File:7 狂ってはいるものの筋は通っている。
翌日。2024年10月30日 日曜日。
PM 17:41。玉川通り付近。
夕暮れに沈む街は、LEDの人工的な光で煌々と満たされていく。
車の中から見える景色は、いつもの日常とそう変わりないように見える。
が、時より、奇抜な格好をした人々が歩いていることで、今日は「その日」であると気が付く人がいるだろう。
何かの有名な漫画のキャラクターだったり、包帯を巻いていたり、とんがり帽子や蝙蝠の羽が生えていたりと様々だ。
「ニュースでは見たことありますが、ハロウィンって、初めて見ます」
栗田が興味深そうに窓の外を眺めている。
「そういえば、ハロウィンって本来は子供がお菓子をもらうイベントですよね? 三輪警部補はそのために、飴を持っていたんですか?」
「いや、これは大阪人だからだな……てか、言うな。恥ずかしい……」
今から15分前。警視庁では予定通り、菊田と警ら隊の隊長からの指示のもと、不審者を見つけた際の持ち物点検実施の作業確認および事前訓練と称して、周辺警備にあたる警ら隊と機動捜査隊のメンツとともに、持ち物点検を行った。
お互い向かい合って持ち物点検を行い、拳銃などの必要以上の装備がないことを確認した。さらに服の上から体を触り、ポケットなどに不審物を隠し持っていないか、点検する作業も訓練として実施された。
竹輔からはポケットティッシュとハンカチしか出てこず、栗田はポケットティッシュとハンカチ、リップクリーム、痛み止めと絆創膏の入ったポーチが発見され、糸杉は眠気覚ましのシートガムの束とプロテインバーが出た。最後、蕗二のスーツやスラックスのポケットのいたるところから個包装された飴とその食べた後のゴミが出てきて、一同を大笑いさせるというハプニングが発生していた。
「俺の飴ばっかり指摘されたが、糸杉のプロテインバーも誰か突っ込めよ」
後部座席をバックミラーで睨めば、私服に着替えた糸杉が緊張した面持ちで座っていた。
「腹が減っては戦はできぬと思っております。筋肉も喜びますし」
「お前は武士か! なんやねん筋肉が喜ぶって!」
「筋肉の栄養に最適なのはプロテインです。スティックバーになっていることでより素早く効率的に」
「じゃかましい! ツッコミが追い付かんわ!!」
ここで竹輔か野村がいれば、大笑いで場も和んだだろうが、あいにく竹輔は片岡と野村、芳乃の三人を連れて、車で音楽学校の方から生徒たちを追跡警護している。おかげで栗田は不思議そうに首を傾げ、糸杉は真面目に筋肉について語りだしている。
糸杉の蘊蓄を聞き流しながら、液晶端末に仕込んだ追跡マークが予定通りのルートで宮下公園へ向かっているのを確認する。
喫茶店での菊田との会話後、すぐさまゲリラLIVEについて詳細を聞きに学校へと戻った。
ゲリラLIVEを中止にしない代わりに、学校から会場への往復は貸し切りのバスを手配するように申し出た。これについては、半分快諾された。
そもそも高級かつ大型の楽器を持っての集団移動は危ないからと、市内で開催される小規模のライブを行う際、行きがけはマイクロバスなどを貸し切り移動。その後は学校に戻るよりも自宅が近くなる生徒もいるため、現地で解散となる流れを取っているようだ。
帰りもバスで学校まで送迎してほしいと訴えたが、特に狭い東京、かつハロウィンで規制が引かれている中でバスを待たせる場所がないと言われてしまえば、それ以上食い下がることはできなかった。
とりあえず、竹輔たちが学校前からマイクロバスの後ろについて、護衛をしている。
何か起きればすぐに連絡をするように伝え、念のためマイクロバスには片岡が改造した人工知能AIのA.R.R.O.W.を仕込んでハイジャックされても対応できるように先手は打ってある。
