File:3 人殺しの怪物・ジャバウォック
上野駅正面口。AM15:30.
無人タクシーの群れを背に、蕗二は駅から降りてくる人の顔を確認していた。
人の波が押し寄せては引いていく。3度目の波が押し寄せる。忙しなく階段を駆け下りる人波の一番後ろ、黒い学ランを着た少年に目が留まる。
マスクで半分顔を覆い、タブレットを胸に抱えて降りてくる。
蕗二が右手を上げると、気がついたのかこちらに真っ直ぐ向かって階段を降りてくる。
口からマスクを、耳からワイヤレスイヤホンを外した少年は蕗二の前に立つと、これ見よがしに溜息をついた。
「相変わらず突然ですね」
「まあ、事件は待ってくれねぇからな」
顎で促せば、芳乃は不服だと言わんばかりの表情をしながらも大人しくついてくる。
歩きながら胸に抱えていたタブレットの電源を切った。真っ暗な画面になる直前に見えたのは、英文だ。どうやら英語のリーディングをしていたらしい。
「へぇ、勉強熱心だな」
「中間テストが近いだけですよ」
「え、マジかよ。ごめん。テストいつなんだ?」
「再来週です。直前で呼び出されたら無視してやろうと思ってました」
無視されたら困るが、本業は学生だ。どっちを優先しろと言われればもちろんテストなのだが、とりあえず今のところ運が味方していることに胸を撫で下ろす。
「テストかぁ。懐かしいな、一夜漬けとかやったわ」
「徹夜とか論外です。授業中に覚えればそんなことしなくてもいいでしょう」
「板書写すので精一杯だよ」
「板書なんて取る必要ありますか?」
「あ、今はノートもタブレットで済むのか。いいなぁ、俺の時代も欲しかったなー」
芳乃がクッション性のあるカバーにタブレットを入れ、丁寧に背負っていたリュックサックに仕舞いこむと、わざとらしく声を張り上げた。
「それで? 今回はちゃんと、目星はついてるんですか?」
「ああ、もう付いてるぜ」
拳で胸を叩いて見せれば、芳乃の不信そうな視線が刺さる。
「なんだよ、そんなに不安なら視てみろよ」
「結構です」
タクシー乗り場から細道の一方通行道路を進み、路肩でハザードランプを点滅させ止めてあったシルバー色のセダンの後部座席を開ける。
芳乃が乗り込んだのを確認してからドアを閉め、運転席に乗りこむ。乗り込んでバックミラーを確認すれば、一人足りない事に気がついた。
「片岡は? まだ来てないのか?」
首を捻って後部座席を確認するが、やはり片岡の姿はない。
「藤っち? さっきメッセージ入ってきたよぉ? なんかぁ、深刻なバグが出たとかでぇ、現在対応中だってぇ?」
野村が液晶端末の画面をこちらに向ける。短いメッセージで「しごと」「深刻」「バグ」「対応中」と連続で来ていた。饒舌な片岡が珍しい。それほど切羽詰まっているようだ。
「まあ、片岡の事だから勝手に追いかけてくるだろう」
シートベルトを締め、ナビに表示されていたROUTESTARTのボタンに触れる。
滑らかに発進した車内で、竹輔が二人に事件の説明をする。それを横耳で聞きながら、蕗二は進行方向と添えた手のひらの中で動くハンドルを見つめる。
隅田川と荒川を越えると、街並みは真新しいビルや建物はなくなり、古びた下町の雰囲気へと変わっていく。
そして気がかりがひとつ。
さっきから、やたらとパトカーや警察官たちとすれ違う。
巡回パトロールをしているのだから見かけないわけがないが、それにしても目につく。
液晶端末を起動し、KOMOKUTENのアプリを立ち上げる。やはり犯罪発生率が89%とかなり高い。
近隣発生事件をタップすれば、自転車の窃盗が5件、バイクや自転車によるスリが3件、不審者情報が2件。さらに16から18時は事件発生率が上がると警告文が表示されている。
ナビを見ると目的地が近づいていた。視線を前に向ければ、目の前の5階建ての建物が近づいてくる。
円柱が目立つせいか大きな檻のようにも見えるそれは綾瀬警察署だ。
「目的地周辺です」と音声案内が告げる。
添えていたハンドルを強く握り締めると、自動運転モードから手動運転に切り替わった。大きく左に切って、綾瀬警察署の裏側へと車を向ける。
鈍色に光る鋼鉄製の門の前で一旦停止する。警察手帳に埋め込まれているIDを読み取ったのか、門はゆっくりと左へとスライドする。
