File:8 この世の関節がはずれている。何てことだ、私はそれをはめ直すために生まれてきたとは。
今から6か月前の4月。
特殊殺人対策捜査班が2件目に解決へ導いた殺人事件。
その事件では、飯田美穂という少女が殺された。
いじめを苦に自殺を考えた飯田美穂は、美術教師の久保聡に誘導され、自殺を決行。しかし久保聡の思惑によって失敗。久保聡は飯田美穂がまだ生きているのに救護せず、その顔面を損壊させ、死に至らしめた。
そして、目の前にいる女性は、被害者・飯田美穂の母親だ。
最後に会ったのは、犯人逮捕の報告を行った時だ。最愛の娘を失った母親は、酷く憔悴していて、まるで生きる屍のようだった。それでも報告の時は、犯人逮捕に喜び、何度も頭を下げていた姿を覚えている。
その彼女が、憎しみを宿した目でこちらを睨んでいた。
「飯田さん、なんで。美穂さんの事件から、何があったんですか」
蕗二の言葉に、飯田美穂の母は「ああ」とこちらを認識したように目の焦点が合う。
「三輪さんでしたか、あの時はお世話になりました」
低い声で唸るように言葉を吐くと、生気のない黒い眼でこちらを見る。
「ねぇ、三輪さん、知ってますか? あの後の事。まあ、知らないでしょうね」
蕗二の眉間に力が入る。その痛みに耐えながら、冷静に言葉を選ぶ。
「いじめを行っていた生徒二人は≪レッドマーク≫の処分が下り、今は矯正施設に収容されています。殺人の実行犯である教師は懲役19年、ですよね」
そう答えると、飯田の母は驚いたのか、目を大きく見開いた。
「知っていたんですね?」
「もちろんです」
自分が関わった事件の結末が、気にならないわけがない。特に、捕まえた犯人にどんな罪状や処罰が下ったのか、最後まで見届けたいと願う。
だが、警察はあくまで犯人を捕まえるのが仕事だ。
その先、裁判という戦場では、検察官が弁護士相手に犯人の処遇を巡って争っている。だから、刑事たちからすれば、望まない結果になることもある。
飯田美穂の裁判は、犯人の久保聡が事件を否認しなかったため、比較的スムーズに裁判が進んだとのことだ。自殺ほう助で7年、死体損壊で3年、殺人に至る過程が重く置かれ9年の、懲役19年となった。判決としてはやや重い方だと菊田は言ったが、人ひとりの命が奪われても、無期懲役にできない歯痒さに苛立ったのはよく覚えている。
「あの男」
飯田美穂の母が、瞬きもせずにこちらを凝視する。
「判決は死刑でもなく無期懲役でもなく、懲役19年ですよ? 今39歳なんですよ、あの男は。19年後、58歳で出所するってことでしょ? 通知書にそう書いてあったんです」
蕗二は血が滲むほど下唇を噛み締める。
11年前に父親を殺されてから、被害者の救済処置や支援、裁判後の制度について調べてきた。
その知識を被害者たちに何度も伝えてきた。もちろん飯田美穂の家族にもだ。その中に、被害者等通知制度といって、犯人にどんな実刑が下され、どこの刑務所に収容され、刑期や釈放情報などを通知される制度があり、検察官から言われないかもしれないが、自主的に申出書を提出すれば、その通知書を受け取ることができると伝えていた。
飯田美穂の遺族は、申出書を提出したのだろう。
そして、それが引き金となった。そうなってしまった。
「だから、同じ立場の人と一緒に、復讐をしてる、ってことですか?」
情けないほど声が震える。蕗二の問いに、飯田の母は口角をわずかに上げ、場違いなほど優しく微笑んだ。
「三輪さん、私、あなたには感謝しているんですよ? あなたが紹介してくれた、被害者の会に行ってみたんです。みんな、同じように苦しんでいました。同じ仲間がいるだけで、安心できました。でも」
感情を落としたように表情を無くした彼女の眼から光が消え、虚ろな黒い目が向けられた。
「先々月、8月31日。夫が死んだんです。美穂の部屋で、首を吊っていました」
その言葉に、肺が引きつって息が吸えなくなった。
あの時、咽び泣いていた夫婦の姿が鮮明に蘇る。声を押し殺して泣いていた飯田美穂の父親の姿を思い出し、蕗二は爪先から冷えていく感覚に襲われる。
「夫の気持ちは痛いほど分かります。美穂は、不妊治療の末にようやく授かった大切な娘なんです。大事に大事に育ててきました。でも、いじめに気がつけなかった。美穂の苦しみに気がつけなかった私たちの自業自得でもあります。だから、もう美穂のいない世界なんて、生きていても意味なんてない。私も死のうと思いました。でも、考えたんです。美穂のいじめを知っていて、放置して、誘導して、あげく美穂を殺したあの男は、19年後、この世界に出てくるんですよ。私まで死んだら、誰があの男の罪を覚えているんですか? 身勝手に、私たちの娘の人生は終わらせたくせに」
虚ろな目に光が入ったかと思えば、獲物を見つけた肉食獣のようにぎらついた目が向けられる。
「被害者の会の主催者は、罪を憎んで人を憎まずと言っていました。でもそんなの、綺麗事なんですよ。私、こっそり被害者の会の皆さんの中で、犯人が出所した人たちに、聞いて回りました。犯人が新しい人生を歩むことを許せるのかって。みんな、私と同じでした。本当は殺したいくらい憎いって。たくさんの方がいたんです。みんな、私と同じ、苦しみの中で生きている。生き地獄に生きている。なのに、犯人たちはのうのうと生きている。そんなの不公正じゃないですか。なんで、私たちばかりが不幸にならないといけないんですか」
青褪める蕗二とは反対に、飯田美穂の母の目は赤く血走り、怒りと憎しみに染まっていく。
その怒りに、身に覚えがあった。父が殺されたあの日から、世界のすべてが憎かった。不平等で、不公平な世界なんてなくなってしまえばいいと、何度も願った。反論なんてできなかった。もしかしたら、飯田美穂の母親に、無意識のうちに怒りと憎しみの拳銃を渡していた。その事実に、溺れてしまいそうだった。