しかし、犯人たちが動くなら……
「ッ」
突然、隣から声にならない悲鳴が上がった。栗田が両手で顔を覆って、蹲るように伏せている。
「どうした」
ハロウィンの浮かれた馬鹿でもいるのかと窓の外を見るが、誰かに覗き込まれているわけでも、不審な動きをする人間も見当たらない。
ふと、窓の外に黄色と黒の縞模様の柱が見え、車体がわずかに上下する。どうやら踏切内に侵入したようだ。京王電鉄井の頭線、神泉駅は珍しくまだ踏切が残っている場所だが、規模が小さく、踏切内を横切るまで、10秒も経たない間だった。
「おい、どうした?」
背中を揺すれば、項を隠すように結ばれた毛先が、だらりと肩へと流れ落ちる。
「すみません……私、交番時代に、踏切の、事故の、処理をしたことがあって……それが」
トラウマで、と掠れた声が聞こえた。鼻を啜る音とともに、背中が上下して、溜息が落ちていく。
「情けないべさ、警察官なのに、事故処理もできねぇって。秋田から異動になったのも、それのせいなんです」
警察官は癒着や不正防止、経験や適性、欠員補充など、様々な理由で年に1回から遅くても4年に1回、同一県内の異動が行われる。ただ、2042年の現在、深刻な超級少子高齢社会であるため、人口密度に応じて都道府県を跨いでの異動が当たり前に行われている。実際、菊田や蕗二の父も東京や大阪を往復していた。
ただ、中にはいわゆる左遷として、他府県へ異動になる場合もある。栗田の場合は、上司が温情をかけたのか、踏切が少ない東京へ異動させたのだろう。
凄惨な現場を目の当たりにすれば、警察官とは言え、トラウマによるPTSDやうつ病を発症してもおかしくはない。ただ、彼女にとっては、故郷を離れることの方が辛かったのかもしれない。
項垂れたままの背中を軽く叩き、あまり暗い声を出さないように努めて声を張り上げる。
「そりゃ、災難だったな。この先、もう踏切はないし、帰りは踏切を避けた道で帰るから、安心しろ」
「かたじけねぇ」
「礼には及ばぬ……てっ、なんでやねん!! お前も武士か! ハロウィンやからか!?」
反射的にツッコミを入れると、栗田が体を起こし、目元を赤くしながら、それでもへへっと人懐っこく笑って肩を揺らした。
ひとまず落ち着いてよかったと、安堵の溜息を吐いたところで、液晶端末の画面が切り替わり、着信を知らせた。すぐさま画面をスライドして応答する。
「こちら三輪」
『坂下です。こちら現地に到着しました。そちらはどうですか?』
「ああ。もう着く。対象から目を離さないように」
『了解』
画面をスライドして通話を切ると、すぐ目の前にコインパーキングが見えた。電子掲示板はまだ「空」と表示されている。自動運転は非常に優秀で、空車状況や車体の大きさも考慮するのだろう、特に難なく駐車をして見せた。車を降り、栗田と糸杉が下りたところで、電子キーで鍵をかけた。
「無線の確認をする」
そういえば、栗田と糸杉は手早く襟元に垂らしていた無線を左耳に装着し、左腰の無線機の電源を入れる。蕗二も左耳にコードレスイヤホンを付け、押し込んで電源を入れる。
「こちら三輪。点呼を開始する。どうぞ」
『坂下、完了。どうぞ』
「栗田、完了。どうぞ」
「糸杉、完了。どうぞ」
「感度、問題なし。これより三名、宮下公園に向かう。どうぞ」
『了解』
足早に文化村通りを進み、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちのため、立ち止まる。
