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15、これは何の嫌がらせですか?

 食後の緑茶に口をつけていたわたしは噴いてしまいそうになって、慌てて湯呑から口を離した。

「へ? ──あ、すみません。明日ですか?」

 いやいやいや、驚くところはそこではなく。心の中で自分にツッコミを入れてから、わたしは改めて聞く。

「どこへ行くんですか?」

 ごくごく普通の質問だと思うのに、国館社長は予想してなかったとでもいうように息を呑んだ。微妙にわたしから視線を外し、困ったように鼻の頭をかく。

「あ、その……付き合って欲しいところがあるんですが」

 いきなりどうしちゃったの? 社長とわたし、プライベートでお出かけするような仲じゃないでしょ? てか、仕事でお付き合いのある人とプライベートでも親しくなるってマズいでしょ。わたしは何とかお断りしようと試みた。

「あ、でも今週はちょっとなんだかんだあって、部屋の片付けをしなきゃならなくて……」

 ごにょごにょ言い訳すると、社長は何でもないことのように笑顔で言った。

「ということは、今日中に片付けば明日は出かけられるということですよね? なら手伝いますよ」

「へ!?」


 “ちょっとやらなきゃならないことがあって……”ってお誘いを断る常套句じゃない。なのに何で国館社長がウチの片づけを手伝う話になっちゃったの???

 アパートの前で降ろされたわたしは、開け放たれた車の窓から最後の抵抗を試みた。

「送っていただいた上に、お手伝いしていただくわけには……」

 暗に遠慮し続けたんだけど、言葉を濁したのがいけなかったのかもしれない。社長は遠慮することないですよと言いたげなにこにこ顔で答える。

「僕は家事が得意ですし、二人ですればあっという間に終わりますよ。駅前の駐車場に車を停めて戻ってきますね」

 そう言うと、社長は早速車を発進させる。わたしは見送るのもそこそこに、自分の部屋に駆け込んだ。

 着替えを一式、そこそこかわいい外出着を用意して、服を脱いでそれに着替える。下着やブラウスは洗濯機に放り込む。スーツはクリーニングに持って行く袋に入れる。昨日朝食を食べたあとそのままにしてた食器を流しに持って行き、乱れたままにしていたベッドを整えて散らばった雑誌や化粧道具の片づけを始めた。


 社長はあんな調子だったから、言ったことを撤回して帰ってくれるとは思えない。戻ってくるまでに何とか見られるところまで片づけを──と必死になっているさなか、玄関のチャイムが鳴った。戻ってくるの早い! 早いよっっ!

「は、はいっ」

 声が裏返りながら返事をすると、ドアの向こうから予想通りの声が聞こえる。

「国館です」

 ……来てしまっては、上がってもらわないわけにはいかない。わたしは観念してドアを開けた。

「どこから手伝いましょうか?」

 社長は部屋の中に入ってくるなり、早速シャツの袖口のボタンを外して戦闘──もとい、掃除の準備を始めている。

「……流しの洗い物をお願いしていいですか?」

 お願いできる場所なんてそこくらいしかない。今朝も夕べも家でご飯食べてないのに洗い物が残ってるってどーよ。──遅刻しそうだったからと言い訳したいところだけど、毎日それを繰り返してるわたしが口にするのは空々しい。それに社長のキッチンと比べてわたしの台所はごっちゃごちゃ。この差は相当なダメージだわ。

 もちろん社長にだけ働かせてわたしは何もしないつもりはない。クローゼットからお掃除用モップを取り出してフローリングの床を拭き始めた。普段のお掃除はいつもこれ。掃除機もあるけど、モップで十分きれいになるから滅多に使わない。


 キッチンから社長が声をかけてきた。

「こちらも掃除するときには言ってくださいね。どきますから」

 そういえば、たった数個の洗い物を片付けるのに、社長ってばどれだけ時間をかけてるんだろう。素朴な疑問を覚え、玄関とリビング兼寝室の間にある台所を覗くと、嗅ぎ覚えのあるつんとしたにおいが……。

「あ、すみません。勝手にお酢をお借りしています。ステンレスの曇り取りに便利なんですよ」

 社長が流しを磨いているのを見て、わたしは冷や汗が出る思いがする。いや、確かに曇ってたけどさ。それを取引先のイケメン社長さんに磨いてもらうって……!

