106 ツヴィーゼル山麓の戦い 3
馬を走らせ撤退する最中、ヴィルヘルミネはふと気が付いた。
――あれ。そう言えば会議の時、撤退するとか言うておったような?
涙を拭って周囲を見渡してみれば、都合よく山中に伏せた鋼鉄の薔薇の面々が、見事に援護をしてくれている。護衛役のスヴェンが側にいないのも、彼等と行動を共にしているからだ。
となれば現在の状況は予定調和に過ぎないのだから、赤毛の令嬢は幾分か気が楽になった。
そもそもゾフィーとエミーリアなど笑顔さえ浮かべている訳だし、むしろ勝たなくて良かったのでは? と、ようやくにして思い至ったヴィルヘルミネである。
――なぁんだ。余、心配して損した。
結論が出れば現金なもので、ヴィルヘルミネの涙はすっかり引っ込んだ。
そうして元気になった赤毛の令嬢は、自らに付き従うエルウィンを振り返る。今後の問題を全て、彼に押し付けてしまおうという算段であった。
僅かに目を細め、ヴィルヘルミネはニンマリとした笑みを口元に浮かべて言う。
「エルウィン――……以後の指揮は卿に任せる。よいな?」
何だかんだでヴィルヘルミネは、軍事指揮官としてのエルウィンを高く買っていた。なので今のような状況下、丸投げにするなら彼しかいないと思ったのである。
もちろん本来ならば、ダランベル同盟軍の指揮官であるエミーリアに丸投げするのが筋であろう。それでもエルウィンを選んだのは、令嬢の第六感かもしれない。
事実、軍事指揮官として二人を比した時、エルウィンに一日の長があるのだ。
だがエルウィンは突然のことに、口をあんぐりと開けていた。せっかくのイケメンが台無しだ。けれど、いきなり天才から指揮権を丸投げされれば、誰だってそうなるだろう。
そもそも現状は予定通りで、指揮を引き継がせる意味が分からない。これが天才ならではの不可解な思考による産物だろうかと、エルウィンは推し量るしか無かった。
「なんじゃ、嫌なのか?」
返答の無いエルウィンを不審に思い、眉根を寄せたヴィルヘルミネが、「む、む」と唸っている。
となれば共に夢を追う者(勘違い)として、否とは言えないエルウィンであった。
「はっ――……え? いや、まさかっ! ぎ、御意にございます!」
■■■■
突然のことに夜空色の瞳を白黒させつつ、エルウィンは脳内で状況を整理した。
作戦会議には参加していたし、部隊の配置は頭に入っている。けれど一万以上の兵力を動かすなど、初めての経験だ。緊張で額に汗を掻く。
チラリとヴィルヘルミネの横顔を見れば、悠然と笑みすら浮かべている。ピンクブロンドの髪色をした青年が、万の軍を指揮できないとは露程も思っていない様子だ。
――ご期待に応えなければ!
エルウィンは己に言い聞かせ、馬に拍車を入れる。本営にすべく準備した地点へ、いち早く辿り着く為であった。
――どうして、いま僕に指揮を任せるのだろう?
エルウィンは馬上で思考を巡らせ、ヴィルヘルミネの意図を探る。万の軍を現時点で預ける意味が、どこにあるのか――考えれば考えるほど、不思議であった。
だが、やがて一つの結論に至る。
今のところ彼は佐官であったが、年齢的に将官へ至るのは時間の問題と思われた。ましてやフェルディナント軍はこれから、急拡大をするだろう。となればエルウィンが師団長となり、万の軍を統率する日も遠くはない。
――つまりヴィルヘルミネ様は、僕に経験を積ませようとしているんだッ!