車を進め、一番手前の空いていた駐車スペースへ止めた。
エンジンを切って、後部座席の二人に振り返る。
「たぶん帳場、捜査本部がここでやってるはずだ。あんまりうろちょろするとややこしいから、俺と竹でうまい具合に周防の事を聞いてくる。念のため、これ着てろ」
芳乃に鑑識の上着と帽子を渡す。顔をしかめた芳乃が何か言う前に車の外へと出て、竹輔とともに裏口から館内へ入る。
すぐ右手にあった相談カウンターへと近づく。
すると正面に座っていた男が機敏に反応し、透明な衝立の向こうで立ち上がる。
「こんにちは、ご用件をお伺いしますが?」
にこやかに口角を上げているが、分厚い眼鏡の奥で鋭い視線が爪先から顔まで素早く確認していた。
蕗二は胸元から警察手帳を取り出し、丁寧に開いて見せる。
「失礼いたします。私、警視庁の三輪と申します。後ろは部下の坂下です」
竹輔が機敏な動作で一礼すると、男は目尻を緩めた。
「警視庁の方でしたか、よかったらこちらへ」
カウンター横の壁を手のひらで指される。ざっと壁を観察したが、取っ手はどこにもない。
警視庁でも見たなと警察手帳を壁に近づけ、反応する場所を探す。左腰付近でピピッと短い電子音とともに壁の一部がスライドした。しかし蕗二が足を踏み入れた途端、すぐさまドアがスライドして閉まる。
犯罪発生率が高いからなのか、ひとりひとり認証させるらしい。竹輔もすぐにドアを潜り抜けた。
改めて眼鏡の男と向き合う。
「10年前の2032年、足立区内廃棄倉庫内グリセリン詰め死体遺棄事件と2035年の足立区内公園グリセリン詰め死体遺棄事件を担当した刑事とお話ししたいんですが、ご在籍ですか」
「10年前ですか、そうですね……こちらでしばらくお待ちください」
すぐ脇にあった小さな会議室へと通される。ドアが閉まると、機密保持のためかドアの向こうの音がほとんど聞こえなくなった。姿勢を正し、立ったまま待つ。
「もう帳場はできてますよね」
「ああ、もうすでに初動捜査が始まってると思う。場合によっては担当刑事も出払ってるかもしれない」
強いノック音が三回。ひと呼吸置かずに入ってきたのは、定年を超えた老齢で痩せた男が入ってきた。
「初めまして、警視庁の三輪です。こちらは坂下」
「ああ、生活安全課の松葉だ」
着席を促され、パイプ椅子に座る。
「本店から来られたそうだが、君たちは……今日の帳場に参加してなかったな?」
瘦せこけてくぼんだ瞼の奥から、ギョロッと目がこちらを向いた。
さっそく痛い所をつかれた。が、これは想定内だ。
「俺たちは、警視庁の未解決事件を追ってる班で、今回の帳場とは別行動しています」
堂々と答えた蕗二をじっと観察していた松葉は、諦めたように視線を瞼の下に仕舞った。
「ああ、そうなのか。すまないね、担当の刑事は今、地取りに出ていてな。代わりに話を聞こう」
蕗二と竹輔はありがとうございます、とそろって頭を下げた。竹輔がスーツの内側から手帳とペンを取り出し、前のめりで松葉へと質問を始める。
「さっそくですが、2件の事件で当時被疑者として挙がっていた周防耕作についていくつかお伺いたいのですが」
「どうぞ?」
「周防耕作は、未成年の時から素行に問題があったようですが、具体的にご存知でしょうか?」
松葉は深く頷いた。
「ああ、周防耕作か。この署だとまあまあ有名人かな」
「松葉さんはもしかして、少年事件課に?」
「まあ、直接補導はしていないが、あまりにも目立つから顔はよく覚えてる。確か、自転車やコンビニの商品の窃盗、学校の窓や店の看板の器物破損、未成年飲酒、暴行、傷害はしょっちゅうだった」
指を負って数える松葉に、竹輔が困惑した表情でメモを取る。その隣、蕗二は眉間に深い皺を刻んだ。
「なぜ、≪レッドマーク≫は付いていなかったんですか」
唸るような低い声を吐き出せば、松葉は呆れたと言わんばかりに溜息をついた。
「君……ちょっと勉強不足だな? 『犯罪防止法』が施行された2031年から実刑判決が下った奴に≪レッドマーク≫を強制装着するんだ。まあ人権問題だとか、過去の犯罪をカウントするとややこしいからだろうが……まあ、結果的に≪レッドマーク≫付きを避けようとして犯罪再犯率はゼロなんだから成功しているんじゃないか?」
