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56 ムスタファ、悩む


「解放するだと? 俺様に祖国を裏切れというのかッ!?」


 ムスタファは眉間に皺を寄せ、下唇を噛んでいた。

 奴隷戦士マムルークとは、特殊な身分なのだ。確かに奴隷ではあるが、一方で軍事的権限は貴族にも勝る。また二十年に及ぶ軍役を終えれば功績に応じて平民、騎士階級、貴族と十分に出世も可能であった。


 であれば現在奴隷戦士(マムルーク)として相応に地位のあるムスタファとナセルにとって、今ここで解放されるメリットは少ない。ましてやムスタファは国王スルタンムハンマドに忠義を尽くしているし、ナセルはテペデレンリを尊敬しているのだ。開放など願い下げであった。


 むろん、そうした事情はエルウィンも承知の上だ。知らないのは赤毛の女王のみで、彼女は「ファ!?」と切れ長の目を微妙に丸くしていた。


「別に祖国を裏切れとは言っていない」


 目を細め、冷然とムスタファを見下しエルウィンが言う。


「だが解放されれば、もはや本国には戻れないッ!」

「……ムスタファ殿。貴殿は奴隷戦士マムルークだ。となれば奴隷となった経緯が、当然あるのだろう。それを一つ、教えてくれないか」

「なぜ、そのようなことを訊く?」


 ムスタファは声を低め、エルウィンを威圧するように言った。過去を語るのは好きではない。ましてや奴隷になった経緯など、思い出したくもないことだった。


 エルウィンは苦笑を浮かべ、先に自らの生い立ちを話すことにした。


「僕はフェルディナントにある、小さな男爵家に生まれた。出世しても、精々が連隊長止まりの帯剣貴族だ。父は既に連隊長職にあって、あとは引退するまで大過なく務めを果たすだけだった。つまらない人生さ。だから僕は、父と同じ道を辿るのが嫌だった」

「ふん、貴族のボンボンが。毎日のメシに困らねぇ身分を、つまらない人生だと? 俺様はな、そういう奴等に虐げられていたんだぜッ!」


 ムスタファは吐き捨てるように言った。

 エルウィンは頷き、「そうさ、貴族は弱者を虐げる。そうした日々にも、僕は飽き飽きしていたんだ」と苦笑した。

 ムスタファは舌打ちをしたが、「で?」と先も促している。


「そうして煩悶としながらランスの士官学校へ通っていたときのこと――ヴィルヘルミネ様が門閥貴族の連中を相手に事を構えたんだ。既得権益を持つ大貴族の大半が、彼等の盟主たるボートガンプ侯に味方をした。貴族の誰もがヴィルヘルミネ様に、勝ち目は無いと思っていた」

「それで?」

「僕は、そう思わなかった。ヴィルヘルミネ様が勝つと信じたし、それで世の中が変わると思った。ワクワクしたよ。ヴィルヘルミネ様こそ、弱者の味方だったからね。

 だから父を説得し、ヴィルヘルミネ様にお味方をした。もちろん味方をする貴族の数が少なければ、厚く遇して頂けるだろう――という打算もあったけれど、ね」

「……だから?」

「実際、父は厚遇されたよ。一介の連隊長に過ぎなかったものが、軍務大臣に抜擢されたんだから。今でいうところの陸軍大臣さ」

「ふん、それがどうした。結局は自慢話か? 所詮は貴族の力学だ。そんなものを俺様に聞かせて、一体何になる」

「けれど僕はヴィルヘルミネ様に――……平民の部下にされたんだ。点数が低いから、とね。ハハハ、あの時はショックだったよ」


 肩を竦めるエルウィンを見て、ヴィルヘルミネが「ムムム」と唸った。

 何じゃコイツ、トリスタンの部下にしたことを根に持っておるのか? と不満顔だ。イケメンとイケメンを、どーんとくっつけただけなのに。


「勘違いしないで欲しいのは、僕が不満を言っているのではないということだ。何が言いたいのかというと、ヴィルヘルミネ様にとっては――能力ちからだけが唯一の価値基準なのだということさ。

 つまりムスタファ殿。あなたに能力ちからがあるのなら、陛下は貴殿を必ずや厚く遇するだろうと言っている」

「で、ある」


 大きく頷く赤毛の女王は、能力ちからと書いてイケメンと読んでいた。

 

「それと俺様が過去を語る事と、どういう関係があるんだ?」

「わからないかい? 貴殿がサマルカード王のことを思い出し、なぜ奴隷として使役されているのかを語れば、自分自身の中でもヴィルヘルミネ様とサマルカード王の違いが、ハッキリと浮かび上がるはずだよ」

