File:9 この国は何かが腐っている
気が付けば、周囲は紺色の警察服ばかりとなっていた。
振り返ると、ワゴン車に凭れ掛かり、放心したまま取り残されていた飯田美穂の母・穂波に、警察官が声をかけている。魂が抜けてしまったように、へたり込んでしまっていて、自力では立てない様子だ。救急車の手配をするらしい。
その脇で、同じく警察官に支えられながら立ち上がろうとしている男に気が付き、慌てて駆け寄る。
「竹! 大丈夫か?」
蕗二の声に、腹を撫でながら竹輔が微笑んだ。蕗二と同じく顎を殴られているのか、顎先が赤く腫れている。
「はい、なんとか。いやぁ、でもスタンガンなんて、漫画でしか見たことなかったんですが、びっくりですよ~。でも気絶はしないってよく分かりました。やっぱりフィクションって大袈裟ですよねぇ。でもスタンガンよりも、栗田さんの拳が痛かったですね」
「ポジティブだな、おい。とりあえず、一回病院見てもらえよ」
「ありがとうございます。あ、自分で歩けるので大丈夫ですよ~」
脇で心配そうにしている警察官に、心配ないと断りを入れる竹輔の表情には、いつもの覇気はない。スタンガンと栗田からの拳を受けているせいだけではないだろう。
「やっぱりショックか? 宿木巡査のこと」
小声で問えば、竹輔は肩を落として、目を伏せる。
「そりゃあ、ショックに決まってますよ。でも、僕よりも彼女の方が心配です」
竹輔の視線を追えば、警察官二人に両脇を固められ、連行される栗田が見えた。その後ろ姿を宿木紅姫がじっと見つめていた。
と、周りの野次馬が入ってこないよう、腕を広げて規制線代わりに立っていた警察を振り切って、同じ制服の女子生徒が二人駆け寄ってくる。三つ編みの少女が宿木を押し倒さんばかりに抱き着き、髪の長い少女が心配そうに顔を覗き込む。すると、紅姫は今までの気丈さが嘘のように声をあげて泣き始めた。わんわんと子供のように泣きじゃくる紅姫を二人の少女が抱き締める。
その姿を見ながら、蕗二は微笑んだ。
「彼女は強い。ちゃんと感情を吐き出せる。それに周りもちゃんと受け止めてくれる」
人は脆い。越えちゃいけない一線を、簡単に越えてしまうことだってある。
それを踏み留まれるかどうかは、自分だけじゃなくて、周囲からの引き留めも大事なんだろう。
俺はかつて、心配してくれた同級生たちを避けた。理解なんてされないと、孤独を選んだ。それが自分を追い詰める結果だったとしても、当時は最善だと思っていた。なにより、自分の心の中に生まれた殺意の存在が許せず、封じ込めようとした。しかし、孤独だったことでさらに狂気に飲み込まれていた。狂気に飲まれたその先はきっと、栗田と同じだっただろう。
「ありがとうな、芳乃」
振り返ると、再びサングラスを掛けようとしていた芳乃が心底迷惑そうな表情で眉を寄せる。
「突然なんですか、気持ち悪い」
「気持ち悪いって言うな。純粋な感謝だよ。俺はお前のおかげで踏み止まった。お前に出会ってなかったらきっと、いつか栗田と共謀してたかもな」
竹輔が引きつった表情でこちらを見る。「そんな顔すんなって!」と肩を小突いてやる。
「まあ、もしそうなったら、あなたを壊した方が手っ取り早いかもしれません」
ぽつりと呟かれた芳乃の言葉に、首筋に氷が当てられてかのような悪寒が走る。
「お前、加減できるのか」
芳乃は何事もなかったように、中断していたサングラスをかけ、両手で位置を確認している。
「まさか。失敗です。栗田さんには加減しすぎましたし、あの人はやりすぎた」
芳乃が顎で指した先で、穂波が救急隊のストレッチャーの上に乗せられ、運ばれようとしていた。
他人の心を見ることができる芳乃の能力は、自分の意志ではまだ制御できない。だからこそ、コントロールしようと足搔いている。だけど、今日はどこか様子がおかしかった。
