37 アーシリア河東岸の戦い 2
ムスタファの罵詈雑言は参謀長ナセルの絶望を他所に、ダランベル連邦軍を見事に揺さぶっていた。
なんとなれば大天幕の中でヴィルヘルミネは顔を真っ赤に染め、プルプルと震えている。ギュッと握った両手を膝の上に置き、その手をゾフィーが握り締めていた。
――余、なんでこんなに褒められてるの!? お、お、お嫁さんて、お嫁さんて……これ、プロポーズされておるんじゃろかッ!?
お目眼がグルグルな女王は相手の顔を確認したくて、外へ出て望遠鏡を覗き込むことにした。すると馬上にあって堂々と叫ぶムスタファは色黒で長身、しかもエキゾチックなイケメンだったものだから――さあ大変。
「ぷぎゃー! 九十点!」
いきなり叫んで鼻血を噴き出し、ヴィルヘルミネは仰け反った。そのままヨロヨロとして倒れそうになったが、これを何とかゾフィーが支え、天幕内の居室へ連れ戻したのである。
だが女王は簡易の寝台に横たわると、俄かに意識を失ってしまった。
事態を重く見たゾフィーは即座に侍医団を呼びつけ、蒼氷色の瞳で彼等を睨み付けて言う。
「貴様ら――……毎日毎日ミーネ様を脈をとり熱を測っておきながら、この事態を予測し得ぬとはいかなることか。外へ出られた途端に鼻血を出して倒れるなど、容易ならざる事態と思えるが?」
「は、鼻血に関しては思春期であれば、男女ともに出やすいモノでして。意識を失われたのは、一時的な貧血によるものではないかと……」
初老の医師が言う。ヴィルヘルミネの首席侍医であった。彼の後ろには五人の医師がいて、皆がゾフィーに対し平身低頭している。
「確かか?」
「恐らくは……」
「恐らくだとッ!?」
「い、いやその――……まだ診察をしたわけではありませんので、確たることは何とも申し上げることが出来ぬと、そういう次第でして……」
「だったら、さっさと診察をしろッ! ハドラー殿なら駆け付け次第、すぐに診察なさっているぞ! だというのに貴様等ときたら、高い給金ばかり貰いおって、モノの役に立たぬこと甚だしいッ!」
「「「「「ヒィィィィ」」」」」
今や二刀の代名詞となった猟犬ゾフィーに睨まれて、肝の冷えない侍医などいない。ましてやこの状況で誤診などすれば、命の危険さえありそうだ。誰もが尻込みをして当然である。
そのような中で侍医団を掻き分け、慌てて前に進み出る者がいた。
「ミ、ミーネ様、ミーネッ! どうなされましたかッ!? どうしたのッ!?」
「き、貴様はただの軍医であろうッ! 下がっておれッ!」
主席侍医が青筋を立て、駆けこんできた若い女の軍医を叱責する。
「だって、ミーネ様が倒れるお姿を見たから――私、いてもたってもいられなくって!」
甲高い叫び声を上げながら、簡易の寝台に横たわる女王に縋りつく。彼女はレーナ=ゼーフェリンクという名の新米軍医で、今は従軍して研修中の身であった。
ただしハドラーの直弟子という立場上、研修中と云えども医官としては上位の中佐待遇だ。
「おい、貴様、無礼だぞッ! ここを何処と心得るッ!?」
体格に優れた侍医がレーナの肩を掴み、下がらせようとする。が、レーナは「触らないで!」と侍医の手を強気に払い退けた。それからすぐにヴィルヘルミネの脈をとり、瞳孔の開き具合、呼吸、心音などを確認する。
「構わん、そのまま診察を続けろ。頼りにならぬ侍医どもに、ハドラー殿の薫陶よろしき卿の腕を見せつけよ」
「はいッ! ありがとうございます、王妹殿下!」
「王妹と呼ぶな。わたしはただ――……ヴィルヘルミネ様の忠実な臣下に過ぎぬ」
ゾフィーはレーナの顔に見覚えがあったから、診察をさせることにした。というよりハドラーの直弟子であり、しかも女王を心底心配している素振りだから、この場で最も信頼できると判断したのだ。
「これは――ショック症状だわ」
「ショック……どういうことだ?」
「はい……ええとゾフィー様。詳しく説明すると、ですね――……」
レーナがショックについてゾフィーに説明すると、侍医たちは口々に「そのようなもの」と否定をする。代わりに首席侍医が女王の脈を取り、「安定しておられる」と太鼓判を押したから、「貧血」という診断に落ち着いていった。
レーナは侍医たちを睨み、さらに説明を付け加える。