「あの、事件は、あなたが全部、したことなんですか? まだ、小学生の子だって、いたじゃないですか」
喉が細くなって、か細い声が出る。情けない声は飯田の母にもちゃんと届いたようだ。
しかし、蕗二の言葉に意味が解らないと、首を傾げた。
「その子の父親は、殺人鬼なんですよ? 私たちは、大切な人を、理由もなく殺されたのに。犯人たちは罪を忘れて新しい人生を生きるんですか? 新しい未来を、子供を作るなんて、おかしいじゃないですか。美穂が生きてたら、家族だってできたはずなのに」
母親の眼には、少女から大人になり、子供を抱く姿が見えるのだろう。不妊治療でようやく授かった我が娘が、孫を連れてくるのだ。ああ、頑張ったねと娘を抱きしめることができた未来。涙で潤んだ黒い瞳が、ゆっくりと瞬く。一粒の涙が零れ落ち、彼女の姿を消えていく。
「ねぇ三輪さん、美穂は、何をしたと言うんですか? あの子は何か、悪いことをしましたか? あの子は、あの男の欲望のまま、理不尽に殺されました。なのに、なのになんでアイツだけが生きてるんですか? 壁の向こうで安全に、生きてるのを保証されてるんですか? 美穂の顔まで潰して、あの子を二度も殺したんですよ? なのにどうして、死刑じゃないんですか。どうして加害者ばかりが守られるんですか。更生の余地があるってどうしてわかるんですか。普通の人は人を殺さないのに、あれは一度人を殺しているんですよ? どうして許されるんですか、どうして犯罪者の癖に生きてるんですか!? 被害者は死ねば人権はないんですか! おかしいでしょ!? なんなの! なんでアイツらが幸せになってるの!? そんなの許せない! 美穂を殺したことを忘れて幸せに生きてるなんて!!! 許せない許せない許せない許せない!!」
血走った両の眼が、こちらを射抜いた。
「美穂の仇は私が取るんだから、邪魔をしないで!」
張り上げられた怒声が、建物に反響して空気を震わせた。共鳴するように蕗二の体が震える。
ああ、止められるわけがない。
大切な人を奪われた事実に、体が張り裂けてしまいそうなほど、彼女の心が解ってしまう。
許せない、許せない、許せない。
この手に握った刃物で、犯人の腹を切り裂き、腸を引きずり出したって足りはしない。
殺意という衝動が体の内側から魂を食い荒らしていく。
体中に走る痛みと体に染みつく血の錆びた鉄の臭いに助けてくれと泣き叫ぶ。
ふと、足元に引かれた、白い線。その向こう側が、甘美な楽園に見えた。
たった一歩。踏み越えるのは簡単だ。すがるように、白線を踏み越えようと足を上げ――。
「それで? あなたは人を殺したわけですか?」
凍った声が首根っこを掴んで無理やり引き留めた。
振り返ると、目を伏せた芳乃が立っている。
重く顔にかかった前髪の向こう、黒い睫毛がゆっくりと持ち上がる。
絶対零度の氷の眼が、すべてを凍らせようと見開かれる。
「ひ、ひとごろし?」
飯田美穂の母親は、困惑したように芳乃を見上げる。
「厳密には、あなたは選定係です。被害者の会の中から、犯人を殺してほしいという同意と了承を得て、ターゲットを選別する係だった、と言った方が良いでしょうけれど。いいえ、生贄を差し出す係と言った方が正確でしょうか? だから人殺しと呼んでも間違いないでしょう」
飯田美穂の母親は、困惑から怒りに顔を歪ませる。
「あんな汚らわしい殺人鬼と一緒にしないで!」
「なぜですか? 殺人に加担したのは事実でしょう? 人殺しといって何が悪いんですか。そもそも、あなたの憎むべき犯人の久保聡はまだ塀の中にいます。それなのに、なぜほかの被害者の犯人たちを殺したんですか?」
目を細め、芳乃が分からないと首を傾げる。
「あなたは被害者の会の人と話すうちに、共感しすぎた。人の痛みが分かりすぎて、自分の事のように感じて怒りを感じた。それは悪いことではありませんが、あなたの感情ではない。相手の感情を利用して、自分の怒りの捌け口にした。ただの憂さ晴らしじゃないですか? 相手の感情を奪った上に、相手が果たすべき復讐を勝手に遂げる。それは被害者のためになるんですか? なりませんよね。感情を横から奪い取っているんですから。相手のためではありません、あなたがしたいだけ。あなたのためだけの行為です。それだけのために、人を殺した。あなたが殺人鬼であることに間違いはないはずですが?」
芳乃の小さい体から放たれたとは思えない、低く重い言葉に、飯田の母は恐怖に震え出す。
「違う、私は、人を、人を殺してなんか」
凍えた様に体を震わせ、吐き出される息が白く濁る。その姿を氷の眼は瞬きもせず、冷たい視線で射抜き続ける。
「ああ分かりました、あなたの言いたいことはよく視えます。犯罪者、特に殺人鬼は人ではない、と言いたいんでしょう。確かに人を殺す行為を実行する地点で、人間の枠を踏み外したと言っても過言ではありません。殺人鬼を殺すことは、山から下りてきた熊を駆除するのと同じ。そう、復讐のために犯人を殺すことは、ぼくにも理解できます。ですがあなたは、あの現場にいたのに、目の前で行われた殺人行為をただ黙ってみていた。止めもしなかった。犯人の家族まで殺されているのに。その家族は、何をしたんですか? 美穂さんと同じく、何の罪もない人でしたよね? 罪を犯していないなら、人ですよね? でも、あなたは止めなかった。止めなかったことは、殺人じゃなかったんですか? 止めて通報だってできた。でもあなたは見殺しにした。あなたは、人を殺した。獣ではなく、人を殺した。それでもあなたは、殺人鬼ではないんですか?」
