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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 8 合わせ鏡のマグノリア
81/97

File:7 黄金の王冠の重みに首を垂れる

 


 足立区、19:33。


 特徴的な音楽に背中を押されながらコンビニを出る。

 陽が落ち、作業服の上に一枚厚手のジャンパーを羽織っていても風が吹けば肌寒い。

 手首にぶら下げたビニール袋には、値引きされた幕の内弁当と、健康に気をつかって買ったサラダが入っている。反対側の手には薄い紙で包まれた肉まんが、手のひらの中でひとり堂々と陣取じんどっていた。

 待ちきれず、ゴミ箱の横で包み紙をかぶき、大きく口を開けてかぶりつく。

 柔らかな皮に歯を立てれば、肉汁が染み出す。熱いあんを口の中で冷ましながら頬張れば、ほかほかと白い湯気が立ち上る。

 辛子からしをつければ、ピリリとした辛味からみでさらに食欲が進み、あっという間に食べ終わってしまった。

 空腹の胃がまだ足りないと訴え、口寂しさを感じてしまう。コーヒーでも買えばよかったかなと、味の残りを探しながら、底についていた薄い台紙と包み紙をまとめてクシャクシャに丸めていると、不意に携帯電話が激しく震えた。

 こんな時間に電話をかけてくるような人はいただろうか。

 周防すおう遊冶ゆうじは首をかしげつつ、液晶端末の画面をポケットから取り出した。

 画面には工場長と表示されている。慌てて画面を横にスライドして耳に当てた。


「もしもし」

『よかった、繋がった。工場長の森だ』

「あっはい、お疲れ様です。何かあったんですか?」

『いや、さっき会社に警察から電話が入って……』


 森はそこで言葉を切った。昼間にも警察が来ていたが、まだ何かあるのだろうか。

 電話の向こうでようやく覚悟が決まったのか、森の息を吸う音がした。


『耕作……弟さんがなくなったって連絡だった。それで、どうしても警視庁に来てほしいそうだ』

「え?」


 周防遊冶は耳の奥で潮が引いていく音を聞いた。途端に温まっていた指先がしびれて震え出した。

 じっとしているはずなのに、眩暈めまいがしてその場にかがみこむ。


『大丈夫か? 今いるのは家か? なんなら付きおうか?』


 まるで見えてると言わんばかりだ。工場長の物言いは乱暴だけどよく気がつくんだよな、と思わず笑ってしまう。


「すみません、ちょっとびっくりして……警視庁に行けばいいんですよね?」


 落としてしまったビニール袋を拾い上げる。弁当はかたむいているが、構ってはいられない。


『ああ、警視庁に着いたら三輪みわって言う刑事を呼べって言ってた。遊冶、忌引きびきなら遠慮えんりょなく休めよ』

「お気遣きづかい、ありがとうございます。また連絡します」

『おう、連絡待ってるからな』


 通話が切れる。そのままホーム画面に戻り、地図のアイコンをタップする。警視庁を検索し、画面下に並ぶ4つのマークの中から自動車を選べば、現在地からの経路が表示された。

 駐車場の隅に止めていたスクーターに歩み寄り、フロントのフックにビニールをひっかける。シート下に仕舞っていた黒いフルフェイス型ヘルメットを被り、ベルトを顎下に固定してセンタースタンドを外し、またがった。背負っていたバックがずり落ちないようにチェストストラップのバックルを胸の前で止め、メーターパネルの前に携帯をセットし、エンジンをかけ発進した。

 帰宅ラッシュが過ぎても、人口の多い東京の電車はどこも混み合っている。足立区から出れば、≪ブルーマーク≫であるだけで白い目を向けられる。わざわざ差別的な視線にさらされたくはないと、スクーターを足として選んだのは正解だった。警視庁まで電車で何回も乗り継ぐよりも、断然早い。

 東京駅を過ぎ、皇居の外堀をたどって桜田門へ走らせていると、見えてきた角に白い建物がたたずんでいる。

 が落ち、ほとんど黒い影になっているが、圧迫感のある建物であるのは間違いない。

 信号で曲がり、建物の左側に沿って進めば、守衛室と忍び返しがついた鉄製の門が見えてくる。

 その両脇に長い棒を持った紺色の制服姿の警察官が立っている。

 ウィンカーを出し、スクーターで近づけば、すぐさま右側に立っていた警察官が駆け寄ってきた。


「どうされましたか?」


 帽子の下から愛想あいそうの良い笑顔がのぞく。しかし、引き上がっている口元に対して不審ふしんな挙動を見逃さないと視線は鋭い。ヘルメットのサンバイザーを押し上げ「周防遊冶です」と名乗ったところで、警察官はすぐさま左の門横に立っていた警察官に手を上げた。うなずいた警察官が肩につけた無線に何か話しかけている。すると門がひとりでに横へとスライドした。


「三輪警部補から話は聞いております。左側の塀に沿って進み、屋根がある駐輪スペースが見えてくるので、そちらに駐車してください」


 にっこりと笑う警察官に不気味さを感じながら、軽く頭を下げて低速ていそくでスクーターを進める。

 言うとおりに車がすれ違える程度の通路を進んでいくと、トタン屋根がついたスペースが見えてきた。

 自転車置き場という看板と、必ず施錠せじょうくださいとの注意書きが書いてある。

 一番手前の端にスクーターを停め、ヘルメットを脱いでシート下へ収納する代わりに、取り出した帽子を被ったところで、眼の端でこちらに近づいてくる人影が見えた。ふくよかな男と背の高い男だ。スーツを着た二人は、5歩ほど離れたところで立ち止まるとタイミングも角度もきっちりそろえて頭を下げた。


「周防遊冶さんですね」

「はい」

「お待ちしておりました。改めて、刑事課の三輪と申します」


 背の高い男がそう名乗った。顔を見て、確か職場にやってきた男だったことを思い出す。

 三輪と名乗った男の後ろにひかえているふくよかな体格の刑事は部下らしい。紹介はされなかったが、彼が先導して建物へと足を踏み入れる。

 幅の広い通路に自販機やベンチ椅子が点々と置かれている以外、これと言って目を引くようなものはない。

 とくに会話することもなく、しばらくしてやや広いスペースにたどり着いた。

 トイレと向かい合うように広いエレベーターが一台あった。先導していた部下の男がボタンを押せば、扉がすぐに開き、三人で乗り込む。病院にあるような10人は余裕で乗れる大きなエレベーターだった。何か大きなものを運ぶための物だろう。わずかな浮遊感とともに下へと下りていく。


 何か話す暇もなく、地下一階でエレベーターは止まった。

 ドアが開くと、さきほどよりも白い壁と幅の広い廊下が続いている。

 角を曲がってすぐの第一控室と書かれた室名札の部屋のドアを引き、中に入るようにうながされる。

 どうぞ、と上座かみざでもある奥へと促されたが、居心地が悪いのですぐ手前の席に弁当の入ったビニール袋を置き、鞄を胸元に抱えて座った。

 部下がたじろぐ気配がする中、最後に入ってきた三輪刑事は特に何も言わず、わきに抱えていたのだろう黒いクリップボードを机の上に裏返しで置く。見た目よりも静かな動作で目の前の席に座ると、背筋を伸ばし、綺麗な角度でお辞儀じぎをした。


「改めて、おおくやみ申し上げます。大変心苦しいとは思いますが、これから周防耕作さんのご遺体をご確認していただきます。その後、引取りの書類を記入いただきまして、遺体検案書いたいけんあんしょと言うものとともにご遺体を引き取って頂きます。遺体検案書は原本一枚をお渡ししますが、これからのご葬儀や市役所などでの手続きで必要になるので、いくつかコピーを取っておいてください」