言わずと知れた有名な交差点という事もあり、仮装した老若男女がひしめき合っていた。だが、多くの警察官が立ち、アコーディオン型バリケードや警察官が両手を広げて人力のバリケードを作り、立ち止まらないように声をかけている。
昔は交差点内で騒いだり暴れたり、車を横転させたりと大騒ぎになったこともあったようだが、治安の悪化に憤った市長がイベントの中止や立ち入り制限などの厳しい規制をした時期があり、今でも多くの警察官が目を光らせている。そのためか、今日も本来通りの交差点の役目を果たしているようだ。
信号が変わり、黙々と仮装した人々が行きかう様子は少しパレードのようで面白い。奇妙な集団の波に乗って渋谷駅前交番を右手に、旧大山街道の方へと進んで高架下をくぐり、左へ曲がる。
ビルの間を通り抜けると、奇妙な犬のモニュメントの奥、ライトアップされた白い階段とガラス張りの天井のついたエスカレーターが見えてきた。階段の端々に仮装をした人々が思い思いのポーズをとって写真を撮っていたり、談笑している。
公園と言っていたが、公園じゃないのか? と蕗二は首を傾げつつも、階段を上っていく。
二階へと上がれば、左側にカフェスペースとショッピングモールへと繋がる入り口があった。その右側はフェンスが張られていて、階段がさらに上へと続いているようだ。幅は先ほどより半分になった狭い階段だ。それを登り切ると、目の前にボルタリングのできる壁がライトに照らされて聳え立っていた。
間違ったところに来たのでは、と蕗二は耳の無線を押し込んで通信を繋げる。
「こちら三輪。竹、宮下公園にボルタリング施設はあるのか? どうぞ」
『こちら坂下。はい、そのまま奥に進んで、砂の広場の奥に来てください、どうぞ』
「了解」
竹輔が先行していてよかった。同じく戸惑っている栗田と糸杉を引き連れ、先に進む。
言われた通り、砂の敷き詰められた広場が現れる。真ん中にはネットが張られていて、ビーチバレーなどの砂の競技の練習ができる施設のようだ。観戦席なのだろうベンチに、アメリカンコミックのキャラクターの仮装をした人が座っている。それを横目にさらに奥へと進めば、突然植物が茂り、芝生が広がった広場が現れた。
公園としてしっかりと機能しているらしく、多くの人で賑わっていた。カフェスペースも併設しているおかげか、仮装した人やそうでない人も思い思いに芝生に転がったり、ベンチや花壇の縁に腰かけて談笑に花を咲かせている。
「都会の公園は、オシャレだぁ」
栗田が感動したように呟いた。糸杉もこんなところもあるんですね、と珍しそうに周りを見回している。
やや浮かれた様子の二人を横目に、蕗二は芝生の隅から隅まで目を向けた。
広場の奥、ハチ公と思われる犬の銅像の奥の一角に、見覚えのある制服の集団が集っている。
早足で駆け寄ると、アーチ状の鉄骨の下にも広く芝生が広がるエリアがあった。
そこで楽器を持った生徒たちが円陣を組むように集まっている。
ふと、一人が音を出す。まるで遠吠えのように一音だけが、夜の空へと響く。
すると呼応するように、他の楽器も丸い月に向けるように一斉に音を出した。
と、軽快な曲が突然始まった。
明るくテンションの上がる、ノリのいい曲だ。なにかのCMで使用された曲だった気がする。
生徒たちがステップを踏むように円陣の態勢から徐々に広がっていき、一斉にこちらへと振り返る。
楽器を演奏したまま、美しく陣形が入れ替わっていき、二列に整列されていく、
すると、周りの人が吸い寄せられるように集まり始めた。
思わず魅入りかけた蕗二は、すぐに我に返って栗田と糸杉に散るように指示し、生徒たち全体を見渡せる位置へと移動する。
