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22、六人目

 オフィスを訪れた女性──荒倉志乃子さんが、少し離れたところにあるフレンチレストランに行きたいと言ったので、僕は車を出した。


 車が流れに乗ると、荒倉さんが話しかけてくる。

「頑張ってるみたいね。事務所も構えるまでになっちゃって。でもあんなぼろぼろな事務所を借りるくらいなら、もうちょっとお金を貯めて郊外に社屋を建てちゃえばいいのに。──今でもそれくらいのお金はあるんでしょ?」

 何を聞きつけて、再び現れたのだろう。想像がつかないから、僕は慎重に答える。

「あのオフィスはこれからリフォームするんです。それに、あのオフィスを選んだのは和弥と相談しての上だから、あなたにとやかく言われる筋合いはない」

 間を置かず、嘲るような声が聞こえてきた。

「そうそう。まだあの人、あなたにへばりついてるのね」

 その口振りに、僕は目の前が真っ赤になるような怒りを覚える。


 あれから四年も経つのに、荒倉さんはどこも変わるところがない。

 和弥のプライドをずたずたに傷つけて笑っていた、残酷な女のままだった。


 何も言わず、早々にオフィスから出てきてよかった。あのまま話し続けていれば、今の言葉も和弥の前で平然と言い放っていただろう。その上、あの場にいた溝口さんが和弥の恋人だと知れば、余計喜んだに違いない。


 ちょうど赤信号に引っかかり車を止めると、僕は怒りを露わにして荒倉さんを睨みつけた。

 荒倉さんは自分が悪いとはかけらも思ってない様子で、唇をとがらせた。

「あら、本当のことじゃない。販売成績が落ちてきた時に顧客を紹介してあげて、それからはあなたにおんぶにだっこ。それで成績を保って大きな顔されちゃって、壮一もいいツラの皮だったわよね」

「違う! 和弥は苦しんでた。僕の申し出も最初は断り続けた」


 販売成績が落ちてきて、転職を考えるまでになっていた和弥に、一緒に仕事を続けたいからと顧客を回したのは僕だ。

 和弥を邪魔者だとみなした荒倉さんは、そのことをあげつらって和弥を攻撃した。

“他人にエラそうな顔をしながら、その他人のお情けにすがらなきゃやっていけない脳無し”

 その言葉にプライドを粉々にされた和弥は、“おまえが余計なことを考えるから”と僕を詰った。その後で僕を詰った自分を責め、僕の親友である資格はないと言って去っていこうとした。打ちひしがれた背中を見て、僕の存在が和弥を傷つけてしまったかと思うとたまらなかった。

 和弥がいなければ、今の僕はなかった。恩人とさえ言える、一番の親友なのに。


 苦痛をにじませた僕の言葉も、荒倉さんの心に響くことはなかった。

「でも結局、あなたの申し出を受けたんでしょ? “俺は断ったのにおまえが押しつけてきたから、仕方なく受け取ったんだ”って態度を取ろうとしてるのが見え見えなのよ」


 荒倉さんのたちの悪いところは、悪気が全くないところだ。はたから見れば荒倉さんの言うように見えるかもしれない。けれど僕と和弥の間には長年培ってきた友情があり、それは普段表からは見えないものだ。そうした目に見えないからこそ大切にしたいものを、荒倉さんは取るに足らないもののように踏みにじる。


 彼女の話を聞いていると、怒りで頭がどうにかなりそうだ。信号が青に変わったのをきっかけに、僕は運転に集中して話を半ば聞き流す。

 荒倉さんは、怒りを何とか押し殺そうとしている僕に構わず話を続けた。

「今だって顧客を融通してあげてるんでしょ? お人よしにもほどがあるわよ。 ──そうそう、聞いたわよ。今もマンション販売士をしてるんですってね。会社を辞めた後も続けてるなんてズルいわ」