 慣れた様子で説明する三輪に、周防は素直に頷く。


「弟さんのご遺体ですが、非常に事件性が高いと言う事で誠に申し訳ございません、刑事訴訟法けいじそしょうほう第229条にもとづき、司法解剖しほうかいぼうさせていただきました。結果ですが、殺人で間違いないとのことで、すでに捜査が始まっております」


 言葉の間にひと呼吸入れながら、三輪はこちらの顔色を確認するように何度も目を合わせてくる。まゆを詰めているわけではないが、眉間の皺が深いせいでんでいるようにも見える。だが声は低いながらもゆっくりとした口調を徹底てっていしているのか、まったく敵意は感じられない。


「ご遺体の確認ですが、大変申し訳ございません。実は弟さんの頭部が、まだ見つかっておりません」

「え、とうぶ?」


 思わず聞き返せば、三輪はゆっくりと頷く。


「首から上が、見つかっていません。非常にショックだと思います。現在、捜査員を総動員して捜索そうさくしておりますので、見つかり次第ただちにご連絡いたします」


 そこで言葉を切った三輪は、心配するようにこちらに視線を送る。


「ご気分は悪くないですか?」

「あ、はい、たぶん」

「途中で気分が悪くなったら、すぐに言ってください。では、お部屋にご案内いたします」


 弁当は邪魔だろうと机に置いたまま、リュックだけを背負って先ほどの道に戻る。

 角を左に曲がると、さっき乗ってきたエレベーターの正面にある通路に出た。

 先導する部下の男が、立ち止まりなぜかこちらに向き直る。

 突然の動作に警戒するが、部下の男は周防に一瞥いちべつをくれただけですぐに視線を外し、壁に触れた。

 と、壁に埋め込まれていたすりガラスが横へとスライドした。

 部屋に入るよりも先に、線香の臭いが体をでていく。

 自然光に近い、明るさが抑えられた部屋の真ん中には、長方形の台が置かれていた。その上に、白い布を被せられた何かが置かれてあり、その端には別の小さな台が置かれていて、蝋燭がふたつ、その間には香炉に立てられた線香が三本、真鍮しんちゅうのおりん鈴棒りんぼうが置かれていた。

 ふと壁際に、やややつれた眼鏡の男と白衣を着た派手目の女性と鑑識の服を着た背の低い男が立っていた。鑑識の男は帽子で顔は見えないが職場に来た時、刑事と一緒に居たはずだ。

 周防が視線を向けると、不揃ふぞろいに頭が下げられる。

 三輪に促され、白い布が被せられたものの前に立ち止まる。

 反対側に立った三輪が、白い布の端をんだ。

 白い布をゆっくりとずらし、半分ほどでそっと布を置く。

 布の下から現れたのは、裸の体だった。

 三輪が配慮したのだろう、へそから下は布で隠してあるが、おそらく下半身もはだかなのだろう。

 そして三輪が言った通り、首の真ん中から上には何もなかった。

 顔がないだけで、まるで作り物のように感じてしまう。

 どこかうつろな目で目の前の体を呆然と見つめる周防に、三輪はそっと話しかけた。


「何か、ほくろや傷などのご本人と分かる特徴はありますか?」


 周防はハッと顔を上げ、意味もなく位置を確認するように帽子のつばをつばった。


「足を、見てもいいですか? 昔、耕作こうさくはやけどをしたんです」


 三輪はうなずくと、足元に移動して同じく白い布を丁寧に持ち上げ、膝上ひざうえまでめくった。

 右足の脛から足の甲にかけて、色が変わり引きつったあとがある。


「耕作……弟です、間違いない」


 周防は愛おしいものをでるように手を伸ばしたが、触れる直前で指を握り込み、台にこぶしを落とした。


「最期まで、自分勝手なやつでしたよ」


 台に体重を預けるように手をついた周防に、さりげなく三輪が隣に近づいてくる。

 何か話しかけられる前に、大丈夫ですと声に出し、帽子を深く被った。


「引取りの書類を、書かないといけないんですよね」


 きびすを返して部屋を出ようとすると、なぜか部下の刑事がドアの前に立ちふさががる。

 不快感から眉をひそめ、助けを求めるように振り返れば、壁際にひかえていた背の低い鑑識の男が前に進み出てきた。

 なぜか鼻をまんでいる。

 それも束の間、指が外され、深く息を吸い込む音。

 まるで海の奥底から浮き上がり、肺一杯に空気を満たすようだった。

 取り払った帽子の下、乱れた前髪の向こうに青くこおった眼が現れた。


「犯人は、あなたですね」







 芳乃ほうのが『氷の眼』を見開くと、室内の気温が下がるような気がする。

 蕗二ふきじは寒さに震える体を押さえつけるために、こぶしに力を込めた。

 戸惑うように部屋を見渡した周防すおう遊冶ゆうじは、呼び出された理由が双子の片割れの引き取りだけでない事に気がついたようだ。

 不快だと眉を寄せ、帽子の奥から芳乃を睨みつける。


「突然なんですか。そもそも俺に弟を殺す理由も、意味もない」

「では、ひとつずつ確認しましょう」


 芳乃は左手の指を4本立て、周防に突きたてる。


「透明標本殺人事件は合計4件起きました。1つ目は10年前・周防ハツカさん、2つ目は7年前・花園はなぞのスミレさん、3つ目は今日の朝・周防ヤマネさん、4つ目は今日の夕方・周防耕作さんです。その中で、3件目の周防ヤマネについてです。死体発見現場である、あの建物周辺には≪リーダーシステム≫や防犯カメラはありませんでしたが、聞き込みからあなたが頻繁ひんぱんに目撃されていたそうです」

「それは弟だろう。俺は仕事をしてたんだ、職場にも聞いてくれよ。≪ブルーマーク≫は移動記録も取れるんだろう? それで俺の疑いは晴れるんじゃないか?」

「いいえ、ここに落とし穴がありました」


 芳乃は周防に向かって、人差し指を立てる。


「ひとつ、この特殊な地区が関係しています。この地区は、≪ブルーマーク≫を多くやとい入れている工業地帯で、≪ブルーマーク≫の行動を記録する≪リーダーシステム≫が他の地区に比べて圧倒的に少ない。だから、あの建物周辺ではあなたたちの行動記録はありません。なので、証拠しょうこは近隣住人の目撃情報のみです。しかし、人間には思い込みによって見ていたはずなのに忘れる、見ていなかったのに見ていたと証言しょうげんすることがあります。これは刑事さんたちが捜査でもっとも注意する部分ですよね?」


 芳乃の問いに蕗二と竹輔たけすけは同時にうなずいた。

 そう、捜査に置いて目撃者の情報を集める時、他の班の刑事たちとは情報を共有しない。場合によっては、同じ人に何度も別の刑事が聞き込みに来る時がある。これは、人間の記憶の曖昧あいまいさを考慮こうりょしている。また、刑事によって誘導的な聞き方をしていたり、参考人が重要なことを言うかどうかを悩んでいるなど、聴き取りした人物や聴き取り時間で証言が変わりやすいからだ。


「毎回同じ服を着ていて、だいたい同じ時間あの場所を歩いている人間、そしてあの部屋に入っていく≪ブルーマーク≫の男という、ぼんやりとしたイメージが定着します。そして、最大の仕掛けは一卵性いちらんせいの双子であることを知らなければ、同じ人だと錯覚さっかくさせることができます」

