35 ムスタファ=ベイ
アーシリア河の東岸に展開しているサマルカード軍の指揮官は、ムスタファ長官という人物だ。彼は自分よりも年少でありながら出世街道を驀進するテペデレンリを、日頃から疎ましく思っていた。
「正面切って戦えば、テペデレンリの小僧よりも俺様の方が強い!」
相手を小僧と呼べるほどの年齢差など無いのだが、しかしこのように豪語して憚らないほど、ムスタファという男は直情径行にある。
だが軍事的才能は水準以上で、国王ムハンマドに対する忠誠心も厚い。だからテペデレンリは彼の性格と才能を利用し、本隊十万の指揮官に抜擢したのである。
要するにテペデレンリとしてはメンフィスを攻略するに当たり、自分に忠実な五万の兵がいれば十分だった。だから邪魔なムスタファを排除する為にも、本隊を率いるという名誉をチラつかせ、彼をエスケンデレイ牽制の為にアーシリア河の東岸に配置したのである。
とはいえこれは、単にムスタファを排除する為だけに行った事でない。
ムスタファがアーシリア河の東岸で十万の兵を率い睨みを利かせていればこそ、テペデレンリのメンフィス北上作戦も優位にことを運べるというもの。であればこれは正に、テペデレンリにとって一石二鳥の策だった。
さらに言えばムスタファは敵に攻撃されたところで、むざと敗れる将ではない。その程度には優秀だから、ある意味でテペデレンリはムスタファを信頼しているのだった。
とはいえムスタファは、攻勢に強いタイプの将軍だ。なのでテペデレンリの言いつけを唯々諾々と守り、彼の北上を待ち、エスケンデレイへ共に挟撃を仕掛けるだけ――という作戦には最初から不満であった。ましてや「決して、こちらから手出しはするな」と厳命までされていれば、ストレスも溜まろうというものである。
なので、「あれ、本隊十万を預かったものの、俺様――なんかテペデレンリの野郎に騙されてねぇか?」とムスタファは事態の本質に気付いてしまい――……。
「あっ!? あー、ちくしょう! テペデレンリの野郎は楽しくメンフィスを縦断しているっていうのに、俺様ときたら、ずっとここで待ちぼうけだ。しかも動くなときた。これで、どうやって武勲を立てろというんだ! 騙されたぜ、まったくッ!」
そんなわけで日がな一日、羊肉を齧りながら、ゆったりと流れるアーシリア河を眺めつつムスタファは不貞腐れていた。根が少年のようなおっさんなので、これはもう仕方が無い。
そんなところへダランベル連邦軍が海を渡りアーシリア河の東岸へ姿を現したから、ムスタファは小躍りして喜んだ。
というか三十二歳の褐色肌、精悍な顔つきで口髭と顎髭を生やした身長百八十五センチの男がニマニマして踊るのだから、周りとしては目を背けたい気分だ。ましてや黙っていればムスタファはイケメンだから、余計に気味が悪かった。
だというのに周りの気も知らずムスタファは、こんな命令まで下している。
「えっ……何だって? エスケンデレイへ上陸したダランベル軍が海上から、こっち側へ乗り込んで来ただと!? そりゃあいい――じゃなくて、いけねぇぞ!
ようし、まずは偵察だ! でもいいか、様子を探るだけじゃあダメだ! 敵がこっちを攻撃したくなるように、しっかりと挑発してきやがれッ! な! な!?」
部下としては、「ちょっと、何をいっているのか分からない……」と言いたい気分だった。けれど挑発しろという命令は理解できたので、「少しばかり敵に近づき過ぎる」ことにしたのだ。
この結果は散々であった。ダランベル軍の砲撃が予想よりも正確で激しく、二百騎のうち五十騎を失うという損害を出してしまったからだ。
戻ってきた騎兵指揮官に報告を聞いたムスタファは、怒るどころか再び喜びのダンスである。といっても非常に素直な男だから、死んだ兵に対しては哀悼の意を捧げていた。なので泣き笑いで踊る、という奇妙で不気味な動作をムスタファは朝から幾度も繰り返すことになったのだ。
ともあれムスタファはダランベル連邦軍に対し、これで自軍の戦力を過少に評価させることが出来る、と踏んでいた。
なにせサマルカード軍にとっては騎兵こそ、最強無比の切り札だ。その真価を見誤れば、敵は確実に油断する。ましてや今は兵力にも勝る現状で、だから会戦に持ち込めば必ず勝てると考えてのことだった。
