File:2 死が私を捕らえにやってくる
警視庁。AM9:52。
蕗二は緊張していた。
使い捨ての青い不織布アイソレーションガウンを上から被り、首の後ろで首元を締め、腰も紐で縛る。
さらに使い捨ての青い不織布ヘアキャップを被り、その上から使い捨ての不織布のマスクをつけるのだが、耳に掛ける紐が輪になっていない。
先にマスクの下側の紐を、首の後ろで軽く結び、ノーズピースを鼻の曲線に合わせて曲げてから口に当て、鼻側の紐を頭頂部で固定。その後で仮結びした首後ろの紐を締め直す。
使い捨ての白いゴム手袋をはめて、手首の袖口の上に被せて、ようやく準備が整った。
すると、待っていたかのように、左側にある自動ドアがスライドした。
「やっほぉ! 紅葉ちゃん、到着いたしましたぁ!」
跳ねるように入室してきた野村紅葉は、蕗二の姿を見つめたかと思うと、大きな目を輝かせた。
「ねぇねぇ、三輪っちのその恰好! と言う事は! ここってさ! ここってあれだよね!?」
首を回して部屋中を忙しなく見回す野村のツインテールが、嬉しそうな犬のようにふわふわ揺れる。尻尾があれば千切れんばかりに振り回しているだろう。
いつも以上のハイテンションに気圧されながら、棚の上を指差した。
「説明してる時間が無い、とりあえずこれ着けて準備してくれ」
「はぁい!」
装着方法を説明しようかと思ったが、野村は蕗二が装着した倍の速度で手早く身につけていく。
「早いな」
「だってぇ、楽しみなんだもーん!」
耳を飾る大きな造花を器用に外すと、鋭く光る青が現れる。
耳に食い込むように取り付けられた、サージカルステンレス製のフープピアス。
犯罪者予備軍、通称≪ブルーマーク≫。
嫌悪の対象であったそれは、今は心強い味方の印だ。
野村は完璧な装着をしたところで、フェイスシールドを渡す。
二人揃って被り、入り口とは反対側、磨りガラス状のスライドドアの前に立つ。
右手の壁に、手のひら大の黒いパネルが嵌めこまれている。手をかざせば、音もなく素早くガラスドアがスライドして開いた。
ひやりした空気が体を撫でて通り抜けていく。
白で統一された無機質で、広い部屋だ。
壁沿いに滅菌された器具が詰め込まれていて、シンクや散水ホースも置いてある。
また大きな電子ホワイトボードがふたつ設置されていた。すでに今回の被害者の情報が、簡易的に入力され、ホワイトボード上に投影されている。
部屋の真ん中には、鈍く光るステンレス製の可動式の台が4つ置いてあり、1台に1体、計4体の裸体が安置されていた。
「わーお! 本当に一家全員!? 丸ごとなのぉ? すごーい!」
場に似つかわしくない黄色い声を上げる野村に、蕗二は他に誰もいないにも関わらず慌てる。
「こら! はしゃぐな! 東検視官が根回ししてくれて、俺たちが見る時間を確保してくれたんだからな! 特別だからな! 時間が無いから!」
はぁい、と緊張感の欠片もない返事をした野村は、すぐに遺体に駆け寄る。
そう、≪犯罪者予備軍≫である理由は、その死体に対する異常な興味だ。
その性質もあって、大学で生物標本や薬学を専攻し精通しているようで、彼女の観察眼は、ベテランの鑑識に引けを取らない。それを知っている東検視官は野村を非常に気に入っている。
特殊殺人対策捜査班は、≪ブルーマーク≫を異例に捜査に協力させていることから、存在は極秘として表立って捜査はできない。
だから検視を行う前のわずかな時間を確保し、野村へ見せ、見立ても聞きたいのだろう。
ある意味、利用できるものはちゃっかり利用する東も相当強かなのだ。
でなければ、すべての検死結果に目を通し、難解な事件においては捜査方針を左右する重大な責任を持つ検視官には就いていないだろう。
東の意図を知ってか知らずか、野村は機嫌がよさそうに遺体を観察している。
右の台から、豊島区の住宅で発見された40代くらいの女性、70代くらいの女性、70代くらいの男性、最後に板橋区で発見された、逆さ吊りだった男と並んでいる。
蕗二は事前に滅菌パッキングしていた液晶端末を袋の上から操作し、メモアプリを展開すると少し声を張る。
「一応、現在判明しているご遺体の情報なんだが、まず一番左の男性。
今朝、8時半ごろ。板橋区の石神井川にかかる橋にて、通りかかった通行人が逆さ吊りの状態の遺体を発見。男性の名前は逢田菊人、44歳。板橋区内の粗大ごみ回収センターにて勤務。
その隣から、三名は豊島区の住居内、リビングのソファに腰かけた状態で発見された。
逆さ吊りの状態で発見された逢田菊人とは、血縁関係および婚姻関係にある。
父親の盛明70歳、彼はシルバー人材にて豊島区内のオフィスビルの清掃員に従事。母親の明美73歳、彼女も同じくシルバー人材にて別の豊島区内オフィスビルの清掃員として従事。
