91 春の雨、招かれて……
三月も半ばのこと。ボロヂノ領にも暖かな風が吹き、春の訪れを告げている。であれば日暮れと共に降り始めた雨がいかに冷たくとも、冬の終わりを知るヴィルヘルミネにとって、さしたる苦痛ではなかった。
仕事を終えたヴィルヘルミネは、政庁たるボロジノ子爵の城を出た。スヴェン一人を伴って、しとしとと降る雨の中を行く。傘の縁を伝って落ちる雨の雫が街灯を反射して煌めき、令嬢は目を輝かせるのだった。
フェルディナントと北部ダランベルは明日、手を結ぶ。そうした会談を控えての雨は、見る者によっては凶兆だ。しかし、何も考えないヴィルヘルミネにとっては目を楽しませる、単なる慈雨だった。
――春じゃ! 雨じゃ! びっちゃびっちゃ、ぐっちょぐっちょ、らん、らん、るー! 戦に勝って公都へ戻り、いっぱい遊ぶのじゃ!
……ってなものである。
もっとも、この雨は夜半に雪へと変わっていく。それこそが、本当の意味で凶兆であった。
この地域で三月半ばに雪が降ったのは、五十年も前に一度だけ。しかも、それが酷い冷害による飢饉の年であったから、老人などは恐れおののいたものである。
そんなことはつゆ知らぬヴィルヘルミネが向かう先は、ロホスとレーナが泊る宿であった。二人が明日にも故郷へ帰ると言うから、夕食を共にすることとなったのだ。
といってもヴィルヘルミネの立場は、未だ公になっていない。なので彼女の立場を考え、秘密を最後まで保つ為に部屋へ料理を運ばせ、ヴィルヘルミネ、ロホス、スヴェン、レーナの四人だけで食べることになっている。
ロホスはボロヂノ子爵を助ける為、レーナはヴィルヘルミネの体調を心配して、何だかんだと予定よりも一週間近く長い滞在となった。
けれど明日、フェルディナンドと北部ダランベルの盟約が成れば、全ては解決だ。それで今日は、ささやかな祝いの席を設けた――という次第である。
午後七時三十分。四人が部屋に揃うと、ロホスは厳かに言った。
「皆が無事、この日を迎えられた幸運に――……乾杯!」
続いてスヴェンとレーナが葡萄酒の入った陶器のグラスを掲げ、唱和する。
「「乾杯!」」
「か、乾杯じゃ」
一人ヴィルヘルミネだけが遅れて、杯を掲げた。普段は自分に合わせて皆が唱和するから、戸惑ってしまったのだ。他の三人が笑い、赤毛の令嬢を温かい目で見守っている。
何とも面はゆい気持ちでヴィルヘルミネはクイと杯を傾け、飲み干すのだった。
■■■■
ロホスやレーナといった農民一家と出会い、ヴィルヘルミネは少しだけ家族というものが理解できた気がする。彼女にとって家族とは、今までよく分からないものであった。
用事が無ければ会うこともままならず、何を考えているのか分からない病身の父親。幼い頃、病で亡くなったというウェルズ生まれの母親。そういった者に親しみを持てと言われても、正直「なんのことやら?」であった。
物心がついて以降はゾフィーやヘルムートの方が身近な存在で、臣下というより兄や妹のように思っている。もちろん二人も、ヴィルヘルミネに対して同様の愛情を抱いていることだろう。
だがしかし、二人は愛情ゆえに決してヴィルヘルミネがいる場所まで、階を上がろうとはしなかった。どころか令嬢が己のいる場所から降りることさえも、絶対に許さないはずである。
それもこれも自分が貴族なんかに生まれついてしまったせいだと、ヴィルヘルミネは真剣に考えた。
だからこそ彼女は貴族の特権に対して激しい嫌悪を抱き、ご幼少のみぎり、プンスコプンスコお冠でヘルムートに問うたのだ。
