File:6.5 血塗れの白い一角獣
戻れば、片岡と野村は突然現れた菊田に驚きはしなかった。竹輔の襟元のバッチに仕込んだカメラから状況を把握していたおかげだろう。ついでに気が利くことに人数分の椅子も追加されていた。
椅子に腰かけベッドの上の芳乃を見れば、あいかわらず目を閉じたままだ。
「まだ目は覚めないか……」
「迷走神経反射だけだったらもう起きてるだろうけどぉ、蓮くんは眼の事もあるし、疲労も溜まってるんだと思う。でも、呼吸も安定してるから大丈夫だよぉ」
野村が言うなら安心だ。仮眠が取れたのか、やや隈が薄くなった気がする片岡が欠伸を噛み殺した。
「我々も、しばらくは待機と言う事でいいかね?」
「ああ、あの首なしのご遺体が誰なのかで捜査範囲も変わるからな」
周防耕作の行方を見失った今、被害者がいつ攫われ、いつ殺されたのか、痕跡をたどるしか方法はない。
ただ待つのは苦痛だが、休む必要もある。
結果が出るまで解散の提案をしようと口を開いた直後、ふと端末がバイブレーションする音が聞こえた。竹輔が機敏な動きでスーツのポケットから液晶端末を取り出し、画面を見て飛び上がるように立ち上がった。
「東検視官からです!」
菊田と蕗二はすぐさまベッドの側面からオーバーテーブルを展開し、竹輔がその上に端末を置いて固定した。応答ボタンを押せばカメラが起動し、凛々しい女性が映りこんだ。
東はガラス張りの部屋にいるようだ。腕いっぱいに資料を抱えた制服姿の警察官やタブレットを抱えて足早に移動する白衣を着た人々が時々東の後ろを通り過ぎていく。
『あら、もしかしてかけ直した方がよかったかしら?』
こちらの様子ももちろん東に見えている。ベッドにいる芳乃に、さすがの東も気が引けたようだ。
「いえ、お構いなく」
『そう? じゃあ遠慮なく。ちょうど菊田もいるから助かるわ』
画面をのぞき込んでいる菊田を見て、東は茶化すように手を振る。
「ということは、ゴミ屋敷のご遺体の身元が分かったのか?」
菊田が我慢できないのか、画面に顔を寄せる。近いから下がってと窘めながら、東は満足そうに口の端を持ち上げる。
『話が早くて助かるわ。科警研でDNA鑑定したら、あなた達の予想通り周防耕作の実父・周防ヤマネだった』
東は膝の上に置いているのだろう、液晶タブレットを操作する。
『生体反応から、死後約2か月前の8月に亡くなった可能性がある。あとは、内臓が喪失しているからあくまで推測だそうだけど、細胞を分析した結果、被害者は飢餓状態だったみたい』
「飢餓?」
『ええ。もしかしたら被害者の周防ヤマネの死因は餓死かもしれないってこと』
東の言葉に納得できないと蕗二は声を張り上げる。
「周防ヤマネが住んでいた家には、車いすや介護用品もあった。介護放棄されたような乱れた感じもなかったのに、なんで餓死してるんだよ」
竹輔が腕を組んで、低く唸る。
「では、周防ヤマネさんが死後あの部屋に運ばれたのではなく、生前からあの部屋にいて、なんらかの原因で餓死したと言う事ですか?」
「じゃあ、移動させる理由はなんだよ」
「その前に、周防ヤマネさんのご自宅には謎の首なし遺体があって、周防耕作名義の家に周防ヤマネさんがいたということは……どういうことですか?」
竹輔の質問返しに、蕗二も首を傾げる。大人しく聞いていた片岡が眼鏡を鼻上に押し上げた。
「首なしの遺体があったから、周防ヤマネさんがあの家にいたら困るということか?」
どうかね? っと野村に尋ねる。野村は首を左右に捻りながら難しそうに顔を顰めていた。
「うーん、逆じゃなーい? お父さんの周防ヤマネさんがあのゴミ屋敷にいるから、実家で犯行ができたってことなんじゃないのぉ?」
その場の全員が首を傾げてしまった。たまらず蕗二は頭を掻き毟る。
「待て待て待て、混乱してきた! とりあえず、どっちが先かは置いといて。3件目の事件は、周防耕作が実父の周防ヤマネを殺したことで確定した。あとは4件目が誰なのかだ」
同意を求めて東を見る。すぐに凶悪な笑みを浮かべて声高らかに返答が来ると思っていたが、大人しく画面の中に収まっていた。凛々しく吊り上がった目元が、返答に迷っているのか濃い影を落としている。
『そのことだけど、さっき科捜研に運ばれた首なしのご遺体、ホルマリン固定されてただけだから、ばっちり指紋が取れた。で、すぐに指紋認証をかけたんだけど』
東はそこで言葉を切る。鋭い目つきをさらに鋭くし、怒っているようにも見える。
