8 マコーレ=ド=バルジャン
バルジャンは抵抗することなく投獄された。それは自らの罪を認めたが故ではなく、ヴィルヘルミネへの忠節を貫いたからだ。
むろん抵抗すれば、彼は逃げ出すことも状況を覆すことも出来たであろう。
実際にダントリクは、抵抗してバルジャンの考えた計画通りに国王と共に宮殿の露台に立ち、演説すべしと説いていた。
オーギュストにしたところで、「毒喰らわば皿まで」と、バルジャンと行動を共にしたはずだ。
ましてや、バルジャンはランスの英雄であった。ここで急進派の手を振り払い自らの意思で動けば、彼は間違いなく時代の旗手となったであろう。
けれど英雄は、あえて裁かれる道を選んだ。何故なら彼は裁判において自らの誠実と、ヴィルヘルミネのランスに対する温情を証明したかったのである。
もちろんダントリクに限って言えば、こうしてバルジャンがヴィルヘルミネへの忠節に尽くすというの面白くない。何故ならバルジャンこそ、ランスの王に相応しいと思っていたからだ。
それにダントリクは、ヴィルヘルミネが――というより、ダランベル連邦王国がランスの穏健派を後押ししている、ということに気付いていた。
なにせダランベル連邦王国は女王ヴィルヘルミネが絶対権力を掌握してはいるものの、基本的には議会制を敷いている。
そういう国家を自らの足元に作り上げたヴィルヘルミネであれば、隣国のランスにそれを求めぬ筈はない。だからヴィルヘルミネの意図は余りにも明々白々だと思う、ダントリクなのであった。
とはいえ赤毛の女王がバルジャンを押し上げてくれる限りは、目を瞑ろうと考えていたのだ。そもそもバルジャンが、それ程までに女王への誠意に溢れているとはダントリクとて思わなかった。
まさかヴィルヘルミネとの関係を否定する位なら、獄に繋がれても「やむなし」と考えてしまう程だとは――……。
■■■■
司令官の逮捕という事件を経ても、未だ国民衛兵隊の司令部は沈黙を保っていた。逮捕日が日曜日だったせいか、深夜になっても情報が末端の士官まで行き渡らないからだ。
そんな中、司令部の最上階にある一室に、ずっと明かりが灯っている。ダントリクとオーギュストが、主を失った執務室で茫然としていた。二人は向かい合い、ソファーに座っている。間に挟んだテーブルには、すっかり冷めたコーヒーのカップが二つ並んでいた。
時刻は既に深夜二時を回り、日付の変更も為されている。今日はもう、十月二十六日の月曜日だ。あと四時間もすれば、熱心な武官たちが出勤してくるだろう。つまり、後しばらく経てば司令部は騒然とする。
「ダントリク、どうする?」
「どうもこうも無いべ――……バルジャン閣下は逮捕され、市長のポール=ラザールは行方をくらませた。国王一家もイル=エイへ投獄とくれば、アギュロン閣下の公正党が天下を取ったも同然だべ……」
「アデライードもイル=エイ監獄へ入れられた」
「――……バルジャン閣下も裁判次第で、イル=エイへ送られるべ」
「裁判なんて、あると思うか?」
オーギュストの問いに、ダントリクはたっぷり五秒ほども沈黙をした。そして口にした言葉は、希望的観測である。
「あるべ」
言葉の後に奥歯をギリと噛みしめ、ダントリクはオーギュストを恨めしそうに見た。
「ダントリク――……いつもの冷静さを取り戻せ。アギュロンは裁判などやらない。何故なら閣下が拘禁された以上、ヤツの中で裁判は既に終わっているからだ」
「そんなこと、ねぇだ! アギュロンはバルジャン閣下の名声が恐ろしいべ! だから裁判で徹底的に貶め、その上で処刑を命じるつもりだべ!」
「だったら、バルジャン閣下の所在を政府が隠す理由は無い。堂々と罪状を発表し、その上で奪回不可能な場所へ身柄を移せば良いんだからな」
「ならランベール閣下は、バルジャン閣下がどうなったと思うだか?」
「もう分かっているだろう、ダントリク。分かっていたからバルジャン閣下にも、政府に反旗を翻すよう言ったはずだ。つまりもう、バルジャン閣下は――……」
「それ以上は言わねぇでくんろ! 聞きたくねぇだ!」
両耳を塞ぎ、ダントリクはイヤイヤをするように首を振っている。
「聞け、ダントリク! アデリーは、まだ生きているんだ!」
「バルジャン閣下だって、まだ生きているべ!」
