88 砂漠の王
メンフィス方面軍司令官となったピンクブロンドの髪色をした青年、エルウィン=フォン=デッケンは現在、エスケンデレイから八十キロほど南下した場所にある街、マール・テイマに本営を移していた。
ここもやはりアーシリア河沿いにあり、側には巨大な三角形のモニュメント――ピラミッドと呼ばれるものが幾つも点在している。
それらの側には人の顔、獅子の身体、そして鷹の翼を持つ動物の石像があった。かつての王家の墓と、その守護者たちである。
このような遺跡群に囲まれ、エルウィンはつくづく思ったものだ。
――まるで神話の世界にいるかのようだ。ああ、ヴィルヘルミネ様と、この幻想的な景色を見つめながらイチャイチャ……ではないぞ、僕ッ! 早くテペデレンリを片付けなければッ!
呑気とやる気の折中、あるいは情緒不安定とも云うだろう。
つまり彼がここに至る道は、決して平坦ではなかったということだ。
マール・テイマの街はメンフィス第二の都であり、エスケンデレイへの橋頭保と成り得る場所だ。となればいかに赤毛の女王による奴隷解放宣言により奴隷の一斉蜂起が起こったとて、テペデレンリも容易に手放したりはしない。
逆に言えばエスケンデレイに居座るダランベル軍にとり、マール・テイマに敵の軍団がいる状態は、喉元に短剣を当てられているも同然。
ゆえにヴィルヘルミネがメンフィスを去った後、エルウィンが最初に着手せねばならない仕事が、このマール・テイマ攻略だったのである。
エルウィンはエスケンデレイにイルハン=ユセフを守将として五千の兵力を残すと、残りの軍勢を率いてマール・テイマの攻略へ向かった。
全てが二流と云われるテペデレンリに対しても自らを過信する事なく、ほぼ同数の五万を率いたエルウィンは、それだけでも名将の器と云えるだろう。
火力に勝るダランベル軍であれば、二万で充分だと言うムスタファに対し、エルウィンはこのように答えている。
「敵を撃滅するという目的があるのに兵力を出し惜しめるほど、僕は己惚れていない」
ヴィルヘルミネに対し二倍の兵力を持ちながら敗れたムスタファとしては、ぜひともエルウィンに勝って欲しい。何なら半分以下の兵力で! と思っていた。
だってそれなら政戦両略の天才たるヴィルヘルミネに自分は倍の兵力で敗れたが、テペデレンリなど、その部下に対して倍の兵力を持ちながら敗れたことになるからだ。
すなわち、「俺様、テペデレンリには負けてない!」ということになる寸法だ。だから自惚れが服を着ただけのようなムスタファとしては、エルウィンの理性が恨めしかった。
「いやいや、司令官。あんたの才能は俺様に匹敵する。だからテペデレンリごとき、赤子の手を捻るようなモンですって!」
「テペデレンリが赤子のようだとしても、サマルカード軍は強いだろう。特に騎兵は強い。それはムスタファ、あなた自身が証明したことだ」
「い、いやぁ、そんなに褒めるなよォ、照れるじゃねぇか」
じっさい火力に勝るダランベル軍に対し、サマルカード軍は機動力に勝っていた。そのことを十分に承知しているエルウィンは、持てる最大の兵力を使うと心に決めていたのだ。
とはいえ軍勢が大きくなればなる程、行軍には苦労が伴った。
ましてやダランベル軍にしてみれば、初めてとなる砂漠の行軍だ。昼間に歩けば暑さにやられ、夜となれば寒く凍えて死にそうなのだ。
挙句の果てに兵卒にとって心の支えたる女王は既に去り、代わって全軍の総司令官は不敗と名高きトリスタン=ケッセルリンクでさえない有様。となれば兵たちの不満がエルウィンに向けられるのは必然である。
「あーあ、軍服は暑くてたまらんし水も足りねぇとかよ、デッケン将軍にも困ったもんだぜ」
