47 アーシリア河東岸の戦い 12
二十時三十分。地鳴りを響かせ始まったサマルカード軍の第二次総攻撃は、結局のところ空を切ったと言わざるを得ない。といって、篝火が煌々と焚かれたダランベル連邦軍の陣地に突入するまでは良かったのだ。
しかしそこでサマルカード軍が目にしたものは、人気の無い天幕群と空しく立ち上る炊烹の煙だけ。となれば勢い込んで乗り込んだ騎兵達は唖然とし、周囲をキョロキョロと見回すことしか出来なかったのである。
「敵は何処だ、何処に消えたッ!?」
「この短時間で撤退など出来るものかッ!」
「近くにいる、探せッ!」
騎兵の隊長たちは慌てて指示を出し、望遠鏡を覗き込む。しかし辺りは篝火に照らされて明るく、反して周囲は闇に閉ざされていた。であれば望遠鏡に映し出されるのは数メートル先の影ばかりで、敵の痕跡など何一つ見当たらない。
騎兵に続いた歩兵たちは思わず銃剣を降ろし、茫然と佇んでいる。騎兵でさえ見失った敵兵を、どうして歩兵に見つけられるものか。彼等はそこかしこに落ちている敵の携帯食料を見つけては摘み、口の中に放り込んでいた。
戦闘に向かった緊張感が一度破られれば、その弛緩は常にも勝るものである。そうした様を目にしてムスタファは、眉間に深い縦皺を刻んでいた。
――してやられた、ということか?
ちらと後ろを振り返れば、ナセルが「それ見た事か」と苦笑顔だ。しかし、これで済むなら儲けもの――とでも思っているのだろう。発する言葉は、ムスタファを讃えるものであった。
「どうあれ、あのヴィルヘルミネを撤退に追い込んだのです。これで閣下の力量は、世界に認められるものとなりましょう」
「……うむ」
頷きながらもムスタファは、さらに思考を巡らせる。
――撤退だと? 奴等が北へ撤退するのなら、我らが影すら見ないなど有り得ぬこと。南方へ進軍するにせよ同じであろう。とはいえ野営の設備を残している点を鑑みれば、慌てて撤退したと考えるのが、やはり妥当だが――……。
知将(自称)ムスタファのこと、「ウーム」と唸り馬上で顎髭を扱くこと数十秒――答えは容易に導き出せた。
「はっ、そうかッ! 敵は西へ逃げたのだ! これでは勝てぬと考えた奴等は河が浅い事を逆手にとり、そのままアーシリア河を渡ってエスケンデレイへと逃げる算段をしたに違いないッ!」
腰の双剣を抜き、こうと断じたからには自らが先頭に立ち敵を追う。
事実ダランベル連邦軍は西へ向かい川岸に集結を完了していたかのだから、ムスタファの考えはあながち外れたという訳でもないのだった。
■■■■
エルウィンの考案した作戦に従い無数の筏を作り、その上にサマルカード艦隊から鹵獲した砲を乗せたアンハイサーは、アーシリア河を挟んだ対岸からヴィルヘルミネの陣営へと向かっていた。夕暮れから夜に掛けての渡河であれば、海軍のラメット提督に協力も仰いでいる。
「多少は流されているがね、その辺は計算して上流から進んでいる。といっても河は専門外だから、誤差があっても恨まんでくれよ」
褐色肌で金髪、ギザギザ眉毛が特徴的なイケメンのラメット代将は、白い歯を見せニヤリと笑っていた。自ら筏の帆を操り、いかにも海の男といった様子である。
「そっスか……にしても、ううーん。この雰囲気、どうも出ないっスね。篝火が赤いっていうか暗いっていうか。うーん、うーん」
対するアンハイサーは大砲の横にちょこんと腰を下ろし、鳶色の瞳を対岸の篝火に向けていた。当然ながら手には絵筆を持ち、悠久の流れを誇るアーシリア河の中ほどから、敵が殺到するであろう陣営を描いている。絵の具の赤と黄色を混ぜながら、何かが物足りないと首を左右に捻っていた。
