File:2.5 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ
東検視官が確保したギリギリの時間になってしまい、慌てて装備を脱ぎ、野村の分もまとめて目立たないように力を込めて丸め、ゴミ箱の奥へと突っ込む。
駆け足で検死室から出ると、廊下の先でエレベーターが稼働しているのが見えた。
幸いなことに、ここは霊安室やご遺族にご遺体を確認してもらう部屋もあるフロアだ。野村を手招いて、控室へと誘導する。
野村が入室し、スライドドアが閉まったところで、複数の足音が聞こえてきた。
すぐに鑑識が3人、東検視官、貫禄のある男、そして菊田が続く。
確か、貫禄のある男は捜査一課長の麻田警視だったはずだ。
踵をそろえて敬礼すれば、鑑識は緊張した面持ちで会釈しながら通り過ぎ、その後ろ、東検視官が流し目を向けてくる。その鋭さは分かっているでしょうねと言わんばかりだ。了解、と心の中で返事をしつつ、敬礼を保っていると、麻田警視が「ご苦労」と言って通り過ぎる。ここに居た事は怪しまれていないようだ。最後に、菊田がすれ違いざま、いたずらを見つけた父親のような呆れと理解を示す笑みを浮かべ、軽く肩を叩かれた。それもほんの一瞬で、目の前を通り過ぎる時には、もう菊田は厳格な刑事の顔で前を向いていた。
6人が検死室へ入るまで見送り、スライドドアが閉まったところで安堵の溜息をつく。
後ろ手に手首のスナップを利かせて、ドアに小さく二度ノックをする。すぐにゆっくりとスライドドアが開き、野村が恐る恐る顔を覗かせた。その顔は口角を緩ませて、どこか楽しげだ。
「スパイごっこみたーい!」
「ああ、近いかもな」
そんな軽口を叩きつつ、先ほど到着したばかりのエレベーターに乗り込む。
念のため、野村を背後に隠しながら、地上一階のボタンを押した。すぐにドアが閉まり、わずかな浮遊感とともにエレベーターは上へと浮上する。
「もうあいつらは到着したか」
端末を開くが、なぜか連絡はなかった。不審に思いつつ、端末をジャケットのポケットに仕舞ったところで、甲高い電子音とともにエレベーターのドアが開く。
そこには見知った顔が待っていた。
「びっくりした、どうした竹」
眉尻を下げ、困った表情で申し訳ないとばかりに肩を落としている。
「蕗二さんと連絡が取れなかったので、今そっちに伺おうかと思ってました」
「いや、こっちもギリギリになっちまったからな。心配かけた。で、二人は?」
エレベーターから降り、竹輔の後ろを確認するが誰もいない。首を回して周辺を確認しても、二人らしき人影さえも見当たらない。蕗二の言葉に、竹輔は増々肩を落ち込ませた。
「それが、片岡さんは仕事で、芳乃くんは学校なので、来られるのは夕方の5時以降だそうです」
「え? あ、もしかして野村も?」
「私は今日、一日空いてるよぉ!」
天高く手を上げる野村に、蕗二は思わず胸を撫で下ろす。
そうか、失念していた。≪ブルーマーク≫の三人は警察ではなく、あくまで一般人だ。本来は仕事や学業がある。しかし、今までタイミングが良すぎたのか、あまりぶち当たってこなかった問題だ。
いや、片岡は仕事で抜け出せずに、遠隔で参加したことはあった。
左腕を持ち上げ、手首に巻きつけた腕時計を確認する。現在、10時37分だ。二人が来るまで7時間。ぼんやり待ちぼうけしている訳にも行かない。
「とりあえず、ここから移動するぞ」
もう一度エレベーターに乗り、会議室を目指す。上へと浮遊する空間の中、竹輔が野村に問うた。
「野村さんの意見として、今回はどう思いました?」
