34 リヒベルグの指輪物語
ヴィルヘルミネが大河アーシリアの渡河を終えたのは三月十日、午後二時のことであった。
「――んむ。やはり海軍を使ったのは、正解だったようじゃの」
渡河とはいえ厳密にはエスケンデレイ港から船で北上し、弧を描くように東から南へと向かっただけだ。そうして敵の北側へ陣を構えるや、赤毛の女王は満足げに頷いている。
といってもヴィルヘルミネが作戦に携わったのは、発案だけ。その後の詳細は主にエルウィンが詰めたから、彼は結構大変だったのだ。
エルウィンの立てた計画に基づき敵に上陸を悟らせぬ為、作戦の開始時刻は三月十日の未明とされた。そうして薄闇の中、海軍支援の下で先遣隊として、ジーメンス率いる鋼鉄の薔薇連隊がアーシリア河の東岸へ上陸を果たしたのである。
鋼鉄の薔薇連隊は上陸後、すぐさま橋頭保となる陣営の構築を開始した。一つの大隊で塹壕を掘り、もう一つの大隊が搬入した資材で柵を巡らせるという作業だ。
しかし、それらの作業は物音を立てずには出来ないこと。であれば当然、敵が気付くのも止む無し――である。
払暁の光が大地を照らし始める頃、物音に気付いた敵は状況を調査すべく、騎兵による強硬偵察を敢行した。むろん、これを予測していたジーメンスは狼狽えない。
「所詮は偵察、敵は二百に満たない数だ。柵を作る部隊は作業を続行! 残りの者は方形陣を敷き、敵に備えよッ! 狼煙を上げて、艦隊に支援を乞うのも忘れるなよッ!」
ジーメンスは先ほどまで掘っていた塹壕の前に出て、方形陣を敷くや狼煙を上げる。敵が艦砲射撃の餌食になってくれるなら、これほど楽な戦は無い。
ともあれ敵が砲撃を突破した場合に備えてジーメンスは、自身の馬上銃にも弾丸を込めるのだった。
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ジーメンスの上げた狼煙を見て、エリザは悠然と艦砲射撃を命じた。甲板に椅子を置き、朝のコーヒーを飲みながらの攻撃命令である。
この攻撃によりサマルカード軍は、五十騎ほどを失った。艦砲射撃によほど慌てたのか、残りは馬首を翻すと、一目散に本営へと逃げ帰っている。
その後のサマルカード軍は幾度か騎兵を突出させて様子を伺おうとはするものの、基本的に艦砲の射程距離まで近づこうとはしなかった。
「ふん。サマルカード騎兵と言えば勇名を持って鳴る奴隷戦士だろうに、随分と臆病じゃあないか。大砲が絶対に届かないような場所から、こっちを見てばかりで――……」
東から迫る朱色の光に頬を照らされながら、エリザは口の端を吊り上げ笑っていた。
「しかし、まあ、届かないとしても――……せいぜい派手にやりませんとね。こっちには、囮の意味もある訳ですし」
ダランベル連邦艦隊の副将格、いかにも船乗りといった風貌の精悍な男がエリザの横に立ち言った。
「ああ、そうだね、ビュゾー。エルウィン坊やが、中々見事な作戦を立ててくれたからねぇ。とは言えアーシリア河を筏で下るなんて、ラメットのヤツには地味な仕事をやらせて悪いけれど……さ」
「いやいや、それが中々どうして。ラメットのヤツ、可愛い師団長と一緒に仕事が出来るって、むしろ喜んでいましたから」
褐色肌の上にある短く刈り込んだ黒髪を掻きながら、ラメットは苦笑している。
「へぇ。可愛い師団長っていやあ、アンハイサーのことだろう? ったく、あのギザギザ眉毛――酒場で女を口説いているだけかと思いきや、陸軍さんにも手を出そうってのかい」
「といってもアンハイサー少将には、どうやら想い人がいるようで。それでなくてもあんな美人、ビュゾーのヤツには高嶺の花ってモンですから、土台が無理な話です」
「ハハハ、違いないねェ」
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部下の色恋沙汰を聞き、エリザは先日のことを思い出していた。王都バルトラインへ上がり、第一海軍卿として閣僚会議に出席した後のこと。
会議室を退出し、急ぎニームの港へ戻ろうと考えていた。なんとなれば遠征中のヴィルヘルミネが聖都カメリアから海路、エスケンデレイへ向かうと言う。ならばエリザの任務は重大で、艦隊を動かし護衛や物資の補給など、考え、やらねばならないことが多かった。
