116 ハイナ渓谷奇襲作戦 4
なけなしの勇気を振り絞ってアンハイサーが突っ込むと、即座にプロイシェ軍の兵士は反応した。軍刀を構えて彼女を囲み、オルトレップの下へは行かせまいとする。
「どけ、どくッスよ!」
涙に塗れたアンハイサーは滅多やたらに軍刀を振り回し、喚いていた。大佐という階級にありながら、その職責を忘れてしまったかのようである。
オルトレップは薄れゆく意識の中で、そんな部下の姿に舌打ちを禁じ得なかった。
「アンハイサー――……退けと言っておろうに……」
そんな時だ。アンハイサーの率いた一個中隊が、一丸となって突進を始めたのは。
今まで上官から下された「退け」との命令を守るべきか、背くべきか、悩んでいたのだろう。けれど、個人的武勇など一かけらも持たないアンハイサーが、決死の覚悟でオルトレップ救出へ向かったものだから、彼等にも火が付いたのだ。
「「「ウオオオオオオオッ! 禿熊を死なせるなッ!」」」
「「「ドライファ・アーに続けッ!」」」
こうして一丸となった二百名はプロイシェ軍を突破し、オルトレップの下へと辿り着く。
けれど辿り着いた途端、彼等には不幸な現実が待ち受けていた。なにせ巨大な戦斧を構えた老人と、回転の速度をいや増す輪廻の使い手が立ちふさがったのだ。
彼等二人は地獄の死神よろしく、次々とフェルディナント兵を屠っていく。
オルトレップが最後の力を振り絞ってみても、左腕の一本ではどうしようもない。部隊はヤスリで削られる木材のように摩耗し、生存者の数を減らしていくのだった。
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午後八時――オルトレップ師団の奇襲部隊は、その大半が撤退を終えた。といっても半数が戦場に屍を晒し、無事に撤退できたのは二千余りの兵に過ぎないが。
ましてやオルトレップの救出へ向かった一個中隊は、この時すでに全員が馬を失い、地に落とされていた。生き残りはたったの十二名、その中には辛うじてアンハイサーも含まれている。
「……ハゲ……師団長……まだ生きてるッスね……良かった……」
地面に倒れ伏したアンハイサーが、血と泥に塗れた顔を上げた。視線の先には片腕で、未だ二人の強敵と戦うオルトレップの姿が見える。
顔面は蒼白、それでも憤怒の形相で軍刀を構え、二人の攻撃を凌ぐオルトレップは今こそ神懸かっているかのようだ。
「貴様等のうち――……ゼェゼェ、どちらか一人でも、ゼェハァ……道連れにせねば……ミーネ様に申し訳が立たぬッ!」
全身にも無数の傷があり、軍服だってボロボロだ。それでもオルトレップが立っていられるのは、ヴィルヘルミネに対する忠誠心と敵に対する執念だった。
そんな姿を見続けて、アンハイサーも何とか立ち上がる。せめて何か役に立たねばと、震える足に力を込めた。
軍刀を握り締め、アンハイサーがジークムントへ斬り掛かる。勝てるなどとは、露程も思っていない。一瞬でも敵に隙が出来れば、オルトレップの役に立てるような気がしたからだ。
「アンハイサー……馬鹿なッ……!?」
雨は既に上がり、蒼銀の月が夜空を照らす。
アンハイサーへ視線を向けたオルトレップの禿頭が、仄かに青白く輝いて見えた。
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ダダダン、ダダダン、ダダダン、ダダダン。
アンハイサーが、いよいよ自分の命を投げ出そうとした時のこと。南方より太鼓の音が聞こえてきた。これは耳にも馴染みのある、フェルディナント軍の行進だ。太鼓に合わせて歩兵が整然と進む、その足音も響いてた。
「全体止まれッ! 構えッ! 撃てッ!」
タタタタタタタタターン!
