File:8赤の王は、美しい夢から醒める
PM18:51
首都高速道路とビルの間から見える狭い空を濃い紺色の闇が覆いつくそうとしている。
目の端を走り去っていく街灯が等間隔で車内を照らす。
静かな車内に、蕗二のため息だけが降り積もる。
「溜息が多いですね」
突然破られた静寂に、びくりと体を跳ねさせた。助手席に視線だけを向ける。助手席に収まる芳乃は自分の体を抱くようにして、ドアにもたれて目を閉じている。
「悪い、起こしたか?」
「構って欲しくて、わざとだと大きな溜め息をついてると思ってました」
「そんなつもりなかったけど、悪かった」
運転していれば気分転換になるのだが、なんせ自動運転だ。捜査以外でシステムを切って手動運転を使用した次の日には、総務課から報告書の提出を求められる。ただ座ってパソコンと睨めっこするのは性に合わない。日報や事件の報告書をまとめるたけでもうんざりなのに、余計な仕事は増やしたくない。
目の前を走っている車のテールランプを見たり、通り過ぎていく標識や看板を見て気を紛らわせようとするが、また溜息をつきそうになって、無理やり飲み込む。
その様子を視たのか、芳乃は「はあ」と声に出して吐き出した。
「黙っていたところで、あなたの考えはうるさいほど全部視えます。視るより聞く方が楽なので、口に出してもらった方が目を開けずに済むんですが?」
気を遣わせた罪悪感と、聞いてすっきりしたいという欲がせめぎ合う。黙ったままの蕗二に見かねたのか、目を瞑ったまま芳乃が助手席に座り直し、聞く体制を整えた。そこまでされてやっと飲み込んだ溜息を吐き出し、欲求に従う。
「ご遺族にどう説明しようかなって」
「2件目の被害者ですか?」
「ああ、一番理不尽な理由で殺されたからな」
周防耕作にたまたま目をつけられてしまった、この事件唯一の完全被害者だ。だが被疑者死亡で書類送検となる。つまり遺族には、被疑者は自殺したので事件についてまとめた捜査書類を検察に提出し、被疑者死亡により刑事裁判は行わず不起訴処分として事件は解決とします、というのを丁寧に説明することになる。
「では、家族には優しい嘘でもつくんですか?」
「まさか。そのままの事実を伝えるだけだ。嘘ついたって、結局遺族は救われねぇよ」
父を殺した犯人が首を吊って死んだあの日、玄関で靴も脱がず、土間で膝をついて土下座をした刑事の後頭部を思い出す。
災害や不慮の事故、病気による突然死によって大切な人を失った時、そういう運命だったと言われたって納得するまでに時間がかかるだろう。
だが、殺人は明確な加害者が存在する。因果応報ではなく、ただ偶然標的にされたような理不尽すぎる死があり、悪人が決まっている。しかし、その犯人が死ぬと言うのは、怒りのやり場を突然失うことになる。
世間は怒りに任せて犯人を叩くが、それは娯楽に等しい。世間の怒りは一瞬の事で、すぐに次の話題に移って、事件があったことも忘れていく。
忘れてくれるなと遺族が声を上げれば、いつまでも悲しんでいる、無駄だ、そんなに注目されたいか、と逆に攻撃対象となる事だってある。
他人はそんなものだ。
そして遺族はぽつりと残される。
腕に抱えた遺骨の重さ以上に、悲しみは簡単に手放せない。
そして、人間は強くない。ひとりで抱え込むなんて不可能だ。
日常でさえ、病気や事故で大切な人を失い、残された人がうつ病を発症したり、自殺することも珍しくはない。
2005年に発生した100人以上が犠牲になった鉄道脱線事故をきっかけに、日本でも大切な人を失った悲しみに寄り添う悲嘆支援が導入されるようになったそうだが、あまりにも知名度が少なく、知らない人がほとんどだろう。
話題になりそうな事件の凄惨なところばかりを取り上げて、悲しいことから目を逸らしてしまうから、必要な人に必要な情報が渡らないのだろう。
俺がまさにそうだった。
その時は互助会の存在すら知らなかったし、ほかの遺族も知らなかったはずだ。
そして、父が巻き込まれた事件は、ただの過去になってしまった。
正しい支援の下、同じ思いを抱いた同志がいれば、お互いに傷を癒すことだってできる。
「俺にできることは、事件の全容を話して、被害者の会を進めて、少しでも深く負った傷を癒してもらうしかない。時間はかかるだろうけど、何も知らないまま放っておかれるよりはマシだろう。残された方はたまったもんじゃないのはよく知ってるからな」
