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File:3.5 胸が張り裂けたとしても、俺は黙っていなければならない

 

 世田谷区。


 規制線が張られた現場を、蕗二は運転席から観察していた。

 何か違和感を覚え、原因を探って周囲をくまなく観察を続けていると、後部座席に座っている竹輔が何かごそごそと荷物を漁り始めた。


「今回は、野村さんがこれを着る番ですね」


 竹輔の声に、蕗二がバックミラーを確認すると、竹輔が紙袋から洋服を一式取り出しているところだった。紺地に黄色で【警視庁INVESTIGATION】とプリントされた鑑識の服一式が野村へと差し出される。


「やったぁ! 私もちょっと着てみたかったんだぁ!」


 野村は嬉しそうに鑑識の服を受け取り、プリントを眺めている間に車を降りて待つ。

 車の中から観察していた時から覚えていた違和感が、確信に変わる。


 規制線より先、ブルーシートで作られた青いカーテンの前には誰もいない。つまり、鑑識による現場保存作業が終了し、刑事たちが現場に入っているはずだ。だとすれば、ブルーシートの間から働きバチのように刑事たちが忙しく出入りしていてもおかしくないはずだ。

 しかし、こうしてながめている間にも、誰かが出入りする様子は見られない。

 菊田は何か知っていそうだが、端末が何度も短く振動する音と、無心に画面をタップして入力している様子から、話しかけるのははばかられる。

 手持無沙汰に組んでいた足を組み替えていると、もたれていた車体が揺れ、ドアの開閉する音がした。


「お待たせー! どーぉ? 似合うー?」


 足元までしっかりと鑑識のよそおいになった野村が、楽し気にその場を一周する。

 二つに結い上げていた髪も、首の後ろで一つに結い直されているせいもあり、知らなければ実際に現場にいてもおかしくはないほど似合っていた。芳乃があまりに服に着られている姿を見慣れているせいかもしれないが。本人がいれば蹴りのひとつでも飛んできそうだ。


 竹輔が似合いますねと称賛する中、菊田が端末を仕舞うと、行くぞと言って歩き出してしまう。

 慌てて後を追い、声を潜めながら問う。


「菊田さん、俺たち普通に入って大丈夫ですか?」

「それどころじゃないさ」


 菊田はそう言って規制線を越えた。ブルーシートの間を分け入って、現場へと足を踏み入れる。

 現場は一軒家が立ち並ぶ住宅街で、区画ごとデザインされているようだ。

 デザインは少しずつ違うが作りのよく似た、赤みを帯びる外壁の洒落しゃれた家が立ち並んでいる。そして、そのうちの一軒家が現場らしい。三階建てのようで、車はないが一階部分はカーポートの役割をしているようだ。

 開け放たれている玄関ドアへと近づくと、突然若い鑑識が飛び出してきた。

 強く肩にぶつかり、堪らずよろける。文句を言おうと振り返ると、若い鑑識は側溝に頭を突っ込んで、盛大に嘔吐していた。


「三輪警部補ッ! 申し訳ございませんッ!」


 突然の大声に振り返ると、玄関ドアの前にピンと背筋を伸ばした桑原が敬礼していた。

 蕗二が返事を返す間もなく、桑原は蕗二の脇をすり抜けて、側溝に頭を突っ込んでいる若い鑑識の背中を擦り始めた。若い鑑識は桑原の問いに頷きながら、嗚咽を漏らし、また吐いた。

 勢いよく吐き出され、びちゃびちゃとコンクリートを跳ねる水音に、思わず顔をしかめる。


「蕗二さん」


 竹輔に肩を叩かれ、首を巡らせて気が付いた。

 よく見れば、ブルーシートの内側には鑑識や刑事が何人もいた。だが皆、気分を悪くしているのか、鑑識車両のそばに膝を立てて座り込んでいたり、壁にもたれて虚ろな目で足元を見ていたり、顔を覆って泣いていたり、袋を顎の下に構えながら吐き気を耐えている。

