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File:03 stalemate

 

 2042年10月31日。PM19:44.


 芳乃ほうのはひとり、夜道を歩いていた。

 事件が解決した矢先、なぜか警察官たちの端末が一斉に電子音を鳴り響かせた。異常事態に片岡と野村が避難を決意し、強引に引っ張られるように駅へと辿り着いた。

 全員別の路線となるため改札口で「まったねぇ」と野村が手を振り、「また会おう」と片岡が日本指を額に当てて敬礼のまねごとをして、芳乃は二人に「お疲れ様でした」と言って改札を抜け、渋谷駅で別れた。

 芳乃の自宅への最寄り駅は山手線原宿駅で、渋谷からたったの一駅だった。


 原宿駅で降り、駅の賑わいに背を向けて、明治神宮の大きな森と線路に沿って歩く。

 通勤時間もとっくに過ぎ、すれ違う人も居ない。心地よく冷えた夜の空気を吸い込み、肺一杯に満たして細く吐き出す。

 この時間は好きだ。【アドバイス】をもらってかけ始めた、不釣り合いなサングラスをじろじろと見られることもない。人がいないのだからサングラスを外せばいいのだろうけれど、外灯の明かりが少しだけ遮られ、夜が深くなるのが愛おしい。

 誰にも会わないこの時間は、自分一人だけの世界になった気がして、この夜を独り占めできたような優越感。あり得ない空想に、ほんの少しだけ心が弾んでいるのかもしれない。

 等間隔で並ぶ白いLEDライトの下を、迷いなく、だけど名残惜しくてゆっくりと進む。


 ふと、短いバイブレーションの音がやけに響いた。

 上着のポケットの中でからだ。

 立ち止まり、芳乃は終わりを告げた非日常に、盛大な溜め息を地面に吐き捨てた。

 ぞんざいにポケットに手を突っ込んで、液晶画面を引っ張り出す。

 胸の前まで持ち上げると、自動で画面が起動して、通知内容を簡単に表示していた。

 芳乃はすぐに通知をタップし、メールを開くと件名もなく、ただURLだけが届いている。

 芳乃は一切躊躇(ためら)わずにURLをタップする。

 ブラウザが起動し、画面が真っ暗になる。画面の中央に、細く白い線が剣と天秤のシルエットを描き、【レベレーション ミカエルの啓示】と浮かび上がる。

 サングラスの奥、光を失った黒い眼が、一瞬にして凍りついた。






 約1か月前。10月2日木曜日。

 PM19:21.


 名刺に書かれた電話番号と通話後、迎えに来たのは外国製の白いセダンだった。

 日本人形のように真っ黒で、うねりひとつない絹のような髪の女性が下りてくる。

 彼女は自らを秘書だと名乗った。細いフレームの眼鏡の奥、真っ黒な目が精密な人形のように無表情だ。

 うっかり覗き込んだが、他の人間のように余計なことを考えていない。彼女の頭にはただ会社への最短ルートだけが思い浮かんでいた。ただの人形というよりは精密な自動人形≪オートマタ≫と言った方が正しいかもしれない。片岡の使用しているAIのA.R.R.O.W.の方が人間らしい。


 軽い頭痛にこめかみを押さえていると、セダンの後部座席を開けた彼女は、品のある所作で乗るように促してくる。やけに座り心地のいい後部座席に座れば、ドアが最小限の力で締められる。

 防音性が良いらしく、窓にはスモークも張られていて、まるで世界から隔離されたようだ。

 間もなく運転席に秘書が座ると、エンジン音がしないセダンは滑らかに夜の街へと走り出した。


 夜の街に赤く浮かび上がる東京タワーを通り過ぎ、六本木の高層タワー街へと疾走していく。

 特徴的な形のビルが個性を争うように立ち並ぶ中、質素ながらそれでいて目を引く白いビルが現れる。

 約3か月前の6月30日に学校のフィールドワークで訪れていたオフィスビルだ。

 改めて目の前にすれば、少し異質さも感じる。周りの人工的な光とは違い、月の光を反射しているような柔らかな光を放っているビルは、自身が発光しているような錯覚を覚える。


 秘書に先導され、白を基調としたエントランスを進む。名刺と同じ、百合の花をモチーフにしたロゴマークの下に英語で【Jibril】と書かれたブランドロゴを横目に奥へと進むと、ステンレスの土台と強化ガラスのドアでできたセキュリティゲートが行く手を阻む。


 秘書がこちらをと手渡してきたゲストカートを土台の読み込みパネルにかざすと、ガラスのゲートが開いた。続いて秘書がゲートをくぐる。すぐ目の前には左右に2機ずつ配置されたエレベーターホールが待っていた。秘書が右奥のエレベーターボタンを押すと、すぐにドアが開く。

 木目の柔らかな壁面で覆われたエレベーター内へ入ると、本来なら各階へのボタンがある行先ボタンが3つしかない。秘書が一番上のボタンを押すと、ポーンと柔らかな音がしてドアが閉まった。


 重力を感じさせない滑らかな動きで上昇しているようで、壁に埋め込まれたデジタルの数字がするすると上に滑っていく。33に差し掛かったところで数字の表示がゆっくりになり、35で止まる。

 木琴を鳴らしたような、ぽーんと柔らかな音とともにドアが開いた。


 エレベーターから降りると、そこは広いワンフロアがガラスで仕切られたオフィスのようだ。遮るものがなく、椅子と長机、スクリーンがある一見して会議室だと分かる部屋が二つ、全面が磨りガラスになって隠されている部屋が奥にひとつある。おそらくガラス面は瞬間調光(ちょうこう)ガラスなのだろう。

 奥の磨りガラスの部屋の前に立った秘書が、ガラスのドアを三度ノックする。分厚いガラスのんだ音がする。ドアに取り付けられたステンレス製の取っ手を秘書が握り、押し開ける。