芳乃の問いに、飯田の母親は顔を真っ赤にして、歯を剥き、額に血管を浮かび上がらせて鬼の形相と化した。押さえつけていた竹輔の体を突き飛ばすし、激しく頭を振り、髪を掴んで吼えた。
「違う!! わたしは人殺しじゃない! これは敵討ち!! 正義なのよ! 正義なんだから仕方ないじゃない!」
「正義正義って、綺麗事を言わないでくださいよ、人殺しが」
氷の眼が彼女の前に鏡を作り出す。醜く歪んだ自分自身の姿に、彼女の体が大きく震える。
彼女の周りには、最愛の娘の死体だけではなく、殺した子供や無関係な家族の惨殺死体が転がっている。その血の臭いに気が付き、自分の手が血に塗れていることに気が付く。
「よく視ろ。あれほど憎んでいた殺人鬼とあなたは、何が違うんですか? 答えてください」
「わたしが、わたし? わたしッ、わたしは……ッ!!」
飯田美穂の母親の眼が激しく震える。
心の壊れる音がした。鏡に映った彼女の罪の重さに押し潰されていく。
「大丈夫ですよ」
裏拳が顎を掠める。強制的に揺らされた頭が、ぐらりと揺れ、背中に衝撃が走って目を開けたときには、丸い月と黒い空が見えた。地面に倒れている。はっと顔を上げたときには、竹輔が地面に横たわっていた。
顔に爪を立て、今にも息が止まりそうなほど激しい呼吸をする飯田美穂の母親を抱きしめ、栗田は優しく宥めるように擦っていた。
「穂波さん、死刑制度と同じですよ。正義の名の下、正当な殺人は、殺人ではありません。あなたは殺人鬼じゃないですよ。大丈夫、騙されないで」
聖母のような優しい腕に包まれた飯田美穂の母親・穂波は、嗚咽を漏らして栗田に縋りつく。
慈悲に満ちた眼差しに、蕗二は体を起こしながら嫌悪を覚える。
「主犯はお前だったのか、栗田」
柴犬のようなふわりとした髪色の向こうで、懐っこく目が微笑んだ。
「意外と鈍いんですね、三輪警部補。私が田舎者だから、優しくしてくれたんですよね?嬉しかったですよ」
信じがたい現実に、深い皴を刻んだ眉間が、脈打つように痛む。
野村が言っていた違和感。警察内部に共犯者が存在するという予想はあっていた。しかし、事実はより深刻な状況だ。
芳乃が視たのは、穂波が被害者の会の中から、犯人の殺害に同意してくれる遺族の選別の風景だろう。その先は、栗田の仕事だ。了承を得られた被害者の事件を栗田は洗い出し、実行に移した。その成果を、了承を得た家族へ伝える役目も、穂波は行っていたのかもしれない。
穂波が間接的に殺人へ加担した事実は消えないが、それよりも問題は栗田だ。
「栗田、お前、刑事だろうが! なんであんな事をした! お前、超えちゃいけない一線を越えてるのが分からないのか!」
目の前で家族を嬲り殺し、逆さ吊りにし、壁に打ち付け、焼き殺した。単純な殺人ではない。殺戮だ。捜査一課は殺人と一番関わり、誰よりも殺人の脅威や悲惨さを一番理解している部署だ。それなのに。
「復讐した方がすっきりするのは分かる。晴れた気分になるのも、今後誰かを傷つけられる事や憂いが無くなることも分かる。犯罪者が罪を負うべきなのもわかる。けど、けどな、捜査一課の刑事が殺人を犯すなんて、一番許されないだろ!」
蕗二の怒声に怯むことなく、栗田はこちらを真っ直ぐ見る。
穂波のように、怒りや狂気にも染まっていない。真っすぐな眼差しに、強い違和感を覚える。
「わかってますよ。でも、もっと許せないのは、被害者でしょ?」
それは、と言い淀んだ蕗二に栗田はさらに言葉を重ねる。
「刑事ができることは、犯人を捕まえることです。そして、遺族は犯人に大切な人を殺された罪を償わせたい。奪った命の代償は、命で償え。誰だって犯人の死刑を望みます。でも、裁判は違う。法律はただの法律。感情なんて一切関係ない。よっぽどじゃない限り、一人殺したくらいでは半数も死刑にならない。死刑の次に重い無期懲役だって、30年経てば場合によって仮釈放されるんです。それを被害者はどう受け止めるべきなんですか? 刑期を終えて出所した犯人に、≪レッドマーク≫も≪ブルーマーク≫もついてないなら、まるで初めから事件は『無かった事』だと思いませんか? それでは被害者は救われないんですよ」
栗田の言葉を蕗二は噛み締める。
確かに、2031年に施行された『犯罪防止策』によって、犯罪者には≪レッドマーク≫が装着され、24時間監視対象となる。だがひとつ、抜け穴がある。綾瀬署の刑事・松葉が言っていたように、2031年よりも前に犯罪を犯した人間にはこれが適応されない。また、テストをパスすれば、≪ブルーマーク≫がつくこともない。今回の被害者たちは≪ブルーマーク≫が付いていなかった。過去に人を殺したとしても、堂々と一般人として生きていた。
「じゃあ、なんで家族も殺した? 家族は無関係だろ。子供だって」
「何言ってるんですか? 同罪に決まってるでしょ?」
蕗二の言葉に被せ、栗田が苛立ったように早口で捲し立てる。
「親は化け物を生んで育てたんだから、共犯でしょ? 同罪に決まってるじゃない。犬が人を噛み殺した。その責任は飼い主にあるでしょう? それと同じですよ。それに、殺人鬼の子供は遺伝する。間引きは自然界にだってあるんですから、次の被害者を生む前に、芽は早く刈り取っておくべきなんです」
蕗二は返す言葉を失った。正論に言い負けたというよりは、栗田の持つ異常な殺人への執着に慄いている。
栗田の確固たる自信と持論によって、糸杉や穂波を盲信させたのだろう。
一体何が彼女をそこまで追い立てるのか。
ふと突然、耳の奥で踏切の警告音が鳴り響く。
「そういえば、妹が亡くなったって言ってたな」
「ええ」
「もしかして踏切で?」
「そうですね」
赤い警告ランプが左右交互に光る中、目の前を轟音とともに電車が通り過ぎていく。