「あなたが刑事を目指した理由、その表向きでしたっけ?」
芳乃の言葉は氷の眼が開いてなくても鋭い。チクリと刺さった氷の棘の痛みに胸を擦りつつ、恥ずかしいから心を視てくれるなと呟くと、鼻笑いが聞こえた。
「ああ、そうだよ。表向きの綺麗ごとだよ。罪を憎んで人を憎まず。なんて、言葉じゃあ簡単だけどさ、実際、大切な人が意味もなく理不尽に殺されたら、犯人恨む以外の方法はないってことは痛いくらい分かってる。≪ブルーマーク≫を逆恨みでもしなきゃ、生きていけなかった」
暗い部屋で殺意を抱き、絶望し、死を選ぼうとした感情の首根っこを掴んで、心の奥底に沈めた。
置いていくなと叫ぶ心に蓋をして、≪ブルーマーク≫への恨みと憎しみで鍵をかけ、刑事となって10年も目を逸らしてきた。
「でも、あなたは選ばなかった」
芳乃の声に弾かれたように顔を向ける。目を瞑ったままなのに、芳乃はこちらを視ている気がした。
「いくらでもチャンスはあったのに、あなたはちゃんと手放せたじゃないですか」
蕗二は首をゆっくりと横に振る。
「いや、俺だけで踏み止まったわけじゃねぇよ。菊田さんや竹がいて、それにお前だって止めてくれた。でも、自分の感情を正面から見るのは今も苦しい。さっきだって、周防耕作と周防遊冶が入れ替わってることに気がついた時、うっかり暴きたくねぇな……なんて日和見もした。しかも蓋を開けたら俺が想像してた何十倍も救えない事実ばっかりだった。今も胸クソが悪い」
ハッと鼻笑いが聞こえる。
「まあ、あなたも人間ですからね」
「ある意味、お前と話してると気が楽だよ。刑事って肩書があると、どうしても純粋で高潔なイメージが固まっちまうからな」
そう、周防遊冶は他人からの勝手なイメージを押しつけられた。
実の父から愛した母親の役目を強要され、したくもない女装をして過ごしていた。
我慢さえすれば上手く行く、だから嫌と言う事はできなかった。
同じ顔をした双子の片割れが父親の性癖に付き合わされ、歪な家族ごっこを演じているのを見た耕作は何を思ったのだろう。
その恐怖から逃れるために粗暴が荒れたのかもしれない。もしかしたら、瓜二つの彼もまた、父親に何か強要されていた可能性もある。
だが、耕作や父親のヤマネが死んだことで、すべては闇の中に葬られてしまった。
家族の絆は、昔から強調される。
子供がいたから頑張れた。家族がいたから頑張れた。
守るものができた人は強くなる。
確かに事実だ。
でも、血が繋がっている家族だからこそ苦しんだ人もいる。
実の父や母からの性的暴行、精神や肉体への暴行は分かりやすい。
だが、結局それも他人基準だ。躾と教育的指導はまだ判断が難しく、グレーゾーンでもある。また夫婦喧嘩や親子喧嘩、兄弟喧嘩など家族間同士のいざこざはよくあることでもある。だから、いざ殺人事件が起こった時だけ、だいたい周囲はこう言う。
「仲がよさそうだった」
「真面目で良い子だった」
「まさか殺すなんて」
「大丈夫だって言った」と。
家庭とは、もはやパンドラの箱とも言えるかもしれない。
介護問題は、特にそうだ。
子育ては日々成長するのに対し、介護は日々衰え、死に向かっていく。
やってもやっても成果はない。
目の前にいるのは確かに自分を育てて来てくれた親のはずなのに、言葉が通じない子供へ帰って、どんどん惨めになっていく親の姿から目を逸らす。
血を分けた兄弟ですら現実を見たくなくて介護を押しつけ合い、誰も手伝いはしない。金が絡んだ争いとはまた違った、他人事にしたいと言う醜さが露見する。
そうなれば他人が介入しづらく、完全に閉ざされてしまう。
負担がたった一人に全てのしかかり、やがて崩壊する。
自分は恵まれていた。
警察官は殉職すると二階級特進し、遺族に退職金を渡せるようになっている。
お金で解決できることは、残念だがいくつか存在する。突然目の前から消えてしまった家族の悲しみに寄り添い、立ち直るのに十分な資金となる。
だが、十分な資金があったとしても、簡単に割り切れるものではない。
お袋が遺骨を抱いて泣き暮らす姿を見て、自分が支えなければと思った。
だが、自分に何ができるのか、まったく分からず自分の部屋に引きこもってしまった。
もし、もしもだ。
俺の父親が死んだあの日。
もしあの時、自分に下の兄弟がいた場合は、どうなったのだろう。
もし幼い兄弟がいたら?