「そんなの、あんたの仮説にすぎないだろ」


 苛立いらだちを隠すように腕を組んで、周防は芳乃を強くにらんだ。き出しの敵意を向けられても、芳乃は一切動揺(どうよう)を見せないまま淡々と言葉を続ける。


「ええ、証拠はありませんね。でも、人事の人が言っていました。繁忙期はんぼうきの7月ごろ、らしくないミスが多く、口数が少なくイライラしていたと。その時に、入れ替わりの可能性を考えました」


 周防は不快そうに眉をひそめたが、黙って続きを促すようにまばたきをする。

 芳乃は答えるように口を開く。


「入れ替わりの仮説を立てた理由ですが、あなたの弟である周防耕作さんは、7月から介護休業を利用していますね? 復帰予定は今月10月末を予定しています」

「ああ、そうだ」

「介護休業や有休制度は、就職から半年してから使えるようになります。弟さんはちょうど半年前、あなたの紹介であの会社に就職したそうですが、少し都合つごうがよすぎると思いませんか? 最初から弟さんに介護制度を利用させるために就職させたんじゃないですか」


 周防が苛立ちの我慢が限界を超えたのか、右足を小刻みに動かし貧乏ゆすりを始める。


「たまたまもあるだろ。不幸が続くことだってある」

「そうですね、でもあなたたちは実際この制度を利用しています」

「そもそも入れ替わる意味は? そんな面倒でリスクになるような事を、なんでしなきゃいけない?」


 確かに、瓜二つの双子だからと言ってバレないわけではない。

 蕗二の不安な視線を知ってか知らずか、芳乃はわざとらしく顎に指をあてて考え込むような仕草をする。


「そうですね、言い方が悪かったでしょうか。リスクをおかしてまでしなきゃいけなかったと言った方がよかったですね? だって、周防耕作さんは介護ができるような人間ではないでしょう」


 はっと息を飲んだのは誰だろうか。

 耳が痛いほど静間に帰る部屋、淡々と芳乃の声だけが響く。


「10年前、あなたの祖父・ハツカさんの介護を行っていたのは、あなただけではありませんか? 介護は一人でできるものでもありません。寝たきりで動けないならまだしも、徘徊はいかい行動が出ている祖父を見張るなど、仕事の合間にながら作業でできるはずがありません。誰かと二人でやればもしかしたら交代でできるかもしれませんが、記録には耕作さんは過去ハツカさんの口座からお金を盗んでいましたね。そんな粗暴そぼうの悪い耕作さんとハツカさんを二人きりにはできない。そして、あなたは仕事をめている。ということは、あなたが付きっ切りでハツカさんの介護を行っていたと考えるのが自然でしょう」


 周防が動揺したようにしたうつむき、唇を噛み締める。


「ハツカさんの介護が終わり、再就職先でやっと軌道きどうに乗った。なのに、去年の12月から父親のヤマネさんの介護をしなければいけなくなり、再び会社を辞めなければいけない可能性が出てきた。あなたは現在40歳です。父親の年齢は60歳。もし介護を終えて就職する頃にはあなたは最悪60歳を迎えるかもしれない。そうなれば再就職するには厳しい年齢でもあります。持ち金は微々(びび)たるもの、年金だけで生活するのは困難で、将来は絶望的です。今の会社で積み上げてきたものを手放すにはあまりにもしい。だからあなたは苦肉の策として、弟に介護をしなくていいから協力してくれと頭を下げたんじゃないですか?」


 芳乃の指摘に周防はうつむいたまま押し黙っていたが、観念かんねんしたように深い溜息をついた。

 張りつく唇をめて湿気しけらせ、意味もなく帽子の位置を直す。


「入れ替わりについては、認めるよ。あんたの言う通り、耕作と入れ替わって親父の介護をしていた。ただそれだけだよ。耕作はたしかにろくでないしだけど、それでも殺す理由はない。耕作が死んだら、その計画の辻褄つじつまが合わなくなるだろ? だから俺に、耕作を殺す理由がない」


 周防はもう一度溜息をついて、首を振る。


「弟と連絡がつかないと思ったら、死体になってるなんて思わないだろ。親父もどこかに行って見つからない。もう意味が分からない」


 泣き出しそうなのをえるように震える声が床に落ちる。

 その姿に芳乃が目を細める。睨みつけると言うよりは、目を凝らして小さな穴の中を覗くように。


「そうですね、あなたは殺していないようです」


 芳乃の言葉に、ざわりと他のメンバーが動揺する気配がする。蕗二も声を上げたいが堪えた。

 芳乃の眼はまだこおっている。


「ですが、はっきりさせたい事があります」


 その場の全員に言い聞かせるように声を張り上げた芳乃は、なぜか前髪を持ち上げる。

 さえぎるものがなくなり、さらされた氷の眼が瞬きもせずに周防を視る。


「ぼくは、人の心を視ることができます」

「芳乃!」


 思わず鋭い声を上げた蕗二を、芳乃は視線を周防から外さず手を上げてせいする。


「そ」

「そんなまさか、心を視るってつまり、心が読めるって事か?」


 周防の言葉を遮るように、芳乃が言った。口を開けたまま呆然と立ち尽くしていた周防は、戸惑ったように芳乃を見つめ、恐る恐る口を開く。


「君が本当に人の心を読めるのは、さっきの発言から信じるよ。でも、見えたり見えなかったりするんじゃないか? 人はずっと考え事をしてるわけじゃないぞ」


 しかし芳乃はすぐさま首を振って否定した。


「いいえ、何も考えてないって思うのは主観です。多少の見えにくさはありますが、人は何かしら必ず思考をしています。だからこそ、ぼくが初めてあなたを視た時、突然まるでスイッチを切ったように思考が途切れたのが気になったんです。それがずっと引っかかっています。今までそんな人を視た事がなかったので」


 前髪を下ろした芳乃は、思案しあんするように顎をつかんだ。


「なので、ひとつの仮説を立てました。あなたは、意図的に思考を切り替えられる」


 周防を含めて全員の戸惑う気配がする。


「そんなことできるのか?」


 たまらず声を上げた蕗二に、芳乃はすっと野村を指差し、次に蕗二を指差した。


「極端な話をするなら、野村さん、そして刑事さんはすでに思考を切り替えています。過去を切り離して別の思考や人格を上にかぶせて封じる方法です。これは心の防衛ぼうえい手段です。程度は人にもよりますが、中には完全な別人格を形成し、記憶を共有しない後天的こうてんてきな二重人格になることがありますね」


 野村の顔色が暗くなり、蕗二は指先が冷たくなる。


「ですが、これはあくまで強烈なトラウマを抱えた時です。ぼくが立てた仮説はもっとライトなものです」


 芳乃は両手の人差し指を立てて見せる。


「たとえば、仕事とプライベートを分ける人はいませんか? 仕事場では世間で一般受けするような人格と、家に帰ればありのままの自分自身。あまりに激しいギャップがあると嫌われる傾向があるようですが、このギャップが大きければ大きいほど、まるで二重人格のように感じられます。この場合はとくに人格を入れ替えていると言うよりは思考の切り替えだけですので、記憶が途切れることもありません」


 人差し指の先を小さく動かしていた芳乃は、両手を軽く握り込む。


「ぼくが一番仲良くしている獣医さんは血を見るのが苦手だそうですが、この思考の切り替えを行い、ある程度は回避できるようです。それには少しコツがあるそうです。それは」