「殺されたのか、あんたの妹。踏切事故に見せかけて。その事故処理という名の殺人現場に、あんたは立ち会った」
蕗二の言葉に、栗田は空に向かって吼えるように笑い声をあげる。
ビルに反響して、狂ったように笑い声が降ってくる。
「すごい! まさか言い当てられるなんて! 流石、極秘部署の班長ですね」
栗田の言葉に、蕗二は冷や汗を浮かべる。
「知ってたのか」
「だって、捜査一課に所属していないのに、刑事部を名乗っている謎の人物ときたら、噂の極秘部署だって気が付きますよ。私、こう見えても秋田から東京に左遷されてから叩き上げで刑事になったんですよ?」
人懐っこく笑っていた栗田は、ふと愁いを帯びた表情で目を伏せる。
「少しだけ、昔話をしましょう。私には二つ下の妹がいました。妹は、生まれつき目が不自由でした。弱視って言って、完全な盲目じゃなくて、条件によっては見えることもあるっていう状態だったんです。白杖を持ってても、携帯端末が操作できるから中途半端だって、いじめられたり、暴言を吐かれたりしてたんです。それでも、明るくて、前向きで、パソコンとか音声入力とか駆使して、私より成績も良かったんですよ。私が警察になった時だって「私も大人だから、おねぇちゃんにいつまでも頼ってるのは申し訳ないから、頑張るね」って、大学に進学して、市役所に就職したんです。本当によく気が回る子で、仕事場でも優秀だったと聞きました」
あの日の事は、よく覚えています、と懐かしむように、栗田は遠くを見つめる。
「2035年の、3月24日。夜も更けた23時です。秋田の冬は、とても寒くて、4月まで雪が降って、すごく積もるんです。明日も雪かきしなきゃなぁって窓から外を見てたんです。そしたら、交番に電話が入りました。近くの踏切で事故があったから現場保存するようにと。先輩と二人ですぐに駆け付けました。踏切には普通電車が止まっていて、遮断器の脇で運転手が青ざめた顔で立っていました。「人が倒れていて、轢いてしまった」そう言って、電車の後方を指差しました。線路内に入ると、人間の体が、ありました。首と膝が切断され、体が三つに切り離されていました。顔が綺麗で、すぐにわかったんです。妹だって」
雪がしんしんと降り積もる中、まるで人形のようにバラバラになった、白い女性の体が線路に横たわる光景が目に浮かぶ。
「気が付いたら交番で寝かされていました。朝になっていました。私は覚えてないんですが、大声で泣き叫んで妹の体に駆け寄ろうとするので、先輩に引きずられて線路外に出された後にショックで気絶してしまったそうです。起きたことに気がついた先輩から秋田県警に行くように言われました。そこで所長から、妹から大量のアルコールが検出されたこと、後頭部に激しく打ち付けた跡があったこと、荷物と白杖が踏切の中に落ちていたことから、酔って雪で滑って踏切内で倒れて後頭部を打ち付け、そのままふらふらと線路内に侵入して線路に足を取られて倒れてしまい、轢かれたのだろうと。事故死扱いになったと知らされました」
そこで言葉が途切れた。栗田は髪を逆立て、まるで羆になったように、犬歯を剝き出した。
「おかしいんですよ!!」
唾をまき散らし、鼓膜を破らんばかりの怒声で蕗二を殴りつける。
「妹が! お酒を飲んで、雪が降ってるのに、一人でふらふら歩くなんて! あの子は弱視で、酔っぱらって雪の夜道を歩くなんて、危険なことはよく分かっていた! しかも白杖なしでふらふら歩く!? そんなのあり得ない!!」
そこまで一呼吸で叫ぶと、今までの表情が嘘だったかのように、深く溜息とともに消える。
「私は、職場や妹の友人を徹底的に調べました。そしたら、死に間際、妹を送って行くっていった同じ課の同僚がいたんですよ。すぐにそいつに話があるって呼び出したら、来なくって。探していたら、先輩から連絡が入ったんです。なんと、探してた同僚は自首してたんですよ」
力なく笑った栗田は、報告書を読み上げるように淡々と呟く。
「あいつ、妹に好意を寄せていて、酔った勢いで告白したら気持ち悪がられて、妹は走って逃げたそうです。その時、踏切で転んで後頭部をかなり強く打ったそうです。その時はまだ立って歩いてたそうですが、線路内の方に歩いてしまって、あいつはそっちは道が違うし、家まで送ると言って、捕まえようとしたらしいんですが、振り解いて逃げてしまい、さらに線路に足を引っかけて転んで、ぐったりしてしまったそうです。なんとか助けようとしたけど、電車が迫っているのが見えて、自分だけ逃げた、そう供述したそうです。保護責任者遺棄致死罪、過失致死罪で裁判にかけたんだけど、初犯かつ自首したこと、裁判中、特に否認もせず何度も謝罪を述べた事、告白を後悔したことが考慮されて、懲役7年になったんです。その判決で、私、恥ずかしいことに暴言を吐いてあいつに掴みかかっちゃって、裁判所を追い出されてしまって。もちろん、警察と言う立場と被害者遺族の立場もあって、東京へ左遷になったんです」
顔にかかった横髪を照れたように耳にかけ直す。
「すごく悔しくて。それなら刑事になって、犯人を片っ端から捕まえてやるって、頑張りました。交番勤務中に検挙数を認められて、刑事部へも配属されました。順風満帆で、妹の七回忌で、胸を張って報告できると思っていました。でも、今年の3月7日金曜日、警察署から定時で帰って、ポストを開けると手紙が届いたんです」
ポストに入っていた一枚の真っ白な封筒。差出人のないそれに違和感を覚える。だが、宛名は自分。そしてその字は確かに母の字だった。そういえば、仕事ばかりで実家に一度も帰っていない。そろそろ帰ってこいとの手紙だろうか。こそばゆい気分で部屋に持ち帰り、荷物を置いてハサミで切り開く。丁寧に三つ折りされた分厚い便せんを開き、息が止まる。