 開け放たれた部屋は薄暗く、奥に大きく東京の夜景が広がっていた。

 その中央、白いスーツをまとった背の高い男性が、両手を広げて歩み寄ってきた。


「Welcome to my company!!」


 差し出された手をそっと握ると、あとがつくんじゃないかと思うほど強く握られる。


「改めて、挨拶させてほしい。私はルティエンス・T・ワクスウェイン。気軽に、ルティとでも呼んでくれると嬉しい」


 サングラスの奥で、わずかに透けて見えた目が弧を描く。


「こんな時間だ、さぞかし空腹だろう」


 そう言ったルティエンスは、こちらの背に手を添えて、右側を手のひらで指した。

 そこには真っ白なクロスが引かれた円卓がひとつ置かれ、その上には美しい食器が並んでいた。


「君の保護者への連絡と了承は得られている。フィールドワークの延長戦、我が社にぜひとも。そうお話ししたら、こころよ承諾しょうだくを頂けたよ。帰りはもちろん責任をもって送り届けよう」


 誘導するように軽く背を押され、秘書の女性が椅子を引いて座るように促してくる。椅子に座ろうとすれば、自然と位置を調節してくる。

 金色の模様で縁取られた皿の上に、白いバラを模した布製のナフキンが飾られていた。秘書が飲み物を聞いてくる。芳乃が水でと答えると、入れ替わるように真っ白なコックコートを着た壮年そうねんの男性が右に置かれたゴブレット型のグラスへと透明な液体を注いだ。


 会釈えしゃくする壮年の男性に、会釈を返し、芳乃はナフキンの端をまんで引っ張った。花がほどけ、一枚の大きな布に変わる。半分に折って、膝にかけたところで、視線を正面へと向ける。ルティエンスが芳乃の正面へと座ると、壮年の男は芳乃と同じく透明な液体をグラスへ注いだ。

 目の前に飾られた純白のユリからは、不思議と臭いがしない。作り物ではないようだ。その異質なユリの向こうで、ルティエンスは透明な液体の入った細いグラスを目の前に持ち上げる。


「では、君との再会を祝して、乾杯」


 そういって掲げるが、芳乃は微動だにしない。

 困ったようにルティエンスが笑って、グラスから一口飲み物を含んだ。

 壮年の男が芳乃の目の前に、優雅な動作で皿を置く。

 紺色の皿の上、一口サイズのシューが三つ並べられている。横半分に切られていて、淡い緑と白の混じったクリームと、イクラが添えられたピンクのクリーム、オレンジのクリームが覗いている。

 洒落たことに、オレンジのクリームが挟まれているシューには、ジャックオランタンを模した目と口がついている。男の説明によると、それぞれのシューに、アボカドとカズノコのタルタル、スモークサーモンとイクラのムース、かぼちゃとクリームチーズだという。

 同じく配膳されたルティエンスがシューを一つ摘まみ、咀嚼そしゃくして頷いた。


「うん、やはりアミューズが美味しいと、メインディッシュへの期待に心が躍ってしまうね」


 しかし、鏡のように磨かれたフォークやナイフ、カトラリーが並べられたテーブルの前、芳乃の手は膝の上から動かない。

 ルティエンスは促すように手のひらで皿を差す。


「緊張しているのかな? テーブルマナーを知らないから? 今夜は無礼講、好きなように味わって構わないよ。それとも嫌いな物があるかな? もしかして、食物アレルギーがあるかな?」


 矢継ぎ早に質問を重ねるが、芳乃は答えない。ただ感情をそぎ落とした黒い眼が美しく皿の上に盛り付けられた料理を見ている。それは、待ての指示を受ける犬とは別のもの。


「何も入ってないよ」


 黒い眼だけが動き、ルティエンスに向けられる。瞬きもせず、感情の削ぎ落された視線はそばから見れば不気味だ。しかしルティエンスは楽しそうに笑みを浮かべると、組んだ指の上に顎を乗せ、弾んだ声をかける。


「君のような聡明な子は好きだ。警戒心のない無邪気さは、ある種の愚かさでもあるからね。だが、今日ここに君を呼んだのは、君とお話ししながら、純粋に楽しく食事をしたいからだ。警戒する必要はないよ。君に危害を加えたり、おとしめるつもりもない。それとも、私がかじったものを差し出したほうがいいかな?」


 芳乃は表情を一つも動かさぬまま、じっとルティエンスを見詰めている。


「ああ、眼が見えないのが不安かな?」


 わざとらしく眼鏡の中央、鼻にかかる繊細な銀のブリッジを触る。


「私は生まれつき目の色素が薄くてね、少しの光でも眩しいんだ。だが君が安心するなら外そう。君の信頼を得られるなら、安いものだ」


 ブリッジを摘まんだルティエンスを制するように、芳乃は瞼を伏せ、首を振る。


「いえ、かけたままで」

「視たくない?」


 目を逸らしていた芳乃の肩がわずかに跳ねる。


「知りたくない、かな?」


 ルティエンスは笑みを崩さないまま、長い両手指の先を合わせる。


「情報戦略戦において、相手の情報を聞き出すことは、情報を弱みにするためにも重視するが、それは戦争か交渉の話だ。相手が人間である場合、情報を開示しないと言う事は信頼できないと自ら宣言していることに等しい。なぜなら人間とは、情を持っている。では情とは何か? 情報、情緒、同情、感情。つまり相手に対して心を交わして絆を結ぶ行為だ。そこで、相手に情を持つにはどうするか? そう、相手を知る事だ。相手を知れば知るほど、相手の事を想い、事情を察し、同情、共感することで嫌でも情が湧く。逆に相手を知らない間は一切情が湧かない。つまり他人だ。だが、ここで私が君に洗いざらい話したらどうだろう? 君に情を沸かせて、共犯者に陥れることもできるわけだ。知る事への共犯について、具体例をだそうか。例えば、君はコンビニでたまたま万引き犯の私を捕まえた。私はこう弁明した。万引きが悪いことだと知っているが、これは自分が独り身で金がなく、しかし病気の妹に食べさせようと仕方なく盗んだ。金はのちに払うつもりだ、今は見逃してほしいと。君は知らなければ犯罪として簡単に警察に突き出すだろう。しかし、情報を知った地点で警察に突き出すことで私を不幸にすることを一瞬想像する。知らなければ完全な正義でいられたのに。知ることは、知らなかったことに戻れない状態だからね。無知は罪ともいうが、無知は盾にもなる」