死ねばいいと言ったり、過剰に飯田穂波を追い詰めたり、今までの彼ではしなかっただろう。
何かが、彼の中を食い荒らしている。
蝶として羽化するはずの蛹の中で、得体の知れないモノが蠢いている。
「刑事さん」
黒いガラスに遮られて、芳乃の眼は見えない。
「ぼくは、あなたが思っているような人間ではありませんよ」
「芳乃」
突然の電子音が鳴り響く。蕗二の端末だけではない。その場にいた警察官、すべての端末が同時に鳴り響いている。
異常な光景に事態を掴もうと周りを見渡していると、ドタバタと足音を立てて、野村と片岡が駆け寄ってきた。
「三輪っち! なんかやばそうだから、あとでね!」
「私も車をハッキングしたのがバレると困るからね。うまく言い訳を頼むよ?」
そう言って、片岡が芳乃の腕を掴んで駆け出した。蕗二の呼び止める声は電子音に搔き消され、三人はあっという間に人混みへと紛れてしまった。
耳障りな甲高い電子音にうんざりしながら、上着のポケットから取り出せば、画面に表示されていた名前は菊田だった。
画面をスライドし、すぐさま耳を押し当てる。
「菊田さん、いったい何の警報で」
『やあ、三輪警部補。本件の解決、実にご苦労だった』
蕗二の声を遮ったのは、菊田ではなかった。
「柳本警視監、ですか?」
柳本警視監は、独自の判断で極秘部署である【特殊殺人対策捜査班】を立ち上げた創設者だ。
警察のトップである警視総監の次に権限を持つ、警視監の定員が38名と固定されている。
つまりは、都道府県にひとりずつしか配置されない。そして柳本警視監は東京の警視監である。
すなわち副総監の立場だ。そしてその立場を利用して、暗躍するタヌキ野郎でもある。実際、【特殊殺人対策捜査班】の情報を隠蔽したり、情報操作を行っている。
そんな男が突然菊田の端末から連絡を取ってきた理由はなんだ。
蕗二は乾いて張りつく唇を舐めて湿らせる。
「お疲れ様です。ところで、何が起きているんでしょうか」
『全警察官に緊急招集だ』
穏やかながら、有無を言わせない口調だ。
『警察官が殺人事件に関わった。全員に今すぐマークテストを受けてもらう。例外はない。君もその対象だよ』
周りの警察官を見る。柳本警視監が言ったことは本当らしい。戸惑った様子で、撤収作業に入っている。
『蕗二くん』
耳なじみのある低い声が鼓膜を叩く。
『菊田だ。今すぐ、本庁に戻りなさい』
「栗田さんの事ですよね。あまりに情報が早すぎませんか」
『警察の情報伝達力は、お前も分かるだろう。話は後だ、すぐに帰ってこい』
菊田は苛立ったように語彙を強める。栗田は捜査一課の直属の部下だったはずだ。菊田は立場上、今回の事件の全容をいち早く知っているのだろう。そして栗田の蛮行について周りからの非難や咎められているのだろう。しかし、菊田は叩き上げの警部だ。他人にどうこう言われるよりきっと、栗田の心の闇に気がつけなかった自分自身を責めているに違いない。
「解りました。すぐ戻ります」
端末の画面を指でタップして通話を切る。同時に竹輔が端末を見せてきた。
警察官には、特殊な連絡網が存在し、全警察官への一斉通知も簡単にできるようになっている。例えば、テロや指名手配犯の確保、≪ブルーマーク≫や≪レッドマーク≫が外された場合など、緊急発令されることがある。竹輔が見せている画面にはショートメールで、緊急招集の通達が入っていた。
「そういうことだ。帰るぞ」
踵を返し、駐車場に足早に向かう。その後ろを竹輔が無言でついてくる。
困惑と喧騒、仮装した民衆たちを真っ黒な遠い空から淡々と、端の欠けた月が冷めた光でこちらを見下ろしていた。
11月2日火曜日。AM7:50.
