75 ルイーズの高笑い
前日の戦闘で全軍の二割近い損失を出し、総司令官さえ失ったキーエフ軍は朝から混乱の極みにあった。そのような中でも整然と隊列を保っているのはイシュトバーン率いるヴァレンシュタイン公国軍だけであり、彼らのみが唯一鉄壁とも思える防衛線を張っている。
けれどダランベル軍が攻勢に出ない理由は、やはり根本的な兵力の多寡にあった。なぜなら兵力を二割失ったところで、キーエフ軍はダランベル連邦軍に比べ未だ二倍以上の兵力を持っている。加えてオイゼビウスの後継たる司令官の力量が不明である以上、トリスタン=ケッセルリンクは慎重に行動すべきだと考えたのだ。
「参謀総長、このまま一気呵成に攻めるべきであろうッ! でなくば我ら一同、女王陛下より臆病者と蔑まれることになろうぞッ!」
本営における会議の席で、朝から声を荒らげ主張したのはロッソウであった。前日、敵の主将を倒した立役者だけに気勢を上げている。
それに本営天幕に集まった幹部たちも三倍の敵を打ち破った興奮から、いまだ冷めやらぬ様子だ。ロッソウの意見に「そうだ、そうだ!」と大きく頷いていた。
なにより女王ヴィルヘルミネを軍神と勘違いしている一同だ。彼女に蔑まれるぞと脅されては、賛同せずにはいられない。
けれどそんな中にも腕組みをして一人、唇の端を皮肉気に持ち上げている人物がいた。リヒベルグだ。とはいえ、彼も女王が隔世の臆病者であるという本質は知らない。ただ単に現実を見通し、状況を冷静に分析しただけである。
「クック……一気呵成に攻めるというが、ヴァレンシュタイン公国軍の陣営を見てみるがよい。あの鉄壁とも思える防衛線を突破せねば、敵の本営など突けないのだぞ。
昨日の勝利を今日の敗北で上書きしたくなくばだ、ロッソウ殿――……ここは大人しく参謀総長の作戦に従われるが良かろう」
「むぅ……ワシは誰にも負けぬのじゃが、しかしまあ一理あるかのう」
陸軍卿たるリヒベルグに窘められては、流石のロッソウも黙るしかない。さらにエミーリアも女王の腹心として彼女の心を代弁すべく、形の良い唇を動かした。
「ともあれルイーズ殿の救出こそ、女王陛下の勅命です。ましてやヴァレンシュタイン公国軍を取り込もうというのならば勝敗はともかくとして、彼らに損害が出る可能性のある攻撃は控えるべきでしょう」
「つまりは参謀総長の作戦案にエミーリア殿も賛成、ということだな」
オルトレップが禿頭を左手でペシペシと叩きながら、小さく頷いてる。
というより昨日オイゼビウスが最後に残した「輪廻の極意」という言葉が頭から離れず、ずっと禿げ頭をペシペシと叩き考え込んでいる――という状況であった。
「まあ、そういうことなら参謀総長の作戦のままでよかろう。ところでな――……昨日倒した敵の司令官が、プロイシェの王子と同じ技を使っておっての。なんとも気になることを言うておった。『死は終わりではない』『輪廻の極意』がどうの、なんてのォ……ちと気味が悪くて、引っかかっておるのじゃが」
ロッソウもオルトレップと同じく、一応は輪廻について考えていたらしい。斜め上を見ながら、口髭に手を当て嘯いている。
「輪廻については情報部が調査を担当している。というのも、プロイシェ王国においてジークムント王子が急速に力を増していてな。
本流から外れた第六王子に過ぎない彼のどこに大勢の部下を養う資金力があるのかと、その辺りを宰相閣下が気にされたからこそ調べたのだが……」
トリスタンに視線を送られたリヒベルグは、肩を竦めて言った。
「『輪廻』とは東洋思想の一つでな、その名を冠した秘密結社もある。まあ、表向きは大商人たちの相互扶助が目的ということだが、実態は陰謀好きな老人たちの集まりさ。となればオイゼビウスにせよジークムントにせよ、そうした連中との繋がりがある、ということだろうよ」
「――……とどのつまり、だ。どちらがどちらを利用しているにせよ、大陸の秩序に好ましい影響を与えることはないと――宰相閣下は申されていた。私も同感だ」
リヒベルグに頷き、トリスタンが皆を見回して言う。