 それを聞いて、僕は肝が冷える思いがした。


 いずれは知られてしまうだろうとわかっていた。

 マンション販売を続けているのは、それが退社の際の条件だったからだ。和弥と二人で退社願いを出しに行った時、上司に強く引き留められた。上司の上役まで出てきて話し合いまでした。その時、荒倉さんと手を切るにはこの方法しかないんです、と上司たちに打ち明けた。

 最初は大げさだと受け止めていた上司たちも、そのうちに折れてくれた。彼女と縁を切りたいだけなら、退社した後個人契約を結びたい。その代わり、僕たちがマンション販売に携わり続けることはごく一部の人間以外には内密にするからと。

 退社した後は、以前マンションを買ってくれた人から紹介がある時にだけ、マンション販売士の仕事に就いてきた。

 顧客にまで内緒にしてくれとはお願いできないから、そこから漏れた可能性もある。けれど荒倉さんには、彼女の求める情報を集める取り巻きがいた。そのことから、上司たちが内緒にしてくれていても、今まで知られなかったとはとても考えられない。


 問題は、四年も経った今になって、何故再び接触してきたのかということだ。


 荒倉さんが指定したレストランにはすぐに着いた。僕も荒倉さんも、無言のまま車を降りてレストランに入った。昼になったばかりということもあって、そこそこ込んでいたけれど、すぐに席に通された。

 注文を済ませてから、僕は中断していた話を切り出す。

「僕がまだ販売士をしていると知っていたら、別れるつもりはありませんでしたか?」

 図星だったらしく、荒倉さんは口元を蠱惑的にゆがめた。

「わたしにも紹介してよ。最近なかなか客がつかまらなくて」

 接触してきたのは、それが理由だったのだろうか。どちらにしろ、僕の答えははっきりしている。

「お断りします。僕は和弥を信頼できるから、顧客の相談に乗って欲しいと頼んでいるんです」

「元彼女のわたしは信頼できないっていうの?」

 僕は無言で彼女を見据える。


 彼女が自分本位で、客の要望もろくに聞かず、色仕掛けさえ使って強引に契約させていたことは知っている。僕は何度もやり方を変えるよう忠告したが、彼女はそうすることの必要性を理解さえしてくれなかった。彼女の態度からして、やり方を変えたとは思えない。僕は、僕を信頼して知人の方を紹介してくださる人たちを裏切ることなどできない。


 視線から僕の肯定の意志を感じ取ったのか、荒倉さんはすぐに話を変えてきた。

「あなたが興した会社が成功するなんて思ってもなかったわ。ちょっとした有名人みたいね。小規模製造業者の救世主みたいな。客の口から“国館建材”って聞いてびっくりしちゃった。その客、あなたのところから卸した建材でリフォームされた物件をお探しなんだそうよ。何でも、知り合いから聞いたって。──こんなことなら、あなたの会社を手伝ってあげていればよかったわ。今からでも遅くないわよね?」

