112 速乾性のオルトレップ
大天幕を出て前方を眺めると、もぬけの殻になった敵陣営が広がっている。ヴィルヘルミネはポカーンとして、二度、三度と目を瞬いていた。
――んあ? なんか敵が、おらんくなっておるのじゃ。
だが傍目には冷笑を浮かべ、全てを見通していたかのように見える赤毛の令嬢であった。
「迂闊に追撃をいたせば、思わぬ反撃があると考え敵の撤退を放置しました。しかし、むろん敵軍の進路、移動状況は掴んでおります」
参謀総長のトリスタン=ケッセルリンクがヴィルヘルミネの脇へ進み出て、進言をした。
「で、あるか」
「は――……進路は東、距離は凡そ三キロの地点にいるかと。物資を捨てての行軍ゆえ、プロイシェ本国への撤退を優先していることは、疑いようもありませぬ」
「だが、総参謀長。敵は未だ四万もの軍勢だ。国境を越えるまで、油断は出来んぞ」
先程まで望遠鏡を手に、敵陣営をつぶさに見ていたリヒベルグがヴィルヘルミネの下へ来た。令嬢に敬礼をするや、すぐに腰に手を当て、長身オッドアイの参謀総長に忠告をする。職務こそ異なるが、階級は同じく少将だ。お互い、遠慮をしない間柄である。
それに敵の動向を探っているのは、もっぱらリヒベルグや彼の部下たる情報将校であった。となれば彼の持つ情報は、いっそトリスタンよりも多岐にわたるのだ。
「――当然、追う。それに、可能ならば叩き潰すつもりだ。それでいいのだろう、リヒベルグ」
「ああ、それでいい。この四万を潰せば、プロイシェ軍は暫く立ち直れんだろう。となれば我が国とは国力のみならず、戦力さえも逆転する」
「リヒベルグ――……我ら軍人は、戦に勝つことのみを考えていれば良い。国力や戦力など、国家の根本を論じるべきでは無かろうよ。ましてやヴィルヘルミネ様の御前だ。口を慎め」
やや眉根を寄せて顔を顰め、トリスタンがリヒベルグを睨む。黒髪の漁色家は「ククク」と笑い、肩を竦めていた。
そんな二人のやりとりを見て、腐女子の本懐とばかりにヴィルヘルミネは口角を吊り上げている。余りにも妄想が捗り過ぎて、脳みそが独り歩きを始めそうであった。
――トリスタン×リヒベルグ! 全然アリじゃ!
そうして調子に乗った令嬢は、「フハハ!」と笑い、指先を東へ向ける。二人のやりとりを見続けたいと思えば、より長く遠征を続ける他に道は無い。
「敵を追い、そのままプロイシェへ入るも悪くはあるまい」
ヴィルヘルミネの赤毛が風に揺れ、背中で踊っていた。それはまるで全てを焼き尽くす炎のように見え、二人の将は茫然と主を見つめている。
「ハ、ハハハ……」
リヒベルグは額に手を当て、頬を引き攣らせて笑った。
「まさか、プロイシェを征服するおつもりであられましたか――……」
トリスタンは左右色の違う目を見開き、令嬢の壮大な稀有に感動した。まさかフェルディナントという小国の主が、軍国を征服しようという気概を示すとは。
だが何よりも恐ろしいのは戦争の天才たるヴィルヘルミネならば、それが可能だということだ。
「お二人ともプロイシェごとき小国の征服に、いったい何を驚いているのです?」
そこへ颯爽と現れたのが、共に夢を追う者(勘違い)、エルウィン=フォン=デッケンであった。
「ヴィルヘルミネ様の大望は、この大陸を手に入れること。なんとなればプロイシェの征服など、行きがけの駄賃に過ぎません」
ズガガーン! と雷撃を脳天に受けたかの如く、トリスタンとリヒベルグは驚いた。だがそれ以上に衝撃を受けたのは、もちろん赤毛の令嬢その人である。
――いったい全体なぜ、余が大陸を手に入れねばならぬのじゃ!?