「エリザ=ド=クルーズ」
そんな時、声を掛けてきたのは反りの合わない陸軍卿、リヒベルグという名の狐であった。いっそ無視をして立ち去ろうかとも思ったが、陸と海が反目し合う事態など女王は望むまい。
だから王宮の廊下で振り返り、自嘲気味の笑みを浮かべた陸軍卿にプカリ、エリザは葉巻の煙を吐きかけた。
「なんだい――今しがた、アタシを呼ぶ声が聞こえたようだけれど?」
「呼んだ。街で面白いものを見つけてな」
特に気にした素振りも無く、リヒベルグは前髪を掻き上げた。悠然とした仕草は、エリザが何をしても変わらない。こんなところだけは大物だと思わず認めてしまうから、ついついエリザはしかめっ面になる。
「なんだい? 自分の良心でもドブに落ちているのを見つけたのかい? そりゃあ広いバルトラインだ、あってもおかしく無いだろうねェ」
「……まあ、似たようなものだ。どちらにせよ私には不要なので、お前にでもくれてやろうと思って呼び止めた」
そう言いながらリヒベルグが懐から取り出したのは、大きなダイヤモンドの付いた指輪である。
「アンタの良心ってのは、そんなにキラキラしていたのかい?」
「まあ、良心だからな。キラキラしたモノでなければ困るだろう」
「だとして、どうしてソレをアタシにくれると言うんだい?」
「良心が求めるままに行動をすれば、そういうことになる」
「おやおや……リヒベルグ閣下の良心は、ついに行くべき道を見失ったらしい。どう考えたってアンタ、そりゃあ婚約指輪ってヤツだろう? ああ、それともナニかい? これは諜報部としてアタシを――……」
「言っておくが、指輪を贈るのは初めてだ。不要ならば、捨ててくれて構わない。断るも自由だ」
じっと真正面からエリザを見て、リヒベルグは真剣な表情だ。思わず気圧され、エリザは指輪を受け取った。
「そ、そうかい。だったら貰ってやるよ。だ、だけど、どうしてアタシなんかに……?」
「好きな女へ指輪を渡すことに、何か理由が必要か?」
「す、好きって、ア、アタシのことがかい……?」
「他に誰がいる?」
漁色で名を馳せた男にしては、いかにも無粋な言い様だった。
――どういうことだ?
エリザは自問しつつも、それなりに年月を生きた女である。この状況で何も分からぬ、ということは無い。しかしだからこそ、思わず問うていた。
「アタシの顔が、悍ましくは無いのかい?」
「数多いる獣の如き人々の内面に比べれば、お前の顔の傷など何ほどの事も無い」
「身体なんて、もっと悍ましい傷がある。それを見てもアンタ、アタシを抱けるのかい?」
「私の腹の中の方が、より悍ましいと思うがな……」
「本当にアタシで、いいんだね?」
「ああ……お前でいい」
「言い方――……アンタ、もっと上手に女を口説けないのかい?」
「説教か? 上手く出来ないから、この年まで独身だったのだろう」
「ま、いいさね。陸軍と海軍が仲良くやるには、丁度いいのかも知れないねェ……でも、今すぐってもの、アタシだってさ、ホラ……」
「答えは別に、急がない。お前の過去は知っている。その上で、よくよく考えて貰えれば……」
「ああ、ああ、分かったよ。考えるとも、考えるさ――答えはその、ヴィルヘルミネ様の遠征が終わった後でも構わないかい? それまではね、ちょっと忙しいんだ」
「ああ、時間を取らせて済まなかった。女王陛下のこと、宜しく頼む」
あれは誰より冷たい男との、心温まる会話であった。
答えるべき言葉を探しながら、高く上がった太陽に目を細め、エリザは珍しく微笑みを浮かべている。深淵のような黒い瞳の奥に、僅かの光が灯っていた。
殺された夫や子供のことを忘れることは、生涯にわたり出来ないだろう。けれど、それでも人は前に進めるのだと、エリザ=ド=クルーズはヴィルヘルミネに仕えて以来、思うようになっていた。
きっとリヒベルグも、そうなのだろう。
――だから、ああ……アタシは最初から、あの目に惹かれていたに違いない。
そう考えてエリザ=ド=クルーズは、今こそ止まったままの時が動き始める音を、その胸に感じるのだった。