妻の真子42歳。旧姓は杏山。彼女は豊島区内の商業施設にて飲食店の従業員として勤務していたことが、豊島区内の現場に残されていた各自所有のマネーカードより判明している。
前日の勤怠状況などはこれから確認になるが、発見時の状態から、四名とも死後24時間経過していないと推測され、前日の午後7時から12時の間に殺害されただろうとのことだ」
蕗二が液晶端末から視線を上げると、野村は「ふーん、ふむふむ」と時々呟きながら、手を後ろに組んで、臭いを嗅ぎそうな近さで観察している。どうやら遺体の観察に夢中になっているようだ。
その集中力に驚きつつ、邪魔をしないように野村を待つことにした。
警視庁内の一般人も入れるスペースで他のメンバーの到着を待っているであろう竹輔に、状況を聞こうかと端末のメール画面を開いたところで、野村が突然首を捻り始める。
「ん? んん?」
野村の視線の先には、妻である真子のご遺体がある。
「ねぇ、この人たちの服とかって、あったりする?」
「ああ、あっちに置いてあるはずだ」
蕗二は遺体の向こう、壁際に置いてあるステンレス製の台を指差した。その上に一枚ずつパッキングされた衣類が着用していた人ごとにまとめて置かれている。
野村は小走りに台へと近寄り、蕗二を振り返る。野村が口を開く前に「触って良いぞ」と許可を出せば、台から二つの衣服を持ち上げ、見比べるように顔の前へと持ち上げる。
「三輪っち、この人たちは交通事故?」
やはり集中しすぎて遺体発見時の説明は聞いてなかったようだ。
だが、遺体の状況に関しては、東と意見が完全に一致している。
「流石だな、交通事故らしいが何が起きたのか分からない。遺体はこの方たちが住んでいる家のリビングで、ソファに座らされた状態で発見された」
野村はふーんと言って、服を元の場所に置き、こちらを振り返る。人差し指を顎に当てると、首を傾げ、斜め右を見上げる。黒目が瞼の縁をなぞるように、右に左にと動き、ひとつ瞬きをする。
「とりあえず、自転車かな?」
「自転車?」
野村は両手を前に突き出して、足を肩幅に開いた。
「ちょうど自転車に乗ると、こんな感じでしょお? その3人は、体の左側、左骨盤、左肘、左肩に強い打撲痕があるんだよねぇ。だから、左側から車が当たって、衝撃で撥ね飛ばされてるかなぁ? それから右側に擦過傷。左から当たって、ボンネットに体が当たって、衝撃で右に倒れたかな?」
野村は体を左に傾け、跳ねるように右へと移動した。
「うーん、時速60キロは出てるかもねぇ? 車は背が低い感じ? 体のぶつけ方をみると、特に脹脛、膝に近い側面の骨が折れてそうだから、ここが最初に当たった場所だとして、ブレーキは踏んでないかもぉ」
「ブレーキを踏んでたら、車体が沈むからか」
「そうそう! 流石三輪っち! ブレーキを踏んだら、もうちょっと脛の下側にぶつかるはずだよぉ。それに、当たる直前までかなり減速するから、押し倒すみたいになるはずだしー? この三人の死体は、車体に一回体が当たって撥ね飛ばされた感じっぽいからぁ、たぶんトラックとかボックスみたいな前が平たいのじゃなくて、三輪っちがよく乗ってる感じの車で、ボンネットが出てる奴かなぁ? 背は高くないと思うよぉ」
「なるほど、4WD、SUV、ワゴン、ミニバンなら、太腿や骨盤の高い位置で骨折しててもおかしくないな。犯行に使用されたのはコンパクト、セダン、ハッチバック、ステーションワゴンあたりか?」
蕗二がメモアプリに入力するのを視て、野村はひとつの衣類を掴むと、再び遺体のそばに近づく。
そして妻の真子の腹を指差した。
「で、この人ね、黄疸が出てるじゃーん? 交通事故でお腹に大きい衝撃があると、脾臓とか肝臓を損傷する可能性は十分あるけど、この人は撥ね飛ばされて、倒れて、しかもお腹の上にタイヤが乗ったのがトドメっぽーい? ただ、ちょーっと気になるのは、綺麗すぎるって事かなぁ?」
「綺麗すぎる?」
これ見てと、抱えていたパッキングされた衣類を広げた。
袋の上部には逢田真子と油性マジックで書かれている。
肩紐が細く、淡いオレンジ色をしたワンピースだ。その胸下から腹を真横にタイヤ痕がはっきりと残っていた。
「お腹の上をタイヤが綺麗に、しかも真っ直ぐ通ってるんだよねぇ。まるで狙って轢いたって感じー? 撥ねられて偶然タイヤが体に乗ったとしても、ここまで綺麗にはいかないと思うよぉ?」
「待て。じゃあ、撥ね飛ばして、腹を狙ってもう一回轢き直したって事か?」
「たぶんねぇ? しかもわざわざ仰向けに寝かせて轢いたと思うよぉ?」
蕗二は痛む眉間を摘まもうとして、フェイスシールドに指先をぶつける。
落ち着かない手を握って、脇に抱え込むように腕を組む。
車で轢いた遺体をわざわざ移動する理由も意味が分からないが、なぜさらに腹を轢き直したのか。
ざっと見たところ、そんな事をされているのは、妻の真子だけだ。
その理由は一体なんだ?
