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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 7 朝露に濡れるベゴニア
68/97

File:7 ウィニングショット




 日本人の眼の色は、黒いと言われている。正確には濃い茶色が光の加減で黒く見えるだけらしい。だとしても芳乃の眼は、黒と言っても過言ではない。もしかしたらもっと明るい場所で見れば濃い茶色なのかもしれないが、真っ黒としか表現できない。

 そう感じたのは初めて会った時、【特殊殺人対策捜査班】が結成され、否応いやおうなしに対面した時からだった。見た事のない眼をしていた。光さえ届かない深く暗い穴に飲み込まれてしまうような、目の前にいるのは確かに人間なのに人間じゃない、得体が知れない未知の恐怖を感じたのをよく覚えている。

 しかし、氷の眼を正面から見るのは初めてだ。

 なぜ彼の眼を氷とそう表現したのか、思い出すことはできない。

 ただ犯人を貫く視線が恐ろしく冷えていた。

 それの意味を初めて知る。

 正面から初めて見た芳乃の眼は、恐ろしいほどんでいた。不純なものを一切取り込まず、濁りすら許さない異常なまでもの透明度。だが、向こう側は見えない。永遠と果てしなく透明で、何も見えない。なのに、視線を感じるのだ。ショーケースに入った商品のように、向こう側から一方的に観察されている。神がいるなら、まさにこんな感覚なのかもしれない。


「ぼくの質問を、覚えていますか?」

「なんで、刑事になったか……だったな」


 畦見あぜみの捜査時、地下室の自販機前での会話だ。その時芳乃は、背中を向けたまま問うて来た。


「何度言わせるつもりだ、復讐だ。≪ブルーマーク≫がいなくなればって……」

「そうですね、あなたは言いました。≪ブルーマーク≫を見ると、時々あの日を思い出す。≪ブルーマーク≫なんて居なくなればいい、そう願うだけで何もできない自分が嫌で、刑事になった。あなたは事件で父親を殺されて、犯人である≪ブルーマーク≫を恨んでいる。普通・・の人は、これで納得できます」


 会話を思い出すように芳乃は顎に指をかけ、首を傾けて悩む仕草を取る。


「でも、よく考えるとおかしいはずなんです。なぜ≪ブルーマーク≫なんですか。犯罪者が許せないなら、≪犯罪者予備軍ブルーマーク≫ではなく≪犯罪者レッドマーク≫に怒りを向けるはずでは? ≪レッドマーク≫は何かしらの犯罪者ですが、≪ブルーマーク≫は犯罪を起こすかどうかも分からない。でも、あなたは≪ブルーマーク≫を憎み、復讐だと言う。それはなぜか」


 瞬きもしない氷の眼がこちらを射抜いた。


「あんたは犯罪者や犯罪者予備軍が憎いのではなく、≪ブルーマーク≫と言う存在が憎い。あなたの父親を殺した象徴だからです」


 芳乃は自らの青いピアスを指差して見せた。その人差し指が、ゆっくりと蕗二に向けられる。


「そしてもう一つ、あなたは一体【誰に】復讐するために、刑事になったんですか? 復讐とは、相手と同じ目に遭わせる仕返しの事です。仕返しするには相手がいる。でも、あなたの復讐相手は自殺してしまい、もうこの世にはいません。そう、本当は≪ブルーマーク≫に復讐する必要もなければ、刑事になる必要もないんです。それでもあなたは復讐相手をすり替えてまで、復讐しようとする。その理由はどこにあるんですか」


 目をらそうと、体に力を入れる。だが、体は震えるだけで言う事を聞かない。今すぐ逃げ出したいのに、まるで喉元に氷の刃が向けられるようだ。実際にはあり得ない。あり得ないのに、その場から動くことはできないのだ。