「どうして我が国は、貴族や聖職者からは税金を取らぬのじゃ? なぜ、平民と同じにせぬ? 不公平ではないか。これでは高貴なる責任の名の下に、民を苦しめているだけじゃろう。ならば余はいっそ、平民になりたい……」
それはもう、ただ単にヘルムートやゾフィーと同じになりたいだけだった。けれど曲解したヘルムートは間髪入れず、こう答えたのだ。
「その不公平をこそ伝統と称し、貴族や聖職者は社会正義と言うのです。しかしながら、現実に目を向ければ彼等は単に、既得権益にしがみついているだけのこと。
そもそも平民階級は貴族、聖職者を合わせた数の四十倍もいますから――……やがては、全てが覆る日がくるでしょう。その時こそヴィルヘルミネ様は民の先頭に立ち、どうか存分に彼等を導かれませ」
「……ふぅん。つまり、ならば余も、いつかは平民になれるのじゃな」
遡ってみれば、ヴィルヘルミネは身近なイケメンや美少女と仲良くしたかっただけなのだ。けれどそれが貴族社会にあっては孤立を招き、平民からは神のように崇められる結果となった。
実際にヴィルヘルミネは、その支配領域における貴族、聖職者の免税特権を廃止した。これにより負担の減った平民は続々と軍隊へ志願し、彼等は当然のようにヴィルヘルミネへ絶対の忠誠を誓っている。
だからこそヴィルヘルミネは、とてつもない人気を誇っているのだが……。
問題はこの人気が、親しみよりも畏怖に近い感情によるもの、ということであった。それが令嬢の心に、何とも言えない寂しさを齎すのだ。余、孤独――とか思う原因になってしまうのだ。
けれど、ゼーフェリンク家の面々はヴィルヘルミネを畏怖しない。だからヴィルヘルミネも、自然体でいられるのだろう。というより、自分も平民のような気持ちになれるから、それが何より嬉しいのだ。
「おお、嬢ちゃん――いい飲みっぷりだぜ。もう一杯いくか?」
杯の中身を飲み干したヴィルヘルミネを見て、ロホスが笑っている。
「このくらいは、平気なのじゃ。飲もう! エヘヘ……」
「なら、注いでやらぁ! さあ、今日は俺のオゴリだ、じゃんじゃん飲めよ! つっても軍事の天才ヴィルヘルミネ様を招くにゃあ、ちっと侘しい食卓だが、まあ、そこは我慢してくれや。ハハハハハッ!」
「構わぬ。行軍中であれば、温かい食事をとることも珍しい。その意味で言えば、今日は十分に豪勢な食事と言えるじゃろう。余は、楽しい……」
「ハッハ――……本当に嬢ちゃんは、面白れぇなぁ。ま、お偉い公爵令嬢さまに嬢ちゃんなんて言っちゃあ、本当はいけねぇんだろうがよ」
「良い、ロホスには今後も余を、嬢ちゃん、と呼ぶことを許す」
ヴィルヘルミネは「ほぅ」と熱い息を吐き出し、空になった陶杯を手の中で弄んでいる。立て続けに二杯飲んだせいか目はトロンとしているが、悪い気分ではなかった。
「おじいちゃん、あんまり調子に乗らないでよ! ミーネ様が良くても、嬢ちゃんなんて呼んだら他の人が怒るわよ!」
「ハハハッ、違ぇねぇ!」
ヴィルヘルミネは取り留めも無く交わされる会話を何とは無しに聞きながら、テーブルへ並べられた料理に目を遣った。
粗末な木のテーブルに白いテーブルクロスを敷いた食卓に、茹でたジャガイモを乗せた皿が乗っている。あとは乾燥肉と塩漬けキャベツのスープ、パン、木の実などだ。
確かに豪華とは言えないが、貴族や高官たちを招いた晩餐よりもヴィルヘルミネにとっては、よほど心躍る食卓なのであった。
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