File:4.5 年老いた羊の皮を剥ぐ
駐車場の隅に止めてあったシルバーの覆面パトカーに近寄って軽く手を上げると、助手席の竹輔が手を振り返えした。
後部座席を開け、芳乃を乗せてから運転席へと乗り込めば、待ってましたとばかりに「おかえりなさい」と声をそろえ竹輔と野村がこちらを見詰めてくる。
「待たせて悪かった。報告したいが、菊田さんから初動捜査会議が終わったって連絡が入った。他の刑事たちと鉢合わせる前に一回本庁に戻るぞ」
手早く端末を操作して、竹輔に菊田のメールを転送する。竹輔がシートベルトを締めながら端末を確認している間に、蕗二は手動運転で人間が歩くのと同じスピードで門へと車を進める。
「蕗二さん、本庁に戻る前に報告があるんですが」
竹輔の声に蕗二は目を見開く。てっきり端末を確認していると思いきや、先に野村へ譲ったらしい。
「どうした?」
「実は蕗二さんたちが周防耕作の職場に行っている間に、東検視官から電話があったんです」
鋼鉄製の門の前で車を一旦停止させる。門は来た時と同様、自動でゆっくりと右へとスライドする。公道に出る手前で、もう一度車を停止させ、手動運転から自動運転へと切り替えた。ナビの履歴から警視庁を選びROUTE STARTのボタンに触れながら、「どうだった?」と続きを促す。
「3件目の遺体発見現場ですが、風呂場から微量の薬品反応が検出されたようです」
「微量?」
ブレーキから足を離せば、車は公道へと滑り出た。念のため蕗二は視線を前に向けたまま、後部座席の野村に声をかける。
「野村、ご遺体を透明化するには、全身薬品に漬けとかなきゃいけないんだろ?」
目の端で確認したルームミラーに映った野村は、竹輔から預かった端末を穴が開くほど凝視していたが、蕗二の声も聴いていたようだ。頭上を見つめ、うーんとわざとらしい唸り声がしばらく続き、大きく頷く気配がした。
「うん、全身薬液に漬けないとムラになっちゃうからねぇ。でも、人間規模の透明標本を作ろうとすると薬品もいっぱいいるじゃーん? でもその大量の薬品を下水に流しちゃうと配管が壊れちゃうし、最悪化学反応でドカーン! 爆発しちゃうからぜーたいダメ! たぶん犯人はお風呂の浴槽に耐水性と耐薬性のあるビニールを張って、薬品を入れ替える時は灯油ポンプとかでポリタンクに移し替えて、どっかで中和して捨ててると思うけどぉ?」
「だから微量しか検出できなかったのか」
遺体のあった部屋を思い浮かべる。
カーテンは細く開けられ、差し込んでくる白い光で輝く透明な箱の中で、赤と青の美しい遺体が浮かんでいた。
唯一ある玄関へと足を向ける。ゴミだらけの部屋。足元は通る場所だけ踏み固められた獣道がある。
歩いて5歩。右手には食べ終わった即席カップ麺やスーパーで買える弁当の空パッケージが積み上げられている。よく見れば使われていないIHコンロの上に電気ケトルが置いてある。首を左に振れば、扉がひとつとカーテンで隠された部分がひとつ。扉を開けると中はトイレだ。使い終わったトイレットペーパーの芯が足元に並べられていることと、壁が薄っすら黄色味をおびてツンと目と鼻奥に刺さるような臭いがうっすらする以外は、意外と綺麗だった。
そしてカーテンで隠された場所は洗面所だった。
独立洗面台には毛羽立った歯ブラシが何本も刺さったコップや薄っぺらくなった歯磨き粉のチューブ、汚れがこびりついた電動髭剃りなどが無造作に転がっている。隣には蓋が開いた洗濯機があり、中には洗ったのか洗っていないのか分からない洗濯物が満杯まで入っている。その奥に半透明の扉があり、そこを押し開けると風呂場があった。中はゴミだらけの部屋に比べて一番綺麗で、垢の付いていない深めの浴槽と部屋の隅にリンスインシャンプーのボトルがひとつ置いてあるだけだった。
風呂場が綺麗な理由は、ここで犯人が遺体を加工したからだろう。
