94 世界に革新を
ヴィルヘルミネの目の前にいる男は、誰の目から見ても美男子であった。もちろん赤毛の女王にしてみたところで過去のことが無ければ、百点に近い点数を付ける美貌である。
しかしながらジークムントはかつてロッソウを傷つけベーアを片腕にした挙句に、事故とはいえ少女であったヴィルヘルミネのおっぱいを触っている。だから女帝は切れ長の目を吊り上げて怒り心頭、声を発したのだ。
「いつぞや、余に顔を踏まれた惨めな男が――今更どの面を下げて寿ぐのか?」
ジークムントにしてみればラッキースケベでも、赤毛の女帝にしてみれば許しがたい。当時はもう「お嫁に行けない体になった」と認識した程だ。
おかげでゾフィーと結婚すればよい、と考え倒錯に拍車が掛かり教会勢力と対立、新体制を築く原動力になったのである。
実際、当時ヴィルヘルミネの怒りは凄まじかった。あまりに怒り過ぎて逃げる気にもなれず戦った結果、「輪廻」の使い手にして武術の達人たるジークムントをして赤毛の女王こそ「心眼」の使い手だと誤解せしめた程である。そしてその誤解は、今もって解けていない。
そうしてヴィルヘルミネに踏まれたり蹴られたりした結果、ジークムントは妙な趣味に開眼した。赤毛の女帝に顔を踏まれた彼は、心が震えたのだ。つまりジークムントは、どちらかと言えばマゾヒストだったのである。
「あれは気持ち良かっ――ではなく……いいえ、言い訳するつもりなど毛頭ありませんよぅ、陛下。ただね、昨日の敵は今日の友。でなくとも我がプロイシェと貴国が手を組めばこそ、強大な敵に対抗し得るのではないかと思いましてね」
紅く形の良いヴィルヘルミネの眉が、ピクリと動く。
政治的に正しいと思われることを言われ、反論に窮していた。そういえば宰相たるヘルムート=シュレーダーも、プロイシェとの同盟こそ肝だと言っていた気がする。
所詮は見栄えだけのポンコツ女帝としては、だから反論に窮し、挙句の果てが――
「えーと、えーと、問題はそこではない気がするのじゃが、じゃが?」
――と怒りの本質さえ忘れかける始末であった。
だが紅玉の瞳を僅かに細めた様を見て、そこに政治的駆け引きを感じ取った者もいた。いやむしろ、大半の者が女帝の仕草に政治的意図を感じている。
つまり部下たちは交渉を、より有利にせねばならぬ――と考えたのだ。
「とはいえ昨日の友をあっさり見捨てた相手では、信用するに足らぬと思うのだがな」
まず、そう言って女王とジークムントの間に入ったのは、ブルネットも美しいエミーリア=フォン=ザルツァであった。彼女も女王が女帝になるのと同時に、陸軍元帥に叙せられている。
そして彼女はプロイシェという国家に利用され、あっさりと梯子を外された過去を忘れてはいないのだ。彼女もまた、相手がイケメンと云えども恨み骨髄なのである。ゆえにこれを貸しとして、「同盟を望むなら、まずは傅け」―とジークムントに言っている。
一方でジークムントにしてみれば、ヴィルヘルミネに敵対した過去を持ちながら、堂々と元帥杖を手にしたエミーリアの神経を疑ってしまう。
むろん、この人事自体が地域に対する融和政策なのだろう。ヴィルヘルミネが彼女を元帥に推すことは理解できる。しかしそれ故にこそ、エミーリアは辞退すべきだったと思うのだ。
だからジークムントの言葉にも自ずと棘が生じる。少なくとも「貴様に言われる筋合いではない」ということだ。
「おお、これはエミーリア殿。輝かしい戦果に恵まれずとも、帝国元帥の栄誉を得られるとは何より。まずはお祝いの言葉を述べさせて頂きますが、しかしまぁ羨ましい限りですねぇ」
「裏切り者がいなくなったのでな、二度と敗者にならずに済んでいるというわけだ」
「というより、女帝陛下の傘の下、ぬくぬくと生きておられるだけなのでは? フッフー」
「それは――私が無能だとでも言いたいのか!?」
「まさか、まさか。ただ、昔と比べ、ずいぶん丸くなられたのだなぁと――それだけですよぉ」
「貴様ッ!?」
「貴様――とは、いくら元帥閣下でも酷い、流石に無礼でしょう。私はこれでも田舎貴族などとは違い、由緒正しき王族なのですがねぇ?」
