File:6.5 習慣という怪物は、どのような悪事にもたちまち人を無感覚にさせてしまう
喫茶店のドアを引き開けると、ドアに取り付けられたベルが軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
黒いエプロンの男性が駆け寄ってきたところで、竹輔がすかさず前に出る。
「あそこの席の連れです。ホットコーヒーを2つ追加でお願いします」
矢継ぎ早に放たれた言葉に、黒エプロンの男はポカンと口を開けていたのも束の間、「かしこまりました」と何事もなかったように背を向けて奥へと戻っていった。その様子に満足げな笑顔を浮かべた竹輔は、両手をこすり合わせる。
「いやあ、まさか、この店で待ち合わせなんて。テンション上がっちゃいますね!」
「でかいパフェが美味いとか言ってたが、他にもなんかあるのか?」
「よくお気づきで! 刑事ドラマでもロケ地で使われたこともある聖地なんですよ」
嬉しそうに言った竹輔は、店内をじっくり見渡しながら奥の席へと歩いていく。
その後ろをついて行きながら、天井を見上げる。古風でシンプルなシャンデリアが、温かなオレンジ色を放ち、店内を満たしていた。省エネ対策で2030年に消えてなくなった白熱電球を模しているためか、潜入会場のような華やかな光ではなく、影が濃く落ちていて、夕暮れを思わせる。ゆったりとしたクラッシック音楽が、より哀愁を誘った。そんな店の雰囲気のおかげか、席に座る客たちは自分の世界に浸っているのだろう。いつもなら人目を引きそうな三人も風景として馴染んでいた。
年季が入り色褪せた三人掛けのソファに、ひとり優雅に腰かけてコーヒーを啜っている片岡の隣に、竹輔が遠慮なく詰めて座る。その隣に、蕗二も腰掛ければ、「ちょっと狭いよ、君たち」と小言が飛んできた。
正面では野村がナポリタンを美味しそうに頬張っている。その隣、無表情でクリームソーダを啜る芳乃が座っていた。
「芳乃、調子はどうだ?」
「満足です」
機嫌が良いようには見えないが、彼の目の前には空の大きなパフェグラスがふたつ並んでいた。
そんなに美味いのか、と液晶端末でパフェの写真を検索すれば、伝統的なパフェではあったが、生クリームが恐ろしいほどうず高く盛られていて、見てるだけで胸焼けしそうだった。
「失礼いたします」
こちらが着席したのを見計ったように、店員が磨き込まれた銀の砂糖入れとミルクピッチャーをテーブルの真ん中に置き、真っ白いソーサーと裏返ったコーヒーカップを竹輔と蕗二の前に置いた。
店員が芳乃の目の前に置いてあったパフェグラスを回収する。立ち去る店員と入れ替わって、別の店員が大きめの銀ポットを盆の上にのせてやってくる。竹輔の前に置かれていたコーヒーカップを取ると、盆の上に置いて、銀ポットを傾ける。湯気とともに黒い液体が注がれると、コーヒーの香ばしい匂いが漂ってきた。執事を思わせる優雅なしぐさで竹輔のソーサーへと戻し、同じようにして蕗二のコーヒーカップにもコーヒーを注いでソーサーの上に置くと、一礼した店員は静かに去っていった。
「さて、状況整理と報告を兼ねての会議だ」
全員の視線がこちらを向いてから、蕗二は言葉を続ける。
「宿木巡査の妹と接触してきた。彼女には護衛していることは伝えず、学校側には警護を付けると伝えてある。で竹、俺が席を外している間に、気になったことはあるか?」
竹輔が舌を湿らせるように、コーヒーを一口啜って頷いた。
「対象の交友関係は良好、教師からの評価も上々です。これと言って素行が悪い様子はなく、恨まれるような人物ではないでしょう。ただ、対象よりも気になったのは校長と、その後ろにいた副校長ですね」
「あ、あいつ副校長なのか」
若そうだったので、てっきり教師だと思っていた。なるほど、校長の下僕だったか。
竹輔はカバンからタブレット端末を取り出し、画面をタップする。