「私はねぇ、拷問だと思ったの。逆さ吊りの人がすーごく恨まれてて、目の前で家族を傷つけるのを見せつけたんじゃないかなぁって?」
蕗二は端末を操作し、検死室での野村の発言をまとめたメモを、竹輔へ送る。
おっと、大事なことを忘れていた。すぐに竹輔に送った内容を、東検視官へも送信する。現在、検死中だろう東はすぐにメールを読むはずだ。さぞ凶悪な笑みで喜んでいるだろうと、背筋を震わせる。
「これは、相当な怨恨と言う事ですね」
竹輔の声に思考を戻す。彼は険しい顔で、端末を睨みつけていた。
「ああ、でも怨恨なら話が早い。被害者一家がなんで恨まれたのか、そこさえ突き止めれば良い」
電子音とともにエレベーターのドアが開く。開き切る前に滑り出すようにドアを潜り抜け、速足で二つ目の角を曲がったすぐの部屋、第6応接室の前に立つ。ドアノブを握りつつ、壁に嵌め込まれている黒いパネルに警察手帳をかざす。短い電子音が鳴り、握り込んだドアノブから開錠される微かな振動を感じた。すぐに引き開ける。
部屋は中規模で、部屋の真ん中に折りたためるスタッキングテーブルが4つ向かい合った状態で並び、パイプ椅子が12脚整然と並べられていた。
「そうだ。待ってる間に、蕗二さんから言われていた渋谷区の事件を調べました」
壁のパネルを触り、照明をつけている間に、竹輔が脇に抱えていたタブレット端末を操作する。
机の端に蕗二と野村が隣り合って座ると、竹輔は正面に向かい合うように座り、タブレット端末の画面をよく見えるように差し出した。
「この事件も、あまりに酷いので、正直気分が悪くなりそうですよ」
タブレットには、【渋谷区木蔦一家殺人事件】と表題されていた。
10月30日、渋谷区。9:30。
木蔦洋一という男性が出社せず、また電話やメールなど連絡をしたがどれも応答が無かったため、勤務先の製粉工業から人事部である木村が自宅を訪れた。インターフォンを何度も鳴らすが応答せず、さらに木蔦洋一の息子、西司の勤め先である印刷会社の上司が出社していないと駆けつけてきたことから、ともに異変を感じ、通報。近隣の交番より二名の警察官が急行した。
施錠されていたため玄関ドアを工具で破壊、室内へ突入したところ遺体を発見。
被害者は三人。
木蔦西洋38歳、男性。彼は大型の釘で両手をリビングの壁に打ち付けられ、磔にされた状態で死亡していた。脇腹には刃先の長い包丁で深く刺された跡があったが、直接的に死因は窒息。
また同室で、西司39歳と洋一65歳が床に倒れた状態で死亡。
西洋と実兄の関係である西司は、後頭部に打撲痕あり。また舌骨の骨折、顔面の鬱血痕から、頸部を強く圧迫されたことによる扼死と断定。
同じく床に倒れていた洋一は、口に粘着テープを張られ、手は後ろ手に、足は屈伸させた状態で、粘着テープで拘束されていた。さらに下半身の着衣が剥ぎ取られ、肛門に異物を挿入された状態、かつ頸部にポリプロピレン製の荷造り紐が巻かれていたところから、死因は頸部絞扼による窒息と断定。
西洋および西司には口腔、肛門や性器に対して加害の痕跡は見当たらず。
洋一のみ、執拗な性的加害を加えられ、肛門及び腸粘膜に裂傷あり。また首に巻かれていた紐の両端が輪状に結ばれていたところから、窒息のコントロールがされていた可能性がある。ただし、犯人と思われる体液などは検出されず。
西司の首に残った鬱血痕から、手の大きさを測定。男性のものであると推測。また頭蓋骨骨折、硬膜外血腫があり、背後からハンマーで殴打されたと推測。これにより未拘束にも関わらず、西司の爪や手から繊維質や皮膚片など抵抗の痕跡が検出されなかったことから、後頭部への打撲が原因で意識障害が起き、抵抗できる状態ではなかったと推測される。