「ヴィルヘルミネ様は三年前、崖から川に落ちたときに頭を強く打っています。その時は後遺症で一時的に記憶の混濁が見られました。
確かに貧血という可能性もあるでしょうが、このくらいの鼻血で貧血になるほど人の血液は少なくありません。その程度の事はハドラー先生の下で学べば、誰でも分かりますよ」
「な、な……!?」
主席侍医もハドラーの名を出されれば、分が悪い。なんとなれば彼こそ、ダランベル連邦王国における医療の総元締めなのだから。
「ともかく時間が経てばミーネ様が目を覚まされることは、間違いありません。ただ、ショック症状が出ていますから、記憶が混濁してしまう可能性があります」
「記憶が混濁したら、どうなるというのだ?」
「ご自身を別人だと思ってしまう、と考えて頂ければよろしいかと。この場合、侍医の皆様には打つ手が無いのでしょうが――私にはあります。ですからゾフィー様、今日のところは私に任せて頂けないでしょうか?」
レーナはヴィルヘルミネの枕もとに跪き、顔色を青くしたゾフィーに頼み込む。
「記憶の混濁――……ヴィルヘルミネ様は、だ、大丈夫なのだろうな?」
「大丈夫です、お任せください」
ゾフィーは侍医たちを見回して、頼りになるのはレーナしかいないと覚悟を決めた。
「わかった、レーナ殿、ヴィルヘルミネ様を宜しく頼む。あ、ええと、必要なものは遠慮なく言ってくれ。わたしに出来る事なら、何でもするから」
「大丈夫です、ゾフィー様。ミーネ様はきっと、もうしばらくすれば目を覚ますでしょう。その時、お好きな飲み物でも差し上げれば、差し当たっては十分です」
「そ、そうか、分かった」
■■■■
一時間後。
周りに心配を掛けながらも女王は、夢うつつの中で未だムスタファの罵詈雑言(ヴィルヘルミネには誉め言葉)を聞いていた。しかも脳内では妄想が無限の広がりを見せ、ヴィルヘルミネの心をバラ色に染めている。
――褐色肌のイケメンといえば、ユセフもじゃの。ああ、そうか――ユセフも大人になって髭を生やしたら、あんな風になるのじゃな。てことはユセフとムスタファのカップリング……デュフ、デュフフフ……アリじゃのう。
腐臭を放つボーイズラブな夢が、女王の口元に笑みを作っていた。
「――ほら、きっと楽しい夢を見ていらっしゃるのです」
ヴィルヘルミネの額に浮かぶ汗を拭いつつ、レーナが言う。
ゾフィーも女王の顔を覗き込み、「うむ」と頷いていた。
暫くしてムックリ起き出したヴィルヘルミネは何事も無かったかのように、ゾフィーとレーナを見て微笑んだ。普段の女王よりも柔和な笑みで、けれど瞳の奥には確かな知性の炎が灯っている。
「ゾフィー。わたくしが眠っている間に、状況の変化はありましたか?」
「え、あ――はっ、敵は変わらずの罵詈雑言で、たまりかねたエルウィン少将とジーメンス准将が二度、攻撃の許可を求めて参りました」
「別に、怒るようなことでは無いのですがね――……当然、許可は出していませんよね?」
「はい、もちろんですッ!」
「何と言って、断ったのですか?」
「ヴィルヘルミネ様には大事なく、現在はお昼寝中であると。敵の罵詈雑言など気にしておられぬから、出撃するに及ばず――と申し伝えました」
「ハハ、アハハハ……そうですか、お昼寝ですか、それは良いですね。ただまあ敵将がせっかく出てきたのですから、一気に殺してしまう機会ではありましたけれど。
でも、わたくしがお昼寝をしていたのですから、仕方がありませんね。アハハハ……」
「はっ」
ゾフィーは直立し、端然とした女王の仕草に慄いている。いつもとは明らかに違う覇気に、彼女は戸惑っていた。
「で――看病して下さったのは、レーナさんね。立派な医師になれたようで、良かったですわ」
「ミーネ様――……そ、その口調……もしかして今は、記憶が混濁――していらっしゃるのですね?」
「そうね、どうも混濁しているみたい。だから早速、作戦会議を開かなくてはね。だって作戦の概要を全て――忘れてしまったんだもの」
ショックを受けて幸せな夢の世界へ引っ込んだ女王は、現状に心底困っているのか再びミネルヴァさんを呼び出してしまったらしい。
そしてミネルヴァはヴィルヘルミネがポンコツゆえに記憶していなかった作戦の概要を把握すべく、早くも動き始めたのだった。