「あの校長、一週間前に一時停止違反で交通課とひどく揉めたようです。バイクを蹴り、書類のバインダーを投げつけるなど妨害行為を行ったため、公務執行妨害で一時勾留されたようですが、弁護士によって示談交渉となり、不起訴処分。ただし罰金は多かったようですね」
「校長が素行不良っていうのもどうなんだ。まあでも、これで校長が気持ち悪いぐらい張り付いてた理由がよく分かったよ」
呆れすぎて溜息を飲み込むようにコーヒーカップに口をつける。酸味が少なく、好みの味だ。味わうように口の中に含んで、ゆっくり飲み込んでいると、竹輔からタブレットが差し出される。
「ついでに、栗田さんが聴き込み中に調べましたが、対象の通う学校の教師や生徒は、交通違反者がやや多い傾向があるようです」
タブレットを受け取り、表示されたデータを見ながら納得する。
「あー、上野駅は混むからなぁ」
上野駅周辺は元々かなりの交通量があることで有名で、かつ複雑な交差点が多い事、裏道は一方通行が多く、特に大きな上野公園の外周半分は一方通行になっていたりと、やや不便な地形でもある。
宿木紅姫が通う音楽学校は、ちょうど上野公園の裏側に存在し、都道319号線が近くを通っている。混み合う信号を避けて信号のない住宅街から近道しようとすると、一方通行を逆走することになる。渋滞を避けたい心理は分からなくもないが、自転車やバイクなどは車に比べると気軽に違反してしまう傾向がある。
警察の中でも、一般市民を取り締まる部署でもある交通課は、どうしても市民から嫌われやすく、恨みを買いやすい。いや、交通ルール違反する方が悪いに決まっているのだが。
そういえば、宿木巡査の解体された体から、何か相当な恨みを感じる、と野村が言っていた。
まさかな、と思い、階級権限を使用して警察サーバーにアクセスする。担当した交通課の隊員を確認してみると、予想は当たった。
「宿木巡査、その校長とぶち合ったみたいだな」
「え! そうなんですか!?」
血の気を引かせる竹輔の横、手持ち無沙汰にメニュー表をめくっている片岡に声をかける。
「片岡、潜入した会場に、前科者はいなかったんだよな?」
メニュー表を閉じた片岡は、眼鏡を鼻上に押し上げ、テーブルに肘をついて得意げな顔でこちらを見る。
「ああ、動画を隅々まで顔認証システムにかけてみた。なんなら君が動画を回し始めて会場に入るまでの移動中の通行人も入れてみたが、残念ながら該当者なしだ。念には念を入れて、ハッキングで参加者リストを入手して、検索をかけてみたが、これもヒットせず。さらに、宿木巡査が殺されたであろう、昨日の参加者リストも検索してみたが、こちらも該当者なしだ」
そう言って片岡は面白くない、と溜め息のような鼻息をひとつ吐き出すと、腕を組んでソファにもたれた。
「昨日の参加者にも前科者はいなかったのか?」
「ああ、だから宿木巡査が連続殺人集団に目を付けられる理由がない。念のため、防犯カメラをハッキングして宿木巡査の行動を追ってみたが、合コン会場を出た後、上野駅前の大通りではなく、上野公園の方角へ歩いて行って、そのまま行方不明だ。そして、ここで一つ疑問が残るとすれば、紅葉くんが言っていたように、夜間の上野公園は≪マーク付き≫が入れない立ち入り制限エリアとなる。≪リーダーシステム≫は公園を囲むように等間隔で隙間なく設置されているから、連続殺人事件の犯人がそこで待ち伏せていたとするなら、必ず≪リーダーシステム≫に記録されているはずだ」
片岡の言葉を、蕗二はコーヒーの苦みとともに腹の中へ落とし込む。
今まで【特殊殺人対策班】が逮捕してきた犯人たちは、≪ブルーマーク≫や≪レッドマーク≫が通りかかったかどうかを記録する≪リーダーシステム≫を回避している方が多かった。そもそも防犯カメラのように、あえて可視化することで防犯力にもなるため、≪リーダーシステム≫の機械そのものを隠していない。位置を地道に覚えれば、回避しようと思えばできなくはないだろう。しかし、片岡の言う通り、上野公園の外周に張り巡らされているのなら、回避は不可能だ。
という事は、とりあえず先ほど候補に挙がったばかりの≪ブルーマーク≫の校長は、除外される。