 わたしは慌てて言った。

「ありがとうございました! 助かりました! あとは自分でできますんで……!」

「でも洗面所やお風呂場が……」

「わっわたしがやります!」


 結局社長には換気扇掃除や窓拭き、部屋中に改めて掃除機かけ。カーテンにも掃除機掛けしてもらってしまった。

 掃除していただいてありがたいを通り越して申し訳ないのですが、これは何の嫌がらせですか? 掃除の行き届いてなかった部屋のあちこちを見られて、わたし、頭から火を噴き過ぎてくらくらしてます。でもお風呂やトイレ、洗面台の掃除だけは、何とか先回りして阻止しました! おかげで体力も著しく低下してますが。

 ともあれ、一通り掃除したと確認して、社長は満足してくれたようだ。

「洗濯物は、社長がお帰りになってから干しますから」

 さすがにそれはマズいと思ったのか、社長はちょっと恥ずかしそうに視線を逸らし「そうですね」と相づちを打った。

「まあ掃除は一通り済みましたし、これで明日は出掛けられますね。それでは朝十時に迎えに来ますから」

「……はい。ありがとうございました……」

 ぐったりしながらわたしは挨拶する。社長はご機嫌で帰っていった。


 ……心身ともに疲れたわ。ホント、どうしちゃったんだろう。社長って相手の気持ちを慮るあまり、積極的な行動に出られない人だと思ってた。それが一人暮らしの女の部屋に上がり込んで、掃除の手伝いを買って出るなんて。………………ダメだ。疲れ過ぎて頭が回んない。

「……お風呂入ろ」

 夕べ入ってないもんね。お風呂に湯をためながら、わたしは洗濯物を干し始める。お風呂にお湯がたまる頃合いに合わせたタイマーが鳴るまで、わたしは布団の下に隠した荷物の片付けや、来週分の買い出しの算段をつらつら考えていた。



 ──・──・──



 ──少しは思い知ればいいんだ。

 そう思い、誘惑にもかられて顔を近づけたものの、僕は粕谷さんにキスの一つもできなかった。ジャケットくらい脱がしてあげるべきだと思いながらも、ボタンの一つも外せなくて。

 そのどちらかでもしていたら、僕の自制がどうなっていたかわからない。

 相手の気持ちを考えない身勝手な欲望をもてあましながら、僕はリビングのソファに横になった。

 そうして眠れない夜を過ごしながら、僕は自分の気持ちに確信を持ち始める。


 粕谷さんの部屋の掃除を手伝った日の午後、待ち合わせの時間より少し早く、僕は駅前の喫茶店に足を運んだ。「いらっしゃいませー」という明るい声に出迎えられながら店内に入ると、まっすぐで長い黒髪の女性が僕に気付いて腰を上げかける。

 粕谷さんに教えてもらったとおりの外見だ。彼女を見て思い出した。たくさんの人に囲まれて困っていた時、一人佇んでいるのを離れた場所にみつけて、僕は避難所を見つけたかのように彼女に近寄った。