「うわははは、は、は、は! ようし、よく負けて帰ってきた! これでダランベルの奴等は、我等の力を見誤るだろうッ! そこへ付け込み軍事の天才と名高いヴィルヘルミネを倒せば、いよいよ俺様こそが国一番の将軍だッ! うひぃぃぃぃ……五十名の忠勇なる戦士達よぉぉぉ、お前達の死は無駄にはせぬぅぅぅ……よよよ……」
部下の報告を聞くや天幕を飛び出して泣き笑うムスタファに、当然ながら眉を顰める者もいる。それはテペデレンリが本隊に残した良心とも言うべき参謀長、ナセルであった。
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「閣下! 敵を油断させるのは結構ですが、閣下も敵を侮っておりますぞ! 艦砲射撃で我等は、精鋭の奴隷戦士を五十名もやられているのです!」
切れ長の目を吊り上げた細面の美少年――まだ髭も生えそろわない参謀長のナセルが、国内有数の猛将に意見する。
「だから、なんだ?」
「敵の砲兵が海軍と同様の練度を持っているとしたら、強敵でしょう! 大砲を上手く使えば、数の利も馬の速度も覆されると――常々テペデレンリ将軍が申しているではありませんかッ!」
「分かってねぇな、ナセル。いいか、騎兵を上手く使って接近戦に持ち込めば、大砲なんざ脅威じゃねぇんだよ。近代化かぶれのテペデレンリこそ、奴隷戦士の伝統的な戦い方を忘れちまっただけさ」
「接近戦に持ち込む、ですと? テペデレンリ将軍のご命令を、閣下はお忘れか!? 決して自ら戦を仕掛けるなと――そう厳命されているはずですッ!」
白いターバンに刺した孔雀の羽根飾りを指で弄り、ムスタファはジトリとした目を若い参謀へ向けている。もはや部下に「ああぁ」と思われるポンコツの面影は無く、不敵な猛将の面構えが戻っていた。
「――おい、小童。臆病風にでも吹かれたか?」
「いいえ、閣下。小官は無用な罪で処断されたくないだけです。よろしいか、もう一度言いますぞッ! テペデレンリ将軍のご命令は、自分からは絶対に戦わぬこと。これに従わねば軍規違反の咎で、長官と云えども処断されますッ!」
「……ああ、そうだな。しかしまあ、敵が攻撃を仕掛けてくるのなら、仕方がないのではないか? え、どうだ?」
「――その場合でも、防御に徹して味方の援軍を待つべきでしょう」
「何を愚かな。我ら奴隷戦士が防御に徹して、一体なにが出来るというのだッ!?」
「ですが閣下が万が一負ければ、テペデレンリ将軍が敵国の中に孤立するのですッ! であれば何としても、この軍勢を無傷で保つべきでしょうッ!」
参謀長の言い分に、ムスタファがギリと奥歯を噛み締めた。
「テペデレンリ、テペデレンリと貴様はヤツを神のように崇めているがな、え――ヤツなど、武力によって先王を倒した謀反人では無いかッ!」
「滅多なことを仰いますな、ムスタファ閣下!」
「滅多なことじゃ無ぇだろ、参謀長。と言っても別にテペデレンリを責めてる訳じゃあ無い。俺様だってあの日あの時、ムハンマド陛下のお傍にさえいればきっと、あの方をお援けして同じことをやったはずだ。
つまり何が言いたいかってぇと――……俺様とテペデレンリに実力の差なんざ、ねぇってこった。違いがあるとすりゃ、それは運だけなんだよ。分かるか、運だッ!」
一端ここで言葉を切って、ムスタファは大きく息を吸い込んだ。参謀長は相手の分厚い胸板を見て、諦めたように頭を左右に振っている。
「だからヴィルヘルミネを討ち、武勲を立ててテペデレンリ将軍に並び立ちたいと?」
「そうじゃねぇ。ヴィルヘルミネを討ち、俺様がテペデレンリの上に立つってことさ! 要するにこりゃ、俺様にツキが回ってきたってことなんだよォ! ははは、は、は、は!」
不敵に笑うムスタファは、腰に二本の曲刀を差している。これこそ、彼に自信を齎す源だった。
なんとなれば彼は一騎打ちにおいて、生涯不敗を誇っている。それも単に剣術に優れている訳ではない。戦いの一手先を読むことにおいて、彼は天才的な勘を誇っていた。だからこそ戦も強いのだ。
そんな男が続々と上陸するダランベル連邦軍を睨み、ヴィルヘルミネの命を虎視眈々と狙っている。
事実ムスタファならば、軍事の天才と呼ばれる赤毛の女王にも刃が届く――そう思わせるだけの剽悍さが、確かにあるのだった。