『周防耕作だった』
全員が「はあ?」っと同じ声を上げた。
「俺たち、ついさっき周防耕作に会いましたよ!?」
『どこで?』
「としまえん跡記念公園です」
『はあ? あり得ないわ。それ本人だって証拠はあるわけ?』
歯を剥いて威嚇する東を宥めるように竹輔が片岡に「カメラの映像を」と指示する。
すぐさま片岡が左手の人差し指を突き出し、指輪型端末を展開して動画を見せる。
念のため、としまえん跡記念公園のゲートに付いていた防犯カメラの映像を片岡にハッキングするように伝え、保存していたのだ。
再生された動画には、黒いヘルメットを被った男が、遮断器型のゲートの下を無理やり潜り抜け、フェンスをよじ登って脱出した。その15秒後、竹輔がゲートを飛び越える姿が映る。
その映像を無言で見つめていた東に、横から菊田が液晶タブレットを見えるように立てた。
「今の動画の信憑性だが、≪リーダーシステム≫にも記録されている。としまえん跡記念公園から逃走後、うちの帳場の刑事たちも同じく追っていたが、途中で途絶えて追跡は断念した」
そう、といって東は考え込むように額を拳で叩く。
東が悩むのも分かる。
首なしのご遺体が本当に周防耕作なら、死後8時間以上経っている。つまり、としまえん跡記念公園で遭遇したのは別の誰かと言う事になる。
蕗二が見たのは目元だけ、それに一瞬の事だ。周防耕作だったという確信はない。
だが周防耕作と直接対峙し、心が視える芳乃なら分かるはずだ。
今は目が覚めるのを待つほかない。
東のため息が聞こえ、眠る芳乃の顔から画面に視線を移す。
叩きすぎたのか、額を一部赤くした東は顎をわずかに上げた。
「私も首なしの遺体が周防耕作だって知った時に、指紋鑑定だけじゃ捜査員が納得できないだろうから、念のためDNA鑑定を依頼した。結果はもうじき分かるわ。といっても、双子のDNA鑑定は半分意味をなさないけど」
「意味がない?」
ああそうだねぇと納得した野村以外、首を傾げる。東は大げさに手を広げて驚いて見せた。
「あーら、知らない? DNAって簡単に言えば体の設計図の事だけど、卵巣からふたつ同時に卵子が排出されて同時に受精・着床のが二卵性だから、DNAはまったく別なのね。一卵性はひとつの受精卵から分裂する過程で生まれるから元が同じならDNAは同じに決まってるでしょ? 周防耕作は一卵性の双子だから、あのご遺体のDNAを鑑定しても、もうひとりのお兄さんの可能性が出てくる。そんな事になったら、ややこしいことになるでしょ?」
「じゃあ、あのご遺体は周防遊冶の可能性もあるって事ですか?」
「それは違う。DNAはまったく同じでも、指紋は分裂後に生成される。だから指紋は非常に似てたとしても完全に同じじゃない。静脈も同じね。だから双子にも指紋や静脈を使った個体認証は有効なのよ」
一息に言い切った東は、机に肘をついてぐっと顔を画面に寄せた。
「で? もうここまで来たら、あんたたちの中でも答えは出ているんじゃないの?」
蕗二に視線が集まる。
警察がずっと疑っていた周防耕作。
しかし、彼は死んでいた。
その体は、彼の犯行とよく似た加工を施されようとしていた。
何度も引っかかっていた違和感。
美しすぎる遺体。
狭い部屋の中で行われた遺体の加工。
身内殺しの中に、一人混じった他人。
これらが、形を持って目の前に集まり、あるひとつの可能性を導き出している。
これによって、ここにいる全員がおそらく犯人を予測している。
十中八九、口をそろえて同じ名前を口にするだろう。
答え合わせは、蕗二が口にすれば終わる。
だが、蕗二は躊躇っていた。
躊躇ってしまった。
サンタクロースは実在しなかった事実に落胆する感覚に似ている。知らなければ夢を見ていられたと身勝手な感情だろうか。そう、真実とは時に残酷なものだ。知らなければよかったと言う事はいくらでもある。
この事件は、暴いてはいけない。
暴けばきっと、誰も幸せにはならない。
目を背けて、知らないふりをすれば、他人事だと笑っていられるだろう。
背後で笑う気配がした。
腹底に潜んでいる殺意が喉奥を鳴らして笑っている。
「あなたは自身の殺意と向き合い、そして認知した。これから、殺人を犯した人たちへの認識が変わるはずです」
多田羅が言っていた警鐘が頭の片隅によぎる。
ふと足元に視線を落とす。
殺意の一線が目の前にある。
真っ黒な空間の中、ただ引かれただけの白い線。
俺は今、どちら側に立っている?