ふと、生徒たちの向こう側に立つ竹輔と目が合った。表情から特に異常はないようだ。ふと、その後ろのベンチには片岡と野村、芳乃が座っているのを見つけ、思わず竹輔に視線を戻すと、片手の手のひらを立てて、詫びのポーズを取った。
片岡か野村あたりが待ってるだけじゃつまらないと駄々をこねたのだろう。まあ、全員吹奏楽部の音楽に釘付けになっているから、良しとする。
蕗二は軽く後ろを向いて、無線に話しかける。
「こちら三輪、人が集まりだしている。不審な動きをする人物がいれば、すぐに報告するように。どうぞ」
了解と三人から応答があったところで、一曲目が終わり、拍手が起きた。
と、宿木紅姫が前へと駆け出した。目の前に集まった人々に一礼すると、明るい声を張り上げる。
「皆様こんばんは! 藝術大学音楽部学校附属音楽高等学校よりゲリラLIVEを開催いたします。皆さんと一緒にハロウィンを盛り上げますので、ぜひ手拍子など参加してください! ハッピーハロウィーン!」
疎らな拍手が聞こえたところで、宿木が表情を引き締め、胸の前に抱えていたホルンを構えた。
昨日、屋上で聞かせてもらった怪物狩りのゲームの主題歌を吹き始める。
バックの音も合わさり、迫力は屋上で聞いた時の比ではなかった。
真ん中で勇ましい音を奏でる彼女に観客は呆然としている。
曲が終われば、大きな拍手が巻き起こる。宿木が優雅な一礼とともに、元の配置へと戻る。それを皮切りに、有名な怪盗アニメのテーマソングや金ピカの着物で踊るサンバの曲、最近流行っている曲など次々と演奏が続けられた。曲が終わるたびに人が増え、拍手の音が大きくなっていく。
周りが手拍子を打つ中、蕗二は周りに視線を向け続ける。栗田は少し気が散っているようで、時々曲を聞き入っている。糸杉はあまり人だかりに慣れていないのか、立っている位置が悪いこともあり、大きな体を持て余すように、ぎこちない動きで人を避けている。
竹輔は周りになじむように観客を徹しているようで、いつでも駆け出せる位置を陣取っている。
さて、問題は犯人が動くとするなら、いつだ。
犯人たちはまだ、警察内部に共犯者がいることを、警察は気が付いていない、そう思っている。
宿木巡査の殺害が犯人たちにとって意図しないものだとしたら、復讐による報復殺人の中で、唯一起きた綻びとなる。
あくまで犯人たちの目的は、報復だ。目的が違うことは、犯人たちにとって許しがたい事態だろう。だから、強引な軌道修正のために、家族である妹を殺す可能性は残っている。
学校内に侵入して殺害するような強引なことはしないはずだ。ならば、学校の外に出たこの絶好のチャンスを逃しはしないだろう。
栗田と糸杉は、不審なものを持っていないことが確認できている。おそらく犯人ではないだろう。
であれば、他の機動捜査隊か警ら隊に中にいるのだろう。機動捜査隊は元々私服のことも多く、一般人に紛れている可能性はある。これを見つけ出すのは至難だろう。もう一方の警ら隊は制服を着用して、パトカーで巡回しているだろうから、一目ですぐ判別できる。
今のところ、警察官の姿は俺たち以外に見当たらない。いや、ショッピングモールへと繋がる中央階段から二人上ってきた。どうやら階段が混雑しないように誘導を行っているようだ。彼らは紺色の制服を着ていることから、間違いなく警ら隊だろう。
あの二人の警察官に見覚えはないが、警戒するに越したことはない。
と、より一層大きな拍手が聞こえる。
司会を進行している生徒の言葉を聞く限り、これでゲリラLIVEは終わりのようだ。
腕時計を見れば、時刻は18時31分だ。そろそろ飯時だからか、一斉に人が流れ始める。
「こちら三輪。全員、対象から目を離すな」