「といって、夜の薪も節約しろってさ。俺たちに凍え死ねってのかね、桃色髪の坊やはよ」
「これなら猟犬ゾフィーが司令官の方が、よっぽどマジだ。あの人なら水なしでも、ズンズン進んで行きそうだしな、ハハハ!」
「寒さも感じなさそうだぜ、あのお人ならな、ハハハ!」
「ああ、なんてったって女王陛下の義妹君だからな! いざとなりゃ、きっと神のご加護があるんだろうぜ!」
「俺ぁ、鬼人ロッソウ様でもいいぜ。あの人なら、こんな時でも頼りになるはずさ」
「いやいや、オルトレップの親父でもいいだろう。あの人なら絶対、水が足りねぇなんて無様はさらさねぇよ」
「でもよ、髪の無ぇ頭が寒さでやられちまうかも知れねぇぞ? ハハハ!」
「何にせよだ、桃色髪の坊やが司令官じゃあダメさ……経験が足りねぇや。戦場じゃあ充分強くてもよ、なんか中途半端なんだよなぁ……」
「だな。これじゃ戦場に着く前に、みんな参っちまうぜ……」
エルウィンとてヴィルヘルミネ麾下の将軍として、相応の実績は積んでいる。むろん名将とまでは呼ばれなくとも、良将とならば自他ともに認める名声もあろう。
それでも――だ。
混成軍とも云えるダランベル連邦軍を率い未踏の地を往くことは、エルウィンをして荷の重い仕事だったのである。
昼の砂漠の暑さを知らなければ、皆が飲む水の分量など分からない。ましてや砂漠仕様などではない軍服を着せられて、兵たちに不満が出ないはずなどないのだった。
それでもエルウィンは九月から十月に掛けてマール・テイマを包囲すると、粘り強く砲撃を続けて街を陥落させている。
このときサマルカード軍の戦死者は八〇〇人、対するダランベル軍は五五〇人であった。華々しさに欠けるとはいえ、これも充分に勝利と云えるだろう。
もっとも、テペデレンリはあえてマール・テイマにエルウィンの軍団を引き付け、別動隊を北へ向かわせムスタファが率いていた敗残兵を吸収、再編成を図っていた。
そうした目的が達されたことにより、テペデレンリはマール・テイマを維持する必要が無くなったという理由も陥落の一助となったのだが……。
ともあれ今やメンフィスの人心は女王メディアの下、宗主国の軍隊たるダランベル軍を歓迎する向きもある。にも拘わらずエルウィンが戦線を拡大出来ず、どころかマール・テイマ以南へ進むことが出来ないこと自体、テペデレンリ=パシャの力の証左なのであろう。
「やれやれ。これではテペデレンリが二流なら、僕など三流ということになってしまうな」
だから勝利して、なお凹むエルウィン=フォン=デッケンであった。
その彼に最悪の知らせが齎されたのは、十一月も下旬のことである。
「カミーユ、君がわざわざ艦を降りての伝令役とは珍しい。何か特別なことでもあったのかな?」
ピンクブロンドの髪色をした青年は、黒髪の若き海将に微笑み掛けた。それは現状に対する忸怩たる思いを隠す為であり、一方で酷く硬い顔をしたカミーユに対する配慮でもある。
「我が艦隊が――……ウェルズ海軍に敗れました。旗艦は大破、ラメット代将は戦死――……伯母上も……クルーズ提督も行方不明です」
「なっ……ウェルズが、なぜ……?」
「恐らく、水面下でキーエフ帝国と繋がっていたのでしょう」
「馬鹿な。なんの冗談だ、カミーユ。は、ははは」
エルウィンは思わず乾いた笑い声を漏らしていた。
あのエリザ=ド=クルーズが負けるなど、信じられない――ましてや女王麾下の軍隊だ。それが海の藻屑と消えるなど、許される話ではないからだ。
とはいえ、翻って考えればあり得る話であった。