「両親からの遺書でした」
手紙は5枚もあった。父の堅苦しい字で、淡々と書かれていた。
「妹の死の事実が解ったんですって。あの日、犯人は妹の視力が弱いのを逆手に取って、無理やり酒を大量に飲ませて、送るという口実を作ったうえで、自宅に連れ帰る気だったそうです。妹はそれに気がついたみたいで、道中ものすごく抵抗したんですって。だから妹の首を掴んで、こう、頭を」
栗田が拳を握ると、ワゴン車の車体を殴った。金属がたわむ大きな音がする。
「何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も」
拳で何度も車体を殴りつけ、へこんでいく。血が滲み出したところで、ようやく殴打が止まる。
「地面に叩きつけて、大人しくさせようとしたんですって。そしたら大きな鼾を掻き出して、萎えたって。一般人からしたら鼾でしょうけど、あの子脳挫傷したんでしょうね。舌が喉を塞いで鼾のような音が出ただけなんですよ。もし、その時すぐ救急車を呼んでくれたら助かったかもしれないのに、あいつ、バレたら仕事が首になるから、妹を線路上に置いて、事故に見せかけて電車に轢かせたんですよ」
鼾を掻いて線路に横たわる彼女の体の上を電車が横切るのを、男は踏切の外から冷たい目に見送ったのだろう。
「あいつは裁判中、ずっと嘘ついてたんですよ。で、出所してから、手紙だけ両親へ送りつけてきやがった。私が東京にいる間に。両親はそれを読んで、あまりのショックで…………両親は犯人の男に復讐したかったけど、私が警察だから、犯罪者になるまいと、でも、復讐できないなら生きてる価値がないと、妹の死の真実を、見破れなかった後悔に圧し潰されるから、先に逝くって。ごめんねって。あなただけでも幸せになってって」
手紙を握り締め、すぐに家を飛び出した。嘘であれ、嘘であってくれとそう願いながら。何度も何度も、実家に電話をかけ続ける。呼び出し音だけが鳴り続ける電話に、焦りばかりが募っていく。
「急いで秋田の実家に戻ると、私の両親は、妹の仏壇の見える場所で、手を繋いで首を吊っていました」
感情をそぎ落とした目で、栗田は宙を見る。土色になった両親の死に顔を、ただ見上げるしかなかった。
「それから、両親の葬儀を終えた私は……あっ」
照れたように耳に髪をかけると、口の前に人差し指を立てる。
「これから言う事は聞かなかったことにしてくださいね? 私、職権乱用して、あいつの事調べたんですよ。そしたらなんと、東京に引っ越してきてて、名前を変えて、結婚して、家族もいるんですって。びっくりしましたよ。でね、こっそり見に行ったらね、すーっごく幸せそうなんですよ」
仲睦まじい夫婦の両の手に繋がれた一人の子供。誰がどう見ても幸せそうだった。その光景を栗田は幸せそうに見つめて。
「だからね、殺しました。事故に見せかけて」
幸せそうにそう言った。
「ブラックハッカーに依頼して、踏切で止まるように車をハッキングしてやりました。予定通り、あいつの車は特急にぶつかった!」
轟音を立てて、車が電車と衝突する。金属の擦れる音と悲鳴が辺りに充満する。その中で一人、大きく手を叩いて笑う栗田がいた。
「す―――――っごくスッキリしたんですよぉ。しかもね、聞いてくださいよ! あの家族の誰かが助かってもおかしくないのに、あの野郎だけじゃなくて、子供も含めて全員死んだんですよ! これはまさに因果応報じゃないですかぁ?」
興奮して頬を赤く染めた栗田は、目を輝かせる。
「その時、私、解ったんです! 因果応報は存在する。だから、行動しないといけないんだって。正義を行使できる立場なのに、使わないなんてもったいないと思ったんです! だから、すぐさま被害者の会に加入して、こっそり聞き回りました。中でも意気投合したのは、飯田穂波さんでした」
栗田の胸の中で呆然と抱き締められる穂波さんの頭を、愛おしそうに撫でる。
「彼女には、遺族からの了承を取り付けてもらって、私は事件の詳細の調査と殺害方法の選定、宿木巡査には警察のサーバーから車の所有者情報を照会してもらって、住所の割り出しを、糸杉巡査には行動の把握をしてもらいました。穂波さんには殺害時の映像を撮影してもらいました。多少不慣れながらも、殺害は順調に進んだんですよ」
「でも綻びが生じた。宿木巡査が、殺人計画の中止を訴えたから」
水を差したのは芳乃だ。栗田は深く溜息をつくと、拗ねた子供のように唇を突き出した。
「仕方ないでしょ? 途中で怖気づいちゃったんだもん。ルール違反した方が悪いのに、なんでこっちが悪者みたいにされるんだって。交通違反を真面目に取り締まっているだけなのに、貶されるばかりの仕事にやりがいがないって嘆いてたから、正義感溢れるやりがいのために誘ってあげたのに。それなのに」
芳乃の後ろで片岡と野村に庇われている宿木紅姫に視線を向ける。
「三人目の犯人を殺すとき、怖くなったんでしょうね。もうやめましょうって。これ以上はダメだって急に言い出したんです。まだ間に合う、自首しましょうってね?」
栗田は困ったように首を傾げた。
「でも私、わからなかったんです。悪を滅する崇高な正義なのに、どうして自首なんて言ったのか。どうしてダメだなんて言ったのか。もしかして犯人に同情でもしたのかって」
必死に自首しようと説得を試みた宿木巡査を、栗田が怒りを孕んだ視線で睨みつける。怒りが内側から彼女の体を食い破り、激しい炎となって体から噴き上がる。