 芳乃が指を弾いた。パチンッと軽くするどい音。それはまるで部屋の電気をつけるような音だった。


「スイッチを作ることです。一番簡単なのは、職場と家などの異なる場所への移動です。または、着替えでしょうか。普通の人であれば、仕事着から部屋着に着替えるだけで、リラックスできるはずです。この思考のスイッチは、動作が大きければ大きいほど変えやすいそうです。慣れれば動作が小さくても構いません、例えば髪を束ねるとか、化粧をするなどでも代用はできるはずです。もしかしたら、無意識にこのスイッチを作っている人もいるとも思います。そして、あなたの場合」


 芳乃の指が遊冶の頭を指差す。


「スイッチは帽子ですね」

「まさか、そんなことで……」

「嘘だと思うなら、帽子を取ってください。そして、ぼくの眼を見てから、はっきりと否定してください」


 周防は動揺するように帽子のつばを強く握る。

 逃げ道を探しているのか、後ずさり、視線をあっちこっちに向ける。

 だがやがて観念したようにまぶたを閉じ、周防が震える手で帽子を取った。

 緊張感が高まる中、周防のせられた瞼が持ち上がる。

 黒い眼が、氷の眼と向き合った。


「ああ。直接見ると、なおさら良い眼をしてる」


 周防の口の端がぐっと持ち上がり、芳乃が半歩下がったのと同時に、蕗二は芳乃の前に割り入る。

 後ろで芳乃が胸に手を当て、呼吸を整える気配がした。


「まさか、スイッチにまで気がつかれるとは。同じ匂いの奴が混じってるとは思ってたけど、毒をもって毒をせいす。言い得てみょうだな。だから今までの刑事さんたちとは一味違うのか」


 周防の鋭い目は、さきほどまで視線を泳がせていた男とはまるで別人だ。

 強いて言うなら、周防耕作に似ている。

 そう、自己顕示欲じこけんじよくが強い、傲慢ごうまんな眼をしている。


「さて、答え合わせだったか。君たち警察がどこまでたどり着いてるか聞かせてくれよ。まだ俺が犯人だって証拠は、何ひとつないんだろう?」


 蕗二は睨むことしかできない。

 周防の言うとおり、容疑者である周防が死亡していることが分かっているだけで、だからと言って遊冶が犯人と言う証拠、つまり透明標本に使った薬品の出処でどころが分からない以上、状況証拠だけは任意同行はできても、逮捕はできない。

 不意に腕をつかまれる。驚いて振り返れば、芳乃だった。


「大丈夫です」


 んだ氷の眼と力強い口調に、開きかけた口を閉じて場所をゆずる。

 芳乃は蕗二の隣で、真っ直ぐいどむように周防と対峙たいじする。


「まず、死体を加工するのに使われた薬品ですが、大量に必要なホルマリンや水酸化すいさんかカリウムは今の会社で清掃に使用されますね。それを出張などの際にはタンクで持って行く際、人目を盗んで小分けし、自宅に持ち帰っていた。清掃で使用するだけのものですからミリ単位で厳密に管理しているわけではありませんし、あからさまに大量に減っているわけでもありません。普段のあなたの真面目さがこうそうして、とくに怪しまれないでしょう」


 周防は思わずと言った様子で、感嘆かんたんの声を上げた。


「正解だ。じゃあ、使った薬液の廃棄はいきは? 劇薬は水道に流せないよな?」

「廃棄も同様です。出張の帰りにひとつ余分よぶんに廃棄タンクへ混ぜ込んでも分かりはしません。あなたは全て計算の上で、この職種を選んで就職している」


 遊冶は満足げにうなずく。


「じゃあ、染色せんしょくに使う特殊な薬品のアルシアンブルーとアリザリンレッドは? あれはうちの工場でも使わないよ? どうやって手に入れるんだ?」


 蕗二も思わず芳乃に視線を向ける。

 非常に高価で、購入できるところが限られた特殊な薬品だ。それをどうやって手に入れたのか、一切捕まえられていない。芳乃は分かっていると言わんばかりに、まばたきをする。


「アルシアンブルーとアリザリンレッドはそもそも毒劇法げきどくほうには指定されていないので、大量の水と一緒に水道へ流せば問題はありません。しかし特殊な薬品です。特定の職業についている必要があり、また購入すれば必ず足がつきます。そしてもちろん、あなたの名義で購入履歴はありません。しかし、あなたの父親が高校で理科を担当しているそうですね? それならとくに怪しまれず、購入することは可能でしょう」


 そこで芳乃はふと目を細めた。


「いえ、違いますね。購入ではなく使用期限の近い廃棄分を持って帰ってもらっていましたか。それなら辻褄つじつまが合いますね。学校なら薬品はすべて個数管理されています。抜き打ちで監査が入った場合に購入数と在庫数に違いが出れば、いずれバレてしまうはずです」


 蕗二と竹輔がその手があったかと息を飲む中、周防は楽しそうに笑顔を浮かべながら頷いた。


「そこまで視えるのか。本当にすごいな。じゃあ、俺が作った4つの標本だけど、違いは分かる?」


 興奮からか帽子を握りしめ続きを催促さいそくする周防に、芳乃は目の前の書類を読み上げるように表情を変えない。


「1件目は周防ハツカさん、2件目は花園スミレさん、3件目は周防ハツカさん、4件目は周防耕作さん。すべて、透明標本として加工されています。正確には4件目は途中ですが。その中で、ふたつ違和感があります。刑事さん、あなたが捜査中に気がついたことはありますか?」


 突然話を振られ、驚きに目を剥く。芳乃が言う事はないのかと目を細めた。

 咳払いで喉の調子を整え、こちらを興味深そうに見ている周防の視線を受け止める。


「俺は、この事件で少し気になってたことがある。俺たちが最初に容疑者としてマークしていた周防耕作は、目立ちたがりで自己顕示欲が強く、自分が作ったものを見てもらいたいと言う欲求が強い性格だと判定されていた。2件目はその通り、誰でも構わないから自分の作品を見てほしい、無差別的にひけらかすようだった。でも、1件目と3件目はその逆で、まるで隠すように置かれていた」


 蕗二の発言に、周防は鼻で笑うと肩を竦めた。


「たまたまだろ、運ぶタイミングをはかっているうちに見つかった。それだけだ」


 すると芳乃は後ろを振り返り、壁際に立っていた野村に話しかける。


「野村さん、あなたの感じた違和感はなんでしたか?」


 スイッチの話の余韻よいんが抜けていないのか、顔色の悪い野村が静かに口を開いた。


「2件目だけ、染色にムラがあった。アルシアンブルー染色にムラがあって、透明化も十分じゃないの」

「人間、失敗することもあるだろう」


 遊冶の言葉に野村は小さく首を振って否定する。


「人が手でやるから、やっぱりどこかにくせが出る。1件目と3件目は気温や薬液のpH値の確認、染色時間もはかりながらすごく慎重にやってる。でも2件目だけは雑すぎる。ぶっちゃけ素人しろうとがやったんじゃないかって思うくらい」

