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98 壁に耳あり障子に……


 プロイシェの陸軍統帥本部は、王都ツェペシュを流れるヤクスト川の中州に置かれている。中州は広く、庶民からは役人島と呼ばれていた。つまりは他の省庁もあり、外界と隔てる大きな石橋を渡るのは、大半が政府の役人か軍人だったからである。


 彼等の多くは地主貴族ユンカー上がりのエリートで、大きな橋の上は朝から晩までひっきりなしに黒塗りの馬車が往来する。

 徒歩で橋を渡る下級の役人でさえベージュや緑のジェストコールを身に纏い、洒落た帽子を乗せていた。彼等は誰もが役人島で働くことを、誇りに思っているのだ。


 とはいえ、ここがツェペシュの中心とは言い難い。権力の中枢はあくまでも王宮であり、そこへ詰める廷臣や軍人は、彼等よりも更に一段高い位置にいるのだから。


 ともあれ第二王子ゴットフリートは、いまや役人島の主である。他の省庁を司る大臣たちさえ、彼の顔色を窺わずにはいられない。何故なら彼は王族であり、第二位の王位継承権を持っているからだ。

 

 だがゴットフリートの表情は、常に鬱屈した怒りを孕み歪んでいる。ただ兄よりも遅く生まれたというだけで、予備という扱いが許せなかったのだ。


 もしも神がいるのなら、まさしく彼は呪っていた。知能も力も美しささえも、ゴットフリートは兄よりも優れている。少なくとも彼は、そう信じていた。

 だというのに生まれた順番だけで、全てが決まる。それが神に定められた摂理だというのなら、力によって捻じ曲げてやると、ゴットフリートは思うのだ。


 事実、彼は半ばまで己が野心を達成していた。

 役人島の主となり、ここで華々しい戦勝を収めれば、音楽や絵画にしか興味を示さない兄を僧院にでも追いやり、自分が王太子となれるのだ。反対する者など、誰もいないだろう。そうなるよう一歩一歩、地道に陰謀を巡らせてきたのだから。


 ――だが、ジークムントめ。


 そんな時、今まで歯牙にも掛けなかった弟が、突如として英雄になった。いや、英雄にしてやったのだ。敗戦から大衆の目を逸らす為の、偶像として。


 しかし、そうして作られたはずの英雄が、いつの間にか軍部の中枢に食い込んでいた。挙句の果てにはグロースクロイツの旧幕僚たちが、彼こそ真の名将だとまで持ち上げる。

 だからこそジークムントは乞われる形で、彼等を丸ごと自分の第七軍団へと吸収したのだ。結果として今や全軍の四分の一が、彼の支配下にある。


 ゴットフリートにとっては認めたくないことだが、今やジークムントは自分を脅かす対抗馬になろうとしていた。


 ――これ以上、ヤツに功績を立てさせるわけにはいかん。いや、私に忠実であればいい。だがヤツは、腹の底が見えんのだ。ならば場合によっては――……。


 執務室の窓辺に立ち、ゴットフリートは手を後ろに組んだ。視線の先にあるのは、国王座所たる白亜の宮殿だ。


 本部長執務室は五階にあり、金色に輝く王宮の屋根さえ見下ろせる。

 建設当初は不敬だと騒がれもした。しかし警備上、王宮を俯瞰して見ることが出来るメリットは大きく、また当時の責任者がグロースクロイツであったこともあり、建設は強硬されたのだ。


「まあいい、あと少しだ。あと少しで私は、アレを手に入れることが出来る……」


 ゴットフリートの口元が、ニヤリと歪む。中空に浮かんで見える、王宮の屋根へと手を伸ばす。と、その時――……。


「あっにうえ~~~~!」


 大きな樫材の扉が開き、間延びした声が聞こえてくる。誰あろう第六王子ジークムントが、クネクネとした動きで近づいて来るのだった。


 ■■■■


「なぜ、お前がここにいるのだ! 私は国境の警備を命じたはずだぞ!」

「まぁまぁ、兄上~~~。そんなことより私は作戦の全体像がどうなっているのか、その辺が知りたいのですよ~~~」

「そんなもの、お前に説明する謂れなど無い。軍団長の如き枝葉末節は、統帥本部の立てた作戦に従っておれば良いのだ!」

「でもでも、味方がどんな風に動くのかを知っておかなければ、万が一の時に対処が出来ないでしょう? 