赤毛の女王は今や、ランスという大国を手中に収めたも同然だ。そのランスはウェルズと、端から犬猿の仲だった。でなくとも大陸の覇権をダランベルが握ろうというのなら、これを阻止せんとウェルズがキーエフと軍事的に手を結ぶことに不思議はない。加えてサマルカードに対する利権も、ウェルズは多く持っていた。ならばむしろ、参戦することこそ当然と云うべきであろう。
それでエウロパの内海とも呼ぶべきティオキア海にあるキーエフやサマルカードの基地を、ウェルズ海軍が自由に使えるようになったのだ。
そもウェルズの戦略は常に制海権をとり、島国である本国に外敵を近づけないこと。であれば大陸を支配せんとするダランベルを警戒し、その海軍を撃滅せんとするのも当然である。
「だからか……!」
エルウィンは歯噛みした。
こうなれば、本国へ帰ることも援軍を望むことも出来はしない。
今、ここにある兵力が全てだ。
――いや、そもそも五万もの兵力がある。何よりメンフィスという国がある。
ピンクブロンドの髪の青年は、ふと祖国がフェルディナント公国であった頃のことを思い出した。
あの頃の状況の方が、今よりも悪かった。
赤毛の公爵令嬢は十歳にも満たず五万の兵さえなく、周りは強国ばかりだったのだ。
それでもヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントは道を切り開いてきた。それが今や女王となり、遠からず帝位にさえ上るのであろう。
――僕は昔から、王になりたかったんだ。けれどヴィルヘルミネ様への忠誠が、その夢を邪魔していると思い込んでいたのかもしれない。けれど、あの方が皇帝になるのなら、僕が王を目指しても何らおかしな話ではないだろう。
――いや、王にくらいならなければ、女帝とは釣り合いが取れないか。
「ハハ、ハハハハハ!」
――だから僕は、中途半端だったんだ。
「デ、デッケン少将?」
いきなり笑い始めたエルウィンに、カミーユは怒りの眼差しを向けた。報告はまだ終わっていない。エスケンデレイにもウェルズの陸戦隊が攻め入り、今やイルハン=ユセフが必死の防戦を行っている。その援軍要請とてまだなのだ。
何より一体全体、何処に笑うところがあるというのか。
「いや、すまない。僕はここで腹を決めなくては――と思ってね。きっとエスケンデレイでイルハン=ユセフが苦戦しているのだろう?」
「は、はい」
「敵は、ウェルズの陸戦隊だね?」
「はい」
「ライナー師団を派遣しよう。それからカミーユ=ド=クルーズ。君はビュゾー代将に協力して、急ぎ艦隊の再編を図ってくれ」
「承知いたしました。しかし……艦隊の再編と言いましても、本国との連絡が取れない状況では……増援も補給も望めませんが……」
「なに、本国は遠くとも、ここは独立国にしてダランベルの同盟国、メンフィスさ。国力でいえばダランベル連邦にも匹敵する。だから大丈夫、エスケンデレイさえ守り切れば、メンフィスが僕らを下支えするはずだ」
「しかし再建がなっても、クルーズ提督が……」
「クルーズ提督なら、きっと無事さ。一度の敗北は一度の勝利で贖えばいい」
「それまでの間、メンフィスに残された陸軍が本国へ帰ることは叶いませんが……」
「それが、どうしたというのだ? 海路が無理なら僕は――いや、私はこれよりサマルカードへ攻め入り、これを征服する。しかる後に北へ進みキーエフを蹂躙し、陸から堂々と本国へ凱旋するだけのことだ」
夜空色の瞳に力を込めて、エルウィンは言い切った。
この程度のことが出来なくて、どうして赤毛の女王の隣に立てるのだろう。
稀代の英雄程度になれなくて、女帝の夫になるなど望みようもないはずだ。
だからエルウィン=フォン=デッケンは、もう王になることを迷わない、と、心に固く誓うのだった。