どこか他人事の松葉が机の上の置かれていた液晶タブレットに手を伸ばした。充電用コードを外し、盗難防止用のランヤードケーブルをぴんと張るまで手元に引き寄せる。
「まあ、周防はあんだけ素行が悪かったからな。案の定、第一回目の判定テストに引っかかって、≪ブルーマーク≫が付けられて以降は、大人しく就職もしていたはず」
タブレットに取り付けられているカバーはスタンドにも落下防止リングにもなるらしい、背面の丸いリングに手を入れてタブレットをぎこちなく操作する。
「えーっと、ああそうそう、今ちょうど40歳だ。まあ年も年だし、落ち着いたか」
タブレットの電源を落とし、机の上に置いた。
「勤め先はご存知でしょうか」
「君たちはそれを聞きに来たんだろう、さっさと行こうか」
松葉は重そうな腰を上げて、腰に手を当てながら、しかししっかりとした足取りで歩いていく。
途中、先ほどの眼鏡の男に外出すると言って受付カウンターを抜ける。
「松葉さん、すみません。連れがあと二人いるんですが、同行よろしいですか?」
「あー、もしかして覆面で来たのか?」
「はい、あのシルバーのセダンです」
駐車場に出て、隅の方に止めていた覆面パトカーを指差す。松葉はあーともうーとも言えない唸り声を出した。
「じゃあ、うちのパトカーに乗ってくれる?」
「どうしてですか?」
覆面パトカーを厳密に言うと、交通の取り締まりで使うスイッチ一つで天井から赤色灯が出てくる「交通取締用四輪車」、要人の警護に使う防弾加工がされた「警護車」、そして犯罪捜査に使う「機動捜査車両」の3種類が存在していて、ひっくるめて覆面パトカーと呼ばれている。犯人に気づかれないように尾行する時などに使うため、一般車に紛れるために地味な色が多い。
反対に、白黒のカラーペイントされた天井に赤色灯をつけているのがよく知られるパトカー、正式名は「無線警ら車」だ。覆面パトカーに対して制服パトカーともいう。取り締まり専用車両なのはもちろんだが、これはわざと目立つペイントで警察がいるぞと言う視覚的効果により、交通事故や交通違反の抑止、犯罪者への威嚇として使うものだ。
用途が完全に逆だ。これから聴取に行くには大げさすぎる。
困惑する蕗二たちに、松葉はそうだねと頷いた。
「他の管轄から来るとね、びっくりするだろうけど。ここの地区は覆面だとね、喧嘩を売られやすいんだ、こそこそするなってね。だから堂々とパトカー使う方が都合は良いんだ」
「そうなんですか」
「それからすまないが、同伴は二人までにしてもらっていいかな?」
「狭いですよね。先導してもらったら後ろ追いますから気にせずに」
「あー違う、そういうんじゃなくて。警察がぞろぞろ行くと、あんまり良い顔されないんだ」
なんだか制約が多いな。たまらず吐き出しそうになった溜息を飲み込み、蕗二は竹輔に目配せする。竹輔が機敏な動きで胸の前に手を上げた。
「僕と野村さんは待機しています」
「じゃあ、芳乃を呼んできてくれるか。あ、竹、『セット』も頼む」
「分かりました」
駆け足で覆面パトカーに戻る竹輔を背に、松葉は駐車場の門横にある守衛室に向かう。小窓から覗く守衛との短いやり取りをすると、何かを受け取る。そして蕗二に視線を向けると、一台のパトカーを指差した。どうやらあれに乗るらしい。
蕗二がカギを受け取りに向かうと、松葉はどこかに電話をかけ始めていた。
内容からおそらく会社へ面会の許可を取ってくれているのだろう。
パトカーをすぐに出せるように移動だけさせると、蕗二はひとり手持無沙汰になってしまった。
パトカーの脇でぼーっと突っ立っていても仕方がない。菊田さんへ状況の報告をしておこう。もしかしたら何か進展があったかもしれない。
ジャケットのポケットに入れていた液晶端末を取り出し、菊田へ簡潔な報告のメールを送る。
視界の端で走り寄ってくる気配に顔を上げれば、鑑識と大きく張られたアルミケースに取り付けられたショルダーベルトを邪魔そうに肩に担ぎ、鑑識の紺とオレンジのツートンカラーの制服に身を包んだ芳乃が見える。
固く引き結ばれた口元が不満だと訴えているが、見ようによっては緊張した新人の鑑識に見える。たぶんこちらの思っていることは全部視えているだろうから、わざとらしく「似合ってるぞ」と心の中で言えば、あからさまに帽子の下から睨まれた。