野村曰く、遺体を透明化させる中で、内臓を取り出す必要があると言っていた。
実際、菊田の報告では胸腹部の内臓はすべてなくなっていたと報告を受けている。
あのゴミだらけの部屋では、作業など到底できるわけがない。
だからこそ、汚れても洗い流せば済んでしまう風呂場が最適だ。
流れ出る血やこぼれる臓物を新聞紙やシートで受け止めるにも限界がある。ご遺体の加工に使用する劇物や毒物指定の薬品を万が一こぼしても安心だ。
だがここで気がかりがある。
もし、3件すべてが周防耕作の仕業だと仮定した場合。
1件目、被害者の周防ハツカの家の風呂場からは何も検出されなかった。
重要参考人として聴取された周防耕作の自宅も、もちろん家宅捜索されていた。しかし、当時の記録からは風呂場などから犯行の痕跡は一切発見されず、重要な証拠となる薬品も見つかっていない。
2件目の事件も同じくだ。
と言うことは、加工した場所はまた別の場所だということだ。
しかし、今回は周防耕作が契約している部屋の中で行われた。
もし他の場所で加工し完成したものを、あの部屋に運び入れることは簡単ではない。
狭い間口に急な階段、足の踏み場がない散らかった部屋に運び入れる手段はただ一つ。クレーンで釣りあげることだけだ。
だが、そんな大胆なことをすれば、さすがに周囲は気がつくはずだ。
しかし、通報の形跡はひとつもない。
だから部屋の中で加工するしかなかった。
だが、それだけが理由だろうか。
ゴミが綺麗によけられた部屋の真ん中に立つ。
目の前には美しい遺体が静かに浮かびながら蕗二を見降ろしている。
似つかわしくない場所にひっそりと置かれた透明標本。
3件の事件の中で、最も精巧にできた芸術品。
自己主張の強さと真逆の行動。
この場所で加工しなければいけなかった理由。
それは一体なんだ。
ふいに後ろから白い腕が伸びてきた。
肩を跳ねさせ、右によけると勢いよく肩をぶつける。
「三輪っち大丈夫?」
間延びした声。白い腕の先には見覚えのある深い緑色の液晶端末を握っていて、竹輔が何ともないように受け取ったところで野村の腕だと気がついた。
「うーん、この死体がなんで死んだのか、理由がわかんないなぁ。頭部、頸部周辺に損傷なしだから、とりあえず撲殺と絞殺の可能性は低いかも? 刺されたり殴られたりして内臓出血で死んだ可能性もあるけど、モノがないから何とも言えないもんねぇ」
ルームミラーの中で野村は困ったなぁっと首を左右に振っている。
ドアにぶつけたせいで、じわりと痛みが広がる肩を擦りながら、蕗二は思いついた疑問を口にする。
「そもそも、透明標本ってどうやって検視するんだ?」
「透明標本って本当に透明になってるわけじゃなくて、結局は屈折率でかぎりなく透明に見えてるだけなのねぇ。ほら、油の中にガラスのコップを入れたら見えなくなるみたいな? だから、グリセリンから取り出せば肉体はちゃんとあるんだぁ。だから検視はできるよ。でも、ギリギリ形を保ってる状態だから、あんまり触ると崩れちゃうかもねぇ」
「そうなのか。てっきり骨だけになってるんだと思ってた。じゃあ、前のご遺体の身元はどうやって特定したんだ?」
立て続けに問いを重ねる蕗二に今度は竹輔が答えた。
「東検視官によれば、前回や前々回は被害者の歯型から身元を特定したそうです」
身元不明のご遺体の個人を特定する手段として、歯型鑑定が一番真っ先に行われる。これは度重なる災害によって大勢の身元不明者が出た経験からだ。DNA鑑定をするにはご遺体から検体を採取しなければいけない。通常は毛根や口の粘膜などから採取するが、災害によって体の損壊が激しい場合は骨などからDNAを採取する必要がある。つまりは遺体を傷つけなければいけない。遺族への心理的負担がかかること、DNAを採取できる技術者の確保、鑑定時間、金銭的コストなど様々な問題があった。そこで歯科医師会に患者の歯の数や特徴、治療履歴、レントゲン写真などのデータを長期保管するよう要請し、警察と情報を共有することによって、ご遺体の身元を速やかに鑑定できるようになっていた。