バチバチと険悪な視線を交わし合う二人の間に、白髪の老将ロッソウが割って入る。
「いやいやいや、ジークムント殿! わざわざ来て頂き、感謝に堪えませぬぞ!」
豪放磊落な声だった。
ロッソウとてジークムントには煮え湯を飲まされている。それでも険悪な二人の間に入るのは、国家の方針がプロイシェとの同盟に傾いているからだ。つまり彼は有利不利に囚われて、物事の本質を見誤ってはいけないと言っている。
エミーリアとて現状は理解していた。海を挟んでウェルズ――陸続きにキーエフ帝国と戦争を再開するのなら、プロイシェとは何としても確固たる同盟が必要なのだ。
それに肩幅の広いロッソウに割り込まれると、もはやエミーリアからジークムントの姿を見ることは出来なかった。老将の背中が、抑えろと言っている。そんな気がして、彼女は口を噤んだ。
エミーリアは握り込んだ拳を震わせつつも、ヴィルヘルミネに礼をして自らの立ち位置へと去っていく。
ジークムントは老将に視線を向けて、申し訳なさそうに一礼をした。
彼とて感情のまま、エミーリアと揉めて良いわけがない。女帝の前で礼を失すれば、それこそ同盟どころではなくなるのだ。プロイシェにとっても連邦王国改め連邦帝国との同盟は必須なのだから、ロッソウの仲裁は有難かった。
「ああ、これはロッソウ元帥。以前はご無礼を――その、傷はもう――……?」
「お気に召さるな、ジークムント殿下。あれは戦場の事ゆえ、気にしておりませぬぞ。ハハハハ」
ロッソウの老いてなお気迫に満ちた声に、軟体王子は思わず微笑んだ。これほどの将に心酔されるヴィルヘルミネという人物に、改めて興味を抱かざるを得なかった。
そこにツイと進み出て、妖艶な芳香を振りまく人物がいる。いつからかジークムントの脇に立っていた女性が、ふわりと長い髪をかき上げたのだ。
彼女としてはジークムントが珍しくも、「気圧された」と感じたのだ。であれば対等の同盟関係は成り立たない。だから巻き返しを図る為に、自らを前面に出したのである。
「気にせぬと申されるのなら良いでしょう。こちらとて、あの戦いではグロースクロイツ大公を失いましたからね……痛み分けというものです。クフフ」
女は黒髪緑目で、妖艶ながらも陰気な声だった。だからこそヴィルヘルミネは彼女の美貌に目を止めて、知らず生唾を飲んでいた。
「そなた、名は何と申す?」
紅玉の瞳を怪しく煌めかせ、薄笑みを浮かべて問う女帝は威厳と威圧感に満ちている。天性の怖い顔は健在であった。
対する黒髪緑目の女は唇の両端を吊り上げ、悠然として答えた。どころかヴィルヘルミネを見下さんばかりの表情である。
「――ブリュンヒルデ=フォン=バフェットと申します、女帝陛下。以後、お見知りおきを」
プロイシェの軍服に身を固める彼女は、ヴィルヘルミネと同質とも云える悪役令嬢顔だった。実際、伯爵令嬢でもある。だから元はといえば公爵令嬢である赤毛の女帝は、奇妙なシンパシーを感じていた。
「で、あるか。卿にはどうも、余に近しい何かを感じるのぅ」
「近しい何か――と申されますと?」
「人としての本質――じゃ」
ヴィルヘルミネの言葉にバフェットは、ドキリとした。権謀術数を極め、のし上がってやろうという野心が彼女にはある。それを見透かされているかのような物言いに、知らず目が泳いでしまった。
「まさか――恐れ多いことかと」
「フフ、フハハ。そうかのう?」
ヴィルヘルミネはそんなバフェットの仕草を見て、「ほうら、やっぱり」と思っていた。「だって悪人顔なのに気弱だもん」ってな感じである。自分のせいで気弱にさせたとは露ほども思わず、女帝はご満悦だった。これは良い友達が出来そうだとか思っているので、タチが悪い。
「余と卿が同質の者である証拠として、余は卿の考えが手に取るように分かるのじゃぞ。例えば卿がジークムント殿の側にいる理由じゃが――……言い当ててやろうかのぅ? フハハ」
楽しくなっちゃった女帝は、口がいつもより軽い。そしてさらに軽い脳みそで考えることなど、所詮はこの程度のことであった。
――ジークムントがイケメンだからじゃろ! そうじゃろ! 決まっとるじゃろ!