同じ考えに至ったのだろう、竹輔がコーヒーを飲み干し、溜息をついた。
「宿木くんに、一体何が起きたんでしょうか」
弔いとして捜査に前向きだった竹輔だ、落胆も大きいだろう。深い溜息を落とす彼になんと声をかけるか考えていると、黙々とナポリタンを食べていた野村が満足げにナプキンで口の端を拭った。
「ごちそうさまでしたぁ。お腹いっぱいになったら閃いちゃったんだけどぉ、言ってもいーい?」
蕗二が頷けば、野村は軽く店内を見回すと、前かがみになって声を潜めた。
「例えばだけどねぇ、被害者遺族同士が団結して、この殺人事件を起こしたんだったら、ちょっと無理があるんだよねぇ」
「無理がある?」
「全部 の死体を見てて、思ったの。殺し方が手馴れてるんだよねぇ」
「は?手慣れてる?」
「あっ、手慣れてるってなんか変な表現だねぇ? 素人っぽくないって言ったらいーい?」
「なんだよ、殺し屋でもいるってのか?」
眉を寄せて見せれば、野村は「三輪っちマンガ読みすぎだよぉ」とけらけら笑ったかと思えば、スイッチを切り替えたかのように、いつものふざけた雰囲気が消え、落ち着いた低い声が放たれる。
「最初の逆さづりの死体と、轢き殺された死体。あの事件から、ちょっと奇妙だなって思ってたんだよね。復讐のためとは言っても、素人が的確に人間の致命傷や内臓の位置を把握できるのは変だなって。壁に磔にされた死体だって、手の橈尺骨なんか一般人だと分からないはず。あと、焼死体の件もそう。人を燃やすのだって、素人がアルコール燃料なんて選ばない。せいぜい思いついてもガソリンか灯油のはず。そう、全部さぁ、普通はねぇ、思いつくわけないんだよねぇ」
深く考え込んでいるのか、野村は机に両肘をつき、組んだ手に唇を押し当てる。
「それってつまり」
野村の眼が細められる。
「やたらと詳しい人が、補助してるんじゃない?」
伏せられた睫毛が持ち上がり、竹輔を見る。鋭い視線を向けられた竹輔は動揺するように身じろぎし、答えを求めるようにこちらを見つめてくる。その視線を受け止め、動揺を悟られないよう、蕗二が言葉を選んで口を開こうとしたところで、わざとらしく音を立てて芳乃がクリームソーダの底を啜った。
あまりの盛大な音に、驚いて芳乃の方を見る。
「逃げない方がいいですよ」
芳乃の言葉に野村が不思議そうな顔をする中、蕗二は眉間が痛むほど眉を寄せた。
こうなると考えたところで仕方がない。諦めて深く息を吐き出す。
竹輔を見つめ、努めて静かに、言い聞かせるように口を開く。
「警察に、共犯者がいる。それが、宿木巡査の可能性が高い」
その瞬間、竹輔が後ずさるようにソファに座り直した。
「ま、待ってください! でも、え、まさか……」
「落ち着け、竹。あくまで可能性だ」
呼吸が浅くなりそうな竹輔の肩を叩いて擦ってやる。
まったく、竹輔を混乱させすぎるから、言葉を選ぼうとしていたのに。芳乃を睨めば、知ったことかと、そっぽを向き、最後に残ったアイスをスプーンで掬い取っている。
とはいえ、いずれ辿り着く結論ではあった。
野村の推測は的を射ている。医療関係者であれば、確かに致命傷となる臓器の位置は完全に把握していて当然だ。しかし、それはあくまで治療をする過程で得られる知識であり、人殺しには直結しない。しかし、警察であれば、あらゆる殺人事件を目にしたり、担当部署から聞いたり、多少の階級権限による閲覧制限はあれど、警察のサーバーにアクセスできるのだから、過去に起きた残忍な事件の犯行手口や死因、死体検案書なども参考に、素人では思いつかない拷問めいた殺害方法を実行できたのだろう。
そして、宿木巡査が殺される理由だ。
片岡が言ったように、ターゲット選定に使われた会場に前科者がいない状況で、ターゲットから除外されるはずの宿木巡査が殺されたのはなぜか。
もし、宿木巡査が共犯者であれば、辻褄が合う。
例えば、宿木巡査が殺害から手を引きたいと言ったとしたら。
ほかの犯人たちは、彼の告発を恐れて口封じに殺害するしかなかった可能性はどうだろうか?