了解の声が聞こえたが、すでに栗田と糸杉は人混みに紛れてよく見えない。竹輔は一斉に動く群衆を避けて壁側へと退避しつつ、こちらへと近づいてくる。
頭が一つ飛び出している蕗二からは、宿木紅姫の姿はよく見えた。芝生の真ん中、ホルンを先にハードケースにしまうと、観客が落としたものを素早く拾って持ち主に声を掛けたり、他の楽器を仕舞う生徒が苦戦していれば手伝い、写真を撮ってほしいと依頼されれば快く応じ、さらに忘れ物がないか演奏した周囲も確認しているようで、周りをよく見ている。引率しているはずの教員が見当たらないくらいだ。ふと、宿木がこちらに気が付いたようで、小さく手を振られた。軽く振り返せば、にこりと笑ってすぐに他の生徒の手伝いに戻る。
なるほど、交友関係良好、教師からの評価も上々と聴いていたが、よく気が付く子だ。と、楽器の片づけが終わったのか、生徒たちがある程度まとまって、歩き始める。蕗二たちが上がってきた階段の方角だ。
「こちら三輪、対象はスクランブル交差点方面。JR宮益坂口駅へ向かっている様子、どうぞ」
『こちら栗田です。先行して、階段の方で待ってます、どうぞ』
『こちら糸杉、生徒の前を進んでいます、どうぞ』
見失っていた栗田と糸杉の返答に、ひとまず安心する。蕗二は生徒たちの後についていく形で移動する。
砂場とボルタリングの横を通る通路が、やや狭くなるのを考慮してか、生徒たちは一列で乱れなく進んでいく。宿木は最後尾だ。細い階段を下り始めると、目の前の大きな楽器を背負っている学生のサポートを始めた。階段にぶつからないように後ろから支えているようだ。
後を追うつもりだったが、宿木の後ろに天使とナースの仮装をした女性二人が割り込んできた。警戒するが、ただ仲良く話しているだけのようだ。そもそも携帯端末以外をもっていないように見える。階段を下り始めると、フェンスの向こう側、一階の飲み屋の赤い提灯がよく見えた。
ふと、犬のモニュメントの脇にワゴン車が止まっているのが見えた。来るときには止まっていなかったはずだが。
『こちら三輪、栗田か糸杉か、下のワゴン車を確認して』
『「すみませんね、三輪さん」』
無線と背後から同時に低い声が聞こえた。
『「大いなる正義のためですよ」』
振り返るより先に、反射的に前へ倒れるように体を捻り、階段を転がり落ちる。異変を感じた天使とナースの甲高い悲鳴が、サイレンのように周りに危険を知らせた。
おかげで階段を転がるとき、誰も巻き込まずに済んだ。そう思いながら、腕で頭をかばいつつ体を内側に畳んで、なるべく横を向くように転がり落ちる。二階の踊り場に辿り着いた時点ですぐさま回転の勢いを利用して、足を振り上げ、側転をする要領で立ち上がる。同時に腰に装備していた警棒を振り抜いた。
遠心力で格納していた軸部分を勢いよく飛び出し、ロックがかかる。階段から飛び掛かるように頭部を狙って打ち下ろされた警棒をぎりぎりで受け止めることに成功した。
体重が乗った大きな衝撃に押され、靴底が擦れる。何とか持ち堪えたのは相手にとって不測の事態だったのだろう。相手の顔が不快と怒りに歪み、鋭い舌打ちが聞こえた。そのまま体重をかけて押し倒そうとしてくる。その行動に、裏切りを確かに感じ、怒りでこめかみに青筋が浮くのを感じた。
「糸杉てめぇ!」
蕗二の大音量の咆哮に、糸杉は一瞬ひるむ。その瞬間を逃さず、腹の真ん中に前蹴りを入れた。
が、流石鍛えているだけはあるのか、踏鞴を踏んだだけで、すぐに第二撃が振り上がる。
と、後ろに影を視え、体を右へと捻る。
竹輔が後ろから糸杉の背中を蹴り飛ばし、そのまま飛び越え、階段を勢いよく下っていく。
その背を見送らず、突然蹴り飛ばされて地面に伏したまま呆然とする糸杉の背に跨り、両腕を捻り上げる。