唸る蕗二を気にせず、野村は真子の遺体から、逢田夫妻の間に移動する。
「で、おばあさんも左側から撥ねられてるねぇ? でぇ、撥ねられた時にフロントガラスに頭をぶつけてる。左側頭部の皮膚が割れて、よく見たらキラキラしてるからガラスが刺さってるはずだよぉ? だけど、身長とフロントガラスの位置を考えると、ちょっと違和感かもぉ? うーん、もしかして……そう考えると、こっちのおじいちゃんの違和感の説明が付くかなあ?」
野村はマスク越しに顎を掴んで、首を捻る。
分からずに悩んでいるというよりは、どう説明しようか思案しているらしい。
「なんだ、もったいぶらずに言えよ」
「そぉう? じゃあ、これ見てぇ」
野村は逢田盛明を指差した。
蕗二が近寄ると、ここだよと指差したのは男の手だ。
丁度、ご遺体の手は甲を上にして、指をそろえて置かれている。
「個人差はあるけど、人の手にも指節毛って言う毛が生えてるんだぁ。特に親指以外の4本指に生える毛を中指節毛って呼ぶんだけどぉ」
「おおう?」
「めっちゃ簡単に言うと、指毛!」
「指毛……」
「そうそう! このおじいさんはねぇ、中指の中節骨部分に毛が生えてるじゃん? 見える? ここね?」
「あ、本当だ」
言われるまで気が付かないほど細いが、中差し指の第一関節と第二関節の間に、二本だけちょろんと毛が生えている。
「中節骨部分に指毛が生えてる人って、少ないけどいるんだよねぇ。でぇ、この人、他の指の中節骨と基節骨、中手骨……えーっと、手のひらに近い指の根元に指毛はないのね? これって変の。もし指毛を剃る人なら、全部の指毛剃るでしょお? その証拠に、女性の二人は指毛と言わず腕も綺麗に剃ってるのね? なのに、おじいさんは中手骨だけ毛が無いのに、中節骨の毛は残ってるの」
「専門用語が多くて頭がこんがらがってきたが、つまり?」
「たぶんねぇ、手を自転車のハンドルにガムテープでぐるぐる巻きに固定されてたって事だと思うんだぁ。テープ跡は残らないように綺麗に外されてるみたいだけど、流石に毛を残して剥がせなかったのねぇ?」
自分の言った言葉に頷く野村に、蕗二は納得できないと噛みつく。
「自転車に固定されたって、流石に指毛だけでその仮説は無茶じゃねぇか?」
「うーん、そうかなぁ? 人って轢かれる時、衝撃に備えて力むから自転車のハンドルを握ったままの事は多いんだけど、当たった瞬間から倒れるまでは分かるけど、流石に引きずられてたらどこかで手を離すから、ゴロゴロ転がって全身に擦過傷ができるはずなのに、この人は左側ばっかりに集中してるんだぁ。たぶん、自転車に固定されてたせいで車のバンパーに引っかかって、ずりずりーってそのまま引きずられた感じ?」
「うーん」
まだ納得がいかない様子の蕗二に、困ったように肩を竦めた野村は、不意にツカツカと足音を立てて台から離れると、隣を指差した。
「三輪っち、ちょっとここから離れて見てみてよぉ!」
しぶしぶ蕗二は指定された場所に立ち、三人を見る。
三人とも痣や擦過傷があり、酷いご遺体だとしか思わない。
蕗二の表情を覗き込んでいたのか、野村は腰に手を当てて不機嫌を露わにする。
「もう! 三輪っち鈍すぎー! この三人、体の右側が打撲で、左側が擦過傷なの。変じゃなーい? 車に撥ね飛ばされたら、みんな体重も体格も違うからボンネットの上に乗り上げたり、車体の横に流れたりして、全身に打撲とか擦過傷できて、全員違う傷ができるはずだよぉ? これだけ傷が似るって事は撥ねられた時の条件が一緒だったって証明にならなーい?」
そこまで言われてやっと蕗二は納得した。野村に向き直り、腰を折って平謝る。
「すまん、悪かった。確かにそうだ。被害者が自転車に縛りつけられてるなんて、話がぶっ飛んでるように聞こえたんだ」
