70 宮中潜入
エウロパ大陸中央部、ランスとダランベル連邦の国境地帯においてダランベル、キーエフ、両軍が対峙し、すでに五日が過ぎている。両軍の兵士たちは双方ともに緊張した表情を浮かべ、首筋を伝う汗をぬぐっていた。たとえ山間部でも八月の下旬とあっては、茹だるような暑さが続いているからだ。
いや――例年通りであれば、これほどの暑さにはなるまい。これはここ数年、冬は寒く夏は暑いという異常気象が続いているせいだ。為に農作物の収穫量も激減しており、大陸全土に戦乱を齎す火種となっていた。
むろん現在における両軍の対峙も遠因を辿れば、異常気象に行き当たる。けれど末端の兵士たちにとっては、どうでもよいことなのであった。
ともあれダランベル連邦の西部戦線に何ら進展がないままである以上、ヴィルヘルミネの帰国は大事をとって先延ばしにせざるを得ない。陸路であれ海路であれ、帝国軍と反目したままでは道中に危険が大きすぎるからだ。
そのような状況下において女王が計画した、ジーメンス主導によるルイーズ=フォン=ヴァレンシュタインの救出作戦は始まった。
後世、多くの歴史学者は今回の件をヴィルヘルミネの深謀遠慮だと評している。なぜなら自らはサマルカード軍と対峙しているにも関わらず、遠く離れたキーエフ軍を分裂させようとした策だと思われているからだ。
確かにヴァレンシュタイン公国軍にしてみれば、ルイーズさえ解放されればいつまでも帝国に従ってはいない。当然ながらイシュトバーン率いる三万の軍勢は帝国側から離脱するだろう。どころかルイーズを救出したのがダランベル側だと理解すれば、彼らに全力で味方をするはずだ。
とはいえ――そうした計算に基づいてヴィルヘルミネがルイーズを救出しようと考えた訳ではない。単に子供の頃からの腐れ縁、ルイーズにここで死なれちゃ寝覚めが悪い。だからジーメンス、ちょっとアンタ、行っておいでよ! てなノリである。
とまあこんな感じで現実の彼女はささやかな善意に基づく、相変わらずのポンコツ女王なのであった。
しかしながら彼女の優秀な臣下たちは、その意図を全員がはき違えている。後世の歴史家たちよろしく、赤毛の女王はルイーズを救出し帝国を分裂に導こうとしているのだと考えて、誰もが八面六臂の大活躍をしてしまうのだ。
現にジーメンスの立てた計画は完璧で、彼は十日前から帝都リエンツにある皇宮に執事見習いとして潜入することにも成功しているのだった。
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皇宮に入ったジーメンスは昼間の時間を執事見習いとして過ごし、夜は密偵として活動をした。もとより鋼鉄の薔薇連隊の厳しい訓練に耐え抜き強靭な肉体を手にした彼のこと、一週間程度ならば眠らなくても問題なく活動が出来るのだ。
そうして四日目の夜――ジーメンスはついに朱色髪の令嬢を見つけ、すぐにも彼女付きの侍女を買収して接近を図ったのである。
買収といえば基本は金銭によるものであろうが、今回の場合に限ってはジーメンスの美貌が役立っていた。彼のスラリとした長身と黒い執事服の胸元を飾る一輪の赤い薔薇により、地方から出てきたばかりの田舎娘であるルイーズ付きの侍女は容易く篭絡されたのだ。
「ああ、ボクはボクの美貌が恨めしい……神よ、ボクの罪を許したまえ」
などと髪をかき上げ嘯くジーメンスではあったが、彼の自慢たらしい懺悔を聞くものは誰もいなかった。きっと神様も天界で頭を左右に振っていることだろう。
ともあれ篭絡した侍女の手引きにより深夜、ルイーズの部屋に潜入を果たしたジーメンスは早速に計画を打ち明けた。
「とまあ、そんなわけで脱出の手筈は整っているわけですよ、公爵令嬢」
「――……ふうん、あのミーネがわたくしを助けるというの? 一体何のために?」
「古いお友達であるから、と」
白いネグリジェ姿のルイーズは、天蓋付きの大きなベッドに腰かけ目の前で跪くジーメンスを見下ろしている。
「それだけで今や女王の立場にあるあの子が、父上を失ったわたくしを助けるとは思えないわ。きっと何か裏があるのでしょう?」
ルイーズの問いかけに、ジーメンスは暫し悩んで顔を上げた。ここで無駄に時間を費やせば、それだけ救出の可能性が減る。
そうでなくとも彼女が逃げたいという意思を持たなければ、強引に宮殿から連れ出すことなど不可能なのだ。だからジーメンスは己の予測に基づくヴィルヘルミネの怜悧な計算を披露した。
「現在、我がダランベル連邦王国にはオイゼビウス麾下の帝国軍十五万が迫っています。その中にはヴァレンシュタイン公国軍三万が含まれている状況。ですからルイーズ様、あなたが皇宮を離れて下されば、彼らが帝国軍を去る可能性があるのです」
「ああ、そういうこと。フフ、ウフフ――……本当にミーネはヴァレンシュタイン公国軍三万が、帝国軍を離れれば満足なのかしら? 親友であるこのわたくしに、もっともっと望むことがあるのではなくて?」
窓から差し込む僅かな月明りを背に、ルイーズが凶悪な笑みを見せている。それは父を奪った帝国に対する憎しみと、一方で父の力になれなかった自分への憎しみを表す凄惨なものだ。
けれど不思議とルイーズの美しさは少しも損なわれておらず、どころか目の下にできた黒い隈さえ妖艶さを醸し出している。
だからジーメンスは珍しく、喉を鳴らして唾を飲んだ。ヴィルヘルミネ以外の女性に、思わず心臓が高鳴った。
「いや、その――……望むこと、と申しますと?」
「ミーネはわたくしに味方をしろと、そういうことが言いたいのよ。ともに帝国を叩き潰せと、力を貸せと言いたいのでしょう。アハ、アハハハハ……だってわたくしとミーネは親友で、ヴァレンシュタインとフェルディナントは絶対的な同盟国なのですもの!」
「……そ、その通りかと存じます」
「よろしい、ジーメンス将軍。そうと決まればこんな黴臭い宮殿、さっさとお暇させて頂きましょう。さ、行きますわよッ!」
「御意。手筈は万事整っておりますれば明後日、新月の日に決行を――……」
思わずジーメンスは深々と頭を垂れ、臣下のようにルイーズに接していた。
けれど彼女の気持ちは脱出に固まったのだから、結果良ければ全て良し。そう考えてジーメンスは再び闇に紛れ、侍女と逢引の体で宮殿の中庭へと姿を消すのだった。