 流し目を送られ、僕はようやく荒倉さんの目的に気付く。


 低シックハウス物件を売りに、マンションを売りさばけるのではないかともくろんでいるのだ。

 金のことしか考えていない彼女と組んだりしたら、国館建材の名前をどう使われるかわかったものじゃない。今まで培ってきた信頼は、あっという間に地に落ちる。


 蜘蛛の巣にかかってしまったような、いやな気分がした。いや、それは最初からだ。再会した瞬間から、どうやって逃れようかと頭をフル回転させている。

 “嫌いです”“二度と会いたくありません”と口にしたところで通じないことは、四年前に思い知っている。


 テーブルの下、膝の上で握ったこぶしの中が、じっとり汗ばむのを感じた。正直、何もかも放り出してこの場から逃げてしまいたい。

 だがそうしたところで、荒倉さんはどこまでも追ってくる。荒倉さんのほうから見切りをつけるまで、延々と。

 だけど、僕は負けるわけにはいかない。

 ──自分のためじゃなく、他の人のために強くなってください。

 粕谷さんが言ってくれた言葉が脳裏をよぎった。

 そうだ。僕を信頼してくれている人たちのために、僕の可能性を信じてくれた粕谷さんのために。


 頭の中で素早く計画を立てると、僕は何食わぬ顔で答えた。

「……“僕と和弥の”会社です。それに人手は間に合ってます」

「じゃあ“あっち”のほうは? わたしと別れてから、誰とも付き合ってないんでしょ?」

 あけすけな言い方をするところも変わっていない。隣席の少々年輩の女性が驚いたように一瞬こちらを見る。

 以前の僕なら、真っ赤になってうろたえるところだ。でもそんなことをすれば、彼女に付け入る隙を与えることになる。

 僕は表情を固め、勇気を振り絞って口を開いた。

「それもお断りします。──好きな人がいるんです」

「あなたに?」

 驚いて目を丸くしたかと思うと、荒倉さんはやがて笑い出す。

「どうせ告白もできずにいるんでしょ? 見てるだけならいないも同然よ」


 一瞬僕はためらった。本当のことを話してしまっていいものかと。

 だが、すぐに隠しおおせることはできないと思い直した。下手に隠し立てすれば、そこを弱点と見定めて荒倉さんは容赦なく攻撃してくる。


 僕は深く息を吸って、はっきりと言った。

「いえ、付き合って欲しいと言いました。──まだ返事はもらっていませんが、定期的に会っています」

 荒倉さんは表情を変えないまま、小さく息を呑んだ。それから、自分の優位を見せつけるかのようにせせら笑う。

「あなたみたいなヘタレを好きになる人なんていると思ってるの?」

「彼女は、僕はヘタレではないと言ってくれました。彼女の励ましに応えるためにも、僕はヘタレのままでいるつもりはないんです。──話はこれで終わりですね? 僕は帰らせてもらいます」

 立ち上がった僕を、荒倉さんは信じられない物を見るような目で見上げる。僕はそんな彼女を冷ややかに見下ろした。

「あなたなら、電話一本かければ一緒に食事をしてくれる人がすぐに来てくれるでしょう? ──はっきり言います。僕はあなたが嫌いです。親友を傷つけられたことは、一生忘れません」

「わ──わたしはあなたのためを思って」

 荒倉さんの言い訳を、僕は毅然とした口調で阻む。

「それは余計なお世話というものです。僕は自分の親友は自分で選びます。食事代は払っていきますから、二度と僕に会いに来ないでください。──さようなら」

 正直なところ、僕の心臓はどうにかなってしまいそうだった。足もがくがくして、気を抜けばその場にへたり込んでしまいそうだ。でも、無様な姿を見せるわけにはいかない。僕は驚いているウエイターに近寄って、財布から出したお札を渡した。

「すみません。これで会計を。おつりはいりません」

 店を騒がせたお詫びも込めた、多めの金額だ。金銭を謝罪代わりにするなんて失礼だが、食事をしたところで気持ちのいい客にはなれそうにない。

 彼女に追いかけられることを恐れながらも、僕はそれを悟られまいとゆっくりした足取りで店を出た。



 ──・──・──



 食事の途中で志乃子が先に帰ることはあっても、食事相手が食事も始まらないうちから帰ってしまうのは初めてだった。

 呆然とするあまり、機転を利かせて先に店を出ることができなかった。回りのテーブルにまで聞こえるように話をしたのが裏目に出た。他の客たちは好奇の目を志乃子に向けているので、追いすがるような無様な真似はできない。

