72 心優しきお嬢様
赤毛の少女が最初に目を覚ましたとき、聞こえてきたのは何人かが言い争う声であった。「貴族」とか「金」とか「リンデンさん」と言った単語と共に、「姉が売られる」というパワーワードが耳朶を打つ。
「それはイカン!」と反射的に思い、立ち上がろうとしたら、身体が氷ってしまったかのようにカチコチになっていた。奥歯だけがガチガチと音を立て、動いている。ひたすら寒くて寒くて、彼女は何も考えられなかった。
「うう、寒い、寒い――……余は、死ぬのか……ん、余? 余とは……?」
けれど一方で凍えるような寒さが妙に心地よく、少女は再び微睡の中へ落ちていく。大切な何かを忘れている気もするが、気にせず瞼を降ろし、紅玉の瞳に蓋をした。それが自らの記憶に蓋をする行為だとは、つゆ知らぬまま……。
二度目に目が覚めたのは、誰かの息遣いを感じてのことだった。聞こえる音は、いくつかの鼾と寝言、そして寝息だけ。
赤毛の少女は夢うつつのまま瞼を開き、周囲を見回した。真っ暗な闇の中で、形のよい鼻が浮かんで見える。「すーっ、すーっ」と規則正しい寝息と共に、その鼻がヒクヒクと動いていた。
赤毛の少女は闇を払うかのように目を見開き、寝息を立てる存在を凝視した。
どうやら暗がりの中でもそれと分かる美少女が、自分の隣で眠っているらしい。しかも自分をしっかりと抱きしめ、包むように。
――とっても温かい。
先程までの寒さが、嘘のように消えていた。きっと、この少女が温めてくれたのだろう。赤毛の少女はそっと微笑み、お礼の言葉を口にした。
「……ごちそうさまです」
だがしかし、何故かお礼の言葉が間違っていた。
――あれ? まぁ、いいか。
こうして赤毛の少女は美少女に抱かれ、幸せの中で再び微睡へと身を任せるのだった。
■■■■
「何も覚えて無いって、そりゃあねぇだろうがよ、え、嬢ちゃん!」
窓から燦燦と朝日が入るあばら屋で、使い古した食卓を七人の老若男女が囲んでいた。そのうち六人が血の繋がりを持つ家族で、ゼーフェリンクの姓を持ってる。
彼等と血の繋がりを持たない一人は、昨日助けられた赤毛の少女だ。彼女は自らの出自を問われ、「うーん」と唸った挙句、「さっぱり分らん」と答えたのだった。
だから一家の家長、スヴェンが少女に怒鳴ったのだ。
彼は今、左頬をプックリと腫らし、左目の周りに青痣を作っている。理由は娘であるレーナの処遇を巡り、父親たるロホス=ゼーフェリンクに叱られ、殴られたからであった。
ロホスはスヴェンよりも体格に優れ、しかも普段から動いている。そんな父にスヴェンは、三十歳を過ぎた今でも一度としてケンカに勝てないのだった。
「そんな偉そうな言葉遣いをしているからにゃあ、やっぱり良家のご息女なんだろう!? 見ろ、アンタの着ていた服に剣に銃だ! どう見たって、ただの一兵卒じゃねぇ! どうだ、何にも思い出さねぇか!?」
赤毛の少女は目をぱちくりと瞬き、部屋の隅に吊るされた軍服を見た。それから壁に立てかけられた剣と銃も。
十秒ほど首を傾げて考えるそぶりを見せた赤毛の少女が、ポンと手を叩く。何かを思い出したらしい。口元に柔和な笑みが浮かんだ。
「そういえば、わたくし女でしたわね。衣服までお借りしたのに、気付きませんでしたわ。はしたない言葉遣いをして、たいへんな失礼を致しました。以後は気を付けますので、お許し下さいまし」
どうやら赤毛の少女が思い出したことは自身が女性であるという、ただそれだけであった。しかも、なぜか言葉遣いを丁寧にして、謝罪までしている。
どうせ「偉そうな言葉遣い」と言われたことを気にしたのだろうが、この変化により本来の身元からは、随分と遠ざかってしまった。
「女だってこたぁ、見りゃわかるんだよ! とにかくアンタを助けたのは俺たちだ! で、アンタは貴族で良いところの出だろう!? 俺たちはとにかく、金が欲しいんだ! 必要なんだ! 家に帰してやるから、礼が欲しい! 具体的に言えば、五千ターラー(五百万円)くらいの金を――」
「お父さん、いい加減にしてッ! 昨日、その事は言わないっておじいちゃんと約束したの、もう忘れちゃったの!?」
父の恥知らずな言い分に、たまらずレーナが怒り出す。
「ごめんなさい、いきなりこんな話を聞かせてしまって。気にしないで、身体が治るまでゆっくりしていってね。あたし、これでも医者の卵だから――……力になれると思うの」