「へぇ? 詳しいね?」


 遊冶のめるような視線に、野村が引きつった小さい悲鳴を上げる。片岡がすかさず隠すように野村の前に出た。


「そうです、はたから見れば同じ透明標本ですが、ちゃんとした人が見れば、はっきりと見分けがつく」


 芳乃の声に呼び戻されるように周防は芳乃へと視線を戻す。その先にいた芳乃は、周防の視線が戻ってくるのを待っていたように口を開いた。


「つまり、2件目の殺人は、あなたではなかった」


 その答えを聞いて、周防は満足げに歯をいて笑った。


「嬉しい、わかってくれる人がいるなんて。期待はあんまりしてなかったけど、本当に当ててもらえると堪らないね」


 体を震わせ、服の下に立っているのだろう鳥肌とりはだを収めるように腕をさする。


「じゃあ、その2件目は誰が作った?」


 ねだる周防に、芳乃はひとつ瞬きをする。


「周防耕作さんです」

「へえ? またどうして?」


 周防の挑発ちょうはつに、芳乃は首を傾げた。


「さあ? 知りませんよ」


 突き放した言い方に、周防は驚いたように目を見開いた。

 まるで突然吹きつけられ、勝手に体が震え出すような、無慈悲に体温を奪う冬風のような声だ。


「ぼくが視えるのは目の前にいる人間の事だけで、死んだ人間の事のことなんて知りません。勝手に推測するなら、あなたの真似をしたかっただけでしょう。あなたが祖父を透明標本にしたのは誰にも言ってはいなかったですが、双子である耕作さんはかんづいてしまった。そして、あなたが心底楽しそうで夢中になっているもの、そして美しく生み出されるもの。瓜二つの顔がやっているのを見て、あこがれと嫉妬しっとが混じって自分もやってみたくなった、そんなところでしょう」


 呆然と目を見開いていた遊冶は、ふとどこか自嘲じちょうめいたように鼻で笑う。


「ほんと、びっくりしたよ。まさか真似してくるとは思わなくて」


 周防は先ほどまでの傲慢ごうまんな顔を引っ込め、スイッチを切ったように不安で自信のなさそうな遊冶の顔に戻っていた。そして、台の上で横たわっている耕作の体を見つめる。


「すごいだろって見せられた時は、思わず耕作のことを殴りそうになったくらいだ。でも、今耕作を怒ったら死体を無造作に捨てたりするんだろうなって。あの女の人は気の毒だけど、ともかくバレたくなかったのと、死体が家族のもとに帰ればいいなって、耕作に協力したんだ。指紋しもんも綺麗に拭き取ったし、靴もわざわざ同じ物を買って一人っぽく見せて、足跡はほうきでならして誤魔化ごまかした。上手く行って良かったよ」

「ええ、おかげさまで事件は迷宮入めいきゅういりしました。しかし、透明標本は素人がいきなりやってもそう簡単にできるものではありません。あなたは標本作りが趣味と言っていましたね? 人間を標本化するよりもずっと前からすでに標本を作っていたその成果が、今こうして違和感として現れたのは当然の結果でしょう」


 称賛しょうさんの混じった言葉に、周防は嬉しそうに目を細めたが、すぐに引っ込められた。

 過去を思い出しているのか、足元に落とされた目は遠くを見つめている。


元々(もともと)、夏休みの宿題で標本を作っていたんだ。虫をピンでとめるやつ。でもあれは湿気しっけとか虫がいてダメになりやすいんだ。でも父が理科の教師でね、古くなって破棄する予定の薬品をこっそり持って帰ってきてくれて、一緒に透明標本を作ったんだ。その時作ったのは池で釣った小魚だったけど、宝石みたいでキラキラしてて、すごく綺麗だった」


 なつかしむように周防は小さく笑みを浮かべた。


「当時やってたのは、樹脂詰じゅしづめの標本だったんだけど、あれは高いし、樹脂が固まる時の熱にせっかく作った標本がだめになったり、気泡が入ったり、うまく硬化できなくて樹脂自体が白く濁ってしまったり、散々だった。父に相談したら、グリセリンが良いって教えてもらった。そこからはグリセリンに入れたかな」

「大人になってからも続けていたんですね」

「ああ、でもあんまり頻繁ひんぱんにやると、父がくすねてくれる薬品もすぐなくなってしまうし、完成品の置く場所もなくなる。あとは薬品の処理も簡単じゃないからね」

「趣味の標本作りができなくなったのは、祖父の介護ですか」


 周防はずっと握りしめていた帽子を胸に当てて、うつろな目で芳乃の言葉に頷いた。


「ああ、そうだね。認知症がひどくて、ちょっと目を離すと外に出たりもする。変なところが器用で、補助錠をつけても勝手に出ていくから参ったよ」

「だから仕事を辞めざるを得なかった」

「ああ、父は教師だし、ずっと忙しいのは知ってる。耕作は祖父の財布から金を抜いたりするから、俺がやるしかなかった」

「違う!」


 突然上げられた芳乃の大声に、体を跳ねさせる。芳乃は眉を寄せ、懸命に目を細めていた。周防の見えにくくなっている心を覗こうとしている。


「もう少し前、あなたの母が家を出た時です」


 芳乃が大きく一歩踏み出し、周防が抱えていた帽子に手を伸ばした。

 周防のうつろな目が恐怖にゆがみ、帽子を取られまいと胸に抱えた。その瞬間、芳乃の氷の眼が見開かれる。


「やっと視えた」


 伸ばしていた腕を下ろし、静かに芳乃が呟く。


「スイッチのきっかけはそこでしたか」


 芳乃は眼を閉じる。何かに耐えるように深く呼吸して、もう一度氷の眼を開いた。


「父親は高校生の生徒と妊娠をきっかけに結婚していますね。結婚したのは2031年に施行された『犯罪防止策』よりもずっと前の、2000年ごろです。当時女性は16歳から結婚が認められていました。教師であった父親は凹凸が少ない未発達の体が好みだったのでしょう。周防遊冶さん、あなたは当時18歳でした。細身で小柄だったあなたの背中は母親に似ていた。自然と母親、いえ、愛していた若い頃のつまを重ねて求めたのでしょう。母親が出て行ってから、あなたに母親役を押しつけた。それこそ、母親がかつて着ていた女子制服の着用を、何度も求められませんでしたか?」


 芳乃の口から淡々と告げられる言葉に、蕗二はもちろん、他のメンバーさえも嫌悪感から絶句する。

 真っ正面から言葉を受け、周防の顔は青ざめ、呼吸を浅くしながらうつむいた。


「それは……仕方なくて……母さんが出て行ってから親父がちょっとおかしくなってて、でも、俺が、母さんの制服を着ていれば、大人しかったから……」


 震える声で絞り出される言葉はあわれで、まるで未成年の少年のようだった。

 その姿に芳乃はあわれみの視線を送ったが、すぐに頭を振って表情をなくした。


「あなたは、父親に女装を強要させられていることにえられず、高校を卒業してすぐに就職しました。家から逃げ、就職先の寮へと入ったあなたは、尊厳そんげんを取り戻すように働き、充実していた。しかし、10年前の2032年。祖父のハツカさんが認知症を発症。徘徊はいかいが止まらず、誰かが付きっ切りで介護をしなければいけなくなった。そしてあなたに白羽の矢が立てられ、仕事を辞めざるを得なくなり、ひとりだけで介護に専念した」


 周防は泣き出しそうな顔で芳乃を見つめ、芳乃は耐えるように唇を噛み締めた。


「あなたは、祖父から暴力を受けていましたね。耕作さんとあなたは、親さえも間違うほど瓜二つの顔です。認知症であれば余計に見分けるのは困難でしょう。どれだけ強く殴られようと、介護を放棄できない。苦肉の策として、あなたはまわしい過去を引っ張り出さなければいけなかった。かつての母の制服を着て、帽子を被って顔を誤魔化せば、他人だと思って暴力はなくなった。そして、いつしかあなたは帽子を被っている間、理不尽な出来事にふたができるスイッチを手に入れた」


 周防は胸に抱えた帽子を握り締めたまま、ぎこちない笑みを浮かべた。


「介護中に殴られたり、噛まれるのはしょっちゅうだったよ。老人だと思ってたら、力は男だよな。痛かったし、青痣あおあざができることもあった。でも誰も信じてくれなかったよ。ひょろひょろの老人がそんなことをするはずないって。介護が嫌で嘘をつくんだって。親父も、耕作も、見て見ぬふりだった。まあでも、親父も、じいさんも、可哀想な人だなって、甘んじて受けたよ」