「でも今回、身元判明に手こずってるって事は、もしかして歯がないのか?」
「いえ、今回のご遺体は歯科治療履歴が長らく無いようで、データと一致する方がいないそうです」
「あー、そうだよな。町医者に世話になることはあっても、歯医者なんて滅多に行かねぇもんな」
溜息とともに深く座席に腰かける。赤信号になったのか、自動車はいつの間にか止まっていた。
「じゃあ、もう身元を特定できないって事か……」
LEDの赤い光を溜息交じりに見つめると、明るい声が後ろから上がる。
「でも東っちがカケイケンで調べるって言ってたよ!」
「カケイケン? もしかして、あの科警研に持って行くのか?」
科学警察研究所。通称・科警研と呼ばれるそれは警察庁所属で日本にたったひとつしかない施設だ。
ドラマなどの影響で知名度の高い科捜研は各都道府県の本部にひとつあり、20人程度で構成される。だが科警研には100名以上が所属し、より規模が大きく、より専門的で高度な鑑定も行う研究開発機関だ。
犯行で使われた拳銃の特定や偽造通貨の鑑定を行ったり、鑑識が使う捜査道具の開発や指導も行っていると聞いたことがある。
「今回のご遺体は、科警研でDNAを採取して、全日本国民のDNAデータと照合するそうです」
「全国民って、本気過ぎて怖いな」
「東っち、めっちゃくちゃかっこよかったよぉ! 『事件当時は実現不可能だったかもしれないけど、今ならできる。科学の力を見せてやるわ!』って!」
歯を剥いた東のすごむ表情が目に浮かぶ。だがこれで大きく一歩前進だ。
安堵の溜め息をつくと目の前の信号が青に変わり、滑らかに自動車は発信する。
「他に何か報告はあるか?」
竹輔はジャケットの内側から手帳を取り出してペンを挟んであった場所を開く。
「周防耕作の家族構成ですが、父親は高校の教師だそうです。母親は生徒だったようで、教師と生徒の関係から妊娠をきっかけに結婚。しかし教育方針のすれ違いから22年前に離婚。当時18歳だった周防耕作は父親に引き取られています」
「兄は?」
蕗二の言葉に、竹輔は手帳から顔を上げ、首を傾げた。
「兄? 兄ですか? ええっと」
竹輔は再び手帳に視線を落とし、文字を指先でなぞる。
「ああ、同じく父親に引き取られていますね。でもどうして」
竹輔が最後まで言葉を言う前に、被せるように声が鼓膜を叩く。
「会いましたよ、さきほど」
突然の言葉に、竹輔が目を剥いて後部座席を振り返る。何食わぬ顔で竹輔の視線を受け止める芳乃をたっぷり見詰め、ぎこちない動きでこちらに首を回す竹輔に気まずくなって、蕗二は眉間を摘まむ。
「すまん、周防耕作の実の兄・周防遊冶に会ってきた」
「重要参考人の親族って、それはちょっと早すぎるかと……」
「みなまでいってくれるな。周防耕作の兄も、同じ職場で働いてたんだよ。会ったのは、松葉さんが気を利かせてくれたのか手違いか……まあともかく、俺たちの収穫は3つ。ひとつ、周防耕作は双子だって事。ふたつ、周防耕作は今、介護休業中で職場にはいない事。そしてみっつ、10月に復帰予定だってことだ」
蕗二の言葉を噛み締めているのか、竹輔は助手席に座り直し、意味もなくハンカチで顔を拭う。目元を押さえて静かに息を吐き、蕗二と視線を合わせる。
「ちなみに双子って、一卵性ですか?」
「さすがだな、一卵性だと。まるで鏡に映したみたいにそっくりだったぜ」
後ろから芳乃が鑑識のタブレットを竹輔に渡した。竹輔は画面を見て険しい顔をする。握りしめたハンカチを口に押し当てながら、竹輔はタブレットの文字に目を走らせる。