 どうかな?と、言葉を切ったルティエンスに、芳乃は深く溜息をついて見せた。


「随分と、おしゃべりですね」

「すまない、つい君とこうやって話せることに興奮してしまった」


 はにかんだルティエンスは合わせていた指を絡めて両手を握ると、芳乃を真っ直ぐに見つめる。


「私が言いたかったことは、君の、その眼の不利な部分についてだ」


 その言葉に、芳乃の視線が戻ってくる。それにルティエンスは嬉しそうに微笑んだ。


「君の眼は、全ての情報を強制的に取得できる。しかし裏腹に、君の意思とは関係なく、言い訳が一切聞かない、君自身を強制的に加害者にする能力でもあると言う事だ。君は、身をもってその眼の危険性を知っているだろう?」

「ええ」

「だからこそ、どうにかその眼を制御コントロールする術を知りたくて堪らない。それで、同じ眼の持ち主の私に相談を持ち掛けたいと、連絡をしてきてくれた」

「そうですね」


 相槌を打つ芳乃に、ルティエンスは目を細める。


「だけどね、私は狡い大人なんだ。Give-and-take。ただでは教えたりしないよ。私は君を知り、君は私を知る。共犯になってくれないか?」


 芳乃が眉を顰めると、ルティエンスはからかうように、わざとらしい意地の悪い笑みを浮かべる。


「断っても構わないよ? 君は若いから時間もある、急がば回れで地道に自分で探してもいいと思うけどね。ただ、答えが目の前にあるのに、わざわざ茨の道を行く必要もないんじゃないかな。今まで苦労してきたんだ。これはボーナスステージだと思えばいい。さあ、どっちを選ぶ? 君次第だ」


 再び指を組んだ上に顎を乗せて微笑むルティエンスに、芳乃は先ほどよりも大きな溜め息を吐き出すと、椅子の背もたれに気だるげにもたれ掛かった。


「毒を食らわば皿まで、ですか。口で負ける自信は、あなたに会うまで無かったんですけど」

「ふふ、気持ちが良いくらい生意気だね」

「でも……ぼくも、覚悟を決めてきたんです」


 そう呟いて、芳乃は挑むようにルティエンスを見つめる。それに答えるように、ルティエンスは瞼を降ろすと、眼鏡の蝶番を摘まみ、前へと引き下ろす。


「しっかり視なさい、私は何も嘘をついていない」


 持ち上がった瞼の奥に、美しい鋼色の眼が現れる。鋼鉄の磨かれた美しい文様は、光を受けるたびに緑や赤、青や黄色と目まぐるしく煌めきを変える。

 芳乃は一瞬眼の表面に薄氷を張る。が、すぐに瞬きで解かした。


「そうみたいですね」


 溜息交じりにそう言った芳乃は凭れていた背面から背中を離す。姿勢を正し、目の前で両手を合わせ「いただきます」と呟いた。

 シューの中でアボカドとカズノコのタルタルを摘まみ、口の中に入れ、二口噛み締めると、目を見開く。咀嚼も忘れて目の前の皿を食い入るように見つめた。


「気に入って頂けたようで何よりだ。さあ、食べなさい」


 促され、少し不服そうな表情を浮かべた芳乃は、それでも手を止めないまま、皿の上の料理を平らげる。

 すると、すぐさま皿が下げられ、ガラス製の四角い皿が置かれた。

 スライスされたタコが円形に並び、荒くみじん切りされたトマトとバジルが混ざったオリーブオイルのソースがたっぷりとかけられている。

 ナイフでよそってフォークで掬い上げ、噛み締めれば、こりこりと歯ごたえのある茹蛸の旨味とよく冷えたオリーブオイルとトマトに、レモンの酸味が合わさってさっぱりしながらも、ニンニクと胡椒の刺激が鼻を抜け、軽く平らげてしまう。

 ナイフとフォークを揃えて皿の上に置けば、わかっているのばかりに、次の皿へと交換される。

 真っ白で中央が窪んだ大きな皿には、馴染みのある黄色い液体が注がれていた。こんがりと焼けたクルトンとパセリが、黄色を際立たせる。

 スープスプーンを持ち、もったりとした黄色いスープを掬い上げる。口に含むと、期待していた優しくて甘いトウモロコシの濃厚な味が口いっぱいに広がる、飲むのが惜しいと言わんばかりに、舌の上で転がし、ゆっくりと胃へと送り込む。若い少年の食欲に似合わない静かな動作で、静かに食事を楽しむ少年を、コック服を着た壮年の男は嬉しそうに見つめる。ルティエンスも楽し気に少年の食事する姿を見つめながら、前菜(オードブル)のタコのマリネを食す。


「まずは、挨拶がてらに、簡単なアドバイスをしよう。おそらく、君の眼は今暴走状態にある。ある程度、能力を使い続けていると、相対して能力が向上する分、君の制御能力を追い越してしまった。私も経験がある」


 芳乃は、口の含んでいたスープを飲み干すと、慌てた様に膝の上のナフキンで口の端をぬぐう。ルティエンスの言葉を聞き逃すまいと、前かがみになる。ルティエンスはその健気な姿に微笑み、マリネを完食する。


「この眼は、簡単に言えば電源の切れないテレビのようなものだ。しかもチャンネルを変更することもできなければ、音量の調節もできない。四六時中いやおうなく、人の心を覗き見る。君が唯一休まるのは、目を閉じるか、夜の暗闇だけだろう。だが、このままでは外に出ることができなくなってしまう。それは致命的だ。狭い部屋とパソコンだけの世界では、もったいない」