「ちゃんと答えてください、三輪蕗二さん」


 頭に直接話しかけられるように鮮明過ぎる鋭い声に、じわじわと体の末端から凍りつき、皮膚が裂けて血がにじんでくる。

 その痛みに、なぜか笑ってしまった。

 口角が上がり、息を吐けば、ははっと笑い声が出る。

 笑いたくて笑っているわけじゃない。

 熱湯に触れた時に熱いと指を引っ込めるのと同じ、体が反射的に動いている。

 体が逃げろと警告を出している。


「そうだな。復讐、できないんだよな」


 やめろ、これ以上言うな。手は口を押えようと上げられ、口元を覆う。

 唇が指を振り払うように震え、爪が口の端を掠めて痛みが走る。


「そうだよ、復讐なんてもうできねぇんだよ」


 震える低い声が息を吐く。

 長く長く、肺からすべての空気を押し出すと、上がっていた口角が下がっていく。


「でも、復讐をあきらめられないんだ。諦められる訳ねぇだろ。なんでそんな簡単に諦められるんだよ、悔しくねぇのかよ」


 口はひとりでに動いた。今の今まで、歯を食いしばっていたくせに、まるで我慢していたと言わんばかりだ。俺の意思とは関係なくひたすら言葉を吐き続ける。

 あの日の事は、今でも鮮明に思い出せる。

 病院で冷たくなってベッドに横たわる父。

 白い服を着た人々が父を自宅か葬儀場に搬送しなければいけないと言う。ベッドを空けないといけないのだ。悲しみに暮れる間もなく、葬儀場を選び、お金を下ろし、病院から葬儀場に移動して、葬式の段取りを決めろと言う。何が何だか分からないうちに父は良い匂いのする美しい木目の箱に、白い着物で眠っていた。寝ているんじゃないかと胸の下で組まれた手に触れたら、作り物のように固く冷えていた。葬儀が始まり、黒い服を着た人たちが父を訪れて泣いては去っていき、見上げるほど大きかった父の背は、抱えるほど小さい壺に納められてしまった。

 泣ければよかった。でも泣く暇なんて全然なかった。聞いた事のない声を上げて泣き崩れる母に驚いたせいもある。そしてずっとずっと、自分は守られていたのだと気がついてしまったのだ。そして、父を失ったこの先、一体どうすれば良いのか………不安で堪らなくなった。


「手続きだとか片付けとか遺産とか、やることめちゃくちゃあるし、毎日毎日週刊誌だかテレビだかに追い回されて、同じことを何回も何回も聞かれて、テレビじゃお前誰だよって奴が勝手にしゃべるし、会う人会う人が慰めてくれるけど、誰も俺の話なんて聞かねぇ。勝手に慰めようとする、全然楽にならない!」


 口々にみんな同じことを言う。辛かったね悲しかったねと。だが誰一人、この感情を聞いてくれるわけでなかった。ただ慰めている自分に酔った連中ばかりだった。

 さらにネットでは父への称賛と罵倒で溢れかえった。誰一人、父を知らないくせに、勝手に作り上げられていく父の姿と週刊誌やテレビの取材に今の心境はと馬鹿の一つ覚えのように同じことを聞いてくる。

 お前らに一体何が分かる。どうせ都合のいいように編集するんだろ。ほっといてくれ、そっとしといてくれ。そう言うのも疲れて、他の被害者たちと同じように「辛いです」「悲しいです」としか言えなくなっていた。


「せめて犯人をぶん殴ってやりたかった。こっちは親父を殺されたんだ、骨の一本や二本折れたところで安いだろ。俺の父親だけじゃない、たくさんの関係ない人を殺しといて、笑って生きるなんて許さない。死んだほうがマシだって思いをさせてやる。やったこと全部の責任を取らせてやる。そのはずだった」


 犯人が死んだ。

 家に訪れたスーツを着た初老の男が、真っ青な顔でそう言った。

 犯人が留置場で首を吊ったと。着ていた服をうまく鉄格子に引っかけ、勢いよく体重をかけたせいで首の骨が折れたらしい。即死だった。


「あいつは裁かれなきゃいけなかった。なのに、あいつは、逃げやがった。勝手に死にやがった、勝手に許された、勝手に楽になりやがった! 俺は何もかもめちゃくちゃにされたのに、あいつは謝りすらしなかった! 俺はあいつをぶん殴ることも、なんで親父が死ななきゃいけなかったのか、その理由を問い詰めることも、もう一生何もできないんだよ! 許せる訳ねぇだろ、こんなの理不尽すぎるだろ!」