「自首なんて言葉を口にして、崇高な正義の行いを止めようとした。これは明確な裏切り行為です。裏切り者は罰を受けろと言えば、分かりましたって、素直に言うことを聞いたんですよ?自分で自分の指を切り落としてみせたくらい、とても立派な人でした。でも、妹をここに連れて来いと言ったら、できませんって泣き出したんですよね。妹だけは見逃してください、許して、お願いします、って土下座までしてくれました」
宿木紅姫が口元を押さえ、涙を堪える。兄が懸命に妹を守ろうとする姿が目に見える。
しかし、床に這いつくばってまで許しを請う宿木巡査を、栗田は烈火で焼き尽くさんばかりに見下ろした。
「裏切り者が口答えするなんて許せるはずがありません。犯人に同情なんてしたあの男を、なおさら許せない。人殺しに同情するなんて、あり得ない。裏切り者を始末するのは正義として当然のことなんです」
「正義気取りはやめてもらえませんか」
栗田を冷えた声が遮った。怒りの炎に身を燃やす栗田と、絶対零度の氷の眼が対峙する。
「あなたの正義は、あなただけが満足する正義だ。被害者を救ってなんかない」
「あなた、私の話ちゃんと聞いてた?」
栗田は穂波の体を車に預けるように凭れ掛からせると、ゆらりと立ち上がる。
「犯人が生きていることで、被害者はずっと不安に襲われる。後悔に魘され、夜も寝られない。似たような事件が起きるたびに、事件を思い出して苦しむの。後悔ばかりで命を絶とうと何度も考える。あなたにそれが分かるっていうの?」
怒りの炎が周囲を燃やし尽くさんばかりだ。しかし、それを正面から受ける芳乃は汗ひとつ流すどころかより温度を下げた視線で栗田を見つめる。
「ではひとつ、面白い話をしましょうか」
芳乃は人差し指を目の前に立てると、自らのこめかみを指差した。
「人は苦痛に強いけれど、快楽には弱い。特に、強い刺激を受けたとき、ドーパミンという快楽物質が過剰に出る時があります。これによって脳は高揚感を覚えます。まさに天に昇るような強烈な快楽です。だから一度感じた快楽を、もう一度と求めるようにできています。しかし最初の快楽を感じることはできない。だから何度も繰り返し同じ行動をし続ける。しかし、慣れからどんどん強い快楽を求めていく。音も大きいものを、味はより濃いものを、薬物ならより強力なものを求める。あなたはまさに、殺人の快楽を味わった。復讐というスパイスも重なって、念願が叶った時の高揚感は、心が震えて仕方がなかったでしょう。何度も何度も、あの瞬間を思い出し、ニュースを読み漁り、現場に足繫く通った」
踏切の前で、電車が通るたびに、目の前で車が衝突する光景を恍惚とした笑みで思い浮かべる栗田を、芳乃は冷たい目に見つめる。
「そう、あなたの復讐は果たされた。終わったはずだった。日常に戻るはずだった。しかし、あなたは違った。あの激しい快楽を再び味わうために、新たに獲物を求めることにしたんです。被害者の会に入り、その中から生贄を選んだ。そして殺人を続けている。あの時の復讐で殺した快楽が忘れられなかったあなたは、一人殺すだけでは物足りず、犯人だけではなく、関係のない家族まで皆殺しにした。そう、目の前で嬲り殺して、犯人たちが悲鳴を上げ、謝罪する姿を楽しんだ」
大切なものを目の前で無残に殺される姿を、やめろと泣き叫び、許してくれと無様に懇願する姿を。
「宿木巡査は、最初あなたの強い業火によって目が眩み、崇拝したのでしょう。鬱憤が溜まっていたのもおそらく事実です。ですが途中で気がついたんです。あなたが正義という建前を使って、殺人を楽しんでいると。だから、止めに入った。彼はこうも言ってませんか? 絶対に告げ口しない。これまでの事件も全部黙っているから、抜けさせてくれと。そう、宿木巡査の口留めは簡単だったんです。『お前も共犯者だから、告げ口したらお前も捕まるぞ、そうしたら首だな。妹の教育費はどうするんだ?』って言うだけでいいんですから。ですが、あなたたちは違った。宿木巡査が犯人に同情したと勝手に思い込み、裏切り者を許さないと、宿木巡査を縛り、車で引き摺り回して、四肢を生きたまま切断した。宿木巡査は絶対に口外しないと何度も訴えたにも関わらず、何なら妹も殺すと脅しながら。泣いて媚びて何度も謝罪する宿木巡査を嬲り殺した。あなたは、楽しいんですよ。人を殺すことが」
栗田はじっと耐えるように視線を下に向ける。芳乃は栗田から目を逸らさず、彼女の後ろ、穂波を指さした。
「そのうち、そこにいる飯田美穂の母親、穂波さんを手にかけるでしょう。自責の念で壊れるのも分かっていた。自殺した夫のことも引き合いに出せば、簡単です。そう、もう獲物を探し回らずとも、自ら獲物を育て始めてさえいる。正義のために許される殺人があるなんて、ただの言い訳に過ぎません。あなたはもう警察官じゃない。人殺しを楽しんでいる、ただの殺人鬼だ」
トドメと言わんばかりに氷の切っ先を喉元に向ける。しかし、栗田は大きく息を吐くと、顔を上げる。その表情に芳乃が動揺する。彼女の怒りの炎は消えることもなく、彼女の体を燃やし続けていた。まるで芳乃の言葉がまるで届いていないかのように。
「警察でもない、ただの素人に偉そうな口を利かれたって話にならないわ」
栗田が右足を半歩引いた。芳乃が大きく仰け反るのと、栗田の爪先が芳乃の顎先を掠めたのは同時だった。
踏鞴を踏んで背中から倒れる芳乃を片岡が受け止めようとするが、支えきれずに一緒にアスファルトへと倒れ込む。振り上げられた足が芳乃の頭蓋骨へ振り下ろされようとした。
蕗二は屈んだままだった体勢を利用し、芳乃の前に飛び出すと、栗田の膝裏を掴んで掬い上げる。そのまま押し倒すつもりだったが、栗田はもう片方の足を蕗二の膝裏に引っ掛け、体を左に捻る。押さえていた膝裏が首にかかり、蕗二の体を横へとなぎ倒した。