もし素行が荒く、金を無心にする兄弟がいたら?
もし体が不自由で、介護が必要な家族がいたら?
切り捨てる、なんてそんな簡単で甘い話ではない。
それは所詮他人だから言える事だ。
そして、周防遊冶は、その醜さのすべてをたったひとりで背負った。
彼は優しすぎた。真面目で、義理堅すぎた。
だから周りは全員で寄ってたかって甘えた。
無理やり連れ戻して、強制的に役目を押しつけた。
どんどんと重くなる荷物を下ろす考えさえも思いつかないくらい、考える気力がなくなった。
体が悲鳴を上げても、未来を諦めて体を削っても、全部ひとりで背負い続けた。
その折れそうな心を救ったのは、小さなガラスの中の標本だった。
だが、たったひとつの癒しさえ、赦されなかった。
芳乃の言うとおり、耕作は遊冶が作り出す美しい標本に嫉妬したのかもしれない。
目立ちたがりでもあった耕作は、どこか劣等感を持っていたのかもしれない。
美しく繊細な標本は、まさに耕作の自尊心を刺激するものだったのだろう。
同じ顔をした兄弟を自分と重ね、自分にもできるはずだと、見様見真似で透明標本を作った。
まさか人ひとりの命を犠牲にして真似をされるとは思わなかっただろう。
遊冶は二度と真似しないくれと懇願し、口止めの代わりに耕作へ稼いだ給料の多くを渡していたのかもしれない。でなければ耕作が無職のまま生きてはいけない。
そして、10か月前。
去年の12月に父親が不慮の事故で要介護になった。
過去のトラウマがすぐ後ろに迫っていることに焦り、苦肉の策として入れ替わりを計画した遊冶は、弟と父をひとりで背負い始めた。だがそれによって、おそらく心の均等を崩したのだろう、≪ブルーマーク≫の判定に引っかかってしまった。
俺さえ我慢すれば、すべて上手く行く。
そう信じて進んできた道の先にあったのは、首を吊り、ぶら下がった弟の遺体だった。
それを見上げて、遊冶は何を思ったのだろう。
もし、父親が遊冶に女装を強要しなければ。
もし、耕作が勇気を出して遊冶を助け出していれば。
もし、周りが然るべき対処で助け出していれば。
瓜二つの顔に語りかけたように、周防兄弟がすれ違わずに笑い合えた可能性が捨てきれない。
甘い幻想であるのはわかっていても、願わずにいられない傲慢な自分がいる。
自嘲も含めて溜息を吐き出す。
「家族って、なんだろうな」
思わず落とした言葉に、芳乃が不思議そうに答える。
「一般論は、血が繋がった者同士の事を差しますが?」
「そうじゃねぇよ。それを言うとさ、夫婦は血の繋がりはないだろ。別に養子だろうとなんだろうと、全員血が繋がってなくても家族は家族だ」
「そうですね。じゃあ、あなたの思う家族とは何ですか?」
いざ問われると、何と答えればいいのか分からない。
当たり前すぎて、言葉にすらならない。
「なんだろう、余計なおせっかいともいうけど。あげた恩が返ってこなくてもいいって言うか、ふたつ焼いた目玉焼きの、綺麗な方をあげたくなるって言うか…………む、無償の愛的な……?」
「あい?」
復唱され、恥ずかしくなった。顔が急激に熱くなるのを感じて堪らず顔面を隠した。
「待て待て、今のなし! 自分で言っててよく分かんなくなってきた…………正直、考えたこともねぇよ、そんな哲学的なやつ」
「あなたの口から哲学なんて言葉が出てきた方が驚きです」
「失礼なやっちゃなぁ、それくらい知っとるわ」
歯を剥いて睨めば、芳乃は視えてると言わんばかりに鼻で笑う。
「ニーチェの言葉にもありましたね。『愛されたいと言う欲求は、自惚れの最たるものである』」
目を瞑ったまま、芳乃はまるで寝言を呟くように薄く唇を開く。
「愛は、欲しいと願うほど、手に入らないんでしょうね」
聞き逃してしまいそうなほど小さな呟きだった。
まるでショーケースの中に飾られた美しいものを、手に入らないと言い聞かせるような声だった。
「なぁ芳乃、なんで≪ブルーマーク≫が付いてる?」
「知ってるんじゃないんですか?」
話は終わったと、芳乃は目を瞑ったまま尻の位置をずらしドアにもたれかかる。
「改ざんされて、データが消されてた」
データは改竄され、空白だけが残されていた。
その理由はなんだ。
何を知られるとまずい?