 あまりの惨状に蕗二が眉間をまんでいると、菊田が煙草を吸ったように胸を大きく膨らませ、細く長く息を吐いた。


「警察はご遺体を運搬したりすると、一体につき1,800円の死体取扱手当がつく。さらに損傷が激しい場合は倍額の3,600円が支払われるのは知っているか?」

「爆弾だと5,000円でしたっけ?」

「ああ、5,300円だったはずだ。サリンなどの劇毒物なら、2,700円だ。どうだ、警察は安くて使い勝手がいいだろ?」

「1万円支給されたって、誰もやりたがらないでしょうね」

「とくに鑑識は刑事よりも数をこなす必要がある。あずまくんの人が足りないって嘆きもよく分かるだろう」

「でも、誰かがやらなきゃいけないんですよねぇ」

「ああ、どんな仕事も、誰かには必要なことだからな。とはいえ、人間だから吐きもするし、泣きもするし、休みもするさ」

「俺が吐いて動けなくなったら、菊田さん、おぶってくれます?」

「そうだな。坂下君と一緒に、こう、手足を縛って棒を通してだな」

「えっ、豚の丸焼き!? それは恥ずかしいんですけど」


 逃避、使命の確認、冗談交じりに会話する。でなければ正気を保てないのはお互いに分かっていた。

 緊張で強張った表情で固まる竹輔と、笑うべきか黙っとくべきか考えているのだろう野村が、視線だけで菊田と蕗二を交互に見ている最中、凛としたよく通る声が降ってきた。


「あら、聞き覚えのある声がすると思ったわ」


 駐車場から三段上がった玄関の前で、胸の前に腕を組んだあずま検視官が仁王立におうだちでこちらを見下ろしていた。

 しかし、いつもより小柄に見える彼女に違和感を覚える。ヒールを履いていないだけではなく、いつも纏っている狩りをするメスライオンのような覇気がないせいだろうか。

 東は気だるげに髪を掻き上げて、目の前に広がる死屍累累ししるいるいを見渡した。


「見ての通り、久しぶりの大混乱でね。ご遺体を運び出そうにも、手が足りてないから」


 そこまで言って、東が目を見開いた。


「ちょっと、紅葉もみじ来てるじゃない!」


 階段を駆け下りる東検視官を、野村は笑顔で迎える。


「やっほー東っち! さっきはありがとねぇ!」

「いいのいいの! やだぁ、鑑識の服、とーっても似合ってる!」


 アイドルにでもったような猫撫ねこなで声で上機嫌に野村を褒める東に、菊田が呆れた顔で間に入る。


「こらこら、紫陽花あじさいちゃん、勧誘は駄目だぞ」

「紫陽花って呼ぶなッ! ショウカだ!」


 菊田に歯を剥いて怒鳴る東は、どこか安堵あんどした表情にも見えた。しかし、ふんと鼻息を吐き出すと、すぐに表情を引き締める。


「あんた達、それに紅葉も、今回はしばらくまともに飯が食えないと思って覚悟しなさいよ。心の準備ができるまで待っててあげる」


 そう言ってスカートの裾をひるがえすように毛先を振り、きびすを返した。真っ直ぐに伸びた背は、玄関の階段を上がって、家の中へと入っていく。


 その背を追って、野村はすぐさま軽い足取りで玄関を上がっていった。

 菊田はやや重い足取りで、しかし胸を張るように野村の後に続く。

 竹輔が隣で気合を入れるようにジャケットの襟を引っ張り正し、玄関へと入っていくその後ろ、蕗二は鼻から大きく息を吸い、よし、と勢い良く息を吐き、足を踏み出した。


 開け放たれている玄関ドアを入って、蕗二はすぐさま眉をしかめる。

 何か焦げた臭いが充満している。さっと見回すが臭いの原因はここではないようだ。

 同じくその臭いに驚いたのか、土間で立ち止まって軽く仰け反っていた竹輔がネクタイの結び目に指をかけ、軽く緩めた。


「う、これは、ご飯食べて来なくて正解かもですね」

「しばらく食えなくなるから、食べといたほうが良かったかもしれないぞ」


 土間の脇に設置された簡易机から、使い捨ての不織布性の靴カバーを取り、靴の上に被せ、青いゴム手袋を装着して、床に敷かれた歩行帯の上を踏みしめて、土間を上がる。


 とはいえ、この家は少々デザインを重視しているのか、はたまた一階のスペースをカーポートにした大胆な構造のせいか、玄関を入るとすぐ左手にシューズインクローゼットの大きな収納スペースがあり、子供用の自転車とマウンテンバイクが収納されている。右手はすぐに上りかまちになっていて、階段とその脇にこざっぱりとした手洗い場が設置されているシンプルな場所だ。