夜の森に一斉射撃の音が響く。続いてプロイシェ軍の悲鳴が響き、目の前で勝ち誇っているジークムントの細面に罅が入った。と、同時にアンハイサーが斬り込んでいく。
「でやーーーッ!」
本来のジークムントならば、攻撃を弾くと同時に鋭い斬撃を浴びせていただろう。けれど今は物音に気を取られ、アンハイサーの刃を躱すだけに終わっていた。
「どうして――……フェルディナント軍がこれほど速く……?」
狼狽する余り、足が二歩、三歩と後ずさる。
アンハイサーも状況を悟り後退――距離をとった。
「ヴィルヘルミネ様が来て下さったッス! 助かるッスよ、ハゲッ!」
「ハゲ、ハゲと煩いぞ、アンハイサー――……」
オルトレップは安心感から、気が緩んだのだろう。地面に片膝をつき、荒い息をしている。
「ま、まさか――私が奇襲部隊を殲滅する為に陣形を狭めた所を、逆に包囲しようというのか。ヴィルヘルミネは、これを狙って……?」
ジークムントは唇を戦慄かせ、左手で秀麗な顔を覆っている。「信じられない」と掠れる声で言いながら、ヨロヨロと後ずさっていた。
「だとすれば、やはりヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントは正しく戦争の天才じゃの」
「天才どころじゃあない、これは悪魔の所業だよ……オッペンハイム」
グラグラと揺れるジークムントの肩を捕まえ、オッペンハイムは力強く言った。
「いや――だとして第六王子、お前さんも中々に筋が良い。
ほれ、見てみい。雨は止んだ。道はぬかるんでおるが、それでも進めぬということはない。ここで体よく逃げ出せば、我等は断じて負けはせぬ。
なんとなれば、お前さんはヴィルヘルミネを出し抜いて、奇襲部隊を撃滅したのじゃ。大したモンじゃろがい!」
「ええ、ええ――……確かに一定の戦果は手に入れました。となれば悔しいですが、急ぎ退くべきでしょうねぇ」
ジークムントは頬を引きつらせたまま、全軍に撤退を命じる。オッペンハイムは、ついに倒れ伏したオルトレップに黙礼を送り、騎乗した。
こうしてプロイシェ軍は奇襲部隊を撃滅するも、ヴィルヘルミネの本隊を見るや即座に撤退を開始した。それでも殿軍となった部隊は多大な犠牲を出し、戦死者は千百名を数えている。
結局は終始プロイシェ軍が優勢であった戦いだが、最後の最後でヴィルヘルミネが挽回したということであった。
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時を遡ること数時間前。オルトレップに出撃命令を出したヴィルヘルミネの下へ、新たな情報が齎された。
大天幕に設けた私室で簡易の寝台に座り、軍靴を脱いだ足をブラブラさせる令嬢に、トリスタンの口から衝撃の事実が告げられたのだ。
「プロイシェの国境付近に駐屯していたジークムントの第七軍団が、数日前より姿を消したとの情報が入りました。となれば敵の援軍として現れる可能性も高く、警戒して然るべきかと存じます」
「ん……む?」
ブラブラさせていた足を止め、ヴィルヘルミネが口をへの字に曲げる。ジークムントという名が、彼女の脳裏に不快の渦を作り上げたのだ。
イケメン点数で言えば九十点を優に超える王子だが、おっぱいを揉まれたという一事が良くなかった。「あれは悪じゃ!」と決めつけて、赤毛の令嬢は猛然と立ち上がる。
「敵援軍としてジークムントめが現れるのならば、断じてこれを討ち取るべし! 我等も急ぎ、オルトレップの後を追うのじゃ!」
紅き獅子の如き裂帛の気合をもって、ヴィルヘルミネが命令を下す。己の怠惰さえ脇に追いやるほど、ヴィルヘルミネはジークムントが大嫌いなのだ。
「御意ッ!」
トリスタンは跪いた姿勢のまま、深々と頭を垂れた。
とはいえオッドアイの参謀総長は、ジークムントの実力を高く評価している。だからヴィルヘルミネはオルトレップを救うためにこそ、この命令を下したのだと考えた。
実際、奇襲に向かった兵力は五千であり、敵軍に大きく劣るのだ。これでもしも奇襲が見破られており、そこへジークムントが持つ二万の兵力が加われば、まずオルトレップは助かるまい。
――だからこそ援軍に向かおうと言うのですね、ヴィルヘルミネ様! 今日も流石です!
トリスタンは熱くなる一方の目頭を指で押さえ、踵を返した。この最高過ぎる主君の為にも、絶対にオルトレップを死なせるまいと誓いを立てて――……。
こうして雨の中、オルトレップに二時間ほど遅れて、ダランベル連邦軍の本隊も動き出したのであった。