芳乃は一瞬横目で掠めるように蕗二を見たが、すぐに目を瞑った。
「忘れましたよ、そんなこと。判定がついたのは小学生の時ですよ、わざわざ見返してぼくに何の得があるんですか? ≪ブルーマーク≫が付いた事実だけでもう十分ですよ」
ブレーキを踏み込んで急停車する。急ブレーキによる危険行為への警告音が車内に鳴り響く中、駐車処置を行い、シートベルトを外した。助手席では急ブレーキの衝撃で体にシートベルトが食い込んだのか苦痛に顔を歪め、文句を言おうと目と口を開く芳乃を遮るように身を乗り出す。
「なあ、芳乃。その眼のこと、親御さんも知ってるのか?」
芳乃は開けていた口を噤んだ。
感情をそぎ落とし、氷像のように瞬きもしない芳乃にさらに詰め寄る。
「芳乃。お前、目を使ったらしんどくなるんだろ? それでも捜査に協力する理由はなんだ?」
暗闇の中、黒く紛れる眼に氷の気配がした。
こちらの真意を覗いているのだろう。視たければいくらでも視ればいい。
お互い瞬きもせず沈黙が続いていたが、芳乃はふと瞼を下ろすと、小さく溜息をついた。
「何を寝ぼけたことを言ってるんですか、あなたたち警察に脅されてるからですよ」
「本当にそれだけか?」
確かに発端は、極秘部署のメンバーとして捜査に強制参加させたことだ。
初めこそ心底嫌がってるなと思ってた。でも、気がついたらいつも協力してくれた。
毎度嫌でも呼び出されるのだから、諦めてしまったのだと思った。
だが違う。気がつくべきだった。
彼は口にしていたはずなのに、俺が目を逸らしていただけだ。
たとえば、そう。
「目の使い方を練習してるとか?」
芳乃は目を伏せたまま、口の端を持ち上げた。
「面白い推理ですね? 確かに、事件に関わるようになってから、これの精度は上がっています」
蕗二の背中にムカデが這い上がるような悪寒を感じた。
やはりそうだ。芳乃は人の心を視ることを嫌悪している。
特殊殺人対策捜査班に連れて来られるまで、目を積極的に使うことがなかった。
だから負荷の程度が完全に把握できていない。
どこまで視ることができるのかも知らない。
そして、捜査中に試したいことがあると言ったこともあった。
着実に、羽化するように、眼の使い方を覚えている。
「ぼくが怖いですか?」
黒い眼がこちらを覗いている。
心の奥底まで無遠慮な視線を向けてくる。
何処までも落ちていきそうな虚穴は、自分さえも自覚できていない心の奥まで続いている。
だから怖いのだ。それを引きずり出されることに、人は慣れていない。
前なら怯んだ。恐ろしくて振り払ったことさえある。
だが、今なら真っ向から受け止めることができる。
「お前が何考えてるのか、これっぽっちも分からねぇ。だから、教えてくれ。俺だって、お前のことをちゃんと知りたい。もし俺たち警察を利用できるなら利用してくれたって構わない。でも、利用とか、物みたいな一方的なやつじゃなくて、俺にも協力させてくれ。なんだっていい、すげぇしょーもないことでもいい、愚痴でもなんでもいい。俺を頼れよ」
俺だけじゃない。竹輔や野村、片岡も菊田も、きっとそうだと言ってくれるだろう。
そう、周防遊冶のように小さな肩に重荷を乗せるだけの存在でいたくない。
1人抱え込もうとする芳乃から、目を逸らしてはいけない。
言わなくても伝わるなんて甘えは捨てろ。
自分の言葉で伝えなければ意味はない。
嘘偽りもない、すべてを伝えたい。
黒い眼が瞬いた。氷像のように固まっていた表情が崩れる。
芳乃は信じられないものを見たと言わんばかりに、零れ落ちそうなほど目を見開き、薄っすらと開いた口元と相まって、あどけない無防備な顔でこちらを見つめている。
言葉を探すように、口を開けては噤み、息を吸っては止めている。
やっとの思いで吐き出された言葉は、か細く震えていた。
「人の、心が視えるのを、コントロールしたい」
ズボンを握りしめて、まるで親にでも怒られているように視線を落とす。
「ずっと、ずっと困ってる。使いこなしたい。使い方を知りたい。だから……練習しているだけです」
そう言って俯いた。
その肩を撫で、指でトントンと叩いて慰める。