 あ、ほら――……兄上の好きなシュークリームも買ってきましたし。とりあえずこれを食べながら、教えて下さいなぁ~」

「おい! 私がいつ、シュークリームが好きなどと言った!?」

「え、おっかしいなぁ? 兄上は確か毎週火曜日と金曜日に、レッカ・レッカっていうお菓子屋さんから、シュークリームを取り寄せていますよねぇ? そう聞いたんですよぉ、フフッフー」


 ジークムントは手早く菓子の入った箱を開け、従卒に紅茶の用意を命じている。

 一方でゴットフリートは眉間に皺を寄せ、美しいが意地の悪そうな顔を渋く歪めていた。


「貴様、どこでそのことを……?」

「兄上は、ご存じ無いようですね。東洋には、こんな諺があるんですよ……壁に耳あり障子にメアリーってね。つまり、どこにメアリーが潜んでいるのか分からないから、気を付けろってことです……フフッフー」

「いつでも私を殺せるぞと――……そういう脅しか? ならば高くつくぞ」

「まさか、まさか。ただ単に、兄上の好みを知りたかっただけですよ。こうして嗜好品を献上し、お考えを拝聴する。それ以上の意図など、ありませんとも――ええ、私ごとき六番目の王子にはね。強い者には阿る主義なんです。分かるでしょう?」

「――ふん、殊勝だな。では良かろう。状況くらい、教えてやるさ。こっちへ来い」


 執務室の中ほどにある楕円形のテーブルの前に移動し、コッドフリートは大きく広げた地図を指差した。複数ある青色の駒を動かす彼の顔は紅潮しており、勝利の予感に酔っている。


「第四軍団、第五軍団とも予定通り侵攻中だ。全ての街を攻略し、前進を続けている」

「では、第十一師団はどうなのです? 彼等のみ単独で、兵力も少ないのですが……」

「彼等は最も入り組んだ経路を行くからな、大軍では移動しにくい。実際、積雪に阻まれ、一日の遅れが生じている。しかし、これも想定内だ。問題では無い」

「そうですか。この調子なら四月には予定通り、ザルツァ領を制圧することが出来るのでしょうね」

「ああ。私の立てた作戦に、不備などあろうは筈もない――当然だ」


 説明を聞いたジークムントは、地図上にあるフェルディナント軍の駒を持ち上げた。ゴットフリートが海に近いザルツァ領へと集結させたプロイシェ軍の青駒に、フェルディナント軍を示す赤駒をドンとぶつけ、「フフッフー」と笑っている。


「ですが――……もしもフェルディナントとダランベルが手を結べば、兄上の予定したザルツァ攻略を邪魔されるかも知れませんねぇ?」

「馬鹿なッ! 奴等が手を結ぶわけがない!」

「なぜ、そう言い切れるのですかぁ? 理由はなんですぅ?」


 ジークムントは目を細め、ニヤニヤと笑いながら腰を屈め、ゴットフリートを下から舐るように見つめている。


「そもそもフェルディナントに、北部ダランベルを助ける理由など無かろうッ!」

「さて、それはどうでしょう? 状況は刻一刻と変わるもの」

「だから私が、こうして指揮を執っている!」

「と、仰るわりに兄上は――……安全な場所に引き籠り、地図を眺めていらっしゃるだけです。これで戦況が本当に分かるのなら、神にも等しい存在ですねぇ」

「皮肉か?」

「いいえ、現実の不安ですよ。例えば前線の指揮官が、嘘を吐いて勝報だけを送ってきたらどうするのです? 或いは敵に伝令が捕まり、罠を仕掛けられることだってあるかもしれません」

「全ては厳重な監視下にあり、司令官は嘘の報告など出来んし、伝令も捕虜になるくらいなら死を選ぶだろう!」

「へぇ、それは頼もしいことで。しかしながら叔父上――……グロースクロイツ大公であれば、自ら前線へ出て指揮なさったでしょうね。その方が、確実だ」

「戦場の指揮など、軍団長たちに任せておけば事足りる! なにゆえ統帥本部長たる私が、わざわざ前線へ出ねばならんのだ! そもそも、だからこそ叔父上は亡くなられた! 私は同じ轍を踏む程、愚かではないぞッ!」

「そうですか、そうですかぁ。確かに叔父上は負けましたが、戦場で散ったからこそ英雄です。しかし後方で口しか動かさない兄上は、もしも負けたらどうなるのでしょうねぇ……? フフッフー、楽しみです」


 ニヤニヤと笑うジークムントに対し、ついにゴットフリートは堪忍袋の緒が切れた。指揮杖を真っ二つに降り、軍靴を鳴らして床を蹴る。


「貴様の軍団は後詰として、国境を守れと命じたはずだ! なのになぜ、軍団長たる貴様が統帥本部にいるッ! 即刻命令に従わねば、軍規違反の咎で処断するぞ! たとえ王子であってもだッ!」

「なに、理由は先ほど説明させて頂いた通りのことですよ。それでは、さっそく任地へ向かいましょう――……最悪の事態に備えて、ね」


 こうしてジークムントはクネクネと動き、統帥本部長の執務室を後にするのだった。

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