「……ふむ。違い、ねぇ」


 ムスタファは視線を下げると、鎖に繋がれた腕を見た。ヴィルヘルミネは褒められた嬉しさから、彼の手枷を取るようゾフィーに言った。

 ガチャリ――音がして手枷が外されるとムスタファは再び顔を上げ、女王の瞳を見つめて語り始めるのだった。


 ■■■■


「……俺様の父母はメンフィス生まれの、貧しい農民だった。メンフィスは知っての通り、キーエフの植民地だ。現地人であった両親は共に奴隷身分へと落とされ、厳しい暮らしを強いられていた。兄貴たちは早くに死に、姉貴は貴族に攫われたって話だ」

「残念じゃったの……」


 ムスタファの兄、姉ならばさぞや美しい顔だっただろう、そう思った女王は、自然お悔みの言葉を口にした。ムスタファは女王の意図を知らないから、そんなヴィルヘルミネに思わず苦笑している。


 ――なんとまぁ、俺様なんかに同情かよ。


「そんな時、サマルカードの先王ヤズィール様がメンフィスへ攻め込んだ。ヤズィール様は戦いに勝利なさってキーエフの貴族どもを殺し、両親と共に俺様をサマルカード本国へ連行した。まあ、奴隷も戦利品の一つだからな、当然だ」

「卿を見れば分かる。卿はメンフィスの宝じゃからの、じゃからの! まるで黒き真珠のような輝きを持っておる。であればヤズィール王も、もさぞや心から欲したのであろうの、の!」


 ヴィルヘルミネとしてはムスタファがイケメンだから、首を上下に動かしヤズィール王に大きく同意した。ムスタファはと言えば、こんな美少女に黒き真珠などと称えられ、思わず頬が上気している。

 

「ま、まあ、王の気持ちはともかく、だな。サマルカードには奴隷でも功績次第で平民にも貴族にもなれる、奴隷戦士マムルークという制度があった。だから俺様は志願し、サマルカードに忠義を尽くすことにしたのだ。もう二度と、あんな惨めな暮らしに戻らない為に……」


 言い切ると、ムスタファは幾分かスッキリした表情を浮かべた。現在の状況に満足している、とでも言いたげであった。


「――む、む? するとムスタファよ。お前は自分自身の為にのみ、戦っているということになるのでは?」


 コテン――赤毛の女王が首を横に傾げている。

 今聞いた限りでは、サマルカードから受けた恩らしい恩は出てきていない。むしろキーエフからサマルカードへ、奴隷として移動しただけだ。チャンスがある分だけサマルカードの方がマシ――という程度の話であった。


「だ、だから、今上陛下に取り立てて頂いた、それが俺様の受けた恩だ……それにあの方には、正義がある……はずだ」


 ムスタファが小声になるのは、それだけヴィルヘルミネに魅力を見出したということだ。なんとなれば、心が揺れている。


 ――俺様は、俺様だけの為に戦っていたのか? いや、そんなことは無いはずだ……。


「でも、奴隷制度に正義などあるのかの? だいいち、両親はどうしたのじゃ?」

「両親など、し、知らん。だがな、奴隷戦士マムルークには鉄の掟がある。戦士になれば皆、同じ宿舎で起居を共にするのだ。故に戦友こそが家族で、それ以外は他人となるッ!」

「ふぅん……では両親を奴隷身分から救い出したいとは、ぜんぜん全く思わんのか?」

「それは、思う。思うが仕方が無い――……それでもキーエフに支配されていた頃に比べれば、同じ奴隷とはいえ格段に待遇は良い。だからせめてメンフィスをキーエフより解放し、我らが保護国にしようとしていたのだ。俺様と同じ苦しみを味わう者が、少しでも減るようにと……」

「ふぅむ。皆の暮らしを良くしよう、ということじゃろか……?」


 ヴィルヘルミネの足りない頭では、ちょっとムスタファの気持ちが分からない。だから少しだけ自分なりに考えて、ちょっとした提案をした。


「では、こういうのはどうじゃ。余は、そもそも奴隷制度を好まぬ。ゆえに此度、メンフィスにいる奴隷の全てを解放しようと思っておったのじゃ。これが実現すれば、ムスタファよ――卿が如き者は二度と生まれぬと思うが、どうじゃ?」

「あ……な……それは、そうだが……」

「ならばムスタファ、ナセル、卿らを奴隷身分より解放するによって、余に仕えメンフィスの奴隷を解放する手伝いをせよ」


 異論反論の一切を許さぬ口調で、ヴィルヘルミネは言い切った。といって別に、口が達者だというのではない。何だかんだと理由を付けて、二人を自分のモノにしようと思っただけのこと。

 ムスタファは肩をプルプルと震わせて、次の言葉を発せない。否とも応とも言えぬ彼の心は今、千々に乱れているのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お疲れ様でした。 オスマン系の文化にある奴隷制度は、西欧文化の奴隷制度よりはましな扱いとはいえ「低く身分と安い労働力」という点では全く同じですからなぁ。 ムスタファにとってはミーネ様…
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