不意に唸り声がした。振り返ると、芳乃が眉間に皺を寄せて、身じろいでいた。
「芳乃!」
うなされているのかと肩を叩けば、虚ろな目が蕗二に向けられる。
「大丈夫か?」
芳乃は答えない。ぎこちない動きで上半身を起こす。
ふと両手を目の前に持ち上げて、なぜか手のひらを見つめた。
「ぼくの……めは、ありますか?」
芳乃の質問の意図が分からず、片岡と野村は返答に戸惑い、竹輔と菊田は怪訝な顔で芳乃を見つめた。
しかし、芳乃は何かに怯えているのか、黒い眼は伏せられたままだ。
「目? あるに決まってんだろ」
蕗二がそう断言すれば、芳乃は意を決したように、両手をゆっくりと顔に近づける。
恐る恐る軽く閉じた瞼の上から、指先で眼球の感触を確かめる。
手を瞼から離し、視力に問題ないか確認しているのかしばらく手を見つめていたかと思えば、顔を両手で覆い、細く長く息を吐く。
「おい、一体どうしたんだ?」
「めを」
「目?」
「目を、取られたかと…………今まで視てきた人の中でも、あんなのは……視たことなくて」
よほど怖かったのか、引きつりそうな呼吸を宥めるように深呼吸を繰り返している。
思わず撫でた背中から震えが伝わってくる。
「何が視えた?」
指の間から、黒い眼がこちらを見る。
「深い虚穴」
掠れた小さな声が告げる。震える背を丸め、怯える姿とは反対に、指の間から覗く黒い眼はぽっかりと穴を開けてこちらを視ている。
どこまでも、地の底まで墜ちていきそうな、深い虚穴。
シャッとカーテンが素早く引かれる音とともに看護師が入ってきた。その後ろに竹輔がいるところから、どうやら呼びに行ってくれたようだ。
場所を譲ると、失礼しますと看護師は芳乃の右腕に刺さっている点滴を素早く抜き始める。
処置を見ていると、菊田が蕗二の肩を軽く叩く。
「出直そうか」
「いえ、構いません」
蕗二が頷くよりも先に、力強い芳乃の声が呼び止めた。
先ほどまでの姿が嘘だったように、背筋を伸ばして前髪を掻き上げる。寝乱れてもいない髪は素直に頭の形に添って流れ落ち、開かれた眼を隠した。
警察病院ということもあるのか、看護師が慣れたように「では、終わりましたらお声掛けください」と一礼してカーテンの向こうに出ていった。
めくられていたシャツの袖を直し、芳乃は順番に全員の顔を視る。
「ぼくが寝ている間に、事件が解決した……訳でもなさそうですね?」
「ああ、でもほとんど見当はついてる」
「ではなぜ、ここでモタモタしてるんですか?」
芳乃の問いに、口を噤む。
心が視える芳乃には筒抜けなのは承知だが、どうしても食い占めた歯を離せなかった。
ふと、引き寄せられるように黒い眼を見る。
黒い眼が瞬きもせずこちらを視ている。
今更なにを怖気づいているのか。
責めることもなく、急かすこともない。だが淡々と問うてくる。
お前は犯人にまで同情するほどの憐み深く清い人間なのか。清い人間だから犯人に寄り添い、そして被害者を運が悪かったと蔑ろにして善人のふりをするつもりなのか。
否、そんな事があって良いはずがない。
そうだ、私情を挟むべきではない。
殺意を抱いた自分の死に場所を求めて、不健全な理由で刑事を目指したのは事実だ。
だが同時に、理不尽にも殺され、犯人の死とともに犯行理由は闇に葬られてしまった父の死を、二度と繰り返したくないと思ったのもまた事実だ。
相反する感情。どちらを持っていようと今自分は刑事だ。
それなら、刑事としての役目を全うしろ。
どれだけ無様でも、どれだけ罵られても、この道を選んだのなら。
蕗二は深く息を吸い込み、口を開いた。