3件起きた事件とは無関係で、単純な仲間割れによる殺害。
被害者だと思っていた仲間が、加害者側であったとすれば。
こんな悲劇はないだろう。
証拠が指し示しているのだから、いずれ辿り着く結論だ。
しかし、この可能性だけには辿り着きたくなかった。考えたくもなかった。
この思考は逃げだ。そう、「逃げない方がいい」と芳乃が忠告したとおり、事実から目をそらす行為だ。
目をそらして、いつまでも真実を見ないこと。それは警察としてあってはいけないことだ。
だが実際、俺と竹輔は無意識のうちに警察が犯人であるはずがないと、除外し続けていた
思い返せば、芳乃は「違和感がある」と始めから言っていた。
彼は名探偵ではない。だが、心の奥底の無意識まで視ることができる芳乃は、いち早く気が付き、警告していたのだろう。
しかし、芳乃はあの場で「警察の中に共犯者が存在する可能性」を発言したところで、鼻で笑い飛ばされることさえ視えていた。だから、「違和感がある」と濁したのだろう。
ああ、なんて末恐ろしい能力だ。
芳乃は俺たちのどれほど先にいるのだろう。
きっと誰も追いつけない。だから、まるで幼い子供が迷子になったような、不安な表情を見せたのか。
誰にも言えない、彼一人で抱えた孤独は計り知れない。自分でさえ、その能力に恐怖を覚えているのではないだろうか。
だから、警察を利用してでも、使いこなしたいと望んでいるのではないだろうか。
才能だなんて言葉は、彼にとっては迷惑でしかない。
誰にも気づかれないよう、静かに隠れていたかっただろう。それなのに運命は残酷だ。≪ブルーマーク≫を付けられたことで、強制的に≪異常≫を浮き彫りにされた。
ただでさえ、自らの≪異常≫に苦しむ芳乃にとって、お気軽なファッションとして≪異常≫を楽しんでいる人間に、強い怒りを感じている。
全員死ねばいい、なんて強い言葉を吐いたのは、彼の孤独の大きさを表しているんじゃないか。
ちらりと芳乃を窺えば、クリームソーダを堪能し終えたらしい。目を瞑り、腕を組んで寝る体勢になっていた。いや、俺が目を合わせてくるのを察したのか。視えすぎると文句を言われているから、あれはわざとだろう。
芳乃のことも気がかりだが、竹輔も心配だ。肩に置いた手のひらから伝わる震えが止まらない。吐き気を堪えるように口を手のひらで覆って、青褪めている。
生きたままバラバラにされて殺された友が、3件の惨殺事件に関わっていたなんて信じたくない。だが、その事実を受け入れなければならない。重くのしかかる事実を受け入れるまで、時間はかかるだろう。
野村と片岡が心配そうに竹輔を見つめているのを横目に、液晶端末を取り出そうとポケットに手を伸ばしたところで、その端末が激しく震え始めた。
突然のバイブレーションの音に全員が飛び上がる。
「すまん、俺だ」
液晶端末を取り出し、画面を確認する。表示された名前に目を見開き、すぐに画面の応答ボタンをスライドする。
返事をするより先に、音が割れるほどの大声が鼓膜を殴りつけた。
『栗田です! えれぇごどだぁ!!』
耳鳴りに痛む耳を押さえ、反対の耳に端末をかざす。
「なんだ、どうした?」
『ゲリラLIVEをすると言っているんです!』
「はあ? ゲリラLIVE? どういうことだ、説明しろ」
『ハロウィンのイベントに合わせて、明日、宮下公園で行うそうです!! 対象を含めた一学年全員で!』
「宮下公園? それってどこだ?」