 溜息を落として、腕から力を抜いた。ぽすんと音を立てて帽子が床に落ちる。だらりと腕を垂らした周防は満身創痍まんしんそういだった。


「ほんと、最期さいごあわれだったよ。俺が寝てる間にじじいがさ、徘徊して、転んだ拍子に道路横のみぞにハマっちまったらしくて、その日の前日は大雨だったからさ、水が溜まってたみたいで……あっけないよ、たったの数センチの水でおぼれ死んだ。でも、あの時に思ったんだ、ああこれで楽になれるって。やっと解放されるって、心から思ったんだ。早朝だったから、誰もいなくて。慌ててじじいの死体を家に運んで、その時ふと考えた。透明標本にしたらどうだろうって」


 言葉を失う全員に、周防はあきらめきった顔で笑った。


「理解される気はないよ、俺だっておかしいとは思う。でも、やっと地獄みたいな日々が終わったと思ったら何とも言えない開放感があってさ、真っ先にやりたいことが透明標本だったんだよ。家じゃあ、警察に見つかるから、近くに廃屋はいおくがあるのを知ってて、そこに廃棄はいきされてあった浴槽に漬けた。廃液はいえきはすごい大変だったけど重曹じゅうそうやハイターを使って中和して捨てた」


 野村がうわっと声を漏らして顔を引きつらせた。よほど乱暴な方法なのだろう。


「大きな物を透明標本にするのは初めてで、だから慎重に管理しながら作り上げた。完成したじいさんを見て、なんて綺麗なんだろうって思った。加齢でしわくちゃの枯れ枝みたいなじいさんだったのに、今まで作った標本たちよりも、ずっと綺麗だった」


 周防は虚空を見つめ、感嘆のため息をつく。

 まるで、目の前に美しく浮かぶ透明標本を見つめるように。


「なあ、今、何が視える?」


 一歩、周防が近寄ってくる。蕗二は身構えたが、芳乃はおびえることもなく、瞬きもせずに覗きこんでいる。


「あのゴミだらけの部屋です。あなたのお父さんが、部屋の中で、仰向けになって死んでる」

「そう、親父はいるはずがない場所で死んでたんだ」

「親父は実家で介護していた。なのに、なんでこんなゴミ溜めの部屋に放置されていたのか」


 芳乃は周防の思考をそのまま口に出し、周防は頷いた。


「やったのは間違いなく耕作だ」

「でも、耕作さんは死んでいた」

「死んでたってそんな、じゃあなぜ、としまえん跡記念公園で周防耕作の≪ブルーマーク≫の反応があったんですか!?」


 これ以上は耐えられないと声を荒げた竹輔に、芳乃が視線だけ向ける。まるで氷の刃を喉元のどもとに突きつけられたような錯覚さっかくに、ひゅっと呼吸を飲み込んた竹輔から、片岡に視線を移した。


「片岡さん、≪ブルーマーク≫を無理やり外した場合はどうなりますか?」


 片岡は動揺を隠すように、眼鏡を鼻上に持ち上げ腕を組むと、気丈きじょうに答える。


「≪ブルーマーク≫は装着者そうちゃくしゃの発する生体反応、つまり心臓などから発信される極微弱ごくびじゃくな電気信号を感知している。強制切断を行えば、信号が途絶え、即座にアラームが起動。同時に位置情報が発信され、周りの警察が一斉に出動する」

「では、もし≪ブルーマーク≫が事故や病気で亡くなった場合は、どうなりますか?」

「それは……」


 片岡が口元に拳を当てて考え込む。芳乃は片岡の後ろにいる野村に視線を向ける。


「野村さん、あなたなら人間が死亡する時の心臓の動きはわかりますね」

「うん、人間の心臓は突然止まることはないの。病気でも胸を強く打った外傷がいしょうでも、心臓を動かしている電気信号がおかしくなった時に、心房細動しんぼうさいどうって言って、心臓が小刻みに痙攣けいれんした状態になって、正常に血液が回らなくなって脳やほかの臓器が止まって死ぬの」


 芳乃はうなずき、両手を上げると自らの耳についている≪ブルーマーク≫がよく見えるように手をかざした。


「そうです。つまり、≪ブルーマーク≫は突然の生体反応の途切れに対してアラームが起動するようになってはいますが、人が死んだだけではアラームは作動しません。だって、年間死者数が0の日はありません。毎日事故や自殺、殺人、病気など平均して1日1人は必ず死んでいることになります。人が死ぬたびにアラームが起動してはたまりません。そして、≪ブルーマーク≫はただの受信機で、装着者が死んで自動で電源が切れるわけでもありません。つまり、死亡届を出して停止させない限りは、起動したままになる。では、死亡者の≪ブルーマーク≫を感知されないように持ち運ぶにはどうすればいいのか。答えは単純です。≪ブルーマーク≫は≪リーダーシステム≫から発信される微弱な電波に応答することで、初めて役割を持ちます。なので、≪ブルーマーク≫が電波を受信しないようにさえぎれば、存在を隠すことができます。例えば分厚いアクリルの箱に入れ、液体で満たしておき、さらに保冷バックのようなアルミで覆われたものであれば、電波を遮断することは可能です」


 芳乃が耳から手を離し、人差し指を突き出し、周防をまっすぐ指差した。


「そのバックには、弟さんの頭が入っていますね」


 驚愕きょうがくに見開かれた全員の視線を受け、周防は乾いた笑い声を上げた。

 床に膝をつくと、リュックを背中から下ろし、フロントのジッパーを開く。中から取り出したのは明るい緑のナイロン製の保冷バックだ。四角く大きなバックの三辺を繋ぐジッパーをれるほどゆっくりと引く音が部屋に響く。

 そして、中から透明な箱が現れた。

 液体に満たされた箱の中、持ち主とまったく同じ顔をした頭部が浮かんでいた。

 周防遊冶はぽつりと「あの日」と呟いた。


「遠方に出張があって、一週間いなかったんだ。だから代わりに、耕作に介護をお願いしてた。時々、連絡を入れてて、既読きどくマークは付くから大丈夫だろうって思ってた。出張から帰ってきて、片付けも終わって、休憩してる時に携帯を見たら耕作から連絡が入ってて、「全部めんどくさくなった」って書いてあった。いやな予感がして、耕作の借りてる家にけこんだら、なんでか居るはずがない親父が死んでた。8月だった、エアコンもついてなくて、下半身不随(ふずい)で排尿もコントロールできない。すぐに脱水したと思う。足が不自由だったから、あんなゴミ屋敷で食べるものもまともに見つけられなかったんだろう。無残だったよ、それこそじいさんと同じだった。人が死ぬ時って、あっけないんだ」


 周防は目の前に餓死がしした父親が横たわっているように床を見つめている。


「それで、部屋をいくら探しても耕作がいなくて、まさかって実家に行ったら、耕作はリビングで首をってたんだ」


 ぶら下がっている体を見るように虚空こくうを見上げ、ふと膝に視線を落とす。そこにあったまったく同じ顔をながめ、大切そうにアクリルの箱をでる。


「あんたが言った通り。父親を介護しないといけなくなって、じいちゃんの介護の時を思い出した。またあんな地獄が来ると思ったら耐えられなかった。だから、介護休業制度を使おうと思った。1年で93日、耕作と合わせれば186日ももらえる。だから耕作に介護はしなくてもいいからって頼み込んで、なんとか会社に就職してくれた。事前に入れ替わりがバレないように、俺は偽物のピアスを開けて、耕作と見分けがつかないようにした。怪しまれるかと思ったけど、耕作が≪ブルーマーク≫だからって偏見されないようにって言ったらみんな納得してくれた。そんな優しい会社だったから、耕作も何とか半年続けてくれて、やっと7月から介護休業の申請ができた。耕作に介護休業を申請させて、93日間入れ替わる計画がバレないように、耕作には俺のふりをしてもらって出勤してもらってた」