思わず笑いそうになって無駄に咳払いで誤魔化すと、ちょうど松葉が電話を終えた。蕗二は不自然にならないように手のひらを芳乃に向けて紹介する。
「松葉さん、警視庁鑑識課の芳乃です」
芳乃は蕗二を『視て』、すぐさま踵を合わせて額に手を当てて敬礼する。咄嗟に視たとはいえ、形になっていて蕗二は内心で胸を撫で下ろした。松葉は品定めするように芳乃を見下ろす。
「えらく若いねぇ」
「よく言われます」
芳乃は鑑識の帽子を深く被る。なんとか目立つ≪ブルーマーク≫は隠れているが、バレては堪らない。パトカーの後部座席に芳乃を乗るように誘導し、助手席に蕗二が乗り込んだ。
運転席に乗り込んだ松葉はぎこちなくナビを操作し、静かに車が発進する。
しばらく無言の車内。時々パトカーに設置されている無線だけが淡々と周辺の状況を知らせてくる。
聞き流していると、やはりこの地区は通報が格段に多いようだ。
「気を悪くさせたら申し訳ないのですが、この周辺の犯罪発生率が高いのは昔からですか?」
「ああ、元々有名な治安が悪い地区って言われててねぇ。とくに自転車窃盗率が高すぎて、自転車を盗まれたくないなら家の中に入れるしかないくらいだ。警察も捜査には自転車は使わないんだよ。パッと目を離したすきに盗られるから」
「え、そんなに?」
「前輪後輪ダブルロック推奨だが、鍵かけてようが敷地内に入れてようがお構いなしさ。だから巡回は徒歩かパトカーじゃないと危ないんだ。とは言っても安全とは限らないけれどな、夜になると酔っ払いが目の前に飛び出してくることもあるし、警察ってだけで因縁をつけられるから、新人がこの地区に配属になったら可哀想かもな」
はっはっはっと、松葉は笑うが、蕗二は想像以上の荒れっぷりに絶句する。
職務質問をしたときに友好的か好戦的か分かれるが、さすがにパトカーの目の前に飛び出してきたり、いきなり因縁をつけられたことはない。同じ東京なのに……と思ったが、自身の出身地である大阪も場所によって治安が大きく変わるので似たようなものかもしれない。
絶句している蕗二を気遣ってか、松葉は話題を変えるように「そういえば」とわざとらしく声を張る。
「三輪さんと言ったか、君は≪ブルーマーク≫に恨みでも持ってるのかな?」
弾かれたように松葉を見る。その蕗二を加齢によって黒目の淵が濁った、それでも聡明な視線で見る。
「いや、目つきがね。本気だなと思って」
「も、申し訳ありません」
今更だが誤魔化すように眉間を摘まむ。長い間刻まれた皺が伸びるわけでもないが、気休めに指で広げていると、ハッハッハッと松葉が大口を開けて笑う。
「いやいや、責めてるわけじゃない。こんな事を言うのもあれかもしれないが、≪ブルーマーク≫は印象が悪い。人権問題の建前上、国からの補助は手厚いが、やっぱりクリーンなイメージが欲しい大企業は敬遠しちまってどうしても就職困難になるんだ。だから政府は企業に受け入れを半分強制しているのも事実。まあ言っちまえば厄介者の押し付け合いだよ。ここら辺の地域は中小企業が多いから、自然と≪ブルーマーク≫の雇用も多い。だから治安も悪化するっていうのも頷けるだろう」
ちらりと芳乃を見る。帽子で隠れて表情は見えないが、興味が無さそうに外を眺めている。
「だから、ここら辺はあんまり警察がうろつくといい顔をされないんだ。だから警察もあまり干渉しない。つまり、≪ブルーマーク≫を黙認している特殊な場所だ。ほら、≪リーダーシステム≫の設置も少なめだろう?」
窓から周りを観察する。≪リーダーシステム≫は市街地であれば50メートルに1台設置されているはずだが、今確認しただけでも2個確認できた程度だ。
「ここは、君たちが普段活動している都心部とは、ちょっと事情が違う。君たちのやり方をされると困るんだ、だから今回は私の言う事に従ってもらうから、まあよろしく」
「よろしくお願いします」
車で20分ほど移動すると、窓の外の風景が商業地帯から古びた工場が立ち並ぶようになる。するとぱったりと人通りが少なくなった。
KOMOKUTENのアプリを立ち上げると、驚くほど犯罪発生率が下がっている。しかし、17時を超えると再び犯罪発生率が上昇する。おそらく、就業時間が重なっているのも関係あるだろう。
ふと、パトカーがハザードを点滅させ、車道の左に寄り静かに車が停止した。