 ルティエンスの前に、芳乃と同じくコーンポタージュが運ばれてくる。優雅な動作で掬い、一口啜る。

 上唇をちらりと舐め、味に満足したように一つ頷いてから、再び口を開く。


「君もサングラスをすると良い。私がサングラスをしている理由は、目の色素が薄いのもあるが、眼の制御用でもある。ひとつ遮るものがあるだけでも視える確率が下がるからだ」


 ルティエンスの声に、芳乃は頷くように瞬きをする。


「ええ、ガラス越しや録画映像だとハッキリとは見えません」

「そうだろう? 眼鏡よりもサングラスの方が効果的だ。だが、学生の間は昼夜問わずかけるのは厳しいかな? 通学時だけでもしてみたらいい。かなり楽になるよ」

「サングラスは高価なものでなければ、効果は薄いですか」

「いや。遮ることができれば割と何でもいい。学生の君でも手ごろな値段で言えば……」


 そう言いながら、他愛もない話が進み、料理は魚料理ポワソン口直し(ソルベ)肉料理ヴィアンドと続き、7品目の菓子デセールになったようで、白い皿の真ん中に、細長いタルトビスケットとイチゴが二層積み上げられ、その上には栗のペーストが細く繊細にかけられていて、さらに栗の甘皮煮が砕かれたものがトッピングされていた。添えるように梨のソルベと、つやりと光るチョコレートのリボン、金箔が散りばめられていた。


「ついでに、カフェも出してくれるかな」


 ルティエンスがそう言うと、壮年の男性は「かしこまりました」と答え、すぐさまカップを用意する。

 小ぶりのカップから白い湯気が立ち上り、部屋の中を香ばしい珈琲の匂いが広がった。

 一口サイズのクッキーが盛られた小皿がカップに沿えて提供する。芳乃の前にも同じく珈琲と、ころんとした白い陶器のミルクピッチャーと蓋のついた小さなポットが置かれる。蓋からはみ出している金属製のトングから、角砂糖が入っているようだ。クッキーの入った小皿を添えるように置いたところで、壮年の男と秘書が扉の前で立ち止まり、そろって一礼して部屋を出ていった。磨りガラスの向こうから影が消えるのを、芳乃が目を細めて見送る。


「まだ本音を話していないだろ?」


 広い空間、二人きりとなった部屋に、ルティエンスの声はよく響いた。


「私にだけ、聞きたいことがあるはずだ」


 優雅な動作でモンブランを切り、口に運んだルティエンスは満足げに頷く。

 芳乃も習うようにケーキを切り分けて頬張る。タルトクッキーの甘さとイチゴの酸味に、栗の甘味で溢れ出る唾液とともによく咀嚼して飲み込む。


「いくつか、質問をさせてください」

「構わないよ。何でも聞いてくれ」


 芳乃は梨のソルベを二口で完食すると、小さく首を傾げた。


「あなたとぼく以外で、同じ眼を持った人に会ったことはありますか?」

「残念ながら、君以外には会ったことがない」


 ルティエンスは微笑みを崩さぬまま、モンブランをもう一度口に入れる。


「その眼について知っている人……何人に教えたことがありますか?」

「今までに5人ほど、さきほどのシェフと秘書が最後だよ。真実を打ち明けるとしても、相手は選ぶだろう? 一歩間違えれば、何かのオカルト信者か精神病者に勘違いされかねないからね」

 ルティエンスがソルベと飾りのチョコを一口で完食する。パリパリと軽快な咀嚼音。

「そうですか。ぼくも、結局自分からは誰にも教えていません」


 芳乃が残りのモンブランを口の中に入れる。溢れたクリームが口の端を汚すが、舌先で器用に舐め取った。


「うんうん、わかる。にわかに信じがたいからね。質問はそれだけかな? 他には?」


 ルティエンスもモンブランを完食すると、微笑んだまま組んだ指の上に顎を置いて催促する。

 芳乃は薄く繊細なグラスに注がれたシャンメリーを飲み干し、口元を布巾で押さえた。

 ふと、瞼を降ろして俯くと、鼻を摘まんで息を止める。その奇妙な動作に、ルティエンスは動じない。

 やがて、深い水底から戻ってくるように、顎を上げ鼻から手を離した。

 大きな呼吸音。


「あなたは今まで一度でも」


 重く垂れさがる前髪の向こう、持ち上がったまぶたの奥から、凍てつく氷の眼が現れる。


「人を殺したい、と思ったことはありますか?」


 予想外の言葉だったのか、ルティエンスは驚いたように表情を崩す。だが、それは一瞬のことで、興味深そうに氷の眼を見つめ返す。


「面白い質問をするね? 動機があれば、誰だって一度は考えるものじゃないのかな? 例えば、大切な人を殺されたりしたら」

「いいえ」


 強い否定。ルティエンスが首を傾げると、芳乃は瞬きもしないまま氷の眼を見開く。


「もっと、自己中心的な考えで、です」


 氷の眼が温度を下げる。グラスの水滴が凍りつき、指先が痺れ、かじかむほどだ。ルティエンスは口角を吊り上げ、今までで一番深い笑みを浮かべる。


「君は、どっちだと答えてほしい?」


 ルティエンスの鋼鉄の眼が、ギラリと鋭く光る。

 見つめ合う。

 視つめ合う。

 お互いの心を直接。

 鈍い痛みが頭の奥を突き刺し、耐えられず目を閉じる。重たい頭を支えるために、肘をつき、手のひらを目に押し付ける。脈打つたびに痛みが走り、吐き気もする。息が乱れないように保つことで精一杯になる。


「辛いだろう、休んだ方がいい」


 ルティエンスの立ち上がる気配。


「君はまだ若いからね。能力に比べて体がまだ未熟だ、すべてにおいて負荷が強い」


 背を擦られ、「水を入れたよ」とグラスの底がテーブルに小さく当たるコトンと低い音がした。

 遠慮なくグラスを鷲掴み、一気にあおる。口の端から水が滴るのも気にせず飲み干すと、頭痛は少しだけましになった。


「そうだ、良いものを上げよう」


 ルティエンスはそばを離れ、すぐに戻ってきた。自分の席でクッキーの入っていた小皿の中から、モンブランの乗っていた皿へクッキーをすべて取り出すと、手に持っていた袋を破いて中身を盛り付ける。