と、言おうとしていただけだった。
しかし自身の本質を突かれる可能性を感じたバフェットは、女帝の言葉を冷汗交じりに止めることしか出来なかった。
「そ、そのような、お――……お戯れを仰られては困ります、陛下。私がジークムント殿下の下にいる理由はただ、国家の為であり、任務であるからで……他に理由など」
「そのような上っ面で本質を隠すな、バフェットよ。卿の顔を見れば分かるぞ、余と同じじゃとな。つまり我らの生きる意味は――……」
そう、ヴィルヘルミネはイケメンやイケオジ、或いは美女や美少女が大好きだ。彼女の存在意義と宿命は、そんな美貌の紳士淑女を木の陰から覗くことである。「余、その為に生きてる!」と信じているのだから、嘘はまったく言っていない。
しかしバフェットは女帝の言葉を全く違って捉えていた。だからこそ女帝にその先を言わせてはならないと考え、迂闊な同意を示してしまったのである。
「――陛下の仰る通りと存じます。しかしだからこそ、余人には我らの考えが分かりにくいのです。世界には愚か者が多すぎて、だから私たちは常に苦労をするのでしょう」
彼女は本質的に現実的な合理主義者であった。だからヴィルヘルミネも同様であり、旧態依然とした封建主義を壊そうとしているのだろう――と考えたのだ。
だがバフェット自身の考えが露見するということは、すなわちプロイシェの王権に対する裏切りということになる。その点をジークムントがどう考えるか――これはバフェットにとって賭けだった。最悪でも女帝の知遇が得られるのなら、プロイシェで立場を失おうとも構わない――と。
ヴィルヘルミネは口元を悪そうに綻ばせ、やや吊り上がった目を細めながら笑っている。我が意を得たり――という顔だ。実際は何一つ嚙み合っていないのだが、そんなこととは露ほども思わない。
「バフェット――いや、ブリュンヒルデよ。卿も世の常識にこそ、不満を感じるか」
頬の横に人差し指を置き、クツクツと肩を震わせ笑う女帝。もはや親友扱いなのか、呼び捨てである。
だがバフェットは女帝から、世界の封建主義の破壊者たらんとする気概さえ感じていた。
「ええ、はい、陛下。感じます――……感じますとも、陛下。だからこそ今、私はここにいるのです」
バフェットは知らず、我が意を得たという気分であった。今まで心の内に秘めていた理想が、ようやく日の目を見た思いだ。
しかし。
ヴィルヘルミネは男同士の恋愛や女同士の恋愛が素直に認められる社会を作りたいだけのこと。政治信条や主義主張など、彼女には一切ない。ゆえにバフェット、一世一代の勘違いである。
「おやおやぁ? 我が参謀どのと女帝陛下は、殊のほか気が合うらしい。となれば話が早い――すなわち私と陛下も、目的を同じくするのだとお見受けいたしますが――……」
ヴィルヘルミネとバフェットが同時に視線を移した先は、軟体王子の薄く笑った口元だ。
バフェットは王子の真意をここに知り、まさに時代の動く足音を聞く思いであった。
けれど女帝は「なぁんだ、ジークムントもそういう趣味だったんだ。なら安心」と思っていた。
ジークムントとバフェットは、意思の疎通が出来ている。
だが一人、ヴィルヘルミネだけは違っていた。
けれど三者三様、声を立てて笑う。
結果――なぜか盟約は成っていた。
「で、あるか。フフ、フハハ、フハハハハ……ならばアレは事故じゃの」
「フフフッフー。だから、そう言っていたじゃあありませんかぁ」
「クフ、クフフフ、クフフフフフ……」
こうしてダランベル連邦帝国とプロイシェ――中でもジークムント王子派に属する面々は「世界に革新を」を合言葉として、より強固な同盟を結ぶこととなったのである。