 あのときのことが彼女に誤解を与えてしまったのなら、申し訳ないことをしたと思う。

 僕はまっすぐ彼女の席に向かった。

「長谷川、千弓さん?」

「はい……」

 長谷川さんは、かろうじて聞きとれる程度のか細い声で返事をする。

「お呼び立てしたのは僕なのに、お待たせしてすみません」

「いえ、わたしが早く来すぎたせいですから……」

 粕谷さんが言うように、控えめというより引っ込み思案なようだ。──まるで先日までの僕のように。

 席に座ると、待ちかまえていた店員さんが水とおしぼりを置いた。僕がブレンドコーヒーを頼むと、店員さんはすぐに離れていく。

 僕は長谷川さんのほうを向いて姿勢を正し、早速話し始めた。

「お呼び立てしておいて申し訳ないのですが、電話で済ますのも失礼かと思いまして。──すみませんお気持ちはありがたいのですが、僕はあなたとお付き合いできません」

 テーブルに額がつくくらいに頭を下げると、長谷川さんは慌てて「顔を上げてください」と小さく言った。

 顔を上げた僕に、泣きそうに瞳を潤ませながら長谷川さんは笑う。

「そうなんじゃないかと思ってました」

 その声は震えていて、涙は今にも頬を伝いそうだった。良心の呵責を覚え、僕は言葉を失う。

 そこへコーヒーが運ばれてきた。店員さんはソーサーに置かれたコーヒーとそのお供にと添えられた豆菓子を並べてすぐに離れていく。

 その後ろ姿を少し見送った後、長谷川さんは尋ねてきた。

「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


 勇気を振り絞っていることが、その様子からありありと伝わってきた。

 粕谷さんの言う通りだ。

 僕は彼女の勇気に応えなければならない。


 僕は初めて、自分のこの想いを口にした。

「付き合いたい人ができたからです」

 申し訳なさと、それと恥ずかしさもあって、僕は視線をテーブルに落としていた。そんな僕に、長谷川さんは声をかける。

「──それは、粕谷さんのことでしょうか?」

 はっとして顔を上げると、いつの間にか取り出したハンカチで目元を拭いながら、長谷川さんは微笑んだ。

「素敵な人ですよね。思いやりがあって、強くて……。わたしもあんな風に強くなれればって憧れます」

 聞き流しておくべきだったかもしれない。けれど僕はついつい口にしていた。

「……強いわけではないと思います。粕谷さんも弱い部分を持っていて、その弱さに負けないように戦ってるような気がします」

「やっぱり羨ましいです……。そんな風にわかってくれる人が粕谷さんにはいて。──って、羨ましがってばかりじゃダメですよね。わかってるのにどうしようもなくて。ホント、自分のことが嫌になっちゃいます」


 言葉を交わせば交わすほど、長谷川さんと僕は似てると感じる。

 それと同時に、今の状況が昨晩──金曜日の夜の車内での様子に似ていることに気付いた。

 あの時の僕が長谷川さん。僕は今、粕谷さんの立場に立っている。

 ──自分のためじゃなく、他の人のために強くなってください。

 粕谷さんのくれたやさしさを、長谷川さんにも。


「……長谷川さんは強いじゃないですか。他の、強気な方たちに混じって、僕に会いにきてくれた」

「でも、そのせいでご迷惑をおかけしてしまって。オフィスにまで押し掛けたりして申し訳ありませんでした」

 今度は長谷川さんが頭を下げる。髪が手前のカップに入ってしまいそうになって、僕はとっさに手を伸ばした。驚いて顔を上げた長谷川さんは、ぽっと頬を染める。僕は慌てた。

「す、すみません。カップに髪が……」

 しどろもどろに言うと、長谷川さんはさらに赤くなった。

「す、すみません……」

「……」

「……」

 意図せず同じ言葉を口にしたことに気付き、お互い小さく噴き出す。

 笑いが収まってきた頃、長谷川さんは先ほどより晴れやかな笑顔で言った。

「こんなこと言ったら失礼ですけど、粕谷さんの言うとおり、国館さんとわたしって似てるみたいです。──断っていただいてよかったかもしれません。わたしが二人いても、落ち込んでいくばかりですもん」

 ひどい言いようだけど、長谷川さんなりのやさしさだと思った。自分をフったことを気にしなくていい、と。

「粕谷さんと幸せになってください」

 長谷川さんの声援に、僕は照れくさいやらいたたまれないやらで、頬の隅を指で掻く。

「これからアプローチするんですけどね。……長谷川さんにも、きっと僕にとっての粕谷さんのような人が現れますよ」

 長谷川さんはクスクス笑って言った。

「そうだといいなって思います」


 僕は、長谷川さんと同じだった。他人を羨ましがってばかりで、どんなに努力をしても空回り。でも、粕谷さんに言われて気付いた。必要なのは努力なのではなく、要は気の持ちようなのだと。自分を否定的に見ていたら、いつまで経っても自分に自信が持てないはずだ。

 ──社長はヘタレじゃないです。

 ──自分のためじゃなく、他人のために強くなってください。

 わずか二言で僕の考え方をひっくり返した粕谷さん。

 長谷川さんと話していて確信した。


 僕は粕谷さんが好きなんだ。


 助けてもらったことへの感謝の気持ちがないわけではない。迷惑をかけた詫びの気持ちがないわけでもない。僕のコンプレックスを吹き飛ばしてくれた彼女の強さにあこがれる気持ちも否定はしない。ただ、それらのことをはるかに超える想いが自分の中にあることを、僕はひしひしと感じていた。

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