 グラスを置き、膝に置いたままだったフキンで口を拭う芳乃の目の前に、皿がそっと置かれた。チョコレート菓子らしい。一口サイズの黒い塊の表面は粉っぽく、なぜかぼこぼこと表面が波打っている。

 これは何かと芳乃が口を開く前に、ルティエンスが一粒摘まみ上げた。


「クルミ入りダークチョコレートだ。私が開発し、健康補助食品として商品化したものなんだ。クルミはナッツ類の中で唯一オメガ3脂肪酸が豊富に含まれていて、高い抗酸化作用によって血管へのダメージを最小限に抑え、さらに眠りを誘うメラトニンの血中濃度を3倍に高めると言われている。またカカオ含有量が70%以上のダークチョコレートには、強い抗酸化作用がある。さらにカカオのみに含まれるテオブロミンが中枢神経や末梢神経に作用し、セロトニンの分泌を促進することから、リラックス効果も期待できる。私のこだわりとして、カカオニブを加えて、食感はもちろんテオブロミン含有量をブーストさせた」


 指先で摘まんだチョコレートを見ていたルティエンスが口の中に放り込む。嚙み砕く軽快な音がする。

 その音につられるように、一粒摘まみ、舌の上に乗せる。表面が粉っぽかったのはどうやらココアらしい。歯で噛み砕くと、クルミ独特の苦みとココアの苦みを感じる。が、噛むほどにカリカリとした食感とダークチョコの甘味が苦さを包み、やわらぐのを感じる。チョコが少ないと苦みが強いだろうし、ミルクチョコレートだと、恐らく甘さがくどいだろう。絶妙な配分だ。


「美味しいですね」


 素直に感想を呟くと、ルティエンスは嬉しそうに微笑んで、お土産に渡しておこうと3つもパッケージを渡してくる。白くシンプルなパッケージに、手のひらほどの小さな袋だが、中身はずっしりと重い。


「私の自信作なんだ。正直なところ、私がこの眼のために欲しいからCEOの権限を真っ先に利用して、妥協せずに作ったんだ。内緒だよ?」


 ルティエンスが席に座り直すと、片眼だけ瞬きをしてから、コーヒーカップに口をつける。芳乃はもらったパッケージを上着のポケットに押し込み、皿からもうひとつチョコを摘まみ上げ、口に放り込む。やはり美味しい。これはどこで買えるだろうかと考えていると、「ドラックストアに売ってるよ」と微笑まれる。


「君の活動域だと、駅前が取扱店だ」

「あなたと話すのは、楽すぎて駄目ですね」


 照れるように左手で口の端を押さえる芳乃に、ルティエンスは心底楽しそうに笑みを浮かべた。


「そうだろう、そうだろう。一番楽なのは、お互いに目を使うことだが、君には負荷が大きすぎる。鬱陶しくてたまらないだろうが、1から10まで丁寧に口で説明させてもらうとしよう」

「もどかしいですね。自分の体が未熟なのを、嫌でも思い知らされる」

「ふふ、年を取るのが楽しみになるだろう?」


 楽しそうに微笑んでいたルティエンスだが、突然溜息を落とすと、つまらなさそうに先ほどデザート皿へ移したクッキーの中からスノーボールクッキーを指先で持ち上げる。


「しかし、この手の健康食品はどこか胡散臭いイメージも強くてね。逆に、このような砂糖の配分が多く、体に悪いものほど依存させやすい。マイルドドラックを言われるほど砂糖には強力なドーパミンやセロトニンなどの脳内神経伝達物質の分泌促進と、血糖値の乱高下(らんこうげ)によって中毒性を高め、原色や蛍光色を用いてより強烈な視覚情報を含ませる。ド派手な色をしたエナジードリンクや、栄養素の欠片もない甘いだけのお菓子が世界的に売れ続けているのは、ある意味中毒者を量産させて買わせる心理戦とも言える。商売は奥が深くてとても面白いよ」

「中毒になるほど依存させたら、規制されるんじゃないですか?」


 ルティエンスが大きく頷く。


「そうそう、そこなんだよ。あまり中毒が強いとやれ健康に悪いなど突然規制されてしまうのでね、嗜好と中毒のギリギリを責めなければいけない。この嗜好品として受け入れてもらえるようにするのが重要でね。まず、食べ慣れているか否か、習性の問題もある。幼い頃から味を覚えさせて、またさらに次の世代を依存させる。このループをいかに作れるかが重要だ。なるべく若い子が食べたくなるように、または親が子供に食べさせたくなるものを作るのが、実に面白い」

 そう笑ってルティエンスはクッキーを一口で完食すると、もう一枚、市松模様のクッキーを目の前に持ち上げる。


「ただ、私や君のような人間の場合は、健康食品よりも嗜好品を積極的に摂取した方が、効率が良いかもしれないけれどね」

「自信作を、ここで否定するんですか?」


 食感を楽しむように咀嚼そしゃくする割に小さい音でチョコレートを食べ続けている芳乃に、ルティエンスはクッキーを指先で弄ぶ。


「私と君に限っての話だ。人の脳は10%しか稼働していない、など言われた事もあったが、人間の体は非常に効率的にできていてね、神経回路を繋ぎ直して、使う部分をより強化し、使わない部分の結合を解き、どんどん退化させていく」


 ルティエンスはクッキーを砕き、チョコの部分を皿に落とし、バターの部分だけを残して合体させる。


「だから、同じ人間でも脳の使っている場所がまったく違う事はある。そして私と君は、他の人間とはまったく違う脳神経回路を使っている可能性がある。通常の人間が100%の稼働率だとしたら、私たちは120%稼働させている。それゆえに、通常よりも消費するエネルギー量が異なっている。心当たりはあるだろう? 他人よりも異常な甘味を摂取し、必要カロリーを過剰オーバーに摂取しているはずなのに、それでも体重の増加どころか減少する。君の体が平均年齢に対して小柄なのはそういうことだよ」


