88 ヴィルヘルミネ、戻る
ボロヂノ子爵を目の前にしたミーネは、レーナが彼に自分の軍服を見せるまでもなく、全ての記憶を取り戻した。丸い身体に猫耳のような髪型、ピンと左右に張った合計六本の髭を見て、「ふぉぉぉぉぉ……」と自らが何者であったかを悟ったのだ。
――そうじゃ、余はヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナント。あの時、川に落ちて――……。
赤毛の令嬢は幸い、ゼーフェリンク家の面々に助けられて以降の記憶を失わなかった。だから彼女は白ミーネも黒ミーネも覚えており、新たに知り合った人々のことも忘れてはいない。統一ヴィルヘルミネの爆誕である。
このヴィルヘルミネは白ミーネと黒ミーネを統合し、一つの人格に纏め上げるという性質を持っていた。
だがそれは、良い事ばかりではない。人格を統合する為の副作用があるからだ。一つとなった赤毛の令嬢は二つの人格が有する天才性に、ぴったりと蓋をしてしまった。
つまり溢れんばかりの才能はヴィルヘルミネという封印を施され、内なる宇宙へ消えてしまったのだ。
要するに帰ってきたヴィルヘルミネは、安定のポンコツだった。
しかしポンコツ・ミーネは、才能がすっかり消失したことなど気が付かない。だから「余、天才!」と気を良くしたまま、ボロヂノの頭をポフポフとやっている。ただただ、呑気であった。
――むう、いつ見ても可愛いのじゃ。
そもそもヴィルヘルミネにとってボロヂノとは、おじいちゃんと猫チャンを掛け合わせた、可愛さのハイブリットモンスター。
だから赤毛の令嬢は彼を見るなり一目で心を奪われ、ポフポフ、ポフポフと撫でまくり。だからこそ二人の奇妙な関係は、あの日から始まったのである。
■■■■
ボロヂノは公都バルトラインへ伺候し、初めてヴィルヘルミネに出会った時のことを今でも思い出す。それは彼にとって、生涯最後の宝物であった。
謁見を終えた彼は幾何学模様に整えられた庭園のベンチに腰掛け、ボンヤリと空を眺めていた。そこへシュタタタタタ! と無表情の少女が駆け寄ってきて、「ニャン、ニャー、探しておったのじゃ」と手を取り真剣な表情で言う。
彼女は燃えるような真紅の髪を振り乱し、紅玉の瞳に慈愛の色を湛えていた。それは、十歳の誕生日を迎えたばかりのヴィルヘルミネで、つまりは先ほど謁見の間で会ったばかりの雲上人である。
ボロヂノは目を瞬き、「ニャ?」と小首を傾げ、立ち上がろうとした。
「良い、そのままでいよ。猫・チャン」
「わ、私は猫じゃニャい……あ、噛んだ。猫ではありませんニャン」
「猫じゃ。やっぱり猫じゃ。ニャンと言うもの。だから、探しておったのじゃぞ」
ヴィルヘルミネは「ふぉぉぉぉぉ……」と感嘆の声を上げ、ちょこんとボロヂノの膝に飛び乗った。側にいた金髪の少女は不愉快そうに「むう」と唸り、黒髪紫眼の宰相は「やれやれ」と頭を搔きながら笑っている。
ボロヂノはどうして良いか分からず、ヴィルヘルミネが膝から落ちないように両腕でしっかりと抱え込んだ。腕の中の赤毛の令嬢は、頭を持ち上げ下から猫顔の老人を見つめている。相変わらずの無表情だが、紅玉の瞳には嬉しそうな輝きがあった。
「卿は温かいの」
「は、はぁ……?」
「丸くて白くて、大きな猫チャン――……じゃ」
「はぁ」
「決めた。余は卿を、ニャン・ニャーと呼ぶことにしたのじゃ」
「ニャン……ニャー……」
かつて丸猫と呼ばれたことを思い出し、ボロヂノはションボリと項垂れた。天才も所詮は人を容姿で判断するのかと、一瞬だがガッカリしたものだ。馬鹿にしている。
けれど次の瞬間、ヴィルヘルミネは彼の腕の中で眠りについた。軍事の天才が、余りにも無防備な寝姿であった。
「スヤァ――……」
ボロヂノの目の前では、金髪の少女が「グルルルル」と猛犬のように唸っている。黒髪紫眼の宰相は、微笑を浮かべてこう言った。
「ヴィルヘルミネ様は、滅多に人前でお眠りになりません。きっと、あなたの人柄を見込まれたのでしょう。丸猫デュポンという傭兵隊長は、誰より仁義を重んじる方だと聞きました。よろしければ今後は、ヴィルヘルミネ様の良き守護者となって頂きたいものです」
ボロヂノは知らず、眠る少女の頭を優しく撫でた。そして、悟ったのである。
「むろんです、むろんですとも。この方の安眠は、我が幸福。それを脅かす者があれば、誰とて容赦いたしますまい。今こそ、このボロジノ子爵コンドルセ=デュポン――……ヴィルヘルミネ様に、我が剣をお捧げ申す!」
――騎士とは、己を知る者の為に死ぬ。なるほど、私はようやく見つけたのだ。仕えるべき主君というものを!