「であれば、いずれ彼らとぶつかるは必定か。にしても、極意とはいったい――……」
オルトレップは再び禿頭に手を当てながら、極太の眉根を寄せるのであった。
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九月も半ばに入り、世界の情勢は変わりつつあった。
帝都リエンツにおいてジーメンスに救出されたルイーズは、聖都カメリアに入り新教皇に皇帝の極悪非道な所業を訴え断罪した。
当然ながら新教皇のルクレール一世は、親ヴィルヘルミネの急先鋒。ましてや歴史ある聖都カメリアを捨て、バルトラインへ赴こうという程の人物だ。したがって大々的にキーエフ皇帝を非難し、ヴィルヘルミネの英断を褒め称える声明を発表した。
「あーっはっはっはっは! これでヴィルヘルミネのあんぽんたんにも、少しは借りを返せたのじゃありませんこと? ね、ジーメンス准将!」
「あ、いや、ルイーズ様。ヴィルヘルミネ様をあんぽんたんと呼ばれるのは少々、その――ボクとしてはどうかと……」
「あによ! あんなのちょっと女王になったからって、赤毛のあんぽんたんには違いないのよ!」
こうしてルイーズは肩で風を切りながら海路でニームへ入り、一路北上してダランベルの王都バルトラインへ向かったのである。
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ルイーズがダランベル連邦軍の西部戦線に到着する頃、キーエフ皇帝ヨーゼフの下には新教皇より一通の書状が届いた。
「……破門? 余が破門だと? 地上における神の代理人たる神聖キーエフ帝国の皇帝たる余が――神の代弁者に過ぎぬ教皇に破門されるだとッ!?」
荘厳な宮殿の一角に、不協和音をかき鳴らされたピアノの悲鳴が響き渡る。女官たちは「ヒッ」と首を竦め、速足で廊下の隅へ駆け去った。一人、皇室直属の執事たるセバスティアンのみが皇帝の傍に控えている。
「それもこれも、セバスティアン――貴様が無能だからだろうッ! 何故、あの小娘に逃げられたのかッ!?」
立ち上がるなりおもむろに皇帝は、老執事の頬を殴りつけた。
執事は唇の端から零れる血を拭うこともなく、静かに頭を垂れている。
「何故だッ! 暗部は世界最強の特殊部隊では無かったのかッ!?」
肩で息をしながら、皇帝は吠えた。今や彼はヴァレンシュタインを死に追いやり、少女を人質にした卑劣漢だと各国の新聞に書きたてられている。しかも教会から破門されたとなれば、もはや見える未来は精々が退位して身の安全を図ることくらいであった。
「ダランベル軍の特殊部隊――鋼鉄の薔薇に、してやられました」
頭を垂れつつ、セバスティアンは静かに言う。
薔薇を左胸に差した伊達男、未だ少年のあどけなさを残す敵の顔を思い出した。その強さには、苦笑さえ禁じ得ない。
あのような人材を傍に置き、友人たるルイーズを助けんとしたヴィルヘルミネこそ皇帝の器なのであろう。少なくとも目の前の男よりは、はるかに――……。
「し、してやられた、だと? それで済むのかッ! これからどうするのだッ! 余にどうしろと……まさか、本当に退位せねばならんのかッ!?」
セバスティアンは視線を持ち上げ、窓から差し込む紅色の陽光を見た。皇帝が己の保身のみを考えているのなら、いよいよ帝国の落日は近いだろう。だから彼は目を細めつつ、長い溜息を吐く。
「ふー……。陛下がご自身の立場を守りたいのであれば、ただ一つ――……すべてを知らぬ、存ぜぬで通されませ。それしか、ありませぬ」
「う、うむ」
「それから、我が方でも新教皇を擁立なさるが良いでしょう」
「なに? そのようなことをしては、教会が分裂するのではないか?」
「すでに十分、分裂いたしております。どころか、このままではダランベルに全てを奪われますぞ」
「ならん、それはならんぞッ!」
こうしてキーエフ帝国は国内の教会勢力を再編し、皇帝の醜聞に対して絶対的な情報統制を敷いた。とはいえ国際的には孤立化が進む古の大帝国は、いよいよ凋落への道を辿り始めたのである。