 そして、階段の上から焦げた臭いが降ってきているようだ。


 敷かれた歩行帯の上を歩きながら、階段をゆっくりと上がる。手摺てすりや小窓を観察している限り、築年数は新しいのだろう。しかもよく手入れしているのがわかる。

 階段を上がりきると、右手に引き戸式のドアが口を開けて待っていた。


「あら、意外と早かったわね」


 ドアをくぐると、東がすぐ脇に立っていた、蕗二と竹輔を横目で確認すると、目の前を睨みつける。


「ご遺体は三名。連日起きている、一家連続殺人の類かもしれないけど、犯行自体に共通点はないわ。まずは一人目」


 そう言って、青いゴム手袋をした東の手が、目の前を指差した。

 東の指を追わずとも、この部屋に入った途端に、すぐ異物が目に入っていた。


 二階の部屋はどうやらリビングらしく、中央奥に三階へと通じるのだろう、壁から突き出すフローティング階段が設置されている。左手奥に立派なカウンターキッチンが見えた。右手の大きな掃き出しには、温かな淡いピンクのカーテンが引かれている。それを背景に、男が異様な姿で立っていた。


 いや、立っている。と思ったのは、カーテンレールに二つ口の電源タップのついた延長コードで吊り上げられていて、踵が付いた状態かつ両手が脇に垂れている姿が直立不動の姿勢に見えたからだ。

 加えて、ネクタイもきっちりと締めたスーツ姿で、着衣に乱れたところがないせいでもあるだろう。

 さらに絞殺体の前には、菊田と野村が立っていて、一見すれば他の刑事と見間違うかもしれない。

 しかし異様だったのは、男の顔にはラップが何重にも巻かれていることだった。


 菊田と野村の後ろからご遺体を観察する。あまりに何重にもラップが巻かれているためか、わずかに俯いたその表情は見ることができない。ただ顔色が青黒いのだけは、薄っすらと透けて見えた。

 蕗二の後ろに立った東は、腕を胸の前に組んだまま、やや早口で言い放つ。


「窒息なのは間違いがないけど、ラップによる窒息か、気道圧迫によるものかは不明。抵抗の痕跡はなく、手首に結束バンドによる擦過傷があるところから、後ろ手に拘束され、絞殺後に拘束を解いてカーテンレールに吊り上げたんだと思うわ。死後硬直の具合から、24時間以内に殺害されたと推測される。次はこっち」


 東が蕗二の脇をすり抜け、階段へと進んでいく。

 上へと上がるかと思ったが、階段の両脇に二つ扉があった。全員が後ろにいることを確認した東は、キッチン裏に当たる左側のドアを右へとスライドさせた。

 ドアの先は奥行きのある小さな狭い部屋だった。花柄の壁紙や花を模した消臭剤が置いてあったりと、手入れが行き届いているのがよく分かる。その一番奥に、白く磨かれた便座がひとつ。

 そう、この小部屋はトイレだ。

 そして、便器の前にはグレーの防水シートが敷かれ、何かを覆い隠すようにブルーシートが被せられていた。

 盛り上がり方から、小柄なのは分かる。

 だが、それよりも気になるのが、ツンと鼻奥に刺さるような刺激臭がする。

 正直これは大便の類の臭いなのだろう。

 野村以外が臭いに顔をしかめる中、東は片膝をつくと、ブルーシートの端を持つ。


「二人目のご遺体は、おそらく10歳に満たない子供。彼はそこの便器に頭部を沈められた状態で発見された。溺死だと思ったんだけど、引き上げてみたらトンデモナイ状態でね。みんな血相を変えて出ていったわ。おかげでまだ写真も取れてない……いいわね」


 全員を威嚇するように睨みつけ、勢いよくブルーシートをめくり上げた。

 その少年の顔を見た瞬間、竹輔が悲鳴を押し殺すように口を押さえ、顔を背けた。ぐぷっと喉奥から水音が聞こえる。


「吐くなら外ね」


 東が静かに言い放つと同時に、菊田が慌しく連れ出す。蕗二も堪らず背を向けて、天井に視線を向けるしかなかった。走りそうな呼吸を、意識して口からゆっくりと深く呼吸を繰り返し、込み上げてきそうな吐き気を堪える。