「しかし8月、あなたに≪ブルーマーク≫の判定が下りた」


 芳乃がげると、周防の表情は苦痛に歪んだ。


「そう、俺が8月に≪ブルーマーク≫の判定が下りて、全部計画が狂った。なんとかバレないように買い物は全部通販にして、耕作には≪リーダーシステム≫に近づくなって言った。でもどうしても、耕作が好きなパチンコにも行けないことに八つ当たりもされた。それに、出張とかで企業に入る時は、入門時に≪ブルーマーク≫を記録される。その時だけ耕作に介護をお願いしてた。でも、耕作は耐えられなかったんだ。昔からめんどくさがりでさ、宿題とかちょっと嫌なことがあったらすぐに投げ出して、俺が全部代わりにやってたんだ。俺が、どんな思いで今までやってきたのか、わかってくれればなんて……淡い期待をしてたけど、期待するだけ無駄むだだったんだ」


 遊冶は絶望したように手で顔をおおった。


「耕作が、介護が嫌で親父を殺して自殺したなんて、会社に言えなかった。今の職場は優しかった。≪ブルーマーク≫がついてる耕作だってやとってくれたし、俺に≪ブルーマーク≫がついた時も、今までの成績とか信頼とかを考えてくれて……でも、親殺しの兄弟がいる≪ブルーマーク≫がいるなんて、顧客こきゃくにバレたら会社のイメージが悪くなる。そしたら次こそ本当にクビになってしまう。今クビにされたら、いくらこの地帯が特殊とはいえ、≪ブルーマーク≫が再就職しても簡単に信頼を得られない。ゴミみたいなあつかいをされるのは嫌でも見てきた。そんなの耐えられない!」

「だから、この2か月、耕作さんが生きてるように偽装するために、メールだけでのやり取りを徹底したんですね」

「ああ、そうだよ。耕作の介護休業が終わるタイミングで、耕作を装って会社を辞めるってメールするつもりだった。でもあんたたちにバレた。耕作が死んだってバラされた」


 指の間から覗く見開かれた目が血走ちばしり、狂気に染まっていくのが見えた。それに比例するように声が大きくなり、だんだんとまくし立てる。


「そう、今までだって、そうだ。なにも上手く行かない。死んだ方がマシだって何回も思った。でも、悔しくて、いつか見返してやろうと思って、ここまで頑張ってきたのに、なにひとつむくわれない。じいさんが暴力をふるってくるとか、親父が女装を強要するって言っても鼻で笑われた。正直者は馬鹿を見るんだよ。そうだ、そうだよ。あの時だってそうだ。親たちにはお前の方がいいって言われて、おれは無邪気に喜んでた。でも、あいつは、耕作はできないふりして俺に全部押しつけてたんだ。いつもそうだった! まるで一心同体で、気持ちが悪かった。でも同じ顔で、同じ道を歩んできやがって。俺の後ろを歩いてりゃあ安全だよな。俺は地雷探索じらいそうさくの道具だよ! 同じ腹から同じように生まれたのに、ここまで差をつけられなきゃいけない。いつも損するのは自分だけで不平等だ。ただただ良いように利用されるばっかりで、いつまで経っても、何を頑張っても一向に俺は見てもらえない。息抜きで作ってた標本さえだめだって言うなら、俺は何を楽しみに生きればいい? 家族がいるからいい? 兄弟がいるからマシだ? みんなだって辛い? そんな綺麗事は聞き飽きてんだよ! 俺の地獄を知らないくせに! あんた達から見たら俺は化け物だろうけど、俺から見たらあんたらみんな化け物だ!」


 部屋を震わせるほどの絶叫に立ちすくむ。

 唯一ゆいいつ、正面から対峙たいじしている芳乃をのぞいて。


「意味が分かりません」


 冷たい声がした。

 いきなり頬をたたかれたように呆然とする周防を見下げる芳乃は、冷酷な眼を向けている。


「勉強や遊びの時間を浪費させ、もはや意思疎通いしそつうさえできない祖父が嫌いなのも分かります。だらしなくてずっと嫌なことばっかり押しつけて、自分は被害者だとわめき散らす顔がそっくりの弟が憎いのもわかります。捨てられたくせにいつまでもいとしの妻が忘れられず、女装を強要する父親を許せないのも分かります。でも、そんなに嫌いなら、なぜ透明標本にして残すんですか? 憎くて堪らないなら、バラバラにして、埋めてしまうか燃やしてしまえばいいのに。あなたは手間もお金もかかる方法であのクソな家族を保存した。これがたとえ趣味だとしても異様です。とくに、一番憎くて堪らない弟の頭を肌身離さず持ち歩いている」


 芳乃が箱を見た。まるで今すぐに破壊しそうな視線に、周防は全身で隠すように箱を抱え込む。


「こ、これは、バレないように……」

「いいえ、持ち歩く方だってリスクは高いですよ。誰も荷物を触らないとは限らないですし、この犯罪発生率が高い地域であれば、ひったくりや置き引きの被害にう可能性も高い。もし職質なんてされたら絶対に逃げられません。それでも、あなたが耕作さんの頭部を手放さなかった理由は、一体なんですか?」


 芳乃が近づいても、周防は足を凍らされたように動けなかった。

 目の前に立った芳乃は、上から覗き込むように上半身を折り曲げる。

 氷の眼が目を見開くのを強要し、なすがままに心の奥まで覗かれる。


「そうでしたか。あなたは、手放し方を忘れたんですね。泣くな、我慢しろ、金を稼げ、家族を支えろ……たったの秒差で生まれた順番と役割。それを理由に全部押しつけて、みんなあなたに寄りかかって、誰もあなた自身を見なかった。でも、あなたはずっとずっと視てほしかった。認めてほしくて、気づいてほしかった。だから受け止め続けた。そして、ますますみんながあなたにだけ寄りかかった。どんなに苦しくても、それでもあなたは捨てられなかった」


 納得したのか、芳乃が顔を上げた。

 解放された周防は尻もちをつき、尻を引きずり後ろに逃げながら吠える。


「そんな訳ないだろ! 死んでせいせいしてるのに、死んでほしいって願ってたのに!」


 負け犬のようにえる周防に、芳乃は呆れたようにため息をついた。


「それもあなたの本心です。でも、今はどうですか? あなたが背負ってきた祖父も父も弟も死にました。なのに、寄りかかられた重みが忘れられなくて、一番自分が気に入っている標本にして大切に保管し、意味もないのにずっと背負っているんです。とくにその、弟だったモノは特別でしょう」


 芳乃が箱を顎で指した。


「一卵性の双子は、科学的に証明できないほど、深い繋がりがあると言われています。魂の繋がりとも言えるかもしれませんね。元はひとつでしたから。まったく同じ顔の弟に、あなたは自分の結末を視ている。死で解放された彼を通して、自分の死に救いを視ている。だから手放せないんです」


 後ろに逃げ続けた周防は、ついに壁に背中を押しつけた。


「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ! お前なんかに、何も知らないガキに、俺の何がわかる!」