蕗二は受け身を取って、後頭部がアスファルトへ直撃するのは避けられたが、胸の上に栗田がのしかかり、首元のシャツを掴むと手首を交差した。襟が絞まるのを彼女の細い手首を握って抵抗する。不利な体勢では首絞めを回避するので精一杯だった。
「あなたなら、私の気持ちがわかるでしょう? 三輪警部補」
栗田が似つかわしくない優しい声で問う。
「あなたが4月に異動してきたとき、警視庁内じゃあ噂になっていましたよ? 有名人なんですね? 無差別殺人事件で殺された刑事の息子だって。あなたの同期に聞いてみましたよ、あなたは目の前で父親を殺されて、警察になった。これ以上父のように大切な人を失うのは嫌だから刑事になったって言ってたと。でも私はわかってましたよ? あなたの目は、復讐一色だった」
栗田が身を屈め、頬擦りするように耳元で囁く。
「三輪警部補。あなたに聞きたい。一度罪を犯した人間と、一度も罪を犯していない人間。どちらが大事ですか?人は一度過ちを犯せば必ず歪むんですよ。一線を越えた人間は、殺人のハードルが下がる。また気に入らなかったら殺す。そしてまた、次の犠牲者を生む。罪もない被害者だけが増えていく。加害者は好きなように食い散らかすだけで、責任なんて取りはしない。今までと同じように、何もなかったように、のうのうとクソ以下の犯罪者が生きてるこの世界は間違ってる。正さなきゃ、警察って言う正義の組織にいるんだから、正すのは間違いじゃない。でも警察は起きた事件の犯人を捕まえるだけじゃないですか。それで満足できるんですか? 警察が犯人を裁けないなんて間違ってる。だから私が裁いてやる。どれだけこの手を血に染めようと、死ぬまで一生正義であり続ける。なにも間違いだって思わない。これは正義ですよね、三輪警部補?」
栗田が鼓膜から脳に言葉を流し込んでくる。腹底にいる殺意に向かって囁いている。
赤い目の俺が、さあどうする、と笑いながら問うてくる。
蕗二は栗田の手首を握り締めたまま、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「確かに、栗田の言う通り、一度殺人を犯した人間の中では、殺意のハードルが低くなる。俺たちが捜査で逮捕してきた殺人鬼たちは、さまざまな理由はあっても、簡単に人を殺し続けた奴らばかりだ」
片思いの相手の恋人を次々と殺した市谷紫音や、殺人ごっこをしていた芥子菜ハルトが典型例だ。
「それから、犯罪者を生んだ家族に問題があることも知ってる。根本が腐っていれば、その先の果実も腐るのも知ってる」
酒乱の父に暴行を受けてきた畦見や、未成年の頃から介護を押しつけられた周防遊冶は、その代表例だ。
「そして俺も、人を殺そうと思ったことがある。復讐に飲まれて、犯人を殺したって構わないと思ってた」
この世にいない犯人を追い続けていた。そうでもしなければ、生きていけなかった。
「でも、俺の復讐心は、自分の感情を押し殺した成れの果てだ。それに気が付けた」
こちらを見る、芳乃の氷の眼と視線を合わせる。大丈夫だと、伝わるように。
そして、こちらを見下ろす業火が宿る目を真っすぐ見つめる。彼女と心から向き合うために。
「栗田、お前が言う事は、正しいと思う。あんたの感情はよくわかるよ、理解もできる。犯人が新しい家族を作るのは、確かに悔しい。一生一人で償えよって思う。けど、人は前に進める。更生だってできる。犯罪者が全員再犯するわけじゃないって信じてる。大切なものができて、初めて自ら犯した罪の重さをようやく感じるかもしれない」
「そんなの遅すぎるでしょ」
栗田のこめかみに血管が浮きあがり、首が絞まる。蕗二は狭くなる気道を、顎を上げて確保しつつ、栗田から目を逸らさない。
「遅い。確かに遅い。けど、再犯はもう一生しないだろう。それから、犯罪者の子供が必ず犯罪者になるのなら、いつしか犯罪者しかいなくなるはずだ。でもそうじゃない。犯罪件数は毎年少なくなってるのは事実だ。それに子供だって馬鹿じゃない。親の反面教師として生きている人の方が大半だ。そうして親を見限って真っ当な道に進んでいく。警察にだってなるかもしれない。先を生きる俺たちが、道しるべとなって正しい道を示していけばいい」
蕗二は栗田の手首から右手だけを外し、栗田の左肘の内側を掴む。同時に素早く両足を引き、ブリッジするように腰を上げ、体を左へと勢いよく捻る。体勢を入れ替え、栗田の両肘を押さえつける。
「栗田、お前の復讐はもう終わった。これ以上手を血に染めるな。お前は、被害者の痛みを知ってる。だからこそ、被害者に寄り添える。復讐の連鎖を止められる。自分で自分を苦しめるな」
「だからなんですか!」
栗田の顔が歪む。両目の淵に涙が溜まり、瞬くたびに、睫毛を濡らす。
「今もまだ、線路に横たわる、バラバラになった妹のことを思い出すんです! 目を閉じれば、鮮明に、思い出すんです。それに、天井を見上げるたびに、ぶら下がる両親の姿だって、消えないんです!」
地面に落とされた視線の先には、血だまりの中で四肢が切断された妹の体が横たわっているのだろう。見上げれば、土色の両親の顔がこちらを見下ろしている。
「妹や両親の死に納得できないことって、そんなに悪いことなんですか!?」
栗田が泣きそうな声で問う。
ああ、そうか。彼女に感じた違和感の正体はこれだ。栗田はもう、生きる理由を見失ってしまったんだ。彼女の怒りや憎しみは、生きる糧でもあったんだ。俺もそうだった、父を目の前で殺されてから、この11年。復讐のためだけに生きてきた。だから、そう簡単に復讐を諦められない。復讐が存在意義ですらあった。
栗田は復讐を遂げたと同時に、心が死んでしまった。だから、無意識のうちに生きる理由を求めて、殺人に手を染めていった。人の代わりに復讐を代行していれば、存在を求められるから。ありがとうと喜んでもらえるから。かつて妹や両親が彼女へ言ったように。