『渋谷です!!』
「渋谷!?」
『先ほど言い損ねていたと副校長が今しがた報告してきまして、どうしたらと思って!』
「中止はできないのか?」
『もちろん打診しましたが、どうやら毎年恒例イベントのようで、今更中断はできないと……あやーッ、なしたもんだべ三輪さん!!』
捲し立て、今にも泣き出しそうな栗田の声に、蕗二もつられてパニックになりそうだ。頭を掻き毟って落ち着けと自分に言い聞かせる。
「栗田、いったん落ち着け。深呼吸して、落ち着いて待ってろ。こっちで対策を考えてから折り返す。必ず連絡するから、待機してくれ」
『わ、わがったす。んだば電話、待ってます』
通話が切れたのを確認し、舌打ちする。
何が大変遺憾だ、あのクチヒゲオールバック校長め。いや、もしかしたら、集団行動をするから安全だとか思っているのかもしれない。だが素人判断だ。むしろ人混みの方が通常より危険性が上がる。
人の流れをコントロールするのは難しく、ひとたびパニックが起きれば群衆雪崩や将棋倒しといった事故に繋がってしまう。
ライブと言っていたから、簡易的とはいえ演奏会みたいなものか。昔、学校で吹奏楽部が演奏していた様子を思い浮かべる。であれば、ぴったりと隣に張り付いているわけにもいかないだろう。
ハロウィンで混雑する中、犯人グループがどう動くか予想できない。
最悪のケースを考えれば、8月末に起きた畦見の事件が脳裏をよぎる。
逃げ惑う群衆と血だらけになった人々に、腹の底が冷えていく。
被ったフードの奥から、青い光が網膜を焼く。
畦見の笑い声が聞こえた気がした。握り締めた手に冷たく重い銃身があった。それが今、生暖かい血に染まった刃物に見えた。
音の消えた空間、父の血だまりの中で蹲ったあの日の俺が、こちらを見つめて……。
突然右手が激しく震えた衝撃で、思い出したように呼吸をすれば音が一気に音量を上げた。
額から汗が吹き出す不快感に舌打ちをして、握り締めた右手の中で今も震える液晶端末の画面を睨む。
栗田がパニックになっているのかと思ったが違った。画面をスライドし、端末を耳に押し当てる。
「菊田さん、お疲れ様です」
『ああ、お疲れ。今大丈夫か?』
菊田の落ち着いた低い声に、安堵から深く息を吐く。
「はい」
『うちの捜査員が、事件の被害者遺族、……ややこしいな。ともかく、重要参考人として、過去の被害者たちの自宅へ聴き込みをしてみたが、全員アリバイは成立した。ただ全員、口をそろえて加害者が死んだことをよかったと言ってたそうだ』
「よかった、ですか」
正直、その返答は予想していた。大切な人の命が奪われた被害者からすれば、犯人など死んでほしいと願っても仕方がない。だが、耳障りのいい言葉でないのは確かだ。
『復讐による殺人である可能性は依然高いままだが、犯人の目星がつかない。宿木巡査の喪失部位および携帯電話の行方も不明。宿木巡査の足取りも掴めぬまま、そちらの捜査は完全に振り出しだ。君たちの状況を聞かせてもらいたいんだが、進捗はどうだろうか?』
「めちゃくちゃ当てにしてくれますね?」
『東くんほどじゃないが、突破口を見出したいのは誰だって同じだろ?』
冗談半分本気半分だろう。菊田の笑い声につられて口角が持ち上がる。が、菊田には聞かなければいけないことがある。
「先に、俺からもひとつ気になることがあるんですが、いいですか?」
『なんだ?』