 鼻から息を吸うことはできない。先ほどよりも強い刺激臭が鼻腔の奥を突き刺すのだ。

 そして、一瞬だけ見えた少年の表情が眼底げんていに焼き付いて離れない。

 鼻と口に黒い泥状の異物が詰め込まれ、白目を剥き、苦痛に歪んだ表情は、二度と見たくないほどに残酷極まりなかった。


 蕗二が天井から視線を戻せない中、野村は視線を外さなかった。いつもより静かに、しかし顔色は変えないまま、口を尖らせてじっと遺体を見つめていた。

 いつの間にか、桑原が戻ってきたらしい。蕗二の前を会釈えしゃくしながら通り過ぎ、背後で屈む気配がした。シャッター音とストロボが発光するのを天井越しに見る。


「桑原、糞の形状を見て、なんだと思う?」


 東の静かな声がする。蕗二は天井から視線を戻せないまま、東と桑原の声に耳を傾けた。


「はいッ、人糞ではないと思いますッ、人糞に近い犬でもないと思いますッ、臭いと黒っぽい色ッ、ツンとキツイ臭いッ、小さめの形状から、猫だと思いますッ」

「いいわね、よく観察してる。糞を顕微鏡で確認すれば、猫の毛色と、砂の成分も検出できるはず。おそらく野良猫だろうから、カメラを追えばそのうち糞を集めてる犯人の間抜けな姿が見つかるはずよ。で、死因の見立てはどう?」

「はいッ、異物は……喉奥や鼻奥に入り込んでいないように見えますッ、溺死ではなく精神負担によりショック死の可能性も視野に入れますッ」

「そうね、でも乾性かんせい溺死も視野に入れた方がいいわ。口に糞を詰め込まれて、顔を水につけられた場合、糞を吐き出して息を吸うとしても水が入る、慌てて吐き出そうとして口の中の水分を出すけど、咽頭の方に少量の水が流れ込んでいれば、咽頭が反応して気道を塞ぐこともある。そうなれば肺に水が入ってないけど溺死になる。ティースプーン一杯の水でも溺死になるから、覚えておきなさい」

「はいッ! ありがとうございます!」


 足音。東が回り込んできたようで、下から覗き込むように蕗二を見る。


「紅葉は良いとして、あんたは? ついて来れる?」

「行、きます」


 絞り出すように言えば、東はふんと鼻息を吐き、背を向ける。

 次こそ階段へ向かうのかと思えば、今度はトイレの真向かいにあったドアを東は右へとスライドして、中へと入っていく。

 東の後ろを野村がスキップするようについていくのを、蕗二は恐る恐るついていく。

 ドアの先は脱衣所のようだ。

 左手に三面鏡の独立洗面台があり、右手にドラム式の洗濯機と、タオルが積まれた収納棚があった。

 そして、この家に入った時に感じていた、焦げ臭さがきつくなる。


「わーお、こんなの初めて見たぁ!」


 野村が道端で見た事がない虫を見つけて喜ぶ子供のように声を上げ、部屋の奥へ吸い込まれていった。

 そこは、どうやら浴室のようで、東が洗濯機を背に中を見ろと顎で指した。

 LEDの青い光で白く浮き上がる浴室内は、やや黒くくすんでいる気がする。

 浴槽の前に野村がしゃがみこんでいて良く見えないが、床に何か黒い塊が見える。とぐろを巻いているのは、どうやら毛髪のようだ。

 覚悟しながら野村の向こうを覗き込む。


 蕗二は自分が思っているよりも、声を上げたりはしなかった。

 おそらく脳が、これ以上ストレスにならないよう拒絶反応を起こしているのだろう。目の前にあるものが、作り物のように見えてしまっていた。

 女が一人、床に倒れている。ただ、異様だったのは、首から上と、足首からつま先を残して、あとは焼けて黒く炭化してしまっているのだ。

 女性の口にはガムテープが張られていて、目がカッと見開かれたままになっていた。その顔には黒いすすが付着している。足は裸足で、こちらも煤けている。バラバラに切られて焼かれたのだろうか、そう考えてみたが、断面であるはずの首元と足首は黒く焼けげていた。


「ガソリンでもいたか」


 蕗二の呟きに、遺体の前にしゃがみこんでいた野村は首を振った。


「ガソリンだったら家ごと燃えてるよぉ。ガソリンの引火点はマイナス40度、しかもめっちゃ揮発性きはつせいが高いから、こんな狭いところでガソリン撒いたら、火をつけた瞬間にこの空間に火が点いちゃうよぉ。その衝撃で窓とかドアが吹っ飛んで、一気に空気が入ってきて爆燃現象……うーん、むかーし映画になったバックドラフト現象の方が有名かな? もうねぇ、一瞬でどっかーん! 火をつけた人ごと死んじゃうよぉ? 死体だって真っ黒こげで、もう誰か分かんなくなっちゃう!」

