65 黄昏の帝国
ヴィルヘルミネによるメンフィスの奴隷解放と独立運動に激怒したのは、当然の如くキーエフ帝国皇帝ヨーゼフであった。
皇帝はただでさえ妹と義弟――即ちランス国王夫妻を平民に殺され、腸が煮えくり返っていたところ。奴隷を解放して平民を増やそうなどと、ヴィルヘルミネの行動が正気の沙汰とは思えなかった。
「――とはいえ、あの赤毛の小娘をメンフィスへ追いやったのは、他ならぬ陛下の策。虎は檻に入れて飼うが上策であるのに、あれでは好んで野に放ったようなもの。同情の余地はありませんな」
「いや、まったく。そもそもランスに対し国軍の殆ど全てを動員するから、他が疎かになる。大国だからと胡坐をかいていられる程、今の世界情勢は甘く無い。それを陛下が認識されておられぬのなら、我が国も危うい、危うい……」
しかし帝国の重臣たちは、皇帝の判断を失策と断じている。どだいが怒りにかまけて、軍隊を動員したと思われていた。それも十五万の大軍だ。短期でランスを制圧出来れば「英断」と言われたかも知れないが、長期戦になり手薄となった植民地に敵国の侵攻を許したとなれば、もはや言い訳の余地は無い。
だから邪魔なヴィルヘルミネとサマルカードを嚙み合わせるべく策を巡らせてみれば、結局のところ事態はより複雑化しただけである。
となれば所詮は音楽にしか才能が無い皇帝だと、陰口を叩かれるのも当然であった。けれどヨーゼフは、本当にそれだけの無能な君主ではない。だからストレスばかりが溜まっていき、四十歳にならぬ身ながら総白髪になってしまったのである。
「そうか、重臣どもがな――……まあよい。余を無能と嘲りたければ、好きにさせておけ。けれど余が何の手も打たず、ヴィルヘルミネをメンフィスへ行かせる訳がなかろう」
皇帝ヨーゼフ六世も君主の嗜みとして、自らの感情を顔に表すことは少ない。だから今も大好きなピアノを前にして、侍従の報告を静かに聞いていた。
いや――侍従というのは名目で、白と黒の燕尾服に身を包む初老の紳士こそ、帝室であるランズベルク家を支える暗部の長、セバスティアンであった。
「さよう、確かにメンフィスは独立するかも知れませんが、一方でヴィルヘルミネが留守のダランベルならば、制圧するも容易きこと。かくて軍事の天才も、帰るべき家を失うという訳ですな」
「その通りだ、セバスティアン。ランスにいる十五万の大軍を使えば、ダランベル連邦など一飲みに出来よう。むしろ、あの目障りな赤毛の小娘を始末できると思えば植民地の一つや二つ、安いものだ」
口の端を吊り上げて、皇帝ヨーゼフが笑っている。
「では、ヴァレンシュタイン公には攻撃目標を変更するよう、直ちに使者を出しまする」
「ああ、そうしてくれ。ただし――……」
「公がそれを受け入れない時は、オイゼビウス侯に予て命じてあることを実行するように、と?」
「そうだ。そしてそのまま、侯に全軍の指揮を引き継がせよ」
「しかしランスの方は、如何なさるので?」
「妹は既に亡く、仇を討つだけであれば後でも構わぬ」
「御意――……ところで、ヴァレンシュタイン公のご息女は如何なさいますか?」
「適当に幽閉しておけ。父親に対しても麾下の軍隊に対しても、人質程度の価値はあるだろう」
暗部の長が姿を消すと、ヨーゼフは再びピアノソナタを弾き始めた。高い天井に澄んだ音色が木霊して、宮殿に住まう貴婦人たちが寄ってくる。
ある時からヨーゼフは激情が高まれば高まるほどに、艶めかしく怪しげなメロディーを弾くようになっていた。
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ヴァレンシュタインは軍を南、北、東と三つに分けて、ランスの国土を蹂躙していた。といっても組織的な抵抗は少なく、彼等もランスの民衆に危害を加えることはない。
だから地図の色を塗り替えるかの如く、街に翻る国旗が共和制ランスの三色旗からキーエフの黒と緑からなる二色旗に代わるだけのことだった。
