42 アーシリア河東岸の戦い 7
三月十四日の早朝、ヴィルヘルミネは人々が慌ただしく動く物音で目を覚ました。といって流石に女王の寝所で誰かが忙しなく働いている、ということではない。あくまでも天幕の外からだ。
しかしまだ外も暗い時分であれば、赤毛の女王は目を擦りながらも「何事じゃろう?」と首を傾げている。
「誰ぞ、ある」
「あ、ミーネ様。お目覚めになられましたか」
ニッコリ微笑み声を掛けてくれたのは、白衣に身を包んだ天使――ではなくレーナ=ゼーフェリンクであった。彼女は昨日からヴィルヘルミネの主治医として、ずっと付きっ切りで看病をしていたのだ。
お陰で睡眠もとっていないのだろう。若々しい輝きを湛える目の下に、薄っすらとした隈が覗いている。
「んむ……にゅ、レーナか。何やら外が騒がしいようじゃが、じゃが?」
「はい。未明から、移動の準備を初めているようです。といっても私は軍医ですから、詳しいことは知りません。隣の部屋に幕僚の方が控えていますから、お尋ねになっては如何でしょう」
レーナは薬湯を手早く準備し、サイドテーブルに置いた。ヴィルヘルミネは「苦そうじゃ……」と思うから、あえて目を逸らしつつ頷いている。
「で、あるか」
「ああっ、その口調! ミ、ミーネ様、記憶が戻ったのですね?」
「きおく? 記憶……む、む……?」
もぞもぞと寝台から降りて、頭をコテンと横に倒すヴィルヘルミネ。頭の周囲を回るクエスチョンマークが点滅するや、ついには一つの結論に至るのだった。
――あ、余、昨日は凄かったのぅ。敵を手玉に取ったのじゃ。
それから周囲に顔を巡らせて、ダランベル連邦軍元帥の軍服に目を止める。そこにミネルヴァの意思を感じとり、「ふぅ」と女王は静かに息を吐いていた。
何故ならヴィルヘルミネにとってミネルヴァとは、自身を守る為の精神的な鎧である。のみか能力を増幅させ、最強の矛にもなり得る存在だ。
といって自らがコントロール出来る訳でもなし、何なら彼女が表面に出ている間、ヴィルヘルミネはボンヤリと水中に漂っているような感覚となる。
なのに部下達は「流石は軍神」などと持て囃すから、それならヴィルヘルミネは一体何なのかと、少し悲しい気持ちになってしまうのだ。
「記憶と申しますのは、ですから――……」
そこで一端言葉を切って、レーナは女王の耳元に口を寄せた。
「今はミネルヴァではなく、ヴィルヘルミネ様なのでしょう?」
「で、ある。レーナは違いが分かるのじゃな」
「分かりますよ! こっちのミーネ様は、フワフワ可愛いミーネ様! で、あっちのミーネ様は完璧主義だけど、とっても優しいミーネ様ですからね!」
「ふむ……余がフワフワ? 可愛い?」
またもコテンと首を傾げたヴィルヘルミネは、レーナをまじまじと見た。
この数年でレーナは美少女から美女にクラスチェンジをして、いまや九十三点というハイスペックだ。そんな女性が侍医になるなど、女王にとってはご褒美である。
が、可愛いと言われるのは解せなかった。何故ならヴィルヘルミネは容姿に関してコンプレックスの塊であり、肥溜めの汚物としか自分のことを思っていない。
――なのにKAWAIIとは!?
一瞬だけ意識が遠のき桃源郷へ行きそうになった女王だが、しかし再び外の喧騒が耳朶を打つ。
ともあれ状況を確かめなければ、おちおち眠っていられない。敵が攻めてきたのなら、さっさと逃げ出さなければならないのだ。
仕方なくヴィルヘルミネは両手を上げて、「早く着替えさせて!」のポーズを取っていた。
「あ、はいはい、お着替えですね。侍女の方やゾフィー様ほど上手じゃありませんが――……我慢をして下さいね」
言うやレーナは元帥の制服をヴィルヘルミネに着せ、両手をパンパンと叩いていた。
「うわぁ、相変わらず似合いますね。こうなるとカッコイイっていうか、凛々しいっていう感じで」
――余がカッコよくて凛々しい!?