「と、飛び蹴りなんて、卑怯だ!」
「どの口が言いやがる」
一発ぶん殴ってやろうかと思ったが、異変を感じて駆け下りてきた警ら隊に引き渡そうとしたその時だ。
大きく連続した弾けるような高い音と、悲鳴、そして目の端に青い光が走った。
考えるより先に体は動き、階段を駆け下りる。その先、階段の一番下で竹輔が腹を庇うようにして蹲っていた。耳の奥で潮の引く音が大きく聞こえた。
「竹!!」
駆け寄り、すぐさま竹輔の腹を確認する。危惧していた赤い色は見えない。と、苦悶の表情を浮かべる竹輔が大きく息を吸った。
「僕はいい、からッ、追ってください!」
鼓膜を破らんばかりの竹輔の咆哮と、車が急発進してアスファルトを空回る不快な音が重なった。
脇に止まっていたワゴンが走り去ろうとしている。騒動で人が逃げたおかげで逃走経路は確保されていた。道路まで100メートルもない。あのまま道路に出てしまい、宮益坂方面に逃げられれば、規制区域でも何でもない。さらにその先は国道246号が走っている。そこに侵入されると、都道317号や都道423号など逃走経路が複数存在する分、確保するまでに時間がかかってしまう。確保まで時間がかかるほど、宿木紅姫が無事である保証がなくなってしまう。
無理だと分かっていても、地面を蹴って走り出していた。
足がちぎれても構わない。それでも遠ざかるワゴン車のテールランプを追いかける。
『三輪警部補!』
イヤホンから怒声が聞こえる。
「片岡!?」
『ハッキングする、確保の準備を! Three,Two,One,Go!』
片岡の掛け声と同時に、ワゴン車のタイヤがロックされ、車体の前が大きく沈んで道路の一歩手前で急停止する。
蕗二はすぐさま警棒を左手に持ち替え、運転席の窓に振り被る。警察用の警棒には、やや特殊な装備がされている。その特徴の一つとして、底面が円錐状に少し尖っていて、緊急時に車の窓を割ることができる。
窓に警棒の底面を叩きつければ、思った通り窓ガラスは粉々に砕け散った。
振りかざした手をそのまま、ドアの内側に手を伸ばし、ロックを外して、ドアを引き開ける。
同時に右手で運転手の胸元を鷲掴み、車外へと引っ張り出し、そのまま地面へと引き倒した。フードを目深に被った運転手は地面に正面からぶつかるように倒れた。起き上がるよりも先に背に跨り、手首を背中へと捻り上げる。
が、その細さに驚く。男ではない、女だ。
後頭部を覆い隠すフードをむしり取る。
ふわりとした茶色い髪が揺れる。
「え?」
と、ドアの閉まる音がした。車のドアのだ。
いや、そんな音、していいはずがない。
拉致された宿木か。いや違う。助手席にもう一人、誰が乗っていた?
地面を蹴る音、車のフロントの陰から突進してくる人影、連続した弾ける高い音。
防御のための腕が上がり切る前に、スタンガンの細い電極から放たれる、細く歪な青い稲妻が目の前に迫っている。駄目だ、間に合わない。目を瞑るよりも先に、鼻先で風切り音。スタンガンが上に跳ね上げられ、宙を舞う。足を振り上げた竹輔を見て、彼が爪先でスタンガンを蹴り上げたのだと理解する。
またスタンガンのダメージが残っているのか、痛みで苦痛に顔を歪ませたまま、それでもスタンガンを持っていた影の腕を掴み、車体へ押し付けるようにして拘束した。
蕗二の後ろでは、後部座席から片岡と野村と芳乃が、宿木を降ろしているところだった。
事態は制圧された。
だが、蕗二は動揺を隠せずにいた。
竹輔が拘束している影。いや、女性から目を離すことができなかった。
「まさか……あなたは……」
その女性には見覚えがあったのだ。
彼女は、飯田美穂の母親だった。




