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113 ハイナ渓谷奇襲作戦 1


 降りしきる雨の中、オルトレップは騎兵一千と軽装備の歩兵四千を率いてハイナ渓谷へ進軍した。


「くしゅんっ――……ったく、なんで私が奇襲に参加するっスか? 雨の中、砲兵士官の自分が部隊を率いて出撃って、おかしいっスよ、まったく」


 くしゃみをしながら文句を言うのは、くるくるとよく動く鳶色の瞳が魅力的な女性――アンネ=アンネ=アンハイサーだ。

 小柄な彼女が雨合羽を着て銃剣を担ぐと、どうにも子供の戦争ごっこに見えてしまう。けれど軍服の肩章に示された階級は大佐であり、オルトレップ師団における砲兵連隊長という重責にあった。


 しかし今回オルトレップに同行したアンハイサーは、大砲を引いていない。

 もちろん、それには正式な理由がある。雨天時において砲兵は、大砲に防水処置を施せば、あとは嫌と言うほど暇なのだ。なのでアンハイサーは嬉々として絵を描こうとしていたのだが、残念ながら、それをオルトレップに見つかってしまったのである。


「なんだ、アンハイサー。暇なら俺と一緒に来い」

「ひ、暇じゃねぇッスよ! 絵を描くのに忙しいッス!」

「それを暇というのだ、アンハイサー。それにな、ライナーのヤツが見つからんのだ。丁度良いから、お前、歩兵の指揮を執れ。

 なに、一緒に突撃しようという訳ではない。司令部を作り、それを守るだけでいいから、な?」

「――は?」

「うむ、うむ。そう考えてみれば、どちらにせよ今回はライナーよりも、お前の方が適任だ。ワハハ」

「え、ちょ……」


 ――ワハハ、じゃあねぇっスよ! あのハゲ! ああ、私もライナーに倣って、さっさと逃げておくんだったッス!


 泥濘の中、歩兵に交じり行軍するアンハイサーは、泥水を蹴飛ばした。


「冷たッ! てめぇ、何しやがッ――た、大佐ッ!?」


 飛ばされた飛沫を足下に受けて、前を行く兵が不満の声を上げる。だが頬を膨らませた半目のアンハイサーを見て、兵はバツが悪そうに頭を搔いていた。


「やだなー大佐、水が跳ねるじゃないですかぁー」

「すまないッスね……でも、雨だから仕方が無いんスよ!」


 ニッコリ笑う陰気な大佐が怖すぎて、怒れる兵は前を向く。ある意味でアンハイサーは、オルトレップよりも暴君的な素養を持っていたらしい。


 なおモーリッツ=ライナー大佐は雨天ということもあり、早々にオルトレップの前から姿を消した。何故なら、常にバイオリンを背負う彼のこと。楽器を濡らしたくない一心で、ひたすら木陰や天幕の中へ避難していたからである。

 お陰で彼はオルトレップに見つからず、奇襲攻撃への参加を免れたという次第なのであった。


 ■■■■


 午後四時三十分、オルトレップは敵司令部が大休止をしている地点を確かめると、すぐさま攻撃命令を下した。日没の近い曇天は暗く、雨も未だザアザアと降り続いている。

 だから渓谷を流れる川は増水し、凄まじい水音を響かせていた。であればオルトレップ師団の出す様々な物音は、水が齎す騒音に紛れて敵の耳には届かなかったのである。


「神は我に味方せり。ここで敵将オッペンハイムさえ討てば、あとは烏合の衆に過ぎぬ」


 馬上で高々と軍刀サーベルを掲げ、オルトレップが会心の笑みを浮かべて言う。

 オッペンハイムがいる天幕は、渓谷の手前に広がる森林の入り口にあった。ここからは距離にして約五百メートル、馬で駆ければ一瞬であり、歩兵でも数分で到達する。しかも煙る雨や激しい水音が、ダランベル連邦軍の存在を未だ敵から隠していた。


 しかし、こうまで接近を許したことを、プロイシェ軍の不手際と切り捨てることも出来ない。なにせ複雑な地形に豪雨が重なって、視界すら確保できない状況だ。

 しかもオッペンハイムに土地勘は無く、地図を見ながら慎重に進んでいた。それゆえに彼は胸の奥に不安を抱えつつ、この雨が敵を阻むことを期待していたのである。


 むしろダランベル連邦軍が豪雨の中にあり整然と動けたことにこそ、相応の理由がある。オルトレップは道案内として、ダランベル貴族や近隣の村人を連れていたのだ。その上で進軍ルートを決め、馬に板を噛ませて音を殺し、敵に迫ったのである。

 つまりオルトレップは一見すると武断派だが、その実は微に入り細を穿つ、理知的な将なのであった。


 といっても、いざ戦場へ突入すれば後方に控えて前線を見据え、本営で指揮を執るタイプの将ではない。戦塵に塗れて部下と共に血を流し、自らが率先して敵陣へ突入する猛将だということも、また事実なのであった。


「突撃せよッ!」


 オルトレップが二刀を抜き、足さばきだけで馬を駆る。五千の兵の先頭に立ち、敵陣へと突入していった。

 

「突撃ー。でやーっス」


 やる気のない声は、当然ながらアンハイサーであった。

 雨天ということもあり、奇襲は全て肉弾戦。となれば小柄な砲兵である彼女は、明らかに場違いだ。いくら用兵が上手くとも、身体を使うことに自信は無い。

 だからアンハイサーは頭上に掲げた絵筆を振り下ろすや、現場の指揮は各大隊長に任せ、そそくさと司令部天幕の設営に勤しんだ。


 いかに奇襲とはいえ、五千もの人員を統御するとなれば司令部は必要だ。ましてや師団長自らが斬り込んだ以上、彼がやるべき全体の統御を司令部が代替しなければならなかった。また負傷した兵の処置や後送など、兵站拠点としての意味合いも大きい。


 ――ま、自分が突撃するからこそ、あのハゲは私を駆り出したってことッスよね。ライナーじゃ一緒に戦っちまうッスから、こういう仕事は不向きッス。


 アンハイサーは褐色のフードを目深に被り、鳶色の瞳を雨に煙る敵軍へと向けた。吶喊してくるダランベル連邦軍に驚き、逃げ惑う敵兵の姿がチラと見え、「ふむ、ふむ」と頷いている。

 砲兵であり画家であるという属性から、アンハイサーは人一倍に目が良いのだ。それで遠くからでも、様々なものを見通せる。


 ――あーあ。雨の中でも、ハゲが輝いて見えるッスね。完璧なタイミングの奇襲に加えて、二刀オルトレップの突撃ときたら……こんなもの、どんな名将だって防げないッスよ。


 アンハイサーは二刀を振るい敵を斬り伏せるオルトレップの姿を眺め、勝利を確信するのだった。

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