「所轄の糸杉巡査ですが、栗田巡査と違って、護衛対象については話してなかったんですか?」
捜査に協力させるのであれば、極秘とはいえそれなりに情報共有をしておく必要がある。しかし、糸杉に関しては説明をあまりしていない様子だった。
だが予想に反し菊田は、ああと気の抜けた声を出す。
「栗田は私の直属の刑事だから、信頼はある。だが、別の所属になるほど目が届かないからな。宿木巡査がなぜ殺害されたのか分からない以上、知らない方が安全なこともある」
「そうでしたか。何か意味があるのかと思っていました」
蕗二の言葉に、菊田の声が低くなる。
『何を勘ぐった?』
鋭い声に、蕗二は眉を顰めた。菊田の憔悴した姿を思い出す。竹輔の二の舞となってほしくないが、割り切るしかない。意を決して出した言葉は少し掠れた。
「まだ確定はしていませんが、宿木巡査が共犯者だった可能性があります」
『共犯……』
「はい。片岡により顔認証などを利用し、犯人のターゲットとなりうる人物の捜索に当たりましたが、該当者はいませんでした。これにより、宿木巡査が偶然ターゲットと一緒にいたせいで犯行に巻き込まれたという憶測は、なくなりました。
さらに、宿木巡査の足取りを追っていると、不自然に途切れます。このことから、≪ブルーマーク≫に該当しない人物が関わっている、または≪リーダーシステム≫に読み取られないような方法を知っている者となります。
また、野村の意見では、3件起きた一家殺人の手法が、素人では考えられないものであること。そして、宿木巡査の遺体から恨みのような強い感情が見えること。復讐が理由の殺人と頭から決めつけてしまっていましたが、宿木巡査の裏切りを責めたことによる、いわゆる私刑だったとするならば、辻褄が合います。それを前提とすれば、宿木巡査は犯人グループの共犯者であり、何かしらの理由で揉め事が起き、口封じに殺害された可能性が一番高いと推測されます」
電話の向こう側が沈黙する。菊田の落胆した顔を目に浮かぶ。今はそっとしておくべきかと思ったところで、菊田の重い溜息を聞こえた。
『宿木巡査だけが、共犯者だと思うか?』
「え?」
『他にも、内部に共犯者がいる可能性はないか?』
地の底から響くような低音が鼓膜を震わせた。怒りを孕んだ声に、背筋を震わせた蕗二は絞り出すように「わかりません」と呟いた。
そうか、宿木巡査ばかりを気にしていたが、まだ共犯者が存在する可能性があるのか。
いや待て。≪リーダーシステム≫に誰も引っかかっていないという事は、犯人が全員警察官の可能性が捨てきれない。なんせ≪ブルーマーク≫が付いた時点で、警察官は何かしらの理由で退職させられるのが暗黙の了解だ。犯人全員が警察官であるなんてあり得ない事態だ。しかし確定していないからこそ、あり得る事態も視野に入れなければいけない。
そして、菊田はすでに覚悟している。犯人が身内であろうが容赦はしないと言わんばかりの怒気を感じる。流石、叩き上げの捜査一課の係長だ。肝の座り方が違う。
畏怖の念から姿勢を正していると、菊田から指示が飛ぶ。
『対象とは接触したな? 共犯者の炙り出すまでの時間稼ぎに、しばらく学校内に留めておけるか?』
その言葉に、はっと息を飲む。
「大変申し訳ございません。対象は明日、ハロウィンのイベントに合わせてゲリラLIVEのため、渋谷へ出る予定があります」
『ライブ? こんな時に』
菊田の苛立ちが滲む重い溜息が聞こえた。