「ちょっと、何を言っているのか分からないのじゃが、じゃが?」
またも容姿を褒められて、脳内に混乱をきたし始めたヴィルヘルミネだ。しかし相手が女性であった為、ポンコツ心がホッコリするにとどまっている。
それよりも女王は、外の騒がしさを問い質そうと思っていた。その為に着替えも済ませたのだから、さっさと間仕切りの外へ出て幕僚に声を掛ける。
「誰ぞ、ある」
「あ……おはようございます、陛下」
「んむ、ジーメンスか。状況は、どうなっておる」
爽やかに微笑み敬礼を向けてきたジーメンスに、ヴィルヘルミネは軽く頷いた。イルハン=ユセフは無言で敬礼し、それからすぐに状況の説明をする。
「はっ、ゾフィー=ドロテア少将指揮下の第二近衛師団を先鋒とし、既に南下を開始しております。エルウィン卿の師団も移動の準備は既に整えており、我等も間もなく――ですから、陛下も急ぎ進発のご準備を」
「進発――……?」
赤毛の女王は「ぷぇ?」と一瞬だけ宙を睨んだが、作戦の詳細を思い出すことは出来なかった。
それでも頑張って記憶を辿っていけば、これもエルウィンの作戦の一環であろう――という気がする。
そして彼の作戦を円滑に進めようと、昨日ミネルヴァは頑張ったのだ。
であれば今のヴィルヘルミネに出来ることは、素直に進発の準備をすることだけ。
「んむ、分かったのじゃ」
そうして女王が大人しく大天幕の外へ出てみれば、やはり慌ただしく動く兵士達が陣営の撤去に勤しんでいる。
ならばとヴィルヘルミネも急ぎ馬上の人になってみれば、エルウィンより託されたと一通の文章を渡された。全軍が準備を終えたら読むようにと、これはいわゆる訓示のようである。
赤毛の女王はこれも作戦の一環であろうと考えて、一生懸命に丸暗記。準備が出来ると兵士達の前へ、馬に跨り進み出た。
ゆったりと馬を歩ませ、意味を考えずにしっかりと丸暗記した台詞をヴィルヘルミネが言う。
「我が忠勇なる兵士諸君よ、訊けッ! 余と余の軍隊には今日もまた、必然の勝利が齎されるであろう。勝利は栄光を齎し、皆を楽土へと導くものである。
楽土とは何かッ!? 万人が豊かに暮らせる平等な社会のことだ。それ即ち、余と余の軍隊が作り上げる、強大な国である。
故にこそ、余は皆に約束しよう――……我らがダランベルを、世界に冠たる帝国となすことをッ! お……?」
細く美しい眉を吊り上げ、ヴィルヘルミネは言い切った。文章を丸暗記して読むのは、今や君主としてお手のもの。どんな台詞であろうが、しっかり噛まずに言えちゃうのだ。
――だけどこれ、言っちゃあいけないヤツじゃろが!
何も考えずに言い切っちゃったヴィルヘルミネは馬上でオロオロ、オロオロ。「撤回、撤回、今の撤回!」と思うから、それでも口をパクパクと動かしている。
けれど彼女の決意(エルウィンの罠)を聞いた兵士たちは大歓声で女王の想いに応え(勘違い)、拳を高々と上げていた。だから撤回などと、どれほど女王が大きな声で言っても聞こえない。
「「「「オオオオオオオオオオオオオオオッ!」」」」
地鳴りのような雄叫びがダランベル陣営全体に響き渡るや、女王は諦めたように進軍を命じるのであった。