「兄も≪ブルーマーク≫で、しかも判定結果まで一緒なんて……」
深い溜息をハンカチの中に落とす竹輔に、蕗二は運転席と助手席の間にあるコンソールボックスを叩いて気を引く。
「2件目の事件、覚えてるか? 公園の真ん中に置かれてたやつ。加工済みのご遺体が入った箱は高さ約2メートル、重量だって相当だ。一人じゃ運ぶなんて絶対にできない。だけど双子なら、ゲソコンが一致する可能性がある」
「確かに! 双子ならサイズも同じですし、同じ靴を偶然履いていたとは思えません。一人に見せかけて、実はあの場に二人でいたとすれば、箱詰めされた大きな遺体も運べます。主犯が弟の耕作さんで、兄の遊冶さんが手伝ったと考えるべきかもしれませんね」
蕗二と竹輔が頷き合っていると、突然野村が手を前に突き出した。
「はいはーい、班長ぉ! 私ちょっと気になることがありまーす」
「班長って、なんだよ急に改まって。どうした?」
「もしもぉ、犯人の周防耕作って人が、兄に手伝わせようとして介護を理由に辞めさせたとして、その介護の理由になったおじいちゃんは、どうだったの?」
「どうって?」
「だってねぇ、警察もおバカさんじゃないじゃん? 介護が不要だったら怪しむでしょぉ? でも、誰も気にならなかったんだったら、介護退職は本当なんじゃなーい? たとえば、寝たきりになってるとか、それこそ認知症でずっと見張ってないとやばい状態って事なんじゃないのぉ?」
蕗二は頭の中で捜査資料のページをめくる。
1件目の被害者の、周防ハツカは確か家を出かけたっきり行方不明になっていたはずだ。だから寝たきりではないはずだが。
同じ事を思ったのだろう、竹輔がすぐさま鑑識のタブレットを操作する。タップとスクロールを繰り返していた指が止まる。はっと短く息を吸う音。そしてタブレットが差し出される。
受け取ったタブレットの画面には、警察の行方不明者届一覧が表示されていた。
その中の周防ハツカの名前と、履歴を見て眉間に力が入る。
周防ハツカには、過去5回も行方不明者届が出されていた。
詳細を開けば、他人の敷地内に無断で侵入し通報によって保護、道端で動けなくなり通行人が救急車を呼び診察時に身元が判明、自宅から徒歩で8kmも離れた場所で発見されているなど、明らかに重度の認知症の症状が並んでいた。
「介護ヘルパーは派遣されてないのか?」
蕗二はすぐさまタブレットを操作して、周防ハツカを検索する。
鑑識のタブレットであれば、警察が保有する特殊なサーバーと接続が可能だ。そこでは個人情報を調べることができる。ただし、悪用ができないよう巡査部長以下の階級はアクセス権がなく、閲覧すらできない。だが、責任者クラスである警部補の階級を持つ蕗二には、アクセス権があった。
「市役所に、要介護認定を受ける手続きをした記録があるな。でも、要支援1って判定されてる」
「えッ? 要支援1?」
声が裏返るほど驚く竹輔に、蕗二はタブレットを差し出した。タブレットを受け取った竹輔が画面を穴が開くほど見つめ、信じられないと呟いた。
「なんで……支援1って、7段階中1番下ですよ? 判定が低すぎる、徘徊行動が出ているなら要介護2でもおかしくないはずですよ」
「そうなのか?」
「親戚のおじいさんが初期の認知症で介護認定を受けたことがあるんです。それでも要介護1だったんです。それなのに……」
画面を見つめたまま青ざめる竹輔に、野村は納得したように声を上げる。
「あー、それはたぶんねぇ、あれだと思うよぉ? 認知症の患者さんってお医者さんとかお役所の人の前だと、なんでかすごい元気になっちゃうんだぁ。動物とかもそうだけど、本能的に弱みを隠しちゃうっていうかぁ、怪我してても怪我してないふりするっていうの? 見栄っぱりっていったらいいのかなぁ。一時的にすごく普通っぽくふるまえるんだよねぇ。だから実際よりも診断が軽くなっちゃうこともあるよぉ?」