『宿木巡査のご遺族を、私の独断かつ懸念だけで勝手に護衛をしているだけだ。学校に圧力を掛けて阻止したいところだが、実害が存在しない以上、そもそも、警察が法的に掲示できる書面が存在しない。しかし、それを逆手に取る』
「どういうことですか?」
『内部に共犯者がいるのであれば、犯人たちは警察がまだ内部の共犯者に辿り着いていない、と知っている。とすれば、一家殺害という辻褄を合わせるため、必ず宿木巡査の妹の殺害に現れる』
菊田の言葉に、奥歯が割れんばかりに食い締める。
「おとり捜査……ですね」
おとり捜査とは、身分秘匿捜査と言われている捜査方法とは違い、一般人を囮に使って犯罪者に加害行為を誘発させるものだ。被害者が最悪死亡しかねない危険行為として、警察内では禁止されている。
『やむを得ない。しかし、非常に危険な事態へと発展するだろう』
菊田の低い声に、冷や汗がこめかみを伝い落ちていくのを感じる。
『蕗二くん。私が勝手に依頼しておいて、巻き込んでしまった。本当に申し訳ない。万が一、最悪の事態が起きた場合は、君に責任が降りかからないよう力を尽くすよ』
菊田の温かみのある低い声に、頬を叩かれたような気分だ。この人は父の葬式に駆け付け、俺たち親子にずっと寄り添ってきた人だ。恐ろしく、それでいて飛び切りのお人よしでもある。
「お気遣い頂きありがとうございます。しかし、俺も一端の刑事です。自分の関わった捜査を、自分の身の可愛さだけで、ほっぽり出すわけにはいきません。一緒に責任を取ります」
そう宣言すれば、菊田は呆れた様に喉奥で笑った。
『君の堅物なところは、父親によく似ているよ』
呆れたような、笑いをこらえるような声をそう言うと、咳払いを一つして、声を張り上げる。
『三輪警部補。ハロウィンのイベントに合わせ、渋谷の混雑警備に相応な数の警察官が配置される。その中にも、共犯者が紛れ込んでいる可能性は捨てきれない。共犯者の存在を考えると、むやみやたらと情報を共有するわけにはいかないが、明日、配備の警察官たちに拳銃の装備はしないよう徹底させる。しかし、警棒などの特殊装備に注意すること。また、別ルートで刃物などの危険物を入手する可能性もある。警護に当たり、護衛対象はもちろん自身の身の安全にも配慮すること。また糸杉はもちろん、栗田の手荷物も確認してくれ』
「わかりました」
『健闘を祈る』
通話が切れる。菊田の言葉を噛みしめ、深く息を吸い、吐き出す。
顔を上げれば、四人の視線を感じた。
「明日、対象はゲリラLIVEを行うため、学校内より渋谷へ外出する。犯人が仕掛けてくる可能性が十分高い。場合によって、渋谷は明日、地獄になる」
全員、2か月前の惨事を思い出しただろう。
緊張が走ると思ったが、芳乃が「はあ」と声を出して盛大な溜息を吐きだした。
「何を今更。半年間、巻き込まれっぱなしですよ」
「そうだよぉ! 今更今更!」
「私たちはチームだ。地獄だろうとどこまでも協力するよ」
野村と片岡が楽し気に言う。憂いの表情で俯いていた竹輔だが、ひとつ強く目を閉じると、まっすぐこちらを見つめてくる。
「僕はあなたの相棒で、刑事ですよ。一緒に地獄を阻止しましょう」
それぞれの言葉に、蕗二は思わず噴き出した。
「まったく。お前らといると、地獄もピクニックになりそうだ」
そうだ、まだ地獄になるとは決まっていない。
最悪のシナリオを阻止しよう。