蕗二が立てていた仮説として、三人が横断歩道を移動中に轢かれ、犯人は偽装工作のため家に怪我人を運び込み、そのまま応急処置をせずに放置して死なせたと言うものだ。
交通事故は、高速で動く鉄の大きな塊に生身がぶつかると言っても過言ではない。トマトを叩けば潰れるように、誰が考えてもその危険性は想像できるだろう。自動車の免許を取得する際に、例え軽症であろうと必ず通報し、救助するよう口酸っぱく教えられる。
だが、犯人には何か後ろめたいことがあり、交通事故を起こしたことを隠さねばならなかったのだろうと推測した。
しかし、野村の立てた仮説はもっと残酷だ。
被害者三人を自転車に縛りつけて轢き殺すなんて、普通は考えられない。
「しかも、三人を自転車に固定して、こう、ボーリングみたいに車で轢き殺すなんて、ふざけ過ぎにもほどがあるだろ」
今にも頭を抱えそうな蕗二に、野村は大きく手を振り被ると、勢いよく体の前で腕を交差させた。
「ぶっぶー! ざんねーん。それは違うかもぉ?」
「え? 違う?」
「私もボーリングは考えたんだけどぉ。三人をどう組み合わせても、この怪我にならない気がするんだよねぇ。どっちかと言うと、ドミノ倒し的な? でもドミノみたいに重なってないから、間隔は狭くないかぁ。うーん、やっぱり一人ずつ順番に撥ねていった感じのほうがしっくりくるかもぉ?」
「は? 1人ずつ?」
「どっちにしても、全員即死はしないよぉ! もうめっちゃ痛いやつだよぉ! うあー、こんな目に遭いたくないなぁ」
野村は想像したのか、大きく体を震わせて自分を抱き締めるようにして腕を擦った。
反対に、蕗二は青ざめて立ち尽くしていた。それを隠すように腹に力を入れて声を出す。
「状況を整理するぞ。犯人は、被害者三人を一人ずつ自転車に乗せて、一人ずつ丁寧に自動車で撥ねた。その内、妻の真子だけを自転車から下ろして、腹を轢いた後、瀕死の三人を家に連れて帰って、わざわざソファに座らせて放置した、ってことか?」
自分で言ってて気分が悪くなりそうだ。指先が震えて、メモアプリに上手く文字を打ち込めず、堪らず舌打ちをしてしまう。
両手で液晶端末を握り込んで、必死の形相で文字を打ち込む蕗二に、野村はそうだねぇと肯定の言葉を吐きながら、ふと一番端のご遺体に目を向けた。
「そういえばぁ、この人だけ殺され方が違うねぇ?」
ようやく一通り文字を打ち終え、安堵の溜息を吐いてから蕗二は頷く。
「ああ、その人はその三人が発見された隣の区、板橋区の橋のところに逆さ吊りにされてたんだ」
野村は台に手をついて、男・逢田菊人の赤黒い顔を覗き込む。
「うーん、だから足は白いのに顔が赤いのかぁ。じゃあ、この人は窒息死だろうねぇ」
「逆さ吊りで窒息死? 脳出血とかじゃないのか?」
「実は人間の首から下の内臓ってぇ、ふたつに区切られてるんだぁ。肺と心臓がある胸部と、胃腸とか他の臓器がある腹部に分かれてるんだよねぇ。その境目に、横隔膜っていう板状の筋肉があってね」
野村は指をそろえて自身の胸の下、ちょうど肋骨の終わりに手を当てる。
「で、実は呼吸する時はねぇ、肺だけを動かしてるんじゃなくて、この横隔膜を動かして呼吸してるんだよねぇ。腹式呼吸をする時が一番わかりやすいかな? だから逆さまにすると腹側の内臓が下がって、横隔膜を押さえちゃうから呼吸ができなくて窒息するんだよぉ」
「へぇ、逆さになると頭が痛くなるから、てっきり血圧が上がって死ぬのかと思った」
高校生の頃、野球部で誰が長く逆立ちできるか勝負したことがある。