「悪いことじゃない。悪いことじゃないんだ」
俺の感情と、栗田が抱える感情は違う。栗田の過去の壮絶さを考えるほど、偉そうな口を叩くなんて烏滸がましいとさえ思う。だからと言って、自分がマシかと言われたら違う。ただ抱える地獄が違うだけだ。
俺は地獄とともに生きると決めた。彼女は地獄の業火に自ら焼かれ続けることを選んだ。
もし、このまま栗田から復讐を取り上げてしまえば、きっと自ら命を絶つだろう。
彼女には新しい生きる理由が必要だ。
押さえつけていた栗田の腕を離す。のしかかっていた体の上から一歩離れ、どっかりと尻をアスファルトに下して見せる。栗田は警戒した動物のように、こちらから視線を外さないまま、ゆっくりと体を起こしたのを見計らい、真っすぐ見つめる。
「栗田、今回の殺人事件の罪を償ったら、刑事として戻ってこい。」
栗田は意味が分からないと、眉を寄せた。
「何を言ってるんですか? 私は人を殺したんですよ。刑事になんて戻れるわけがない」
「俺が決めることじゃない。だけど、俺は信じたい。お前は優しい。これからも傷ついた人を助けにずにいられないはずだ。痛みがわかってるから。だから戻ってこい。栗田、俺はお前を信じてる」
俺が今、何を言っても意味はない。彼女自身が、復讐心と向かい合わなければ意味はない。彼女を救えるのは彼女だけだ。だけど、きっと彼女は自分を許さない。一度過ちを犯したことは消えない。だけど、償うことはできる。自らを苦しめるだけが罪滅ぼしじゃないと。自らの心に殺意が居座っていたとしても、一緒に生きていいんだと。
「囚われないでくれ」
祈るように呟いて、蕗二は後ろ手で腰に手をまわし、手錠ポルダーのホックを開け、手錠を取り出した。
「殺人教唆、殺人容疑で逮捕する」
手のひらを上に向け、手を伸ばす。その手を見つめていた栗田は、深く溜息をついた。
「三輪警部補って馬鹿ですよね。殺人鬼に生きる希望なんて、持たせる必要なんてないのに」
そういって、栗田は軽く拳を作ると、手首を合わせて差し出してくる。
手錠を細い右手首にかける。内部の歯車が回って、カチカチと音を立てた。左手首にも同様に手錠をかけ、立ち上がる。栗田も同じく立ち上がる。と、その場で体を半回転させた。
片岡と野村がびくりと体を震わせる。蕗二が大丈夫だと目配せしたところで、栗田が口を開いた。
「紅姫さん」
座り込んだままの宿木紅姫に向かって、踵を揃えて背筋を伸ばした。警察の最敬礼の姿勢だ。
「あなたの大切な、大切なたったひとりの家族の、お兄さんを私は奪いました。本当に申し訳ございませんでした」
栗田が深く頭を下げる。戸惑った表情の野村の隣、俯いていた宿木紅姫が立ち上がる。
背筋を伸ばし、堂々とした歩みで栗田の前に進み出る。
「顔を上げてください」
紅姫の言葉に栗田が顔を上げる。同時に、紅姫が右手を大きく振りかぶった。あっという間もなく、派手な殴打音。左頬が赤くなった栗田に、右の手のひらを痛そうに押さえる紅姫が、怒りを抑えるように震えた声で言い放つ。
「許しません」
栗田はひとつ瞬くと、恨まれる覚悟を決めたように、紅姫へと顔を向け直した。あまりに真っすぐなその視線に、紅姫は逃げるように俯く。
「あなたも、私自身も、許せません」
紅姫は血が滲みほど唇を嚙み締め、怒りに体を震わせる。
「兄が、あなたの意見に賛成して、何人も人を殺す手伝いをしたことを、私は知りませんでした。兄は、両親を失ってから、犯人を、犯罪者をずっと恨んでいたんです。だから、あなたの意見に賛成したのでしょう。でも、私にはその欠片も見せませんでした。兄はずっと優しかった。それが、偽りだって、知らなかった。本当の兄の気持ちを、私は知らなかった。どうして……どうして教えてくれなかったのかって」
声を詰まらせた紅姫の瞳に涙の膜が張る。膜はすぐに分厚くなり、目の淵から溢れ出る。
「でも違う。私が、知ろうとしなかった。兄は、自分の醜い部分を、隠してくれていたんだと。でも、兄の痛みを、憎しみを、少しでも分けてくれたら、こんなことには、ならなかったと、後悔しています」
声を詰まらせながら、それでも濁ることなく声を出し続ける。
「あなたが、私の、大切な兄を、苦しめたことを、一生許しません。でも、兄が、どうしてあなたに止めようって言ったのか、考えたんです。自分だけ止めたかったら、もう無理です、できませんって言うんじゃないかって。でも兄は、あなたに必死に自首しようと訴えたんですよね? 自分の指を、切り落としてまで」
紅姫は、兄が指を切り落とした痛みを堪えるように、白くなるほど指を握りこむ。
「私は、兄は栗田さん、あなたに殺人を止めてほしかったんだと思います。きっと、あなたの抱える痛みに気がついたから。これ以上、あなたに傷ついてほしくなかったんだって」
紅姫は涙を袖で拭い取ると、顔を上げ、栗田と視線を合わせる。口の端をわずかに上げた紅姫は、幼い子に諭すように静かに言葉を紡ぐ。
「栗田さん。あなたはまず、裁判で判決を受けてください。法の裁きを受け、罪を償って、その後、もう一度、謝りに来てください。私だけではなく、兄にも直接謝りに来てください。私はあなたが約束を破らないって信じています。だから、待っています」
紅姫の言葉に、栗田は息を詰まらせ目を潤ませる。
償う機会を、彼女が生きる理由を、彼女は自ら示して見せた。
復讐の連鎖を断ち切ろうと、気高く振る舞う姿に、栗田は泣くまいと天を仰ぐ。
鼻を啜り、ひとつ呼吸を整えると、紅姫と真っ直ぐ向かい合う。
「必ず、行きます」
そう言って、忠誠を誓うように、深く深く、頭を下げた。




