで告白した話と、みなさんどちらを信じるでしょうね?」
わたしはよろよろと立ち上がり、荒倉さんの真正面に立つ。荒倉さんは気圧されたように後退った。
「あ……あなた怖くないの? 自分の恥ずかしい過去を他人にバラされるのが」
笑いをひきつらせる荒倉さんに、わたしは怒鳴った。
「無知で愚かだったわたしを、好きなだけ侮辱するといいわ! でもわたしは悪いことなんてしてない。他人に後ろ指差されるようなことなんて何一つしてないんだから!」
荒倉さんはわたしの怒鳴り声におののいて、身を竦ませる。今度はわたしが荒倉さんを蔑みの目で見る番だった。
「わたしの過去をバラしたいならバラせばいいです。その代わりわたしも、あんたが他人のトラウマを暴露するえげつない女だってことをバラします。壮一さんにちょっかいを出した時も、四年前にあなたが壮一さんたちにしたことも一緒にバラしますから。噂一つで信用がガタ落ちするんですもの、信用が物を言うマンション販売に携わってるあなたにとって、これほど怖いことってないですよね? ──自分の身がかわいいと思うなら、今度二度と壮一さんたちに近づかないことです。でなければ、わたしは容赦しませんから」
脅しをかけにきて、逆に脅されるとは思ってもなかったんだろう。荒倉さんは蒼白になって口もきけないでいる。
わたしは放り出してしまったブリーフケースを拾うと、顎を上げ毅然としてその場を立ち去った。