逆立ちをして10秒も経たずに血が下がってきているのが見なくても実感できるくらいに、顔が熱くなって痺れてくるのだ。さらに耐えていると鼓膜が圧迫され、音が多くなり、しまいに頭痛がしてきて、耐えきれずに早々にギプアップしたのをよく覚えている。
「血圧が上がるのは本当だけど、健康ならさほど問題ないんだよねぇ。高血圧だと、脳や心臓に負荷がかかるから、ちょっと注意がいるかもだけど。あとは眼球にも良くないかなぁ。たぶん、この人の目は充血してるはずだよぉ」
そう言って、野村はご遺体の上瞼に指をかける。
が、皮膚が伸びただけで瞼は開かなかった。
「わお! 死後硬直してるぅ! すごいすごーい!」
きゃっきゃとはしゃぐ野村に、眩暈がしそうだ。
台に片手をついて体を支えつつ、壁を見上げる。
視線の先には通常よりも二回り大きな時計が設置されている。
短針は10を、長針は15を指していた。
「野村。はしゃいでるところ悪いが、あと15分で切り上げだ。そろそろ退出するぞ。……野村?」
返事がないのを不思議に思い、野村に視線を向けると、食い入るように逢田菊人のご遺体を見つめながら、ブツブツと何か呟いている。
「……だから、正確に静脈を切ってる? うん? 待って? じゃあ、もしかして? ほーほー。じゃあ、お腹を圧迫して? なるほどぉ! うんうん」
野村は勢いよく顔を上げると、砂の中から宝石を見つけたように目をキラキラと輝かせていた。
「三輪っち三輪っち! この人! こめかみの傷はね、頭に血が上るから血抜きしたっぽい!」
その言葉に、蕗二はもたれかかっていた台から勢いよく体を離した。
「血抜きって、どういうことだ?」
「さっき、逆さ立ちすると頭が痛くなるって、三輪っち言ってたでしょお? 逆さまの状態で長時間いる場合、頭の血流が滞ってくると意識が朦朧としたりするんだよね? じゃあどうしたら防げるかと言うと、溜まってる血を少なくすればいいから、こめかみを切って、わざと血を出すの!」
「血を出すって」
言葉を失う蕗二に構わず、野村は勢いよくご遺体の腹部を指差した。
「あとこれ見て! お腹に幅の広い圧迫痕が残ってるの見えるぅ? これは面の広いテープ、ラップとか巻いた跡だと思うんだけど、それでお腹を縛ると内臓の位置が固定されるから、横隔膜が圧迫されにくくなるのぉ。つまり、窒息までに時間がかかるんだよぉ!」
野村が暗に示す言葉の意味に、蕗二は嫌悪感から眉間の皺を深くする。
「つまり、意識を失わせず、しかも窒息させないように細工されてたってことか?」
「だと思うよぉ?」
「拷問かよ」
あり得ないと思いつつ、つい口をついて出た言葉を、野村は簡単に肯定した。
「そうだろうねぇ?」
「え?」
「だからぁ、拷問が目的だと思うよぉ? こっちの三人は、本当なら車で轢き殺せるはずなのに、あえて即死しないようにしてるでしょお? で、こっちの人は気絶したり窒息しないようにしてるんだから、目的は拷問で合ってると思うよぉ?」
「まさか、家族を痛めつけるのを見せてから、殺したってのか?」
ただ逆さ吊りの状態だと、意識が薄れたり窒息死してしまう可能性がある。
だから、犯人は腹部を固定して窒息を防ぎ、血抜きで意識が残るように工夫した。
さらにそのまま、目の前で家族三人を自転車に縛り付け、車で撥ね、さらに妻を轢いた。
それを見せつけた。
逢田菊人がどの段階で窒息死したかは分からないが、目の前で家族が虫の息になるところを見せられ、やめろやめてくれと泣き叫び、苦しんだに違いないだろう。
「なんで、そんな事を?」
「知らないけどぉ、よっぽど恨まれてたんだねぇ? この逆さ吊りの人」
野村が憐れむようにご遺体を見下ろした。
赤黒い顔はどこか強張ったまま、苦痛の表情を浮かべている気がした。
次回、9月28日木曜日、夜9時ごろ更新予定。