エルウィンは馬を止めると両手で頬を張り、気合を入れて一人、頷くのであった。
■■■■
ツヴィーゼル山の中腹に本営を設置すると、エルウィンは予ての手筈通り反撃の指示を出す。本来はヴィルヘルミネがやるべき仕事であったが、全てを丸投げた赤毛の令嬢は、さっそく建てた天幕でお休みになっていた。
どちらにしろ反撃をして、敵を追い返さなければならないのだ。その上で敵に、「あと少しで倒せたのに」と思わせたら今日のところは勝ちである。
「――にしても、鋼鉄の薔薇という部隊の働きは、見事の一言に尽きるな」
エルウィンと共に本営の天幕で部下の報告を聞いていたエミーリアが、驚嘆の声を上げている。
だが、それもそのはずだ。小隊規模の戦力しか持たない鋼鉄の薔薇が、なんと四万近い敵の足を遅らせているのだから。
「我が軍の特殊部隊です。超人的な格闘戦能力と高い射撃技術を併せ持ち、三日間飲まず食わずでも戦える。しかも一週間程度なら、睡眠さえ不要だ。流石に我が近衛連隊でも、これだけの条件を揃えた精鋭となれば、百人もいませんね。とはいえ――……弾薬の量には限りがある。白兵戦で四万近い敵の足止めは、流石に出来ません」
薄闇の中、長机の上に乗せた地図に人差し指を這わせてエルウィンが言う。
「ゾフィー=ドロテア大佐。騎兵二千を率いて密かに下山し、敵の背後を衝けるかい?」
「もちろんです」
大きく頷き、すぐに天幕を後にするゾフィー。彼女に続こうとして、エミーリアが踵を返す。
「エミーリア殿には、別の仕事があります。この場に居てくれませんか?」
「えっ?」
「ダランベル軍の指揮官は、あなたです。居て貰わなければ困る」
エルウィンが矢継ぎ早に命令を出した結果、今ではこの区画にいるのが彼とエミーリアだけになってしまった。もちろん本営の天幕だから、垂れ布を数枚捲ればヴィルヘルミネが座す場所にも到達する。
けれど区切られた空間に男女で二人だけというのが、エミーリアにはどうにも耐えがたかった。というかエルウィンがイケメン過ぎて、変な妄想が膨らんでしまう。
「そ、それもそうだが――……エルウィン卿は私と二人きりで……一体何を考えているのだ……もにょ、もにょ」
上目遣いの潤んだ瞳で、エミーリアがエルウィンを見つめながら言う。だがそれは、むしろエルウィンの台詞だ。
何故か内股でモジモジとするエミーリアは、本当に男性に弱い。ランプの光に照らされるエルウィンの横顔にキュンキュンして、夜空色の瞳に吸い込まれそうだった。
トリスタンやヘルムートも良いが、どう考えてもエルウィンの方が年齢も近い。奥さんになるなら、断然この人だとエミーリアは思った。しかも、彼の父はフェルディナントの軍務卿だ。ならば男爵家とはいえ、家の釣り合いだって取れている。
が、しかし。
当のエルウィンにその気は一切なく、立ち上がると天幕の外へ出た。大砲の轟音が遠くから聞こえ、山裾へ目を向ければ赤い火花が散っている。
エミーリアはエルウィンの隣に並び、「うわぁ、花火みたい」なんて呑気なことを思っていた。思わず手が伸びて、ピンクブロンドの髪色をした青年の左手を掴みそうになる。
空には満天の星々、そして地上は大砲による花火――となればエミーリアの脳内はロマンチックな桃色に占められて、今にも涎を垂らさんばかりの勢いであった。
「エルウィン卿――……こんなところへ私を呼び出して、ど、どど、どうするつもりなのだ?」
「え、いや……別に呼び出した訳では……というか火砲を順次、後退させるつもりなのですが、その実務をエミーリア殿に頼もうと思いまして」
「えっ……そんな、こと? あ、う、あ、――……お、お安い御用だ! 任せてくれ給えよ! うん、任せてくれ! そうだ、私はプロイシェ軍に報復をせねばならんのだッ! 雑念を追い払わねばッ!」
すぐに舞い上がってしまう自分に赤面して、エミーリアは駆け去った。今度こそ軍務に専念しようと、ブルネットの美女はテキパキと指示を出す。
こうして二十二時三十分、プロイシェ軍は攻勢の限界を感じ、一時撤退を決めたのであった。
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