「ガソリンじゃないなら、灯油か?」

「灯油だったら、もうちょっと燃えてもいいと思うんだけどぉ、こんなに燃え残るのって、見た事ないなぁ、なんだろうぉ?」


 珍しく首を捻る野村に、蕗二は純粋な疑問を投げかける。


「ガソリンと灯油って、そんなに燃え方が変わるのか?」


 ガソリンも灯油も、可燃性が強いイメージがある。ぼんやりガソリンの方が危ない認識はあるが、灯油はどうなんだろうか。その疑問を口に出す前に、野村は独り言のように答えた。


「灯油の引火点は40度以上で、揮発もあんまりしないから、意外と火が点きにくいんだよねぇ。だから冬に静電気で燃えるみたいな事故も起きないから、家庭用の暖房器具として使われるんだけどぉ」


 そう言って野村は天井を見上げる。何かを探すようにぐるっと首を回して、困ったように首を傾げた。


「もし灯油だったらもっと火力があるから、締め切った浴室だと不完全燃焼が起きて、もっと部屋全体が煤だらけになっててもおかしくないし、燃え残ったりはしないと思うんだよねぇ。でも、この人は顔と足だけが綺麗に残ってて、内臓だけ燃えてるもんねぇ」


 野村の視線をなぞるように天井を見上げる。

 確かに黒く煤で汚れてはいるが、大したことはない。それに、熱による歪みや融解ゆうかいした痕跡こんせきもない。

 また床も女性を中心に黒く焼けてはいるが、激しく燃えたというよりも単純にげただけのように見える。


「ここで焼いたのは間違いないが、焼けるには温度が低い、か?」

「そうなんだよねぇ。死蠟化しろうかも考えたんだけどぉ、かなり特殊な条件と時間が必要だから、絶対に違うだろうなぁ。うーん」


 首を捻りすぎて、野村の体が傾き始める。倒れるかと言うほど、右へ体を傾かせた野村が、観念したように振り返り、蕗二の背後に立つ東へと期待を込めた視線を送る。


「ねぇねぇ東っち、もう答え出てるのぉ?」

「ええ、もちろん」

「さっすがぁ! めっちゃカッコいい! 私、東っちの推理聞きたいです!」


 野村が跳ねるように立ち上がり、キラキラと目を輝かせて東を見つめる。

 東は眩し気に目をつぶると、鼻から大きく息を吸う。そして、忠犬のように脇に立っていた桑原の肩を思いっきり叩いた。


「ねぇ、わかる。鑑識の野郎に足りないのは、これなのよ。もっとガッついて聞いてほしいの、教えてもらおうとして良い子に待ってちゃダメだからね」

「はいッ! 精進しますッ!」


 浴室にまで響く声で返事をして背筋を伸ばす桑原に、蕗二は思わず「いや真面目か?」と思わずツッコみたいのを唾とともに喉奥へと押し込んだ。桑原は鑑識の中で凄惨な現場を見ても唯一逃げも吐きもせず、東検視官について回れる根性があるのだ。真面目なだけでは続けられないだろう。

 尊敬の視線を向けていると、「ちょっと場所変わって」と東に鋭く指示される。我に返った蕗二はそそくさと浴室から退室した。代わりに浴室へ入った東はご遺体の足元へ片膝をつく。


「私が立てた推測は、しん燃焼よ」

蝋燭ろうそく効果ってことぉ!? 初めて見たぁ!」

「蝋燭?」


 興奮する野村と反対に、蕗二と桑原は首を捻る。東は言葉を選ぶように顎をひと擦りする。


「要するに、蝋燭のように人間の脂肪を燃料にして長時間燃える現象のこと。ガソリンや灯油だと高温すぎて条件がそろわないけど、もっと低温で燃焼するアルコール燃料を使用すれば、可能だと思うわ」

「なるほどぉ! だから酸素濃度が低めになるお風呂場なのね!」

「待て待て、全然理解できない。風呂場の酸素濃度が低いってどういうことだ?」


 知識のある東と野村について行けず、堪らず頭を抱える。会話のテンポを崩されて不機嫌そうな東を気にする様子もなく、野村はのんびりとそれはねぇと人差し指を立てて解説してくれる。


