36 アーシリア河東岸の戦い 1
未明から始めた渡河作戦を午後二時に終え、ダランベル連邦軍は築き上げた陣営に入り休息をとった。サマルカード軍の夜襲には十分な警戒を払っていたが、襲ってくる様子も無いまま翌朝を迎えている。
かかる事態にメンフィス総督レオポルドは首を捻り、ヴィルヘルミネの大天幕において早朝から始まった作戦会議で疑問を呈していた。
「敵将のムスタファは、サマルカード軍きっての猛将です。それが一度の敗北で引っ込んだきり出てこないというのは、どうにも裏がありそうですよ」
「裏も何も、この陣営の背後には未だ海軍が控えているのだから――……恐れて亀のように首を縮めているだけなのでは? まぁ、首を出そうものならエリートであるこのボクが、フフフ、いつでも刈り取ってってあげますけどねぇ」
特注である純白の軍服に真っ赤な薔薇をあしらえて、余計な事さえ言わなければ十分に優秀なジーメンスが、案の定余計なことを言う。
ヴィルヘルミネが「こやつ、何着同じ軍服を持っておるのじゃ?」と関係無い事を考えて怪訝そうな顔をしたものだから、謎の忖度を働かせたエルウィンが、キッと睨んでジーメンスを窘めた。
「レオポルド殿は連戦連敗とは言え、この地でサマルカード軍と幾度も対戦しておられる。その方の意見を聞かずに相手を舐めて掛かれば、手痛い目に遭うのは自分だぞ――ジーメンス准将」
だがしかし、エルウィンの鋭い舌鋒はジーメンスよりもレオポルドのガラスのハートを貫いた。そして割れた。ぱりん。
「た、確かに連戦連敗だけれども……だけれども……私だってね、少しくらいは気にするんですよ、デッケン少将~~」
レオポルドはシュンとして、塩を掛けられたナメクジのように小さくなっている。
そんな彼を横目にジーメンスは肩を竦め、苦笑しながら言った。
「分かっていますよ、エルウィン卿。でもね、だとすれば話は簡単です。敵の意図はつまり、こちらを油断させたい、ということでは?」
皆で囲む長机に置かれた地図を見ていたゾフィーが、「うん」と一言頷いた。そのまま自らの意見を言う。
「――敵としては、こちらの戦艦が厄介なのであろう。砲の届かぬ地点までこちらを誘き寄せたくて、だからと弱腰に見せ我等の突出を誘っているのなら、ジーメンスの意見は納得の出来る見解だ」
「そういうことなら敵は、こちらの術中に嵌ったも同然だ。ならば予ての予定通り、ことを運べば良いだけでは?」
次に意見を口にしたのは、ゾフィーと同じく騎兵を率いた戦術を得意とするライナーだった。
正直に言えば、エイジア最強の騎兵と名高い奴隷戦士と正面から戦って、雌雄を決してみたいという想いもある。そのような中世の騎士じみた戦いを嗜好する裏側には、音楽と同じく戦争もまた芸術だと考える歪さがあるのだろう。
ライナーはチラリとヴィルヘルミネを見て、ペロリ――唇を舐める。
戦争が芸術であれば、誰より美しくこれを描ける彼女こそ、至高の芸術家という訳だ。ならば女王の側に身を置いて、その生涯を楽曲にしたいという欲望が湧き上がる。だからライナーは、ヴィルヘルミネを間近で見たいと望んでいた。
「――と、小官は愚考いたしますが、我らが女王陛下におかれましては、いかがお考えでありましょう」
恭しく頭を垂れて、ライナーが女王に促した。
美貌の女王はライナーの期待を裏切らず、「ふん」と何かを鼻で笑い、肩に掛かる赤毛を払い退けた。
烈火の如き紅玉の瞳を煌めかせ、ヴィルヘルミネは立ち上がる。英雄にして覇者の貫禄を備えたその姿に、ライナーは心の琴線を震わせた。
目を細め、一同を睥睨してヴィルヘルミネが言う。
「どうあれ余と、余の軍隊に敗北はない。ライナーの申す通り、予ての手筈通り事を進めるのじゃ」
声は幼い頃に比べ、僅かに低くなっている。それは鼻に掛かり甘やかで艶のある――だというのに凛として大軍を圧することも出来る、美声であった。
ヴィルヘルミネの一言で、一気に場が引き締まる。全員が立ち上がり、一斉に女王へと敬礼を向けた。
「「「御意」」」
「よろしい、では解散じゃ」
諸将の敬礼を受け流し、颯爽として身を翻すヴィルヘルミネ。だが誰あろう彼女こそ、この場で最も敵を舐めている人物なのであった。
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ヴィルヘルミネ曰く予ての予定通り、ダランベル連邦軍は三月十一日と十二日の二日間を陣営に籠り過ごしていた。
この間にサマルカード軍が焦れて攻撃を仕掛けてくれば上々で、再び艦砲射撃の餌食にしてやれば良い。
これは大軍の前に身を晒し、敵を徴発する作戦であった。というより、挑発しているように見せる作戦だ。しかしムスタファは流石と言うか、その程度で攻撃を仕掛けてくるような男ではなかった。
というか挑発という意味ではムスタファも艦砲の射程距離ギリギリまで突出し、ダランベル連邦軍に対して罵詈雑言を浴びせる、と言う下劣な挑発を幾度も行っている。
「やーい、ヴィルヘルミネのあんぽーんたーん! 顔が良くって戦争の天才で政治もキレッキレらしいが、お前なんかギッタンギッタンのバッコンバッコンにして、このムスタファ様のお嫁さんにしてやーるよーだ! へへーん! ちなみに俺様、奴隷戦士だかんなー! 身分、奴隷だかんなーッ! だーかーらーお前も奴隷に落としてやるっちゅーこったぜ! アハハハハハ!」
アーシリアの肥沃な大地に馬を進め、声を大にしてムスタファが叫ぶ。
しかし、ムスタファは残念なことに学が無い。なのに自分の能力を過信する彼らしく、挑発の文言を全て自分で考えたから、酷く稚拙な悪口――とすらいえない出来栄えの文句になってしまった。
そんなものを百人の部下に復唱させて大音声でダランベル陣営へ送るのだから、ちょっともう、参謀長のナセルは頭を抱えて熱を出し、泡を吹いて陣営の隅で蹲っている。
「あばばばば……ムスタファ長官……馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、これじゃあ恋文を読んでいるみたいなものじゃあないか! いったいあの人、何がしたいんだ!?
いや、ある意味でちゃんと挑発はできているのか? こんなものを聞かされて、ダランベルの将兵はきっと良い気分などしないだろうし……」
だが陣営に戻ったムスタファは、ナセルの悩みなど知りもしない。今日も上機嫌で歌を歌い、敵をしっかり挑発したと信じきり、決して疑わないのだった。