 箱を取られまいと抱え、声が割れるほど絶叫する周防は、まるで幼い子供が駄々をこねているようだった。

 蕗二はそっと踏み出した。

 誰も止めはしなかった。ただ見守るように蕗二の行動を見ている。

 突然の蕗二の行動に体を跳ねさせた周防は、腕の中にある片割れの頭を奪われまいと胸に抱え込んでいる。

 蕗二はひとり分ほどの距離を開けて、服が汚れるのも気に止めず、ゆっくりとおどかさないように床へ正座をした。


「周防さん、今すごく恐いよな。心がぐちゃぐちゃだろ? 全部あいつに視られて、隠してたもんを全部ぶちまけられたんだから」


 警戒心を剥きだしている周防に、蕗二はゆっくりと続けた。


「あんたさ、なにも納得できてないんだろ? 憎くて堪らなかった親父やおじいさん、弟さんまでも勝手に死んでいった。誰にも文句のひとつ言えなかった。だから、ずっと腹底でモヤモヤしてるもんが上手く吐き出せない」

「知ったような口をくなよ! あんたみたいな、勝ち組に何言われてもムカつくだけだ!」


 耳をつんざく怒声に、蕗二はひるまなかった。

 前なら不快だと睨み返しただろう。でも今なら、周防の悲鳴を受け止めることができる。


「俺は、目の前で親父を殺されて、その殺人犯は裁判を待ってる間に自殺した。ショックで高校は浪人ろうにんしたし友人のえんは全部切って、やりたかった野球選手の夢も捨てた。ただただ、自分が許せなくて、死にたくて、警察官になった」


 周防は開けていた口を閉じ、蕗二の言葉を待った。


「自分の手で復讐をげたわけでもない。勝手に奪っていって、勝手に去ってった。だから、何も分からないままで、今もずっとモヤモヤしてる。もう事件から10年も経った。やっと消化できてきたけど、でも正直まだ完全には納得できてない。あんたはどうだ? 知らないうちの母親が離婚して、家を出ていった。女装を強要され、逃げてやっと自分を取り戻せたのに、介護で連れ戻されて、暴力をふるってくる祖父は勝手に死んで、せっかく入れ替わり作戦を考えたのに親父が死んで、まさかの弟まで勝手に死んだ。それで、あんたは納得できるのか? 本当は、言いたいことがあったんじゃないのか?」


 あえぐように呼吸していた周防の口が、意志を持ってわずかに動いた。


「ずるい、って言われた」


 ほとんどかすれた声だったが、周防は確かにそう言った。


「耕作に、遊冶はずるい、って言われたことがある。なんでも上手く行ってるように見えるって、親父にも可愛がられてるって。俺から見たら、耕作の方が自由で何でも許してもらえてて、甘やかされてるようにしか見えなかった」


 壁に貼りつくように背中を押しつけていた周防が、こちらに向き合うように座り直した。


「耕作が、死んでるのを見て、体が半分無くなったように感じた。俺さえ我慢すれば、ぜんぶうまくいってたはずなのに、なんで…………なにもかも、うまくいかなくて」


 箱を抱えたまま、震えながら言葉を絞り出す。


「できない。……なにひとつ、なんにも納得なんて、できてない。でも、もう言いたくても、死んじゃったから、もう、だれに、なにを言えばいいのかもわからない。さびしくて、でもなにも残ってなくて、だれになにを頼ればいいのか、どうしたらいいのか……」


 ふと顔を上げた周防は、膝を引きずりながら近づいてくる。


「なあ、刑事さん。俺は、死刑か?」


 蕗二はいやと首を横に振った。


「死刑ではないだろうな」

「な、なんで?」


 膝を突き合わせるほど近くなった周防は、すがるようにこちらを見上げてくる。


「なんでって、あんたは誰も殺してないからだ」


 周防は信じられないと目を見開いた。


「そんな……じゃ、じゃあ、お、弟の殺人は……?」

「2件目の、弟の件は被疑者死亡で書類送検だ。あんたには関係ない」


 周防が絶望したように青ざめた。


「なんで、なんでだよ! なんで楽にしてくれないんだ! なあ、なあ刑事さん、死刑にしてくれよ、頼むよ! もう俺は耐えられないんだ!」


 すがるように肩を掴まれ、揺さぶられる。力が入り白く食い込む指をつかむと、ガラスのように冷たかった。


「それは俺が決めることじゃない」


 ゆっくりと手を握り、そっと引きがす。そのまま熱をわけるように握り込んだ。


「周防遊冶さん。辛くて、自分で死ぬ勇気もなくて、誰かに殺されて被害者として死にたい気持ちも分からなくもない。でもな、警察は都合のいい自殺請負所じさつうけおいじょでもなんでもない。法律って言うルールに反した人間をルール通りに裁くのが仕事なんだよ。世間は好き勝手に罪を犯した「人」を裁こうとするけど、警察は裁判をして、法律のもとに人の「罪」を裁く。遊冶さんがやったのは、死体を加工し、遺棄した罪だ。それ以外の罪は、背負わなくてもいい」

「お、弟が、殺してしまったあの人は……」

「弟の罪だ。たとえ家族でも、お前がやってないなら関係ない」

「じゃあ、俺は、……どう、すれば?」


 蕗二は後ろ手にジャケットをめくり、腰に装着していた手錠ホルダーを開ける。つや消しされた黒い手錠を、染みついた手順で周防の手首にかける。カチカチとロックされる金属音だけが部屋に響く。


「祖父、父、弟3件の死体損壊(そんかい)および遺棄いきと、1件の死体遺棄幇助(ほうじょ)の容疑で逮捕する」


 呆然と手錠を見つめる周防に、蕗二は手を握って真っ直ぐ顔を見る。


「周防遊冶さん。あんたはただただ不運が続いた、本当に気の毒だと思う。でも死刑にはならない。この先も、生きなきゃいけない。一人で不安だろう。将来だって悲観すると思う。でもあんたはずっと真面目だった。したってくれた会社の人も、あなたを評価してくれたお客さんもいる。あんたをちゃんと見てる人もいる。それは忘れないでほしい」


 強く手を握り、はげますように肩を叩いた。

 遊冶は手首を繋ぐ黒い手錠を見つめている。

 しばらくして、蕗二の言葉を噛み締めるように小さく何度も頷いた。ぼんやりとした表情を浮かべているが、まるで悪夢から目が覚めた直後のようだ。


「そっか、もう……終わったんだよな。もう、何も背負わなくてもいいし、何も隠さなくていいんだ」


 あれは夢だったと確認するかのように呟くと、膝の上に抱えていた耕作を見つめる。


「なあ耕作。小さい頃は、ずっと一緒だって言ってたよな。あんなに毎日くだらないことばっかりしゃべって、いっぱい遊んで、出かけて、楽しくて……仲も良かったのに……なんで、こんなことになったんだろうなぁ」


 耕作に話しかけるように呟いて、箱の中に浮いている頭をなでる。


「たぶん、お前も、俺の知らない何かを抱えてたんだろうなぁ。何か怖いことを言われたりしたのかもな。でもなにも話してくれなかったよな。俺も、自分のことだけで手いっぱいで、話を聞いてやれなかったもんなぁ」


 まばきするたびに、遊冶の目から涙があふれて透明な箱の上に落ちていく。


「ずっと、一緒にいたかったのに。もっと、話したかったよ。話したかったのに……」


 かすれた声がすすり泣く声に変わる。

 滴り落ちた涙は箱の表面を伝い、耕作の頬を滑り落ちていく。

 冷たい箱の中、まるで彼も泣いているようだった。










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