「はあ? それじゃあ、困るだろ。介護が必要なのに診断されないんじゃ……」
目尻を吊り上げる蕗二に、野村は口の端を持ち上げる。
「うん、だから裏技で普段のやばい状態を携帯で動画撮っとくとかぁ、自宅訪問チェックの時には絶対同席して、質問にたまたまハキハキ答えて正解しちゃったときは後ろで首振って嘘ですってジェスチャーしたりするんだぁ。これを知らないと、認定落とされる確率上がっちゃうんだよねぇ。私は友達に看護師さん多いからたまたま知ってるだけだけどぉ。竹っちのところはちゃんと下調べしてたんだねぇ?」
えらいえらい、と子供を褒めるように野村は竹輔に笑いかけるが、竹輔は青白い顔のままタブレットを持った手を震わせていた。
「じゃあもし、その情報を知らないまま、今まで要介護認定が低く判定されてしまったケースがあるって事ですよね?」
「うーん、不服申し立てはできるみたいだけどぉ? でもだいたいの人は、そもそも申し立てができることも知らないかもねぇ? 不正対策かもしれないけどぉ、ぶっちゃけ今すっごい超高齢社会だから、何でもホイホイOKできないくらい人手不足のキャパオーバーが一言なんじゃなーい? だから在宅介護とかお家の人がなるべくやってねぇって薦めるんでしょ? でも素人がいきなりプロになれるわけないじゃん。ママだって生まれた時からママじゃないしー? 子育てだって1人でできないのに介護ならなおさらだよぉ。でも面白い話、子育てって周りも結構協力してくれるけど、介護になった途端みーんな手伝わなくなるんだよねぇ。見えないふりをするのぉ? でも、結局は誰かが代わりにやらなきゃいけない。だから、立場が一番弱い人に押しつけられるんでしょぉ?」
助手席の座席にもたれかかり、木の上で謎かけする猫のように、野村が目を細めて笑っている。
「もったいぶるなよ、何が言いたい」
蕗二の低い声に動じることもなく、野村は悠々と頬杖をついて答えた。
「私の予想だけどぉ、周防兄弟は『若者ケアラー』だったんじゃなーい?」
竹輔が、ひゅっと喉を鳴らした。蕗二も押し黙るしかなかった。
超少子高齢社会に突入した日本では、高齢者の寿命が大幅に伸び、人生100年とも言われるようになった。病床利用率の増加により長期入院が困難であったこと、自宅で看取られたいと言う希望が多かったらしく、自宅介護の割合も増えたと言う。老いた夫婦が介護をする、いわゆる老々介護も問題視されていた。
が、2042年になり、事態はより深刻になる。
超少子高齢社会により慢性的な人手不足によって、老いた両親を介護するはずだった娘や息子が共働きによって介護することが困難だった。
そして超高齢社会により、介護施設や病床利用率は常にひっ迫し値段も跳ね上がっていた。自宅介護も推奨されているが、入居させる金銭面が厳しい家庭は、ついには子供、つまり孫が介護を担うことになった。
子供は学校から帰ってくると祖父母の介護をするという状態に陥った結果、孫の学業に支障をきたし、進学や就職が困難になると言う社会問題へと発展していた。
18歳未満で祖父母の介護をしている者を『ヤングケアラー』、18歳以上で祖父母の介護をしている者を『若者ケアラー』と呼んでいる。
10年前。もし周防耕作は祖父である周防ハツカのケアを行っていたと仮定すればどうだ。
教師である父親は介護ができない。仕方なく周防耕作が介護を一人で受け持っていたが、やがてそれも限界を迎え、手助けのために兄の周防遊冶も仕事を辞めた。しかし素人の手には負えなくなっていく。
援助もない、治ることもない、未来などない。誰も彼もが目を背ける部屋の中、同じ顔をした兄弟が殺意を抱く可能性は十分ある。
ふと、嫌な予感がした。
状況が似ていないか?