「火が燃えるためには、酸素が必要でしょ? でもお風呂場は部屋が小さくて、ちょっと密封されてる場所だから、火を燃やすと酸素が少ない分、火が小さくなるんだよぉ! 火が小さいって事は、温度も低くなって物を燃やすのにも時間がかかるんだぁ!」

「火が小さかったら、消えちまうだろ」

「密室だったらね! でも、お風呂場って完全に密封されてないでしょぉ! ほらドアの下に通気口があるよね! これのおかげで燃え上がらず、消えない程度に酸素が供給されてるのが、ポイント!」


 野村が立てた人差し指を蕗二に突き付ける。東が満足そうに頷くと、瞬きもせずにご遺体を見つめる。


「これ、わかる? 両手が脇に揃ってる。このご遺体が手首を腹の前や後ろ手に拘束されていたんじゃなくて、毛布で簀巻き状にくるまれていたと推測できる。だとすれば毛布を火種に、少ない酸素量で長く燃焼させられる可能性がより高くなるでしょうね」

「はいッ! 毛布も条件なんですか!?」


 桑原が素早く手を上げ、行儀よく質問する。先ほどの東の指摘をさっそく実施したようだ。その生真面目さに、東は口の端を波打たせて笑いを堪えている。それを誤魔化すようにわざとらしい咳払いをして、表情を引き締める。


「油って言うのは、肉よりも低温で溶け出すのは、焼き肉や料理をしていれば知ってるわね? 例えば牛脂なら約42度、ラードなら約40度、鳥油は約30度、人の脂肪は約22度とされているわ。もし体に毛布を巻きつけた状態だったと仮定して、火が小さくて低温であれば、火が毛布を燃やす尽くす前に、体から脂肪分が溶けだして毛布に付着、あとは蝋燭と同様、人間の脂肪がある限りはじりじりと長時間燃え続ける、これが芯燃焼、または蠟燭効果って呼ばれているわ」


 桑原がおおと感嘆の声を上げる中、野村が手を叩いて喜びの声を上げる。


「そっか! だから、脂肪分の多い胴体部は完全に燃えて炭化してるけど、脂肪分が少ない手足や頭部の末端部が燃え残ってるんだね! すごいすごい!」

「すごいです東検視官ッ!」

「桑原ッ! そこは真似しなくていいッ!」


 騒がしくなった狭い空間で、ついて行けない蕗二は勘弁してくれと頭を抱えた。


「東検視官。とりあえず、今日はこの三名のご遺体を解剖することになりますよね?」


 蕗二の問いに、東はそうねと言って立ち上がる。


「ご遺体の搬出に時間がかかると思うから、少なくても検死は夕方以降ね。あんたたちはどうするの? どっか会議室で待ちぼうけ?」

「いえ、明日改めて集合します」


 どのみち、片岡と芳乃は夕方から合流になる。刑事たちは連日泊まり込みで捜査を行うが、一般人にそんな過酷なことをさせる訳にはいかない。

 端末を引っ張り出し、メッセージアプリを起動させる。『本日は解散、明日の朝改めて集合。時間は後で連絡する』と打ち込み、送信する。

 菊田にも今日は一度解散するむねを連絡するため、メッセージを打ち込んでいると、野村が跳ねるように浴室から出てきた。


「今回はぁ、誰の拷問が目的だったかのかぁ、よく分からなかったねぇ?」


 野村の言葉に眉間に力が入って、頭痛がした。

 確かに、今回は全員殺され方が違った。だんだん共通点が無くなっている。

 それに薄気味悪さと恐怖が混じって、蕗二の心にさざ波を立てる。

 単なる復讐にしては過激だ。犯人の目的が変容している可能性もある。

 復讐から単なる殺人へと。

 腹底で赤い眼をした自分(殺意)が笑っている気がした。

 笑い声を振り払うように頭を振る。


「竹輔も心配だ。ともかく明日、気を取り直して集合するぞ」



次回:2023年12月29日金曜日19時ごろ更新予定。



※本編では2042年貨幣価値を予想した金額に設定されています。2023年12月現在と金額が違う事をご了承ください。


※参照:平成十年大阪府警察職員の特殊勤務手当に関する条例

死体取扱手当:1600円

爆発物:爆発物一件に対し、5200円

サリンなどの劇毒物:日当2600円


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― 新着の感想 ―
[一言]  あけましておめでとうございます(〃∇〃)! 今年もよろしくお願いいたします <(_ _)>  ……警察官、人件費、………… ^^; 3k 4K、  以上いじょうじゃないですか〜 :(。…
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