9 パンテオン争乱
宮殿の最深部まで後退したアデライードは、知らず額の汗を拭っていた。黄金色の撒き毛が揺れて、顰めた緑色の眼差しが憂鬱そうに揺蕩っている。
――私が死ぬのは構わない。けれど王妃様だけは何としても、お救いしなければ。
悲壮な決意の下に国王一家が控える居室へ足を運んでみれば、王妃が幼い我が子を胸に抱き、国王と並んで長椅子へ座り、肖像画を描かせている。まるで何の変哲もない日常の風景だ。
アデライードは一瞬だけ面食らいながらも、柔らかな微笑を浮かべる王妃の真意をすぐに見抜き、なるほど納得をして頭を垂れるのであった。
「既に、お覚悟をなさっておいででしたか……」
「ええ。この絵の完成を、わたくし達が見ることは無いでしょう。けれどランスに王家があったということを、きっとこの絵は証明してくれるはずですわ」
毅然として正面を見据え、王妃マリー=ド=クリスティーナは答えて言う。気品漂うはしばみ色の瞳は大陸随一の名家に生まれ、希望の架け橋にならんとランス王家に嫁いだ誇りを今も湛えていた。
けれど今や民衆という名の怒涛に飲み込まれ、誇り高き王妃の一切合切が無に帰さんとしている。だからこそ「パンを!」「パンを!」という怒声が近づくにつれ、マリーは引き攣る頬をなお悠然と緩めて見せるのだった。
――せめて高貴なる者の誇りを、民に見せてやろうということですね。
元が大貴族の生まれであれば、王妃の想いはアデライードにも分からぬではない。彼女は次に国王を見て、常と変わらぬ口調で指示を仰ぐ。
「民衆が食料を求め、押しかけております。しかし、このままでは宸襟をお騒がせするやも知れず、如何致しましょうか?」
「それは、発砲の許可を求めてのことか?」
「はっ」
「そちの近衛連隊だけで、現状を打破し得るのか? 正直に答えよ、レグザンスカ准将」
「――は。裏門より、陛下がご退去あそばす時間くらいは稼げるものと存じます」
「ならば、今のままで構わぬ。逃げ出した先で虜囚となる憂き目に遭うよりは、ここに座して我が赤子を待とう。ましてや彼等が飢えていると申すなら、捨て置くことも出来まいて。倉庫を解放し、小麦でも出してやるが良い」
国王も微動だにせず、アデライードに言う。悠然として見える顔色はやや蒼白だが、それでも王の威厳は十分に保たれていた。
「はっ」
「それから、アデライードよ。卿は近衛連隊を率い、民衆へ小麦を引き渡すのだ。その時、同時に降伏を申し出よ。交戦中でなくば、奴らも寛容になろうて」
「はっ」
「それに余を失えばランスは、他国から目の敵にされることとなろう。なれば国にとって軍人は、一人でも多く必要なはずだ」
「はっ――……まことに有難き仰せなれど、それは出来ませぬ」
「なに?」
「私は近衛連隊長であり、命を賭しても陛下や王妃様をお守りするが務めの身。最後まで、お供させて頂きます」
「いけません、アデライード。あなたには恋人がいるでしょう!」
王妃の声が響き、アデライードはピクリと肩を震わせた。
「個人的な事情よりも、任務が優先します」
「ああ、ああ……アデライード、すまぬ。父君や兄君に続き、余は卿まで獄へ送ってしまうのか。余が、暗愚な王であるばかりに――……余がヴィルヘルミネのように、聡明でさえあれば――……!」
この時初めて国王シャルルは頭を振り、表情に苦悩の色を滲ませた。王妃も肩を揺すって嗚咽を漏らし、目からは真珠のような涙が溢れ出していた。
■■■■
国王一家の安全と引き換えに武装解除をした近衛連隊は、大半が怒れる群衆に嬲り殺された。このとき、国王と共にあったアデライードは寸でのところで難を逃れ、首都防衛隊の指揮官に拘束されている。
だがそれも、決して幸運とは言えない。宮殿の外へ連行される際、そこかしこに無残な姿を晒す部下たちの姿を目にして、アデライードは忸怩たる思いであったからだ。
民衆が奇声を上げながら、武装解除をした連隊の部下を殺していく。さらには遺体を傷付けて、あらぬ辱めを与えるのだ。
衣服の中の金を奪い、これ見よがしに鎌で首を切り、「ざまぁみろ、案山子の兵隊」「革命万歳!」と笑っている。知らずアデライードは奥歯を噛み締めて、ギリリ、ギリリと鳴らしていた。
――だが、どうにもならない。
民衆を守ろうと思い理想を抱いて国軍へ入ったのに、今や国家の敵として捕らわれている。皮肉な笑みを白皙の頬へ浮かべた時、アデライードは生まれて初めて民衆が憎いと感じていた。せめて思いのたけでもぶちまけなければ、死ぬに死ねないと思っていた。
「国王陛下は必至で国家財政を立て直そうとなさった! 王妃殿下はキーエフから嫁がれ、ランスのことなど右も左も分からぬと言うのに、民衆を愛して下さったではないかッ!