周防耕作は今、介護休業を取っている。
父親は半身不随だ。手足に麻痺があり、歩行と排泄が困難で介護が必要だ。
1件目に起きた事件の状況と似ているんじゃないのか?
急いで車を手動モードに切り替え、左にウィンカーを出して路肩に止め、ハザードを点滅させ、シフトレバーをパーキングに動かし、サイドブレーキを引き上げる。蕗二はすぐさま液晶端末を取り出した。
「竹、急いで東検視官に周防耕作の父親の居場所を調べるように伝えろ!」
「はい!」
竹輔が端末を耳に押し当てたと同時に、蕗二は端末の通話履歴から菊田の名前を呼び出した。
端末を耳に押し当て、呼び出しの電子音が4回目に差しかかった直後、『どうした、蕗二くん』と菊田の低い声が聞こえた。
「菊田さん、取り急ぎ連絡すみません。大至急、周防耕作の父親の居場所を探してください。もしかしたら、ご遺体は周防耕作の父親の可能性があります」
菊田の息を飲む音がはっきり聞こえた。
『わかった、すぐに調べよう』
通話終了を告げる電子音とともに耳から離した端末を強く握り込み、抱え込んだハンドルに額を押し当てる。
この事件は、周防耕作による身内殺しなのか?
だがそうなると疑問が残る。
2件目の被害者には、周防耕作とも何も関係性は見当たらなかったはずだ。
そして、野村や東検視官が言った違和感。
まだ何か見落としているのか。
スリープモードに入り真っ黒になった液晶端末の画面に、左手の拳を口元に押し当てる芳乃が映り込んだ。
「どうした芳乃」
振り返れば、前髪の間から黒い眼がこちらを見たが、すぐに伏せられた。
「いえ、何も」
「何か気になることがあったら言えよ。その方が助かる」
しかし芳乃は拒絶するように胸の前で腕を組んだ。
「曖昧なことを言いたくはありません」
そう言って後部座席に深く腰掛けると目を瞑ってしまった。
周防遊冶を視た芳乃は、なぜか突然視えなくなったと言っていた。これまで芳乃が不調だった時、視えにくいか、視る回数の制限を付けたことはあったが、完全に視えないと言われたことは一度もなかったはずだ。
最終手段として、あの鼻をつまむ動作の後に使える『氷の眼』もあるが、あの能力を簡単に使わせるわけにはいかない。あの眼と対峙してよく分かったが、視られた本人さえ自覚していないような、心の奥底に潜るような行為だ。海に深く潜水すれば体に負荷がかかるように、氷の眼を使えば芳乃の体にも相当な負荷がかかる。ここぞという切り札として最後に取っておく必要がある。そのためには、なるべく証拠を集め、最短で答えにたどり着かなければならない。
蕗二は息を吐き出しながら運転席の背もたれに体を押しつける。
ここで考えたって仕方がない。
とりあえず、今は東検視官からの報告を待とう。
ジャケットのポケットに液晶端末を仕舞い、警視庁に戻るためシフトレバーに手をかけた。
「あっ、三輪っち三輪っち。藤っちからメール来たよぉ!」
野村の弾んだ声に、蕗二は手を止めた。竹輔が素早く外に出る。
ガラスに遮られくぐもった声と後部座席が開く音。
野村と芳乃が横にずれると、車が少し重みで沈む。
「わーお、めっちゃ徹夜明けって感じー?」
「ご名答、完徹31時間突入だ」
野村の間延びした声と語尾が掠れた片岡の声に振り返る。その顔を見て、蕗二は眉間に大きな皺を寄せた。