■■■■
こうして劇的な再会を果たしたヴィルヘルミネとボロヂノ子爵コンドルセ=デュポンであったが、しかし再会したところで何一つ当人たちの問題が解決される訳ではない。
いや。むしろ赤毛の令嬢は敵中で幹部になってしまったという意味不明な状況で、付与された特殊能力を失った。むしろ、事態は悪化している。
「……まさかミーネ様は、私が捕らわれていることを知り、わざわざ助けに来て下さったのですか?」
跪いたままの姿勢で、ボロヂノが言う。すっかり赤毛の令嬢の本質を見失ったまま忠誠を誓っている丸猫は、感激に声を震わせていた。
「で、ある」
基本が姑息で人間的に矮小なヴィルヘルミネに、「記憶を失った」という真実を語ることは出来ない。というか、せっかく目の前で猫顔子爵が都合よく解釈してくれたのだから、全力で乗っかるのが彼女のジャスティスなのだ。
そして勘違いは、更なる勘違いを呼ぶ。
「なるほどな、流石は軍事の天才ヴィルヘルミネ様。敵を騙すなら、まずは味方からってわけか。それで俺たちに助けられたフリをして、敵中へ潜入したってこったろう!? こりゃあいいッ!」
ロホスが、「ヒュー」と口笛を吹いている。三十も年齢が若返ったかのようで、彼は戦士の笑みを浮かべていた。かつてボロヂノと見た夢が、蘇ったような気さえする。
「でも待って、おじいちゃん、ミーネ――……ううん、ヴィルヘルミネ様。この状況下で、どうやってボロヂノ様を助け出せるっていうの? ヴィルヘルミネ様だけだって、ここから出るのは大変だと思うんだけど?」
流石はレーナだ。彼女は医学を学ぶインテリだから、事態を冷静に把握していた。男どもが感涙に咽ぶ中、「ちょっと待てよ?」とツッコミを入れている。
「そりゃあレーナ! 何と言っても軍事の天才ヴィルヘルミネ様だぞ! 何か案があるに違いねぇ! な、そうだろ、嬢ちゃん!」
完全に思考を放棄したロホスが、ヴィルヘルミネの背中をパンと叩き笑みを浮かべている。
赤毛の令嬢は「ケホッ」と思わず咽て、頬に一滴の汗がタラリ――……。
――ど、どないしょー!?
ロホスの期待を他所に、無能と化したヴィルヘルミネは、探偵に断崖へ追い詰められた殺人犯と同じくらいにノープラン。唯一思い付いた方策が、全てをエミーリアに白状しての命乞いだ。
でもでも、そんなことをして失敗すれば、断頭台へ送られて世界から強制退場である。
――余、まだ死にとうない……。
額を押さえてフラリと揺れた赤毛の令嬢は、考え過ぎた知恵熱で、その場に倒れ込んでしまう。お陰で、決定的な無策っぷりを示さずには済んだのだが……。
「大変! ミーネが、また熱を出しているわ!」
レーナがヴィルヘルミネの額に手を当て、彼女の頭を抱え起こす。
「ああ、ミーネしゃま! 大変ニャ! 早く、早く部屋へお戻り下されッ!」
ボロヂノ子爵はオロオロと部屋の中を行ったり来たり、心配そうに手を揉みしだいている。
「おじいちゃん、早く手伝って! ミーネを部屋へ連れ帰らないと!」
「お、おう! 分かってる! デュポンの旦那! 嬢ちゃんと一緒に必ず助けに来るから、それまで待っていてくれよ!」
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寝室へ戻り知恵熱と戦うヴィルヘルミネの為に、レーナは旅館の部屋に戻らず残っていた。彼女は見習いとはいえ医者だし、薬の処方も出来るからだ。
とはいえ解熱作用のある薬を飲ませると、あとは額に乗せた濡れタオルを代えてやるくらいしか、彼女にも出来ることは無い。だからウトウトとして、いつの間にかベッドに突っ伏し、眠りについてしまったのだ。
そんな時、コンコンと扉がノックされた。
「あ、はい……誰ですか?」
「すまない、ミーネが倒れたと聞いたのに、色々あって――……その、来るのが遅くなってしまった」
扉の外からエミーリアの声が聞こえ、レーナはびくりと肩を震わせた。真実を知った今では、彼女の存在が酷く恐ろしいものに思える。だが、そうした思いを表面に出す訳にはいかなかった。
「あ、あっ!」
「その……入っても、構わないだろうか? もしも重要な治療中なら、遠慮させて貰うが……ぐすんっ」
エミーリアは何故か、涙声であった。
「あ、どうぞ。今のところ落ち着いていますし、多分、ただの過労でしょうから」
「そうか、それなら良かった。いや、良くは無いが――とにかく失礼する」
すっかり暗くなった室内に、エミーリアが足を踏み入れる。大きな花束を持って現れた彼女は、意気消沈した酷く悲し気な顔であった。
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