リビングや玄関周辺などから靴痕は発見できず。単独犯による犯行はほぼ不可能と断定、複数人での犯行が有力。
そこまで読んで、思わず目と目の間を強く摘まむ。
見間違いかともう一度文面に目を通すが、やはり変わりはない。
「何がしたいんだ、こいつ……」
蓬田一家殺人事件と同様、一家を全員殺害していること、拷問目的であることは確かだろう。
しかし、性的な加害行為は、なぜか父親のみに行われている。
蓬田一家は蓬田菊人以外を全員同じように拷問しているのに、この違いはなんだろうか。
顎を摘まむようにして考え込む蕗二の隣、野村は画像を閉じると、死体検案書のデータを展開した。
どこか意識が別のところにありそうな、やや虚ろな目で野村が画面をスクロールする。
「肛門の最大直径は3.5センチだって言われてるのね? 裂傷してるって事は3.5センチ以上の異物を強引に入れたって事だと思うよぉ。あ、肛門は訓練すれば3.5センチ以上のものも入れられるようになるけどぉ。あ、でも肛門括約筋の筋肉組織を痛める可能性が高くて、うんちゃん漏らしやすくなるから、あんまりおすすめはしないよぉ?」
「おすすめるなッ! 聞いてるだけでケツの穴がぎゅってなるわッ」
堪らずツッコむと、野村がケタケタと笑いながら、キラキラと光の粒が散る綺麗な爪で画面をコツコツ叩いた。
「舌骨の両側が折れてるって書かれてるから、正面から体重をかけて圧迫したんだと思うよぉ」
タブレット端末を支える役目に徹していた竹輔が、ふと片眉を上げた。
「野村さん、舌骨の骨折って、僕たち刑事でも良く聞くワードですけど、その両側ってどういうことですか? 喉仏の骨って、そもそも喉にある気がしますが?」
竹輔が軽く顎を上げて、喉を指差した。野村は一瞬ぽかんと口を開け、納得したのか左手のひらにスタンプを押すようにポンと右拳を打ち付ける。
「あー、それはねぇ、勘違いだよぉ! 火葬の時にだいたい確認する、あの仏様が座ってる姿って言われてる骨、あれは第二頸椎の事だよぉ! 本当の喉仏は軟骨だから焼けて残らないんだぁ! でも、場所がほぼ同じところにあるから、両方とも喉仏って呼ばれてて、いつの間にかごっちゃになってるんだけどねぇ! ちなみにその喉仏は、甲状軟骨って正式名称があるよぉ! ややこしいけど、面白いでしょう!」
「へぇ、喉仏って言われてるから、てっきり喉が動くところに骨があると思ってました!」
「でしょでしょ! でぇ、舌骨って、Uの字になってるんだけど」
野村は手のひらを目の前に突き出すと、人差し指と中指を立ててVサインを作る。
「部位が三つあって、ざっくり言うとカーブの部分を体、その両側から細い骨が伸びてて、体に繋がる方を小角、背中側に繋がる方を大角っていうんだぁ」
指の股を指し、立てた人差し指と中指を指して、丁寧に説明してくれる。
「でね、この骨の場所が、さっき説明した喉仏って呼んでる甲状軟骨の上にあってね、ちょうど咽頭……えーっと、舌の付け根……うーん、ちょっと違うか。物を飲み込んだりする場所の方が正しいかなぁ? 首吊りとかの時は、縄が顎下から食い込むと、大角に引っかかることがあって、罅が入ることはあるみたいだけど、他人から例えばネクタイとかコードとかで絞められたら、首の真ん中を締めがちだから、舌骨は折れないんだよねぇ。でもぉ、正面から人の手で喉を締め上げると、ちょうど親指が舌骨に当たるから、小角も大角も折れるんだよぉ。これを説明するとめっちゃややこしいから、舌骨が折れたって言われるんだぁ。死体検案書には、ちゃんとどこが折れたか書いてあるんだけどねぇ」