 バタークッキーを口に放り込んだルティエンスに、芳乃は今まで以上に深刻そうに眉を寄せる。


「脳へのカロリーを供給しつつ、身長を伸ばす方法ってありますか」

「身長は多少の遺伝要素もあるけど、基本的に1日3食バランスの良い食事と、カルシウムの吸収を促すビタミンも取った方が良いよ。あとは日光を浴びて、ジャンプなどで骨に刺激を与えるのもいいよ。縄跳びが手軽で良いかな。過度に運動しなくても、息が弾んで少し汗がにじんでくる程度で良いよ。あとは入眠から最初に入るノンレム睡眠が成長を促すから、しっかり眠れるように食事の時間を調節したり、ぬるま湯で入浴をして、睡眠の質を上げるのも効果的だよ」

「試してみます」


 真剣に頷く芳乃に、ルティエンスは肩を揺らして笑う。


「少年にとって、ナポレオンコンプレックスは切実な問題だろうね」


 その言葉に不満げな表情をする芳乃に、ルティエンスはさらに喉を鳴らして笑い、手を立てて謝罪する。


「すまない、若くて可愛らしいなと思ってしまった。しかし、君の中で低身長がデメリットに感じるのは、おそらく生活上の問題よりも周囲からの視線だろう」


 ルティエンスは笑いを収めるようにさらに落としていたチョコレートクッキーの破片を食べ、コーヒーを啜ると、机の上で手を組む。


「先ほど私が揶揄したナポレオンは、かつて低身長だと言われていたが、実際は当時の平均身長よりも高かったと判明している。近衛兵に身長制限を設け、周りの背が高いがゆえにエビングハウス錯視が起き、相対的に低く見えたこと、敵対国のイギリスによって作り上げられた政治的宣伝(プロパガンダ)が長く残ってしまったがゆえ、低身長の男は攻撃的で名誉にしがみつくと名称に使われてしまった。しかし、低身長が攻撃的というのは、ナポレオン自身も身長にコンプレックスがなかったことや後世の研究結果ですでに否定された俗説だ」


 芳乃が皿に盛られていたクルミチョコレートを食べ終えたのと、ルティエンスの言葉を咀嚼そしゃくしたのは同時だったらしい。


「ぼくが感じているコンプレックスは、作り上げられたものってことですか」


 納得が半分、疑心が半分といった表情を浮かべる芳乃を、ルティエンスは楽し気に見つめる。


「理解が早いね。身長が高いことや体が大きいことは、栄養状態がよく健康だと判断する。これは動物がより遺伝子が優れている個体を自動識別する能力だと言われている。しかし、身長が低いことと健康状態が悪いことは実際に結び付かない。つまり、身長が高いことをステータスとするのは人間社会に限定される。身長が高いことは高い地位や権力を持ち支配力のある人間だと一種の指標として判断され、好まれるようになったからだ」


 最後に残っていたジャムサンドクッキーを一口で食べ終えたルティエンスは、珈琲を飲み干す。


「さて、君は進化論を知っているね?」


 長い両手指の先を合わせたルティエンスの、どこか試すような強い視線を、芳乃は正面から受け止める。


「ええ、生物は時間をかけて進化しているメカニズムの事。現代では、遺伝子が世代に移り変わるごとに時代に合わせて変化する現象、でしたか」

「さすがだ、遺伝子は常に生き残るように変化し続けているんだ。これは自然に起きる場合もあれば、外部からの選別で操作することもできる。例として、アフリカゾウの牙の長さが世代を追うごとに短くなっているのはなぜか知ってるかな? 本来ならば、遺伝子が優位である牙が長い方が優れているのだが、価値の高い牙の長い方が乱獲された結果、生き残った牙の短いもの同士が生き残り繁殖を続け、人為的に歪んで牙が短いものが標準化した。

 つまり、遺伝子情報は、より生存確率が高いもの同士が掛け合わさり、遺伝され、積み重ねれば積み重ねるほどに、生存に有利となる。優生思想がたまに話題となるが、この理論上、優秀な者同士をかけ合わせていけば、競走馬のように最強の掛け合わせによって、より優秀な生物へと選りすぐっていく。しかし、遺伝子というものは、そう簡単な優勢遺伝や血統遺伝だけじゃないのが面白いところでね。ある日突然、違うものが生まれてくることがある。それが特異点だ。隔世遺伝と言った方が馴染みがあるかな?」

「わずかにでも、過去に含まれた遺伝子が、突然表に出てくるという事ですね。血液型でも存在しますね。cisAB型やbombay型のO型がごく稀に存在するように」


 ルティエンスが親指で中指を弾き、パチンと大きく打ち鳴らした。


「excellent!! その話ができる人間は君が初めてだ!! ああ、同類がいるというのはここまで心躍ることだとは! 一人じゃないんだと、孤独感が一気に薄れて、嬉しくて堪らないよ!!」


 興奮からか、ルティエンスは顔をなでたり髪をかき上げたりと、忙しなく手を動かす。


「そう、ある日突然現れる特異点というのは、過去何度も出現し、歴史は動き人類は更なる発展を遂げてきた。一匹の猿が突然火を怖がらず、道具として使うようになったあの瞬間のように!」


 天井に向けて手を広げたルティエンスは、ふと我に返ったように落ち着いた動作で、机に肘をつく。


「だが、不意に現れる進化のための特異点を自ら潰してまでも現状維持を望む、愚か者がいる。それは群れだ。遺伝子的な話に戻ると、より遺伝子を後世に残すためには、集団生活をして生存率を上げる策略でもある。羊が一匹のときより、集団になった時のほうが生き残りやすい。協調と同調で発展し、進化を遂げてきた。だからこそ、変化、まして進化を望まない。思考を捨て、ひたすら愚直に同じ方向へと進み続ける。白い羊の群れが、たった一匹の黒い羊を徹底的に迫害するように。過去の歴史で思想離反者を魔女や悪魔と言って処刑したように、ね」