いつも神経質に整えられている髪が乱れ、目の下に濃い隈ができた片岡が座っていた。
「お前、大丈夫なのか?」
「なんのこれしき、徹夜ハイで最高に気持ちがいいぞ」
鞄を漁ると、蛍光色のド派手な色をした海外産エナジードリンクの缶を取り出す。蕗二の心配をよそにプルタブを起こし、エナジードリンクを一気に呷る。豪快に喉を鳴らし、上下する喉仏に呆気を取られていると、助手席に戻ってきた竹輔が口の端に手を当てて、蕗二に耳打ちする。
「本庁に帰って、東検視官からの報告を待ってる間に仮眠させましょう」
「だな、面があれじゃあ職質されかねん」
500mlを飲み干した片岡が、ぶはっと息を吐き出す。眼鏡の奥から血走った目がぎょろりとこちらを睨むと、勢いよくこちらを指差した。
「私をのけ者にしようなんて、そうはいかないぞ!」
車内に響く大声に全員が顔を顰める。耳鳴りが聞こえる耳を押さえ、蕗二は交番時代に酔っ払いを職務質問した時を思い出した。
「そんな大声出してくれるな。のけ者どころか、超重要な仕事してもらう。とりあえず今は休め」
猛獣を宥めるように穏やかに言えば、片岡は心外だと言わんばかりに鼻息を勢いよく吐き出し、後部座席にふんぞり返った。
「お気遣いいただきありがとうございます、警部補殿。しかし、状況は一刻を争うのではないのかね?」
鼻の上まで押し上げた眼鏡の奥で、片岡の赤い目が楽しそうに笑った。蕗二が首を傾けると、腕を見せつけるように左手を持ち上げ、結婚指輪のふたつ隣、人差し指に嵌る黒い指輪に触れる。
空中に画面が三つ展開された。左端は黒い画面に緑の文字がびっしりと並び、右端は黒い画面に浮かぶ一本の線が波のようにゆらゆらと不規則に揺れている。そして真ん中には地図が表示され、その上には無数の赤い点が配置されていた。その中で中央に位置する点だけが点滅している。
ふと、点滅していた赤い点が点灯に変り、左上の赤い点が点滅を始めた。
「君たちが探している、周防耕作のマークが動いているよ。移動速度が速いから車か、いやバイクかな」
また点が移動するのを眺め、はっと蕗二は息を飲んで片岡を画面越しに睨みつける。
「お前、誰かの端末ハッキングしたな?」
「ああ、そうだとも。君のだよ、三輪警部補」
「げぇ! やめろよ、気持ち悪い」
「班長の君が一番情報を持っているのだから、当然に決まっているだろう。安心したまえ、プライベートは覗いていないよ」
「当たり前だろ! まったく……」
指を立てて頭を掻き毟る。とはいえ話が早いのは助かる。休ませてやりたいが、事態が動いてしまったならゆっくりもできない。深く息を吐き出し、頭を切り替える。
「周防耕作が向かう方向を予測できるか」
「もちろん。A.R.R.O.W.」
『はい。予測ポイント、表示します』
右端で揺れていた線が、澄んだ女性の声に合わせて揺れた。片岡が改造した人工知能A.I.だ。
中央の地図が縮小され、白い二重丸が現れる。場所は今蕗二たちが停車している場所のようだ。そこから5本の白い矢印が伸びて、地図の上を走っていく。そのうちのひとつが点滅を始める。
蕗二はシフトレバーをドライブに入れ、サイドブレーキを押し下げる。
「弟の耕作と長らく会ってない、って言うのは嘘かもな」