野村はもう検案書に目を通し終えたのだろう、意味もなく画面をスクロールしている。
「単独犯の可能性は、報告書の通りゼロでしょうね。磔にするのだって、被害者を壁に押さえつける人と、釘を打つ人が必要になりそうでしょうし」
嫌悪感からか、苛立ちのこもった低い声でぼそりと竹輔が呟いた。それに蕗二は大きく頷く。
「ああ、蓬田一家の件も単独犯ではないはずだ。一人でやるには、被害者を取り逃がすリスクもあるし、運ぶのだって目立つし、手間がかかりすぎる」
例え、うまく一人ずつ確保できたとしても、人ひとりを運ぶのはかなりの重労働になるだろう。死後24時間以内で完遂するには、やはり複数人の協力が必要不可欠になる。
「野村の言うとおり、犯人たちは何か相当な恨みがあるはずだ」
犯人グループが、何人いるかは不明だが、もし全員が何かしら復讐のために結託し、行動を共にしているというのなら、何か共通点があるはずだ。
蕗二と竹輔が頷き合っていると、野村がうーんと不満そうに唸り声を上げた。
「拷問として、磔にしたのは納得なんだけどぉ、なーんか分かんないんだよねぇ」
「どうした?」
野村はいつの間にか、遺体の写真を表示していて、次々とスクロールして確認していた。
「磔にされた人なんだけどぉ、爪先立ちで壁に磔にされてるんだよねぇ。これってすっごい絶妙なんだよねぇ。踵が床についてるなら、自分の体重を支えられるから、手や手首にダメージはないけど、爪先立ちにされると、足が限界になったら手に体重をかけるでしょぉ? そしたら痛いじゃん? でもしんどいでしょぉ? もう辛くて辛くてたまらないもん。拷問としては最適だよねぇ?」
「うっ、想像するだけで痛いですね……」
竹輔が身震いすると、手首から手のひらを撫で擦る。
「でもねぇ、ここが引っかかるせいで、犯人の考えが分からないんだよねぇ」
野村がタブレット端末の画面を指でスクロールしながら、メニューを選ぶのに迷うようなのんびりとした声で呟いた。
「いや、わかったら怖いだろ」
芳乃でもあるまいにと肩を竦めていると、野村が突然声を張り上げた。
「ここで突然ですが! 三輪っちに質問です! 人を磔にする時は、どこに釘を打ちますか?」
「びっくりしたぁ、いきなりすぎるわ。つーか、磔って言われても……手のひらの真ん中じゃねぇの?」
野村の大声に驚き、文字通り心臓が跳ねたのだろうか、痛む胸を擦りながら答えると、野村は満足げに頷いた。
「うんうん、人を磔にする時って、普通考えるイメージは手のひらなんだよねぇ。でもねぇ、手のひらの骨は指の分しかないから、体重をかけると、支え切れなくなって裂けて落ちちゃうんだよねぇ。で、この犯人はたぶん、最初それを知らなかったのか、手のひらの真ん中を打ち付けてるのね? でも、ずれ落ちるのに気が付いたのか、その後に手首も打ち付けてるんだよねぇ。でもここで疑問。もし、手のひらを打った人物が同じなら手首のど真ん中、手根骨を打ち付けると思うの。でも、これ見て」
野村はタブレット端末を机の上に置く。捜査資料の中、現場を映した写真の中から、木蔦西洋の磔にされた遺体写真をタップすると、親指と人差し指をくっつけて離す。すると画像が拡大され、打ち付けられた右手が画面いっぱいに表示された。
釘が手のひらの真ん中に打ち込まれている。だが野村の言う通り、人差し指と中指の間に向かって釘がずれたのか、肉が裂けて赤い肉が見えている。手首に目を向けると、釘は手首の関節からやや下の方を打ち付けているようだった。
