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2042年10月28日金曜日。
AM7:45。
「遅いな」
そう呟いて、三輪蕗二はパソコンから顔を上げた。
左手首に巻きつけている文字盤を確認すれば、やはりそうだ。
同僚であり部下でもある坂下竹輔が出勤してこない。
パソコンでリアルタイムの雨雲レーダーを確認するが、天気が急変した様子はない。もし天気が急変したとしても真面目な竹輔の事だ、遅延や混雑を見越して早めに出社してくるだろう。
ブラインドの上がった小さな窓から外を眺めれば、晴れ渡った青い空と東京の街並みがよく見える。
ジャケットのポケットから液晶端末を引き出し、起動してみる。
スリープモードが解除され、大きく表示されるデジタル時計の下は空白だ。ロックを解除してメールを確認するが、やはりメッセージは来ていない。
念のため、電車やバスの遅延情報を確認しても、これと言った大きな遅れはなさそうだ。
立ち上がると、事務椅子の軋む音がやけに響いて居心地が悪い。
埃っぽく、少し黴臭い段ボールの迷路をすり抜け、ドアを押し開ける。
顔だけ覗かせた廊下に人の気配はない。
始業時間前のこの時間であれば、各部署で行われる朝礼に参加するため、ほとんどの警察官は自席または所属部署内にいるはずだ。
ドアを締め、電子音とともに施錠されたことを確認し廊下を逆走していく。
『節電中』と堅苦しい文字の張り紙を横目に、薄暗い廊下を黙々と歩いていくと、不意に光の差し込む角が現れる。速度を落として曲がれば、思わず目を瞑りたくなるほど明るい窓際に出た。
極秘部署という立場上、ごく一部しか存在を知らない【特殊殺人対策捜査班】は、堂々と看板を立てることができない。その証拠に、蕗二と竹輔が普段過ごしているのは、書庫を無理やり片づけた部屋の中に存在する。書庫も廊下の奥、薄暗い場所に存在するため、こうも明るい場所に出ると、まるで地上に出た土竜の気分になる。
目を慣らすために目を細めながら、朝日が差し込む無機質な廊下を窓に沿って歩く。
なかなか竹輔の姿が見当たらない。まさか、何か事故に巻き込まれたのだろうか。
端末の連絡先登録から竹輔の名前を探して指でスクロールしつつ、ようやく光に慣れてきた視界に、やっと見知った背中が見えた。
安堵と共に手を上げ、声を張り上げようと腹に力を入れた所で、どうやらもう一人いることに気がつく。
冬服である濃紺の制服を着た男だ。歳はそう変わらないようにも見える。
竹輔が首を振ったり胸の前に手を上げて拒否しているが、何やら強引に頼み事でもしようとしているのか、男は何度も合わせた両手を顔の前に立てては頭を下げている。
「おい、うちの部下に何か用か?」
そう声をかけると、男は驚いたようにこちらを見上げる。知らない顔だ。
眩しさに眉間を寄せているせいもあるのか、睨んでいるように見えるのだろう。男は「ひっ」と引き攣った声をあげて後ずった。
「じゃ、じゃあ。気が変わったら連絡してくれ」
そう言い残し、男は踵を返すと脱兎のごとく走り去る。
自分の面が悪いせいで怖がられるのには慣れているが、警察官がそんなにビビってくれるなよ。思わず眉間を摘まんで、溜息を吐き出した。
「助かりました」
同じく溜息交じりの声に視線を向けると、竹輔が胸を撫で下ろしていた。
「何に巻き込まれた?」
制服を着ているなら、刑事課ではないだろう。どこの課の奴だと、首を捻っていると、竹輔が「実は」と眉を下げて口を開く。
「交通課の同期なのですが、合コンに誘われてしまって」
警察や消防官を含む公務員は人気が高く、婚活パーティでは常に女性からの申し込み倍率が高いらしい。刑事ドラマの影響もあるのか、特に捜査一課は人気があるとか。そういう類に興味がなくても、耳にするほどだ。実際、捜査で缶詰めになり、出会いのなさそうな一課の既婚率は高い。
これには事情がある。警察官は、ある程度の年齢になっても未婚の場合、所帯を持たない警察官は望ましくないと上司から要らぬお節介をかけられるようになるのだ。さらに、未婚は昇進に響くだとか、ハニートラップに掛かりやすいから情報の取り扱いは注意すべきだとか、結婚できないのは何か問題があるのかと公安から探りが入るだとか噂があり、早々に結婚してしまった方が無難だと言う考えが浸透している。
なので、独身の竹輔に声がかかるのは、別に不思議なことではない。
そこで、ふと引っかかることがあった。
「ん? 婚パじゃなくて、合コン……? あれ? そもそも合コンってなんだっけ?」
「うーん、婚活パーティほど真面目なやつじゃなくて、もっとラフで友達から~みたいな、遊びな感じですかねぇ……交通課だけじゃ、どうもアレだとかなんとかで、ともかく誰でもいいから一課を呼びたかったらしくて」
「あー、一課がいるって言ったら釣れるからか? 下心丸出しじゃねぇか」
「わかりますよー。だって捜査一課って響きがいいですよね、ソウサイッカ、うんカッコいい。僕、警察じゃなかったら一課と結婚したいですもん、わかる、うんうん」
「出た、刑事ドラマ好き」
「いやぁ、それほどでもぉ」
カラカラと笑う竹輔の肩を軽く拳で突いて、腕時計の硝子面をわざと人差し指で叩いた。
「ほらもう時間ヤバイぞ。それとも修正報告書を出すか?」
「それは勘弁ですね!」
竹輔は自分の左手首に巻かれたスマートウォッチを確認すると、軽い駆け足で走り出す。
その背を追いながら、そういえば自分も来月で28歳になる事を思い出した。
そうなれば、そろそろ未婚だと睨まれる時期になるのだろうか。
大阪で上司にそれとなく促されたことがあった気もするが、記憶が定かではない。
復讐のためだけに生きてきた。そうしなければ生きていけなかったのだ、仕方ないとも言える。
だがもう復讐の呪縛が解けた今、もし菊田さんから指摘があったら、流石に無視する訳にはいかないだろう。
と、ジャケットのポケットに入れていた液晶端末が激しく震え出す。
すぐさま引っ張り出すと、黒い画面には今まさに顔を想像していた上司の名前が表示されていた。
反射的に画面をスライドし、耳に押し当てて声を張り上げる。
「まさか婚活ですか?」
一瞬の間。菊田の、努めて冷静な声が鼓膜を揺らす。
『おはよう、蕗二くん。確かにクリスマスが近いからか、浮足立ってる奴か血眼になってる奴がいる気はするが、誰か紹介した方が良いのか?』
そこまで聞いて、思考を垂れ流してしまったことに気が付いた蕗二は、耳が溶け落ちそうなほど熱くなる。
居たたまれなくなり、踵をそろえて勢いよく直角に頭を下げた。
「申し訳ございません! 業務時間中に不適切な発言、大変失礼いたしました!」
『いや、そこまで固くならなくてもいいが。人恋しいなら、また改めて相談に乗ろう』
まるで見えているとばかりに笑いを含んだ声は、咳払いひとつで掻き消えた。
『臨場だ、三輪警部補。今から送る場所に急行しなさい。私も後で行く』
腹に響く低い声に、顔から熱が引いていき、自然と背筋が伸びる。
「分かりました。では現地で」
通話が切れると、すぐに端末が震える。
送られてきた住所から最短ルートを導き出しつつ、竹輔の背を追いかけるために、爪先に力を入れた。
次回更新予定:3月17日金曜日深夜0時頃予定。