「ああ、それな――……もっと赤を混ぜれば良いんじゃねぇか?」
「その赤が足りねぇんスよ、使い過ぎちゃって」
「なんで、また」
「そんなの、ヴィルヘルミネ様を描いていたら、そうなるに決まってるじゃねぇっスか」
「ああ、それもそうか」
「でも今は、そういうことじゃねぇんスよ。素人が付け焼刃の知識で下らないアドバイスとか、いらねぇっスから――……」
「あ、そうか。そいつはすまねぇ」
ラメットは頷きながら、風向きを見る。部下に指示して帆の角度を僅かに変え、筏の群れを目的の位置へと油断なく導いていく。
「ところで、ラメット代将。その――……船乗りっていうのは風の色が見えるって聞いたんスけど」
「――ああ。見えるぜ」
「そういうのって、何色に見えるんスか?」
「ん、ああ、そうだな――……」
数日の間アンハイサーと行動を共にしたラメットだが、未だ彼女を攻略する糸口さえ見えない。当初は初心な少女かと思っていたが、小柄で童顔の割に今年二十七歳になるという。
確かに師団長という将軍職に、少女がなれるとは思わない。だがしかし女王麾下の将軍であれば、ゾフィー=ドロテアという例もある。だから二十歳そこそこと当たりも付けたのだが。
けれど二十七歳と聞けば、逆にラメットの心に火が付いた。自分としてもいい加減、港ごとに女がいるという生活には区切りを付けるべきなのだ。
というよりダランベル海軍の重鎮が、いつまでもフラフラと色んな港に顔を出せる筈も無い。だからアンハイサーに、あれやこれやとちょっかいを出してみたのである。
そうして絵が趣味なのかと知ったから、自分も多少は勉強してみたのだが。しかし詳しく知れば知る程、アンハイサーの技量が優れていることが分かるばかり。どころか有名な絵を何点も描いていて、むしろ画家こそ本職と言えるような存在だったのである。
「へえ、そうっスか。風が赤とか青とかに――……ふぅん。だからラメット代将も絵を描きたいと思ったんスかね? 良かったら少し、教えても良いっスよ」
「いや――……俺はアンハイサー少将、アンタに興味があるんだ。それで絵をやればと思って、だな」
「自分の絵に、興味があるっスか?」
「いや、アンタ自身にだ。まだ独身なんだろう?」
「あー、一応独身っスけど、自分――……婚約者がいるっスよ?」
「え、婚約者って……誰……?」
「ベーア=オルトレップって知らねぇっスか?」
ラメットはギョッとして後ずさり、思わず筏から落ちそうになった。
「それって元二刀――鉄腕オルトレップのことか?」
「そうっス、あのハゲっス。でも『ヴィルヘルミネ様がご結婚なさる前に、自分如きが結婚など出来ん』なんて言って――……だから、婚約なんスよ。これでも頑張って口説いたんスからね、ニシシシシシ!」
「あんな熊みたいなのの、ど、どこがいいんだ……?」
「え、そりゃあ……ごわごわした髯とか、つるつるの光る頭とか。義手だって大砲を付けたから、凄くカッコイイんスよ! ていうかあの人、基本的に可愛いじゃないっスか。ニシシ……」
珍しくはにかんだアンハイサーが、照れたように笑っている。クセのある栗色の髪が風に揺れて、とても可愛らしい。けれどこの瞬間ラメットは恋に破れ、ションボリと項垂れた。同時に彼の導く筏の群れは、目的の位置に到着したのだった。
「ア、アンハイサー少将。どうやら、所定の位置に着いたようだ。じゃ、俺はこの辺で――……」
何故かアンハイサーとは反対側の隅に行き、長身を丸めながら膝を抱えて座り込むラメット代将の姿に、兵達は涙と笑いを禁じ得なかったという。