「わかるぅ? 手首の関節部分、つまり手根骨を避けて、撓尺骨の間に釘を打ち付けてるんだよねぇ。ここを打ち付けると、釘が骨に引っかかるから、ちゃんと磔にできるんだよぉ。で、左手を見ると、同じようになってるんだよねぇ。だから、失敗したのか、わざとなのか、どっちなんだろうって?」
「失敗って……さっき言ってた、本来なら手首を打たなきゃいけないのを、間違って手のひらを打ったってことか?」
「たぶんねぇ? 足に釘を打たなかった理由が、もし、釘が四本しか持参してなかったとしたら、間違って手のひらを打ったしまった分、手首に打ったせいで足に打つための釘が無くなったんじゃないかなって思ったりしたの。もし手首を打って、あとからわざと手のひらを打つんだったら、地味かなぁって?」
「地味?」
野村の目が細められる。長い睫毛が伏せられ、キラキラと光っていた目が黒く塗り潰された。
「だってさぁ、苦しめたいんだったら、痛みを与えたいじゃん? わたし、なんとなくわかるんだよぇ、犯人の目的がさぁ? わたしだったら爪を全部剥いで、釘は箱の中にある分全部、体に打ち込んで、あいつの立派なあれを切り取って、口の中に突っ込んでやるの。それでもたりない、たりないきがする」
野村の黒い眼が、画面ではないどこかに向けられている。
野村紅葉が≪ブルーマーク≫になった理由、その根本は性犯罪の被害者であることだ。
犯人に一方的な行為によって強制的に穢された体を、彼女は血が滲むほど掻き毟り、血反吐のように憎悪の言葉を吐いて、自分を殺し続けた。
そして彼女から、人に触れる温かさを、家族を、日常を、未来を、すべて奪った犯人を、何度殺したいと願っただろうか。
もしも、犯人が自死せず、生きているとしたら。
もし野村が、磔にされた犯人を目の前にしたら。
「野村」
「まあ、どうでもいいんだけどねぇ」
そう言って、パイプ椅子の背に体重をかけ、大きく伸びをするように仰け反った。
「私はねぇ、なんでアイツは死んで、私を生かしたか考えたの。私がアイツの事をいつまでも考えてる時間が、アイツを喜ばせるって思うの。だから、私が楽しんで生きて忘れたら、復讐になるでしょぉ? そう考えることにしてるのぉ! 最近ね、杜山と一緒に高校の時にできなかったこととか、いっぱい遊んでみたりするんだぁ。すっごく楽しいの! ね? 天才でしょぉ?」
にかっと歯を剥いて笑顔を作る野村に、歓喜する。ああ、彼女は復讐の連鎖を断ち切れたのだ。そして杜山と言う男も、変わらず野村に付き添い、彼女を支えているのだ。喜びから震える体を押さえつけるために、蕗二は膝の上に拳を作る。
「天才だよ、尊敬する」
絞り出すようにそう言えば、野村が突然椅子を大きく引いて、蕗二から距離を取った。
そして胸の前で腕を交差させて見せる。
「三輪っち今めっちゃハグしたいって感じでしょ? まだハグ禁止ね? リハビリ中だから!」
「じゃあ竹輔、代わりにハグされろ」
「えー!? いいですけどぉ? わッ、強い強い! ベアバックされてる! 愛が強い!!」
「三輪っち愛が重いってぇ!」
ギャーギャー言って大笑いしていると、ドアが大きく開いた。
「これは、どういう状況だ?」
菊田が驚いた表情をしてこちらを見ていた。
慌てて離れ、何事もなかったように姿勢を正した二人に、菊田は吹き出しそうになるのを堪え、わざとらしく二度咳払いをして表情を引き締めた。
「楽しそうで何よりだ。まだ、二名来ていないな?」
「はい、残り二名は就業および学業が終わり次第、到着予定です」