 鋼鉄の眼が、目の前で惨殺される人々の血を反射するように赤く光る。

 その怒りにも似た強い眼差しから目を逸らさぬまま、芳乃は静かに言葉を紡ぐ。


「ひとつ、聞いてもいいですか」

「どうぞ?」

「仮定としての話ですが、この眼を遺伝した場合、脳が耐えられずに短命の可能性がある。だから自然と退化していった能力で、ぼくやあなたは遺伝子異常でたまたま隔世遺伝した能力、そして特異点とも言える存在ということですか?」


 ルティエンスは満足げに頷く。


「そうだよ」

「もうひとつ」


 芳乃の眼が鋭くなる。


「あなたは、同志がいて嬉しいと言いましたね」

「ああ、事実だよ」

「ええ、事実です。そして、自分以外の特異点を見つける方法を、あなたは模索した。それが≪ブルーマーク」ですか?」


 芳乃の眼には嫌悪が宿っていた。


「Excellent」


 ルティエンスが口の端を吊り上げ、狩る物の凶悪な笑みを浮かべる。


「そう、君のような存在を、選別するために用意してきた。≪ルナティックブレイン(強靭な思考者)≫を選別するために、ね」


 命をもてあそぶような残忍な笑みを浮かべたまま、それでもどこかうれいを帯びた目でルティエンスは視線を落とす。


「いや、事実は失敗なんだ。私の予想が甘かった。私が本来計画していたのは、≪ブルーマーク≫が付かない≪本物≫を見分けるためでもあった。だが、計画中に少々ブレが生じてしまってね。君のように、本来ならば試験に引っかからずに突破できるはずの≪本物≫まで≪ブルーマーク≫がついてしまった。やはり多くの人の手が加わってしまうと、理想と離れてしまうね」


 やれやれと疲れた様に、首の後ろを擦る。


「私が最後の悪あがきとして、≪ブルーマーク≫に特別な意味を持たせた。≪ブルーマーク≫がつくことは、秀でた才能のある優秀な人物だと。するとどうだ、端にも棒にも引っかからないような特別になりたい凡人が真似をし始めた。すでに一部ブランド化して、差別が個性として受け入れられるようになりつつある。タトゥーや髪の色を奇抜な色にするように、個性という名の多様性に交じっていく。あと4後年か? 15年間、初回のテスト以外で判定テストに引っかからなかった人間が解放される時期がやってくる。それを機に本来の意味を見失って勝手に瓦解するだろう」


 ルティエンスが顔を上げると、芳乃がこめかみに血管を浮き立たせ、息を押し殺して震えていた。体の奥から噴出する怒りの言うマグマを押し留めるように。

 その姿を憐れむように、ルティエンスは眉尻を下げる。


「君の怒りも分かるよ。今本当の差別に会って苦しんでいる当事者にとって、私の発言は到底許せないだろう。深く謝罪しよう」

「いえ、赦したくないので、謝らないでください」


 間髪入れずに拒否した芳乃は、無理やり長く息を吐いて呼吸を落ち着かせ、前髪を鷲掴わしづかんで、頭をなでるように後頭部へと掻き上げる。


「貴方のふざけた茶番については、よく分かりました。それで、あなたが本来の目的であった≪本物≫を選別した先について、ぼくの推測をお話ししてもいいでしょうか?」

「ぜひとも、聞かせてくれ」


 芳乃はすっかり冷めてしまった珈琲に、ミルクピッチャーの中身全てを注ぎ入れ、小さいポットから真っ白な角砂糖をトングで取り出すと、珈琲のソーサーカップへ6つ並べる。


「ぼくは一人ゲームが好きです。テトリスのように単純かつ瞬間的な判断が必要なやり込み要素があるものやクレーンゲームのように確率と物理学的な攻略が必要なもの、そしてチェスのような複雑に局面が変わるものが特に」


 芳乃は右手でティースプーンを持ち上げると、角砂糖を器用に縦一列に積み上げる。


「しかしある程度のレベルに達してしまうと、単純なゲームは攻略して当たり前になってしまい、対戦相手が必要なゲームは決まった相手かAIが相手となってしまいます。現実世界でも同じです。学校には、同レベルの相手は存在しません。常に、退屈で堪りません。あなたは僕と同じように、きている」


 スプーンごと角砂糖を沈め、ざりざりとカップの底に角砂糖を押し付ける芳乃に、ルティエンスは組んだ手の上に顎を置いて頷いた。


「正解だ。大げさな話、子供と話すには噛み砕いて簡潔に話す必要がある。その地点でけして平等なはずがない。こちらが程度の低いものに合わせているだけだ。なのに、向こうは平等で対等な立場であると勘違いし、さらには自分が偉いとふんぞり返る。滑稽な姿は馬鹿で可愛いが、たまに疲れるんだ」

「あなたがぼくに手を貸し、眼について教えを説くのは、それが理由ですか」

「そうだ。同情も共感もいらない、ただただ同じレベルの会話がしたいだけだ。私はずっと孤独だ。だから同じ≪本物≫を探し出したかった。そしてようやく君を見つけた。だから早く、もっと私に近づいてほしい」


 角砂糖を溶かし切った芳乃は、珈琲を一口(すす)る。


「解りました。あなたがなぜ、≪同種≫の存在を探すためだけに、一つの国を巻き込んでまで大規模で馬鹿げたことをしたのか」


 乱れたままの前髪の隙間から、芳乃は鋭い視線でルティエンスを睨みつける。


「≪本物≫、つまり、≪ぼく≫と勝負したい、と言うことですか」


 その瞬間、ルティエンスが両手を打ち鳴らすと、興奮のまま立ち上がった。


「本当に君は最高だ! 私がずっと求めていたのは、まさに君なんだよ!! 協力プレイをする友達が欲しいわけじゃない。≪我々≫はいつも単独プレーのみしか満たされない。群れたり協力するなんて何も楽しくはないんだ。だって協力するには協調性や同調性、集団の意志が必要だ。そんな煩わしいものは邪魔なんだよ! 私はね、心から思いっきり楽しみたいんだよ!!」