「やれやれ。あと一歩で共和制ランスを瓦解させることが出来るという段になって、いまさら軍を返しダランベルを攻めろと――……陛下はそう仰っているのかね?」
ランスの南西にあるモンペリエ州を平らげ、政庁の一部屋を執務室としたヴァレンシュタインが目を瞬かせている。それからオールバックの朱色髪を撫でつけて、使者の男をまじまじと見た。
「はい。まずはダランベルを滅ぼし、返す刀でランスを瓦解させよ、とのことです」
新緑色の官服を着た男が、能面のような顔で言う。彼は帝国官僚でありながら、同時に帝室――ランズベルグ家の家臣でもあった。
だから部屋の隅に控えるオイゼビウス侯爵に目配せをして、必要とあらば予ての計画を実行するよう念を押している。
「何を馬鹿なことを。今、軍をダランベルへ向ければ、ランスは息を吹き返す。本国が思っているほど、共和主義者は少なくないのだ。というより帝国に支配されることを嫌う人々――とでも言えようか。
それに、オーギュスト=ランベールという名の手強い敵もいる。彼が万が一指導者にでもなれば、一体どう転ぶか分からんのだぞ」
「繰り返しますが、陛下のご命令はダランベル連邦王国を先に亡ぼせ、とのことです」
「だから、それでは効率が悪いと言っている。それでなくとも今まで何人の将兵が、ランスを平らげる為に戦死したと思っているのだ。ここで軍をダランベルへ向けるなど、将兵が納得しないだろう」
「つまりヴァレンシュタイン公は、ダランベル連邦を攻めたくないと仰るのですか?」
使者は疑問形で聞きながら、意味深に首を縦に振っていた。
「そうは言っておらん。だが今は時期では無いと――……」
ヴァレンシュタインが肩を竦めようとした時、左の首筋にスッ――と冷たい感触が走った。見れば鮮血が迸り、机の上に散らばる紙が赤々と染まっていく。
朱色髪の名将は首筋を抑え、次に掌を見た。痛みは余り感じない。けれど手には、べっとりと赤い血が付いていた。
「オイゼビウス――……そういう、ことか」
ヴァレンシュタインは琥珀色の瞳を副将に向けて、全てを悟ったのか苦笑した。
「私だって嫌なんですよ、こんなこと」
オイゼビウスは溜息を吐き、血に濡れた短刀を白い布で拭いている。
「殺気も無く、こうも容易く私を斬る――か。まったく、大した腕だ」
「あなたも大した腕前です、ヴァレンシュタイン公。だって、咄嗟に避けたでしょう? だからすぐに死ねないんですよ」
「……すぐに死んでは、困る。なぁ、教えてくれんか、オイゼビウス――……私が死んだあと、ルイーズは……どうなる? 殺さ……れ、る、のか?」
「確認したいのですか?」
「……ああ」
「私が嘘を吐いたら?」
「――……きっと卿は、嘘を言わん。私は、人を、見る目は――……確か、なんだ……」
「皮肉ですかね……まあいい、お答えしましょう。殺しませんよ。あなただって、刺客に襲われたことにします。つまりヴァレンシュタイン公爵家は安泰で、先々まで続きます」
「は、はは――……ルイーズが、良い、婿を迎え、て、くれれば……」
「それとて、陛下がご用意して下さるでしょうよ」
「……そりゃあ、有難い話――……だ、ま――……く」
椅子に座るヴァレンシュタインの腕が、だらりと落ちた。指先にはまだ、生暖かい血が滴っている。
オイゼビウスは何も語らなくなったヴァレンシュタインの両目をそっと閉じ、深い溜息を吐いている。嫌な仕事を引き受けたものだと、今更ながらに思うのだ。
揺るがぬ帝室への忠誠心をもってしても、ヴァレンシュタインを誅殺する意味が分からない。彼が仮にヴィルヘルミネと結んでいたとして、今なお国家の為にランス王国を追い詰めていたではないか。
「先に地獄で待っていて下さいよ、公爵――どうせ私も、遠からずそちらへ行くことになるでしょうからね」
不要となれば切り捨てる皇帝の薄情に、オイゼビウスは帝国の終わりの始まりを見る思いであった。