ここにいる兵士達は――……お前達が殺した兵士達こそが、ランスの防壁であったのだぞ! それを貴様等は――……自ら壊したのだッ! その罪、いずれ必ず思い知る時がくるぞッ!」
勝利に沸く群衆の間を連行されて歩きながら、アデライードは必死に叫ぶ。けれど飛び交うのは罵声であり、吐きかけられる唾であり、石礫であった。誰も彼女の言葉に、耳を傾ける者はいない。
そうして宮殿の門を出る頃には、あれほど美しかったアデライードの顔は晴れ上がり、赤黒く変色して見るも無残な姿になっていた。
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国王ともどもイル=エイ監獄へ入れられたアデライードは、それでも絶望はしなかった。というより自分が絶望しては、誰が国王一家を救うのかと考えていたのである。
だが十月二十七日、一人の男がやってきて、ありもしないアデライードの罪状を読み上げた。そうして翌、十月二十八日に斬首刑に処すことを告げたのだ。
「なるほど。王政にあっては、革命家が随分と処刑されたものだ。だから今度はお前達が、私たちを処刑する番だというワケか。
となるとおかしな話だな――……やっていることは王政でも共和制でも変わらない。反対派の粛清というやつは。はは、は、は、は」
「黙れッ!」
「卿らお得意の、言論の自由というものではないか。え?」
「黙れと言っているッ! この売女めがッ!」
獄吏がアデライードの腹部を蹴り上げて、ゴキリと大きな音が鳴る。口から大量の血を吐いた。それでもアデライードは前を向き、目の前の男を睨み据えている。
「私は――……売女など……ではない。生涯――……あの人……だけ……だ」
今、オーギュスト=ランベールの名を口にする訳にはいかなかった。言えば共和の穏健派に属す彼の身を、危険に晒す。朦朧とする意識の中で、アデライードは銀髪の恋人を想っていた。
「――あの人とは、誰の事だ? アデライード=フランソワ」
いつの間にか罪状を読み上げた男の隣に、銀髪の男が立っていた。目の色も同じく赤でオーギュストに似ている。だが圧倒的に違うのは、その陰湿な眼差しだった。
男はアデライードの髪を掴み、強引に上を向かせて言う。
「貴様だな、弟を誑かし――悪の道に引き込んだ売女は?」
「は、ははは、は、は、は――……私の父が認めても、今度はあなたが私たちの結婚を認めなかった訳か――……ファーブル=ランベールッ!」
アデライードは血の混じった唾を、愛する男の兄に吐き掛けた。この男が首謀者であればこそ、自分は殺されるのだ。そう確信できた。泣くまいと決めていたのに、涙が溢れて止まらない。だからオーギュとは、幸せになれないのだ。
事実ファーブルは顔を怒りに歪めるに任せ、棍棒でアデライードの腹を何度も何度も突いていく。
「お前が、弟を、誑し込んだのだッ!」
「うぐっ――……」
「ハァ、ハァ……顔はこれ以上、傷つけるな。いいか、処刑のとき、アデライード=フランソワ=ド=レグザンスカだと分からなくては、意味がないんだ」
ファーブルは踵を返し、独房から去っていく。
気を失って石の床へ沈み込んだアデライード=フランソワ=ド=レグザンスカは、こうして国王夫妻に先立ち、十月二十八日の正午、マルス広場にて公開処刑と決まった。
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断頭台から大きな刃がズンと落ち、美しかった黄金の撒き毛もろともアデライードの首を断ち切った。見守る群衆は拍手喝采、「革命万歳!」と叫ぶ中、オーギュスト=ランベールとダントリクだけが血の涙を流している。
「アデリー、アデリー……ああああああッ!」
軍服の上からローブを羽織り、オーギュストは下唇を噛んでいた。
「オラ、革命政府を絶対に許さないだ。アギュロンも十人委員会も、何もかも……」
ダントリクも同じく深く被ったローブの下で、眼鏡をギラリと光らせている。
恋人を失った二人は、見上げる先に共通の敵を見た。
新たな英雄となったファーブル=ランベール。そして今や揺るがぬ絶対権力者、マクシミリアン=アギュロンの姿を、だ。
だが二人が至強となった敵に挑むには、圧倒的に力が足りなかった。
オーギュストは昨日、南方軍司令官との辞令を受けている。ダントリクは補給部隊の事務官に任じられた。つまるところ二人は、閑職へ回されたのだ。共に拒否すれば軍籍を剥奪する、とのことであった。
「だから、今は力を蓄える」
「ああ、ああ、そうだべ。ランベール将軍、よく我慢してくれたべさ」
「俺がここで出ていって、共に死んだところでアデリーは喜ばない。だからこそアデリーは、最後まで俺の名を呼ばなかったんだ」
「んだな――……だからせめて、必ず仇は取ってやるべさな」
「ああ……バルジャン閣下の無念も、晴らして差し上げねばならん」
「んだ――……革命政府は、絶対に許さねぇだ」
こうしてパンテオン争乱と呼ばれる事件は幕を閉じ、ランスに二人の復讐者を生み出したのであった。