竹輔が答えると、菊田はやはり少し驚いたように目を見開く。
が、すぐに表情を戻し、「そうか」と静かに頷いた。
「初回の捜査会議が終了した。被害者の蓬田一家全員、とくに行方不明届などの提出はなく、蓬田菊人は通常通り勤務し、定時の17時には退勤している記録がある。またその日、両親夫妻は午前中で仕事を終えて帰宅している記録があり、また妻の真子は午前中のみ出勤し、午後は有休を出して帰宅していることが記録されていた。帰宅理由だが、産婦人科を受診予定だったようだ」
「産婦人科……まさか」
全員が青ざめる中、菊田が「ああ」と掠れた低い声で肯定する。
「先月妊娠が判明したようで、役所の方には母子手帳の交付申請もしていた。今回の受診理由は、前回診察時に妊娠検査薬で陽性は出ていたが、初期過ぎて胎児の拍動がまだ確認できなかったことから、再診と言う事だったようだ」
菊田が机に歩み寄る。竹輔が素早くパイプ椅子を引き、菊田は礼を言いつつ席に着く。
蕗二と竹輔も倣って席に着くと、菊田は脇に抱えていたタブレットを机の上に置き、その上に両手を組むと、それを睨みつけ、より低い声が放たれる。
「で、ここから問題なのだが。この蓬田菊人、こいつには旧名があった」
「旧名? どういう事ですか?」
菊田の正面で、蕗二は眉間に皺を寄せる。菊田の両手に力が入り、指が手の甲に食い込んだ。
「一家そろって名前を母方に変えている」
菊田の隣に座っていた竹輔が首を捻る。
「母方に? 離婚したとかですかね?」
「いや待て、一家そろっては変だろう」
蕗二の否定に、菊田がゆっくりと頷いた。
「前科がある、古いがな」
組んでいた手をようやく離すと、菊田はタブレットを操作し始める。画面を何度かタップして、ある一点で指を止め、画面を睨みつける。
「23年前、蓬田が枸杞いう苗字だった21歳の時、飲酒運転にて女性をひき逃げしている。当時の調書と裁判記録によると、蓬田は女性を轢き、救護せずにさらにバックで轢いて逃走した。女性はそれでもなんとか生きていて、這いずって自ら歩道へと避難していたところを通りかかった自動車の運転手により救護され、すぐに緊急搬送されたが内臓破裂による出血多量で死亡した。そして、この被害女性は、妊娠していたそうだ。初期のため、お腹の膨らみはほとんどなかったが、産婦人科で妊娠が発覚していた」
部屋が耳に痛いほど沈黙する。
これで犯人の目的は、野村の言う通り恨み、つまり復讐が目的なのは明確になった。強い恨みを持つのは、必然的に被害者遺族だ。心苦しいが、最重要参考人として任意同行することになるだろう。
だがその前に、どうしても気になることがある。
「蓬田が≪レッドマーク≫じゃないのは、なぜですか?」
蕗二の疑問を、液晶端末の激しく震える音が遮った。
菊田がジャケットのポケットから素早く端末を取り出し、画面を確認せずに親指でスライドして耳に押し当てた。
相槌を打つたびに、菊田の顔が険しくなっていく。
菊田が素早くタブレットを脇に抱えて立ち上がると、液晶端末から耳を離した。
「今から臨場だ、世田谷区で一家殺人があった」
ついてきなさいと、菊田が踵を返す。
蕗二と竹輔が素早く立ち上がる中、腰を浮かして、どうするべきかとこちらを見つめる野村に、蕗二は顎でドアを指す。
「検視を待つのがもったいない、野村もついてきてくれるか?」
「もっちろーん!」
跳ねるように立ち上がった野村と、緊張した面持ちの竹輔に背を向け、蕗二は菊田の背を追った。
更新予定日:2023年11月24日金曜日18時ごろ。




