68 ヴィルヘルミネ、泣く
二万の大軍を率い堂々と公都バルトラインを進発したヴィルヘルミネは、ツヴァイクシュタインを過ぎ、国境を越えた辺りで無性に冒険がしたくなった。何というか春の訪れに、身体が疼いたのだ。
もともとフェルディナントは、四方を山に囲まれた国である。しかも真冬の国境地帯は分厚い雪雲に覆われ、常に薄暗い。山麓まで雪に覆われた地上は無味乾燥、茫漠たる世界であった。
しかし、三月ともなれば様相は変わる。暖かな南風が分厚い雪雲を吹き飛ばし、うららかな陽光が大地に降り注ぐ。それと共に雪の下では、新たな命が芽吹くのだ。
そうして溶け始めた雪の上を野兎や鹿が駆け回る姿を見て、ヴィルヘルミネの頭は、すっかりしっかり春爛漫。だから行軍中も戦争なんてどこ吹く風で、辺りをキョロキョロと見回してた。
――春じゃ、春じゃ、春じゃ! いっぱい遊ぶのじゃ!
だがしかし、ヴィルヘルミネは一国の責任者。遊びよりも義務を優先させねばならない、辛い立場だ。
それに今回の出征は北部ダランベルを占領した後の政治状況も考慮し、ヘルムートも同行している。これに伴いヴィルヘルミネとゾフィーは、行軍中も勉強をさせられていた。
何しろ行軍中のヘルムートは暇であったし、差し迫ったランスの政治情勢によって幼年学校に通えないヴィルヘルミネには、何としても帝王学が必要だ。お陰で付きっ切りのヘルムートに、あれやらこれやらと指導される始末。
――辛いのじゃ! 帝王学など、うんざりじゃ! ちょっとくらい、サボらせろ!
イケメンは好きだが勉強は大嫌という令嬢は、だからヘルムートから逃げたかった。
もう、五歳の頃とは違うのだ。今の令嬢は、イケメンを見ているだけで幸せになれるほどピュアじゃない。男と男のロマンスくらい見せて貰えなければ、「ごちそうさま」とは言えないのである。
そんなわけで、ある日の黄昏も差し迫った頃のこと。ヘルムート先生の授業が始まる直前に、ヴィルヘルミネは逃走を思い付いた。
「すまぬが授業の前に、ちょっと散歩へ行ってくる。供は要らぬぞ、気分転換の花摘みゆえ、少々待つのじゃ」
しれっと垂れ幕を捲って天幕を出ようとする令嬢に、ヘルムートが紫色の瞳を向けた。手には小難しい思想書を持ち、中ほどのページを開いている。
こんな本を教科書に授業をされては、三秒だって起きていられないヴィルヘルミネだ。必死だった。
「お手洗いですか、ヴィルヘルミネ様」
「違うのじゃ」
振り返ったヴィルヘルミネは、ムッとして反論した。言い返したりなどせず、さっさと出て行けば良かったと思うが――もう遅い。何せ相手はヘルムートだ。一言いえば、十倍になって返ってくる。
「ですが女性が花摘みと申せば、世間においては用足しと相場が決まっています」
「世の相場に、余が合わせねばならぬ道理など無い」
「お待ちいただければ、トイレをここへ運ばせましょう。外へ出る必要はありません」
「だから、ち が う の じゃ、ヘルムート! 用足しではなく、余は本物の野花を摘みたい! 春の到来と共に芽吹いた蕾を見つけたいのじゃ! 自然科学とは、実地も必要じゃろう!?」
「むろん、自然科学を修める為には、実地が欠かせません。ですが科学とは何であるか、その本質を知るためにこそ、今日の講義が必要なのです」
「要は合理――じゃろ? 情よりも理性じゃ。それが啓蒙思想の本質であること、余が知らぬとでも思うたか」
ギギンと鋭い目つきでヘルムートを睨み、ヴィルヘルミネは覇者の貫禄を無駄に発揮した。言っていることは、完全にヘルムートの受け売りなのだが……まぁ、師の言う事をよく覚えている、ともいえた。
「ふむ。啓蒙思想について、勉強しているようで何よりです。しかし物事において本質とは――……」
「先生ッ!」
ここで、今まで席に座っていたゾフィーが立ち上がる。天幕の入り口でモゾモゾ動くヴィルヘルミネを見つめ、悲し気に頭を振った。
「先生。先生のいる前で、『トイレを用意するから、ここでしろ』なんて酷いです。ヴィルヘルミネ様は、もう子供じゃあ無いんですよ。十三歳なんですから、立派なレディです。それを……匂いだって気になるじゃあないですか」
「……ゾフィー。それは、大きい方ということかな?」
「そうですよ、先生。ヴィルヘルミネ様は、もう我慢できないんです。ほら、あんな風にモゾモゾ動いて……小さい方ならともかく、大きい方では……それを、こんなにお待たせしてッ! もし漏らしたら、どうするのですか!?」
ゾフィーは戦場で発揮する武威を込め、蒼氷色の瞳でヘルムートを睨みつける。
お陰でヴィルヘルミネは今にも大きい方が漏れそうな、残念乙女に仕立て上げられてしまった。
「ゾフィー!?」
なんてこと言うの、この子は!? なんて思いながら、ヴィルヘルミネがゾフィーを見る。紅玉の瞳が、丸く見開いていた。モゾモゾしていたのは、逃げるタイミングを計っていただけなのに!
けれど金髪の親友はコクンと頷き、「さあ、お早く!」なんて言っている。
良かれと思ってやったことが人を傷つける、まさにその典型だ。ヴィルヘルミネは肩をプルプルと振るわせ、どうしたものかと立ち尽くしていた。
「そ、そういうことでしたら、暫くの間ヴィルヘルミネ様には誰も近づかぬよう、言い含めておきます。あまり我慢は――……よろしくありませんからな」
ヘルムートはゾフィーの言い分を信じたらしく、紫色の瞳を申し訳無さそうに伏せている。
赤毛の令嬢としては、外へ出るチャンス到来だ。けれど自分のお尻から何か出る訳ではないから、釈然としない。そこは訂正しておきたかった。
「あ、いや、ヘルムート。余は別に用を足しに行くのでは……」
「大丈夫、分かっておりますとも。我等が軍神たるヴィルヘルミネ様に限って、ウ〇コなどという下劣な行為をなさるはずがありません! それは皆、存じておりますとも!」
「ウ〇コなんて言っちゃダメですッ! 先生、デリカシー!」
ゾフィーがぴょこんと飛び上がり、ヘルムートの口を塞いだ。けれどデリカシーが圧倒的に足りないのは、彼女の方である。ヴィルヘルミネの顔が、耳まで真っ赤に染まっていた。
「余、ウ〇コじゃないもん……」
「さあ、急がれませ! 私は何も聞いておりませんし、見てもおりませんッ! あ……終わったら、そっと雪の中へ埋めれば誰にもわかりませんよ」
珍しくグッと親指を立てるヘルムートを見て、赤毛の令嬢は駆け去った。
「う、うぅ……うわぁぁぁぁぁぁああああん! 違うんじゃもぉぉぉおおん!」
こうしてヴィルヘルミネは大切な何かを失い、天幕からの脱走に成功。そのまま授業の時間分だけサボり、夕食までには帰ろうと思っていたのだが……そこで事件は、起きてしまうのだった。
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