 壮一は、きっと計算して行動していたのだ。志乃子が後を追えない状況を作るために。


 壮一の言うように、誰かを呼んで食事をするなんてできるわけもない。

 追いかけているようには見えないだけの時間を置いてから、志乃子はすっと席を立った。優雅な足取りで出口へ向かう。

「あの、お客様……?」

 おそるおそる声をかけてきたウエイターに、志乃子はにっこり笑いかけた。

「ごめんなさい。急用があるのを思い出したから、帰らせていただくわ」

 置き去りにされたとは思えない堂々とした態度で店を出る。


 壮一の車は、影も形もなかった。そのことに、さらにはらわたを煮え繰り返しながらしばらく歩く。

 店から見えないところまでくると、志乃子はバッグからスマホを取り出して電話をかけた。

 相手はさほどコールを待たずに出る。

「あ、今いいかしら? ちょっと調べて欲しいことがあるの。……ええ、大至急」

 電話の相手に調べて欲しい内容を話すうちに、志乃子の唇の端がにたりと上がった。



 ──・──・──



 僕はまっすぐ自宅に戻った。

 中に入り鍵をかけたところで多少気分が落ち着いたので、僕は和弥に電話をかける。


 和弥は気を揉んでいたのか、コール二回で出た。

『食事をした割には早かったな』

「いや、レストランに置き去りにした」

 硬い口調で電話に出た和弥は、僕の言葉を聞いて噴き出す。

『マジかよ!? どうやって?』

「料理を注文した後に“嫌いです”とはっきり言って、席を立ったんだ。注目を集めてるのに後を追えば、みっともないことになるって気付いたんだろうな。おかげで料理がくる前に無事脱出できたよ」

『ははっ。お前やるようになったな。先週までとまるで別人だ』

「ヘタれてなんかいられないからな。大事なものを守るためには」

 笑いを含んでいた和弥の声が、ふっと真剣になった。

『あの女、何が目的だったんだ?』

「顧客から、ウチが卸した建材を使った物件を探していると言われたらしい」

 察しのいい和弥は、それだけで納得した。

『ああ、そういうこと。馬鹿にしてたはずの事業が注目を集め始めたもんだから、今頃惜しくなって再接触してきたわけだ』

「社名を別のものにすればよかった」

 悔やむ僕を、和弥の明るい声が励ます。

『んなことしたって、あの女の地獄耳には通用しないさ。──問題は、これからどうするかだ』

「──ああ。あれしきのことで荒倉さんが諦めるとは思えない。むしろ僕がしたことに怒り狂ってるかもしれない」

『だろうな。すぐには仕掛けてこないだろうけど、早めに対策を練ろう。今から夕歩を連れておまえン家行っていいか?』

「いいけど、今溝口さんと食事をしてるんじゃないのか?」

『いや、飯は食いに行ってない。まだオフィスにいるんだ。──夕歩に事情を話しててさ』

「溝口さんに話したのか」

 驚かずにはいられなかった。四年間、僕らの間でもその話には触れられなかった。それを、一番知られたくないだろう溝口さんに話すなんて。

『ああ。あの女ならいつか必ず溝口に暴露する。なら先に話しておいたほうが、傷が浅くてすむかと思ってな』

 謝ろうとして、前に言われたことを思い出し、やめた。


 ──謝るな。謝られると余計……みじめになる。

 和弥らしくない、打ちひしがれたあの時の姿を、この先もずっと忘れられそうにない。


 荒倉さんが他人の心の傷を抉るのが得意だと知ったときには、すでに和弥は傷つけられた後だった。彼女は「あなたのためにしたことなのよ」と悪びれずに言った。

 僕の親友を傷つけておいて、何が“僕のため”なのか。あの時初めて、荒倉さんと付き合ってしまったことを心底後悔した。


 過去に沈みかけた意識を、和弥の声が引き上げる。

『壮一、おまえも美樹ちゃんに打ち明けておいたほうがいいぞ。あらかじめ知っていれば、美樹ちゃんなら自分を守れると思うんだ。これまでの女たちのように撃退できなくてもさ』

「……ああ」


 くらっとめまいがした。

 粕谷さんはどう思うだろうか。とんでもなく厄介な女性と関わってしまった僕を。

 五人の女性に言い寄られていた時だって少し呆れた様子だったことを考えると、今度こそ愛想をつかされてしまうかもしれない。

 それに荒倉さんは危険だ。犯罪になるようなことはしない代わりに、人の心をずたずたにする。

 どうしたら粕谷さんを守り切れるか。それを考えると、血の気が引いていくような気がした。

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