「あ、レーナさん。わたくしなどの為に、ごちそうさ――ありがとうございます。記憶が戻れば、必ずお礼は致します。多分ですが――……五千ターラー? その程度なら大丈夫かと」
申し訳なさそうに頭を下げる赤毛の少女は、長い睫毛を二度ほど上下に動かした。
うろ覚えだが、その程度のお金は六歳くらいの頃、お小遣いとして貰っていた気がする。「現在はどうなのか」と問われたら困るが、それより少ないお小遣い、なんてことはないはずだ。
記憶は全く定かではないが、自分がとても高い身分だった気がする、赤毛の少女なのであった。
そんな赤毛の少女の言葉に、ゼーフェリンク家の大人連中がギョッとする。
命を助けたと謝礼とはいえ、五千ターラーを事も無げに「その程度」と言い切る少女だ。とんでもない拾い物なのでは? とスヴェンならずとも思った。
けれどテオはそんな家族の表情を見て恥じ入り、話題を変えようと少女へ話しかける。
「あの、ねえ、お姉ちゃん。お金なんかのことより、名前だけでも思い出せませんか? オイラ、お姉ちゃんのことを何て呼べばいいのか分かんなくて――……それって困るでしょう?」
「そうですわね……仰る通りですわ」
最上級の作法に則り、赤毛の少女はカチコチのパンをフォークとナイフで切り分けた。それを昨夜作ったスープに浸し、暫し考える。
そのとき何故か脳内で、「テオちゃん、八十六点! 身体を洗い衣服を整えれば、九十点に届く逸材じゃ! 成長も楽しみ、期待大!」と謎のアナウンスが流れた。
赤毛の少女はズガガーン! と稲妻に撃たれたような気がしたが、しかし「確かに!」と、納得しただけであった。
「あたしも知りたいわ。ううん、身元がって言う意味じゃなくって、呼び方が分からないと困るもの。あ、こんな言い方でごめんなさい。貴族様に対して、失礼ですね」
「何を仰いますの、レーナさん。あなたが看病して下さらなかったら、わたくし死んでいたかも知れませんのよ。ですからあなたは、命の恩人でしょう。
それでなくとも、貴族も平民も奴隷も――人はみな同じ、つまり平等なのですわ。ですからわたくし、身分がどうのこうのと言って、あなた方を差別するつもりなど毛頭ありませんの。
それで……よろしければレーナさん、わたくしのお友達になって下さらないかしら?」
赤毛の少女は隣に座るレーナの手を取り、ニッコリと微笑んだ。
記憶を失う前に抱いた「人類全部ウ〇コ製造機」思想がいい具合にこなれて、素敵な平和主義者の様相を呈している。
レーナは赤毛の少女の高い見識に感動し、フルフルと震えながら彼女に抱き付いた。またも少女の脳内に、謎の声が響き渡る。
――ご、ごちそうさまじゃあああ! レーナ、九十三てぇぇぇぇええん!
どうやら赤毛の少女の中にある、サーチ&スコアリング機能は健在だった。
「ええ、ええ、もちろんです。それじゃあ早速、お友達として聞きたいわ。例えば愛称とか――そういうのでも、思い出せないかしら?」
レーナから身体を離し、五秒ほど沈黙してから赤毛の少女はゆっくりと答えた。
「ミーネ――……そういえば、親しい者にはミーネと呼ばれていた――……ような気がしますわね」
赤毛の少女は自分の言葉に大きく頷き、何かを思い出したかのように言う。真実に近づいていた。
「ええ、そうですわ。ミーネ……ミネ……つまりわたくし、ミネルヴァ……ではないかしら」
紅玉の瞳に力を宿し、赤毛の少女は言い切った。しかし、それは本名からも真実からも遠ざかり、大海原へ小舟で乗り出すようなものである。
だってミネルヴァなどという名前を頼りに身元を探したのでは、どう考えてもフェルディナントのヴィルヘルミネには辿り着かない。
「ミネルヴァさま、ですか?」
「ええ、でも――……皆様はぜひ、わたくしのことをミーネと呼んでくださいまし。レーナさんはもちろん、テオちゃんも」
ミーネの言葉に、テオがぷくっと頬を膨らませた。
「ちゃん――じゃあないよ。オイラ、男だもん!」
「あら、あら。じゃあ、テオさん」
ニッコリ微笑むミーネの姿に、テオが顔を赤くしている。
というわけで記憶を無くしたヴィルヘルミネは、ちょっと歪んだ性癖を持つ、平等主義の心優しいお嬢様――ミネルヴァになるのだった。
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