 そう言って、我に返ったように落ち着いた動作でゆったりと椅子に腰かけ、足を組む。


「君なら理解できるはずだ。勝負は余裕で勝てるゲームよりも、勝てるか勝てないかの瀬戸際が一番刺激的で、脈拍が上がって手に汗が滲み息が止まりそうなほど集中した瞬間は、まさに生きている実感が持てて、とても楽しい」

「そうですか」


 小さく溜息をついた芳乃は、珈琲を呷り、底に溜まったヘドロのような砂糖まで器用に飲み干した。


「情報戦略戦において、戦争をするなら、相手の手の内を知るのは有利の事でしたね」


 ソーサーにカップを置き、目を伏せた芳乃は深い気を吐く。

 突如顔を上げ、氷の眼がルティエンスを貫く。

 ビキビキと皮膚を押し上げて額に血管が青く浮き上がる

 見開いた眼がみるみる充血し、ぼたぼたと鼻血が垂れ、白い皿を汚していく。

 ルティエンスがはっと息を飲んで立ち上がる。目の前の少年の眼をふさごうと手を伸ばしたところで、力尽きた様に椅子の座面に崩れ落ちた。

 水を被ったように、顔中から汗を吹き出し、溺れかけたかのように引き攣った呼吸をする。

 あまりの苦しさからか、芳乃は両手の付け根で目を押さえ、弾け飛びそうな頭を押さえ込むように力一杯頭を抱えている。その様子を見下ろしながら、ルティエンスが口の端を引きつらせる。


「はっ、驚いた。無茶なことをするね、一歩間違えば壊れるよ」

「今、ここで、壊してしまった方が、賢明かも、しれませんよ?」


 呼吸の合間、とぎれとぎれにそう言った芳乃が、手の隙間から原子さえ動きを止める絶対零度の眼がルティエンスを覗き込む。

 その眼を鋼鉄の眼が受け止めたかと思えば、笑い声が部屋中を反響した。

 ルティエンスは腹筋を震わせ、横隔膜を伸縮させ、腹底から笑っていた。

 剥き出しにした≪捕食者≫の笑みを隠すことなく、身を乗り出して少年を見下ろす。


「視ただろう。私はね、楽しみたいんだ。君のおかげで、久々に心の底から興奮しているよ」


 芳乃はようやく呼吸が落ち着いたのか、手を頭から剥がし、手の甲で滴る鮮血を拭いとる。


「そうですね、あなたはそういう人だ」


 芳乃は膝にかけていた白いナフキンを掴んで勢いよく鼻をかみ、鼻血を拭うと、皿の上に投げつける。

 そして、ナイフを逆手で掴み振り上げ、机の真ん中、百合の花に勢いよく突き立てた。

 ガラスが割れ、テーブルの上を水がしたたり、白い花びらが散る。


「次会う時は、ぼくはあなたを、殺します」


 見下ろしてくる捕食者の眼を、仕留めようと見開かれた少年の氷の眼を、男は満面の笑みで受け止める。


「楽しみだよ、本当に」


 何事もなかったように姿勢を正した芳乃は、「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げる。

 踵を返し、真っ直ぐガラスのドアへと向かっていく。


芳乃ほうの(れん)くん」


 背が止まる。振り返りもしない小さい背中に、ルティエンスは呼びかける。


「私はとても慈悲深いんだ。もし気が変わって、降参だと言うなら教えてくれ。いつでも歓迎するよ」


 小さい背は一度も振り返りはしなかった。

 開け放たれたドアの向こう、秘書が滑り込んでくる。


野茨のばら、彼を送って行ってくれ。丁重ていちょうにだよ」


 野茨と呼ばれた秘書の女性は、テーブルに突き立てられた銀色の凶器を一瞥いちべつする。


「よろしいのですか? 貴方の目よりも精度がよろしいかと」

「心配してくれているんだね?」


 ルティエンスは汚れていない口の端をナフキンで拭い、立ち上がる。

 長い脚で一瞬にして野茨のばらのそばに歩み寄ると、彼女の細い顎をすくい上げた。


「君は分かっていない」


 冷たい鋼鉄の眼が見下ろす。その鋭い光は赤く染まり、何人もの命を屠ってきた、鋭く研がれた血濡れのギロチンの刃のようだった。


「自分よりも強い相手を蹂躙じゅうりんし、支配した時の快感は、至極なんだよ」


 野茨はその刃先の鋭さは簡単に命を刈り取る神と対峙したような畏怖と、その刃が首を切断し絶命する快楽を想像し、歪んだ笑みを浮かべる。

 やっとそこで手を離され、野茨は一歩よろける。

 ルティエンスが胸元に差していた白い布を差し出す。艶やかな光沢としっとりと肌に馴染むシルクが彼女の指に馴染むように垂れ下がった。

 野茨は眼鏡を外し、額と小鼻を押さえ、浮いた冷や汗と皮脂を吸い取らせる。

 何もなかったように無表情で眼鏡をかけ直すと、チーフを丁寧に畳み、ポケットに入れる。

 背筋を伸ばして敬うように深く頭を下げ、乱れのない歩調で少年の後を追いかけた。

 誰もいなくなった部屋で男は踵を返す。

 上質な革靴の底が、磨き上げられたタイルを叩く。

 曇りひとつない窓の外には、星空のように輝く東京の夜景が広がっていた。


「まだ【足りない】かな? もう少し追い詰めてみようか。完全に退路が無くなった方が、人はより残酷になれるからね」


 一人ぽつりと呟いたルティエンスは、腕を振り上げ、ガラスに手のひらを叩きつける。


「あー、楽しみだ! 楽しみで仕方がない! だから頼むよ、先に壊れないでくれ」


 衝撃で痺れるのを楽しみ、月を丸飲みにするように口を開け、冷たいガラスに額を押し付けた。






【復仇のカスタネア 了】



次回更新予定2026年5月ごろ。

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