「そうか、辛かったよな。これから、どうやったらお前の負担が軽くなるか、一緒に考えたい。こうしたらキツイとか、こうしたら楽だとか、なんでもいいから教えてくれ」
本当は芳乃を参加させないのが一番だ。だが、情けない事に芳乃がいなければ今回の事件は解決できなかった。他にも芳乃がいなければ迷宮入りした事件はいくつもある。極秘部署がある限りは、呼び出すことになるだろう。だからこそ、芳乃の負担が最小限になるように配慮をしたい。
「優しいですね」
ぽつりと呟いた芳乃は、どこか困ったような、泣きそうな笑みを浮かべていた。
「あなたは否定するでしょうけど、元々刑事に向いていますよ」
「え、あ、おう?」
穏やかな口調で告げられ、どう反応したらいいのか戸惑ってしまう。すごすごと運転席に座り直すと、芳乃はいつものように気だるげに目尻を垂らして、はあと大きく息を吐き出す。
「馬鹿みたいに照れないでくれませんか。あなたのような脳みそ筋肉バカにも取り得があるんだなって感心しただけですよ」
「ば、バカバカうるせぇな!! お前はいつも一言余計なんだよ!」
「うるさいですね、狭い車の中で大きい声出さないでくれますか? ほらいいかげん運転してくださいよ」
前を指差され、「チッ」と口に出す。
乱暴にブレーキを踏んで止めたが、駐車処置は完璧だったのだろう。三車線ある道路だったこともあり、通行の邪魔にはさほどなっていなかったようだ。シフトレバーをパーキングからドライブに入れ直す。
ナビの真ん中に表示されていた案内再開のボタンに触れ、ブレーキから足を離す。
自走運転であるにも関わらず、後続する車との間隔をしっかりと測り、滑らかに車線へ戻った車は玉川通りを進み、渋谷駅を通り過ぎる。途中で右に曲がり、旧山手通りに入り、都道317号線の下道を走り続けている。
芳乃と偶然会った5月はたしか新宿から代々木に向かうあたりだったはずだ。富ヶ谷の首都高の入り口を横目に、頭の中で地図を展開する。少なく見積もっても3kmは離れているだろう。もう少し新宿方面によっているのかと思っていると、自動車は左にウィンカーを出し、マンションに挟まれた車が一台すれ違える程度の細い道へと入っていく。
ポーンと柔らかな電子音が鳴り、『目的地周辺です』というナビが告げる。
自動車が減速するのと同時に、ハンドルを握る。ここからは手動だ。
そういえば、芳乃の家はちゃんと知らないな。隣の芳乃に道案内を頼もうと口を開いたが、「そこで止まってください」と目の前の公園を指で差された。後続車がいないことを確認し、ブレーキを踏んで、今度はゆっくりと止まる。ちょうど公園の入り口で停車し、ハザードランプを点滅させた。
「なんでだよ。家の前まで行くぞ?」
「誰にも、あなたたちの事は言っていません。それに車で送ってもらうような知人がいないもので。あれは誰? って聞かれた時、説明しにくいのでやめてください」
「とは言っても、加藤先生には頼むって言われてんだけどな」
シートベルトを外していた芳乃の手が止まる。
「露にいが来てたんですか?」
「あ、言ってなかったか?」
しまったと言わんばかりに顔を顰め、「露にい心配しすぎるから」とぼやいて、諦めたように深く息を吐く。足元に置いていた鞄を肩に引っ掛け、ドアを押し開けた。
「あとでお礼の連絡入れておきます」
「ちょっと待て」
手首を掴んで強引に引き止める。驚いて跳ねた手に詫びるように力を緩めた。ミラーハウスで触れた時よりは温かいが、まだひんやりとしていた。
「さっきの話、本気だからな?」
誓いを込めて、芳乃の手を握る。
芳乃はまた幼い子供の表情をする。それも束の間、人を小馬鹿にしたように口の端を上げる。
「わかってますよ、視えてますから」
芳乃は一瞬指先を握り返し、すぐにすり抜けていった。
「では、おやすみなさい」
「おお、早く寝ろよ」
「刑事さんこそ」
ばたんとドアが閉まる。ナビを操作し、警視庁までの案内を開始すれば、すぐ目の前の交差点を左に曲がるように指示が出た。
ハザードランプを解除して、後方を目視確認してからブレーキから足を離す。
自動車はゆっくりと公園を回り込むように角を曲がる。ちらりと公園に目を向ける。
公園の入り口に立ったまま、芳乃がこちらを見ている気がした。