新宿。三輪蕗二の自宅アパート。
いつもと変わり映えのしない朝だ。
ただ、自分の家で、私服のままパソコンと向き合っている以外は。
事件のあった10月31日。あの日、竹輔とともに警視庁へと帰庁すれば、すぐに会議室へ詰め込まれ、『マーク診断テスト』を受けることになった。
通常の『マーク診断テスト』は、全国民に実施されるものだが、全国民がまったく同じ時間に試験を受けるわけではない。事前に案内通知がされ、指定時間に各市町村の市役所や公民館に行くようになっている。運転免許所を取得するための本免許学科試験のようなものだ。
しかし、今回は全国の警察官に対しての一斉テストだ。だが、現場に出ていて事故処理や職務質問などの公務を行っている警察官もいるだろう、全員が一斉に受けることは現実的には不可能だ。だから、帰庁した警察官から順番に部屋へ案内され、終わった順番に開放された。
そこまではよかったが、地域警察など現場に順次していない内勤の警察官には自宅待機が命じられた。
つまり、結果が出るまでは勝手に動くなという事だ。
これほど大規模なのは、体験したことはない。
月曜日は文化の日で、元々事件がなければ【特殊殺人対策捜査班】は休みだ。風呂場で気がついたが、糸杉や栗田と交戦した際に体をぶつけていたらしい、青痣やかすり傷ができていた。寝てれば治ると、日がな一日ゴロゴロと自堕落に過ごした。そして、毎日の習慣は簡単に抜けないもので、自宅待機にも関わらず、いつも通りの時間に起きてしまった。
昨日さぼった掃除と洗濯物を回してしまえば、やることがなくなってしまった。ただ座って出れ美のニュースを見続けているのも苦痛で、ノートパソコンを開いて結果の通知を待つばかりだった。
ちなみに、同じく自宅で待機している竹輔が、一人では不安だから通話したいと連絡があり、リモートで画面を繋いでいる。画面の端には、緊張感からか一言も喋らず、そわそわと落ち着きのない竹輔の姿が映っている。受験結果を待つような緊張感を纏っていて、少し面白い。とはいえ、ずっと竹輔を観察しているのにも飽き、ぼんやりするのは性に合わない。暇を持て余した末に、今回の事件の捜査書類の下書きを打ち始めた。
栗田という、復讐の業火に身を焼く彼女に賛同した糸杉と宿木、そして事件によって愛娘と夫を失った飯田穂波。
彼女の凶行は許されるものではないが、彼女を復讐へと駆り立てた経緯を考えると、多少の情状酌量は考慮される可能性はある。
しかし、今回問題となったのは、彼女が7年もの間、一度も『マーク診断テスト』に引っかからなかったことだろう。
彼女自身、復讐のきっかけは今年の3月だと言っていたが、『マーク診断テスト』は半年に一度、だいたい2月と8月に行われる。
2月のテストをパスできたところで、8月のテストで引っかからなかったのはなぜか。
その答えに、少し心当たりがある。
もしこの推測が当たっていれば……
ノートパソコンの右下。デジタルで表示されていた時計が8:00に切り替わった瞬間。ぽこんと気の抜けた電子音とともに、時計の上にメールの受信通知がポップアップされる。
竹輔も同時だったようで、緊張した面持ちで画面に食いついている。
『ああ、よかった……こちら、問題なしです』
竹輔の安堵の溜息が聞こえる。
蕗二もマウスを操作して、ポップアップをクリックした。
すぐにメール画面が開き、『判定結果の通知』という件名が目に飛び込んでくる。
定期テストで受けているものと全く同じ文章をスクロールしていき、判定の部分を探す。
【三輪蕗二 様の判定結果は “問題なし” である。】
その表示を見て、蕗二は眉を顰める。
「やっぱりだ」
『え、蕗二さん? ま、まさか、判定が……!?』
竹輔が勢いよく顔を上げる。大きな声を出したつもりはなかったが、良いイヤホンを使っているのかもしれない。画面を共有すれば、竹輔はほっとした表情を浮かべた。
『びっくりした、何もないじゃないですか。一体どうしたんですか?』
「致命的な、欠点だよ」
『え?』
困惑したように眉を寄せる竹輔を真っ直ぐ見つめる。
「俺は、人を殺そうと思ったことがある」
竹輔の表情が強張った。
「それも強烈にだ。今も、殺意は俺の中にある。それなのに、判定は白だ。この意味が分かるか?」
竹輔がひゅっと喉を鳴らす。
そう、ずっとひっかかっていたのは【これ】だったのだ。
