92 ヴィルヘルミネ、欲望に飲まれる
午後九時ニ十分、存分に飲んで食べたヴィルヘルミネは、名残を惜しみつつも席を辞そうとしていた。
「皆には本当に助けられた、礼を言う。国へ戻ったら、十分な謝礼をするつもりじゃ。それからフェルディナントへ来た折には、ぜひ公宮へ立ち寄って欲しい。十分なもてなしを約束する」
ぴょこんと真紅の頭を下げて、ヴィルヘルミネが礼を言う。こうした仕草自体が、実に珍しいことだ。
可能ならば赤毛の令嬢は、彼等を伴ってフェルディナントへ帰りたい。けれど今の立場を考え、自重しているのだった。
「水くせぇこと言うなよ、嬢ちゃん。それどころかレーナの結婚問題を解決して貰った上に、バカ息子の面倒まで見て貰ってんだ。むしろ、こっちが礼をしなきゃならねぇくらいだぜ」
ロホスが鼻の頭を指で掻きながら、照れくさそうに言う。スヴェンは憮然としながら何かを言いかけて、止めた。
「あたしは、ぜひ行かせてもらうわ! ミーネ様の生まれ故郷、すっごく見てみたいもの! それに、これでお別れなんて絶対にいや!
こんなことを言ったら怒られそうだけれど、あたし、ミーネ様が妹のような気がしてるの――……だから少し心配だし」
「余が心配?」
「あ、ううん、大したことじゃあ無いのだけれど……とにかく、絶対にフェルディナントへ行くわ! ぜったい、また会いましょう!」
レーナはニッコリ微笑み、横に座るヴィルヘルミネの手を取った。頬がほんのり赤く染まっているのは、きっと馴れない葡萄酒を飲んだからであろう。
赤毛の令嬢は握られた手をじっと見つめ、キュンとした。そんな風に言われると、ますます別れがたくなる。これで席を立ち、城へ戻ろうと思っていたのだが――……思わず本音が飛び出した。
「そのことじゃが、じゃが……レーナ。じつは余も、そなたと離れるのは忍びない。だって今や、姉とも思うておるのじゃからして、して」
握られた手をギュッと自分からも握り返して、赤毛の令嬢がレーナをじっと見つめている。
「嬉しい!」
ヴィルヘルミネの身体をガバリと抱きしめ、レーナが喜びを体現した。赤毛の令嬢は「ふぉぉぉぉぉ」と仰け反りながら、幸福感に満たされていく。鼻血が出そうだった。
――むむ! もう我慢できぬッ!
ヴィルヘルミネはビビッときた。これこそ、相思相愛というやつだ。何としてもレーナを、公都バルトラインへ連れ帰りたい。
何か手は無いか? ヴィルヘルミネは足りない頭で考えた。レーナは医者の卵だ。医者、医者――……いた! 一人、とびきり優秀な医者が!
――そうじゃ! ラインハルト=ハドラーを餌に使うのじゃ!
赤毛の令嬢はレーナに抱き締められながら、口角を吊り上げ悪い笑みを浮かべている。それからレーナの背をそっと撫で、我、勝てり――なんて戦場みたいなことを思うのだった。
「のう、レーナ……そなたは医学の勉強がしたいのじゃろう? ならば、いっそ余の国に来ぬか? 大学は無いのじゃが、実はラインハルト=ハドラーという男がおってな――……そこそこに高名な医者だという。どうじゃ、知っておるか?」
「ええ、ええ、もちろん知っているわ! だって彼の著書なら、全部持っているのよ! 『基礎疫学概論』とか『笑気ガスによる外科手術の可能性』とか――大学では邪道なんて言われていたけれど、あたしは凄く進歩的だと思っているの! 彼って最高よッ!」
――フフフ、チャーンス!
ヴィルヘルミネの右目が、鈍く光っている。
――にしてもハドラー、ヘルムートとイチャイチャしかしておらんと思っておったが、本も書いておったんじゃのぅ。余も何か、本でも書こうかのぅ?