松葉が蕗二へと顔を向けると、窓の外を指差した。
「ここが、周防耕作の勤め先だよ」
窓から建物を覗き見る。横に大きく伸びる白い建物の壁に『株式会社バニッシュ』と濃い緑で書かれている。それを横目に、松葉は自動運転から手動運転に切り替え、パトカーを敷地内に進入させた。
入り口から入ってすぐの右側に7台止められる駐車スペースがある。
反対側には5台止められるスペースがあり、一番奥に側面に社名の張られたワゴン車が1台止まっている。
パトカーを降り、敷地内を素早く見回す。左側には外から見えた白い大きな2階建て相当の平屋と、右側には4階建ての建物が立っている。
真新しく見える白い建物から突き出している配管には年季が入っていた。
「ちなみに、どのような企業ですか」
「工業用の洗剤製造工場だ。それを使って企業や家庭のホームクリーニングもするとかも言ってたかな」
だからなのだろう、ところどころ使い込んでいそうな形跡があるものの、外壁がかなり整えられているせいか清潔感を感じる。
松葉は知った顔で敷地内を横切り、道すがら薄緑の作業服の社員たちとすれ違いざまに挨拶をかわしながら、右側に立つ3階建ての建物の中に入る。
ガラス張りの二重扉を抜けて正面には、大きな会社のロゴとともに受付カウンターがある。
誰もいないが、松葉は慣れた様子で受話器を上げてどこかに電話をかけた。
受付横の消毒液を手に擦り込んでいると、すぐさま奥からカツカツと足早な足音が近づいてくる。
受付の左側から事務服の女性が現れた。
蕗二と芳乃を見て、小さく跳ねるように立ち止まる。彼女は≪ブルーマーク≫だった。
「やあ、楠木さん」
強張っていた女性は松葉を見て、柔らかな笑みを浮かべる。
「こんにちは松葉さん、お待ちしておりました」
「忙しいところ悪いね」
「いえいえ。どうぞこちらへ」
女性の案内で受付の右奥の通路へと進んでいく。通路の奥にはいくつか部屋があるようだが、一番手前の第4応接室と書かれた応接室のドアを開ける。
部屋の中はすでに照明がつけられ、空調が整っているようだ。
「では呼んできますので、おかけになってお待ちください」
すれ違いざま、女性はちらりと蕗二と芳乃を見て、頭を下げて去って行った。
蕗二は松葉を部屋の奥に通そうとして、首を振られる。
「俺は部屋の外で待ってるから。何かあれば声をかけてくれ」
「ご配慮いただきありがとうございます」
芳乃を先に部屋に通し、蕗二も続いて部屋に入る。松葉は口角を上げて軽く手を上げるとドアノブを引いた。バタンと音を立てて、ドアが閉まる。
離れていく足音を聞きながら、蕗二は溜息を一つ落とす。
「首を深く突っ込みたくない、か」
ようやく下ろすことができた荷物に、肩を揉みながら芳乃が首を傾げた。
「その方が好都合じゃないんですか?」
「まあ、そうだけど」
何といえばいいのか。すれ違った作業員や先ほどの事務員も、余所者に敏感というよりは極力関わりたくないという意思を感じる。そして刑事である松葉もそうだ。
この地域では、≪ブルーマーク≫のあるなし関係なく、なるべく関わらないようにしてきた。
お互い目を瞑る。そうやって均衡を保っているのだろう。
しかし、この状況だと有力な手掛かりは見込めないかもしれない。
だがここまで来たのだ、郷に入れば郷に従え。警察に敵意を向けられないようにしなければ。
深く考えているうちに胸の前で組んでしまっていた両腕を後ろに回し、足を少し開いて背筋を伸ばす。
置物のように不動の姿勢を保つ蕗二を、興味深げに芳乃は見た。頭の先からつま先まで観察し、真似をするように背筋を伸ばしてみるが、首は物珍しそうに部屋を見回している。
静かな部屋の中、壁にかかっている壁時計の長針が3周する頃。
重い足音と、ドアの向こうに人の気配がした。
部屋に響くノックとは反対に「失礼します」という小さな声がして、ドアノブが回る。
休めの体勢から姿勢を正した蕗二は、直後、顔を強張らせた。
部屋に入ってきた男は薄緑の作業服と、同じ色の作業帽子の下から静かな視線でこちらを射抜いていた。
被疑者、周防耕作だった。
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この小説はフィクションであり、実在する地名などとは一切関係ありません。