「そうじゃない、そういうことじゃあ無いんだ、ダントリク。頼む、アデリーを助ける為に、知恵を貸してくれ。俺だけじゃあ、とてもイル=エイ監獄を突破することは出来そうに無い……」
握り締めた両手を膝の上で震わせ、オーギュストはダントリクに頭を下げた。
「――それこそ十分に分かっていることだべ、ランベール閣下。現在の状況でイル=エイ監獄を破ることは極めて困難、というより不可能なんさ」
「だから知恵を貸してくれと言っているッ!」
「無茶を言うでねえ。イル=エイ監獄はグランヴィル随一の要塞だべ。攻めるのに二個連隊は必要だども、今や国王一家救出の為に動く兵士がいるとは思えねぇだ」
「だから、救うのはアデリーだけで十分なんだ」
「いんや……国王一家を救えねば、レグザンスカ准将が自分だけ逃げ出すとは思えねぇべ」
「じゃあ、どうしろって言うんだッ! 俺はアデリーを見殺しになんて、したくはないッ!」
「オラだって、レグザンスカ准将を死なせたくはねぇ。だども――頭が働かねぇだよ」
そうして堂々巡りの会話を繰り返し、唯一決まったことは、状況をヴィルヘルミネへ知らせよう、という事だけなのであった。
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十月二十五日、午後八時。バルジャンはジメジメとした地下の牢獄へ閉じ込められて、カビの生えたベッドに寝転がっている。他にやることが無いからだ。
時折「チューチュー」と鼠の無く声が聞こえるからには、どこかに小さな穴でも開いているのだろう。
夕食に与えられたパンの一切れを床に投げ、暗がりの中に現れた鼠を見て苦笑を浮かべている。これが、残念な英雄の馴れの果てであった。
――ヴィルヘルミネ様には、大きな夢を見せて貰った。俺だけじゃあ、到底辿り着けない高みだったなぁ。
腕を枕に汚れた寝台へ寝転がり、薄汚れた天井を眺めてバルジャンは物思う。さび付いた鉄格子の先には急進派の兵士が二人いて、逞しい背中をこちらへと向けていた。
「なあ、牢番さん。私の裁判は、一体いつからかな?」
「存じ上げません」
「じゃあ――……国王陛下と王妃様は、どうなった?」
「存じ上げません」
「じゃあ、アデライード=フランソワ=ド=レグザンスカ准将は無事かな?」
「存じ上げません」
「明日の朝飯は、なに?」
「存じ上げません」
「何を言っても存じ上げないって、お前らなぁ……暇だろう?」
「暇ではありません、閣下」
「――……ああそうかい。逃げる気もない囚人を見張るのが、そんなに忙しいのかい」
バルジャンは目を閉じて、ヴィルヘルミネと共に駆け抜けた戦場に想いを馳せる。
と、その時パンを齧った鼠が、牢の隅で震えている姿が目に付いた。すぐにピクリとも動かなくなり、仰向けに倒れてしまう。どうやら死んでしまったらしい。
――あの頃は何だかんだで死ぬ気がしなかったが、今回は――……俺の悪運も尽きたってことかい。恰好つかねぇなぁ……。
「それにしても、アギュロンのヤツ。俺を英雄のまま殺すなんて、一体どういう了見だ。しかも夕食に好物を出しやがって……けど分からんなぁ。アンタ、汚い手は使わないと思っていたんだがなぁ――……うぐっ」
胃の奥が焼けるように熱くなり、バルジャンの声は詰まった。意識も朦朧とする。永遠に失われようとした彼の視界に、愛すべき人々の姿が次から次へと浮かんでは消えた。
涙に暮れるダントリク。「勝手に死ぬな」と文句を言うオーギュスト。呆れたように溜息を吐くアデライード。
そして最後は眉と眦を吊り上げ、「バルジャン、このギリギリ合格点! もう一回チェスの勝負じゃ! 今度は負けぬぞ!」と腰に手を当て、居丈高に言うヴィルヘルミネの姿が目の前に現れた。
「ごめんな、ダン坊、オーギュスト、アデライード――……俺、死ぬわ……。そんで、すんません、ヴィルヘルミネ様。チェスは引き分けってことで……だから……みんなのこと……頼み……ま……す」
マコーレ=ド=バルジャンがこの世を去ったのは帝歴一七九二年十月二十五日、午後十時二十二分のこと。未だ二十六歳であった。ランス革命政府は彼の死を、翌二十七日火曜日に病死と発表している。
こうしてバルジャンはランスの革命史に不滅の名を残し、黄泉路へと旅立った。しかし彼の最後の言葉を知る者は、誰一人としていなかったのである。