彼の有能さを知らないのは、ヴィルヘルミネだけである。
ちなみに赤毛の令嬢が作りたい本は女性用同人誌に違いなく、ある意味では医学書になるのかも知れなかった。
「ほほう。ならば、彼を師と仰ぎ、医学の勉強をしてはどうかの?」
「いいの? だって彼は内務大臣っていう重職にあるから、忙しいって聞いているわ! だから王立学院も、あたしの通っていた大学も、彼を講師として迎えることを断念したのよ! 断られたからって!」
――え、ハドラーってば仕事が忙しすぎて、そういうのを断っていたじゃと? 確かに父上の病気を診ながら大臣もやっておるから……でもでも、ヘルムートとイチャイチャしておるから……ええと、ええと。
ちょっと衝撃を受けたヴィルヘルミネは、「余のせいかも」なんて思い焦っている。冷や汗が頬をタラリと伝い、若干の目逸らし顔だ。
なおヘルムートとハドラーは、断じてイチャイチャしていない。
「お、おお……まあ、彼は余の内務大臣じゃからの。まあ、レーナ一人を弟子として取るくらいは、問題なかろうて」
「え、ええッ!? ミーネ様、いいの!? ご迷惑にならないかしら!?」
目をまん丸に見開いて、レーナは驚いている。ヴィルヘルミネは、少しだけ困っていた。
ご迷惑になる、ならないで言えば、多分ハドラーは迷惑だと言うだろう。しかし今はレーナを持ち帰りたい一心だから、どうしても欲望が勝る。
ついにヴィルヘルミネは、自信満々で言った。
「我が軍としては、軍医の育成も急務じゃ。その意味でもレーナが来てくれれば、有難いのじゃがの」
むやみに親指を立て、ヴィルヘルミネはドヤ顔だ。
「嬉しいッ! でも軍医になる為には、それこそ大学を出ないと資格を得られないわ。だからミーネ様! あたしが大学を卒業するまで待っていて! それからハドラー先生に教えを乞いたいの! ね、お願いッ!」
ヴィルヘルミネに縋るレーナ。しかし我慢など出来ない令嬢は、「む、む」と唸っている。
「む、む……大学か……しかし今のランスでレーナが大学を卒業する為には……む、む……」
ヴィルヘルミネは顎に指を当て、必死で考えた。
赤毛の令嬢は今、何が何でもレーナを持ち帰りたい。正直言ってスヴェンに借金を背負わせ妻にしようとしたリンデンと、同じ穴の貉だ。違いがあるとしたら彼女の為に、一体いくらの金を使うか――という一点だけであった。
――もしやフェルディナントに医師の資格を発行できる程の大学を作れば、レーナが来るということではないのか? むむ? 余、これは名案じゃぞ!
「よい、レーナ。ならば余が、そなたの通う大学を作ろう。これにて、万事解決じゃろ」
こうしてヴィルヘルミネはフェルディナントの国家予算を、レーナの為に使うことを決意した。
副作用としてフェルディナントは大陸有数の医科大学を持ち、数多の優秀な医学者を輩出する。それが伝統となるに至り、後世、全世界で西洋医学を学ぶ医師たちは、並べてフェルディナント語で論文を書くことになるのだった。
……と、赤毛の令嬢が欲望に飲まれ、歴史的決断を下した瞬間――入口の扉が蹴破られた。武器を構えた五人の男達が乱入し、ヴィルヘルミネへ駆け寄ってくる。
「ミネルヴァ! 天誅ッ!」
布を顔に巻き付け、目だけを出した賊がヴィルヘルミネに向かって叫ぶ。
彼等は一様に暗い色のジェストコールを着て、黒いコートを羽織っていた。その内の一人が手にした短剣を閃かせ、ヴィルヘルミネに躍りかかる。
「ファッ!?」
赤毛の令嬢は驚き、腰を浮かせた。十センチは浮いた。けれど無能な彼女には何ら対処する術など無く、目に涙を溜め、賊を睨み据えるだけであった。
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