俺は【殺意という強い衝動】を持っていて、まだ腹の底で息を潜めている。この感情は俺のもので、この先消えはしない。だから、本来ならば、結果は黒であり、≪強い殺意があり、今後自他に対して攻撃を加え、自死または他者を殺害する危険性がある≫と判定され、≪ブルーマーク≫がつくはずだ。
2031年から施行された『犯罪防止策』。全国民にテストを受けさせ、≪犯罪者予備軍≫を炙り出し、矯正や制限をかけて、犯罪を事前に防ぐためのものだ。
だが、≪犯罪者予備軍≫のはずの俺が、今回も判定に引っかからなかった。
そうだ。このテストには、【致命的な欠点】がある。
そして、椋村は【これ】を知っていた。
だから殺されたのか。
目を瞑れば、壁面に咲いた赤い彼岸花。
また会いに来る、そう言った声に、椋村は答えずに手を上げるだけだった。
あの時すでに、椋村は自分が殺されるのを知っていた。
あの一瞬の違和感を感じ取っていれば、椋村は殺されなかった。
椋村の死は俺のせいだ。
腹底から、ぼこりと泡が浮き上がる。真後ろに人が立つ感覚。
殺意が俺を嘲笑う。そうやって、また蓋をするつもりかと。
そうだ、自分への憎しみで目を覆うな。椋村を殺したのは俺じゃない。
殺意を飼い慣らせ。握り締めた刃≪さつい≫を向ける先を間違えるな。
大きく息を吸い、肺一杯の酸素を取り込んで吐き出す。
頭に酸素を行き渡らせろ。あの瞬間を思い出せ。そして情報を整理しろ。
椋村は誰に殺された?
始末したのは、おそらく警視庁公安部だ。椋村は公安部に所属していて、≪ブルーマーク≫に【致命的な欠陥】があることに気がついていた。それは利用して、栩木の≪ブルーマーク≫を外した。その責任を取らされたか。
いやそれじゃおかしい。椋村があのタイミングで殺された理由は?
そう、始末するなら、いつでも殺せたはずだ。人目があり、警察関係者の多くの目があるあんな場所で決行する必要はなかったはずだ。
じゃあ、なぜあのタイミングで始末した?
いや、始末せざるを得なかったのか?
俺に、≪ブルーマーク≫の【致命的な欠陥】を伝えようとしたから?
そうだ、椋村は俺の言葉を遮った。改竄できるか問うた直後に不自然なほど激高した。
あれは俺が【事実】に辿り着くのを防ぐため。または、辿り着く可能性を監視者に伏せるためか。
だが、それだけで殺されるのか?
違う。椋村は俺に何かを伝えようとしたから、始末された。
そして、それを伝えたせいで、殺された。
なぜだ? なぜそんな危険を冒した?
いや解っている。あの時、椋村は殺される覚悟で俺に何かを伝えたのだ。
椋村は賢い。チームの頭脳とも言える、捕手の言う重要なポジションを担っていた。ただの雑談をしていたわけじゃない。俺に何かを託し、殺された。
椋村は、あの時何を言っていた?
彼は何を伝えようとした?
思い出せ。思い出せ。アクリル板越しに交わした僅かな間。たった10分の間に、見逃しているものがある。
椋村のラフな姿、みそ汁が濃い、慰謝料、そう言う設定、眼鏡越しの視線、鼻を啜る音、嗚咽、拳が叩きつけられる音、怒声……
上着のポケットから液晶端末を引っ張り出し、「万葉集 我が恋妻」と打ち込み、検索ボタンに触れる。
こういう時に、自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す。
椋村は万葉集の中の、和歌をひとつ呟いていた。だが、椋村に指摘されたように、国語の成績はそんなに良くない。実際、万葉集は学生時代の国語のテストに登場していたが、正直何ひとつ覚えていない。
聞きなれない言葉の羅列は耳を通り抜けてしまっている。なんとか耳の端、鼓膜の片隅に引っかかっていた単語だけが手がかりだ。
検索画面に、いくつか候補が上がる中、画面をスクロースしていく。
なんだか似たようなものがヒットしているが、たぶん違う。
どれだ。椋村が言っていた、あの和歌は。
『なんや、万葉集も知らんのか?要は恥ずかしいってことや』
呆れて馬鹿にしながら、どこか懐かしむように笑っていた椋村の声。
ふと指が止まる。網膜を突き刺す鮮烈な赤に目が留まる。
「道端の一市の花が目立つように、私の愛しい妻の事がみなに知られてしまった」
その文言とともに、鮮やかな花が表示されていた。
その花は、彼岸花だった。