■■■■
フェルディナント軍と北部ダランベル同盟軍が合流し、いよいよダランベル連邦軍を名乗るようになって二日目の昼頃。プロイシェ軍を追っていると、突然の雨に見舞われた。
そもそもが、この日は朝から曇天で肌寒い。それでヴィルヘルミネは毛布に包まり、「さ、寒い、余は死ぬのか……」などとのたまっていたのだが。いよいよ雨が降る段となり、ついに赤毛の令嬢は全軍に大休止を命じてしまったのである。
――こんな雨の中、馬になんか乗っておれぬ! 寒いし濡れるし、最悪じゃ!
「雨が止むまで、行軍は中止である。直ちに大天幕を建てよ」
といって、こうした事情はプロイシェ軍も同様だ。なにせ彼等は追っ手を恐れ、急峻な渓谷沿いを進んでいた。万が一にも泥濘に足を滑らせ転落すれば、崖下の荒れ狂う川に真っ逆さまだ。
「閣下。ここで無理をして先を急げば、たとえ敵の追っ手からは逃れられても、足を滑らせ死ぬ者が後を絶たないでしょう。そのうえ土砂崩れにでも巻き込まれれば、損害は計り知れません」
フェリックスにこう言われては、オッペンハイムも強くは出られず。やむなく大休止を命じ、一先ずは雨宿りをすることにしたのだった。
■■■■
ザアザアと降る雨粒が、ダランベル連邦軍の大天幕を叩いている。翻るべき旗も濡れて水を滴らせてはいるが、そこに聳えるのは紛れも無い、フェルディナントの一角獣旗なのであった。
「ヴィルヘルミネ様。敵が大休止をしている場所を突き止めました。ハイナ渓谷の中ほどです――……つまり南は山沿いの森、北側が渓谷であり、これを攻撃なさらぬ手は無いかと」
濡れた身体に毛布を羽織り、暖かな紅茶を啜っていた赤毛の令嬢の下へ、ビチャビチャと雨水を滴らせたイケメンが意見具申に現れた。むろんそれは情報部を束ねる男、藍色に見える黒髪のリヒベルグ少将だ。
彼はヴィルヘルミネの大陸制覇という大望(勘違い)に感じ入り、いよいよ忠誠心を拗らせている。なのでプロイシェ軍を一気呵成に打ち破るべく、暇さえあれば虎視眈々と作戦を練っていたのだ。
「……で、あるか」
しかし正直ヴィルヘルミネとしては大陸制覇など、どうでもいい。というか雨の中、もう動きたくない。働いたら負けだ。なので「行きたいヤツがいるなら、勝手にして!」と思っていた。
そんな時だ、金髪の親友が「はい、はい!」と手を上げてしまったのは。
「リヒベルグ少将! それは奇襲ということですね!? でしたら、わたしに任せて頂けませんか!?」
ゾフィーは今の今まで机を前に座るヴィルヘルミネの髪を、かいがいしく布巾で拭いていた。そんな彼女が蒼い瞳を輝かせ、出撃したがっている。
令嬢としては、「危ないからダメ!」と言下に否定したい所であった。だが否定するにせよ、理由がない。まさか、「もうちょっとイチャイチャしたいでござる」とは言えない。なので目を閉じ、ヴィルヘルミネは「むむむ」と唸っている。
そこへ、新たに水を滴らせた男が現れて……。
「ゾフィーでは無理だろう、なにせ相手はオッペンハイムだ。一騎打ちになったとして、おまえさんにゃ荷が重い」
ボタボタと水の滴るフードを持ち上げれば、きらりと光る禿頭が現れた。ギョロリとした目を優し気に細め、ヴィルヘルミネを見るや跪く。ベーア=オルトレップであった。
「この奇襲――……我が師団にご下命頂けませぬか、ヴィルヘルミネ様」
ヴィルヘルミネは徐に立ち上がり、自らの髪を拭いていた布巾を禿頭の将にあてがった。キラリと光る頭をキュキュッと拭いて、大きく頷いている。
ゾフィーが外に出るよりも、オルトレップの方が安心だ。それにハゲなら濡れたって、ほうら――すぐに乾いちゃう! とご満悦。
「よし、行け」
こうしてヴィルヘルミネはオルトレップ師団に、休息するプロイシェ軍への奇襲を命じたのであった。
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