 怒声なのか悲鳴なのか、耳障りな絶叫は雷鳴と混じって体を震わせた。

 犯人が死んで、まるで潮が引いていくように、あっけないほど話題は引いて行った。

 それからというもの、同じ思いをして悲しんだ人たちは、日を追うごとに減っていた。

 諦めろ、終わったことだ、復讐なんて無様だと、声なき声がそう言った。

 あんなに泣いていた母でさえ、もう過ぎた事だと泣かなくなった。


「なんでそんな簡単に諦められるんだよ。分かってる、分かってる! 復讐ができないことくらい分かってるんだよ! でも、この怒りはどこにやればいい。俺は誰に怒ればいい、待って我慢して消えるような感情でもねぇのに、何を我慢しろって言うんだよ!」


 俺が子供だからなのか。

 俺だけがおかしいのか。

 俺にはまだ、あの日の男の笑い声が聞こえているのに。

 足元にはまだ、血溜まりが広がっているのに。


「俺はどうすればよかったんだよ! 刑事になったことがただの八つ当たりだって言うなら、刑事以外なんだったら良かったんだよ。なあ、教えてくれよ! お前なら分かるんだろ、全部視えてるんだったら!」


 目の前の体に掴みかかる。が、服の繊維をほんの少し引っ掻いただけだった。

 氷の眼は嘲笑あざわらってもいない。

 同情も、侮辱も、何もない。

 ただ雨に濡れ怒りに顔を歪めた無様な男を映すだけ。

 氷の眼は、必死に覆って隠してきたはずの『言い訳』をはぎ取っていく。

 その顔の醜さに、両手を顔に押しつけて隠した。

 見るな視るな視ないでくれ!

 本当は分かっている。

 もう11年も経っている。

 犯人は死んだ。怒ったって意味はない。

 何もかも無意味だって。

 でも認められなかった。

 認めてしまえば立ち止まってしまう。

 怒りを盾に、刑事として生きてきたのに。

 無意味だと認めれば、刑事でいる意味がない。

 真っ暗闇の中、前に進むことだけを考えて、信じていた道をひたすら走ってきたのに。

 立ち止まったら、もう分からなくなってしまった。自分が立っているのか、座っているのか。前に進んでいるのか、後ろに戻っているのか、下っているのか上がっているのか、何も分からない。

 答えが分からない。

 完全に見失ってしまった。

 この当てもない暗闇を、どうすれば抜け出すことができるのか。

 答えを探して記憶をひっくり返しても、何も思い当たらない。

 何も浮かばない。

 なにも思いつかない。

 なにもない。

 なにも……


「今回は逃がしません、『引きずり出す』っていたじゃないですか」


 恐ろしく冷えた声がした。突然の強い力で襟を掴まれる。

 目の前に、フードを被った男が立っていた。


「やあ、三輪蕗二くん。ようやく会えた」


 父の命を奪った殺人鬼が笑っていた。


「わああああ」


 手を振り払い、飛び退くように後ずさる。足元で激しい水音。すぐに濡れた感触が伝わってきた。

 立ちくらみを起こしそうになるほど、原色の赤が足元に広がっている。

 体が奥から一瞬にして燃えるようだった。

 汗が噴き出して手足は冷えていくのに、心臓と頭の血管が強く脈打って破裂しそうだ。


「なんで、なんでお前がいる!」

「せっかくおチビちゃんにここまで引っ張り出されたんだから、ゆっくりとお話ししようと思って?」

「お前と話すことなんざひとつもねぇ!」


 唾を飛ばして怒声を投げつければ、フードの男は肩をすくめた。


「そう冷たいことを言ってくれるな。お前が刑事になった理由の答えを持ってきてやったんだ、むしろ感謝の一言くらいほしいくらいだけど」

「答えだと?」


 フードの男が歯を剥いて笑う。


「お前が復讐にこだわったのは、俺への怒りだ。でも怒りって言うのは、普通はそう長くは続かない。特に怒りの対象が消えたら自然と鎮火してくる。まあ、お前の場合は≪ブルーマーク≫を見て、俺の事を思い出しては怒りは保っていた。要は起爆剤みたいなものかな? でも他の被害者たちは違う。怒るのに疲れて諦めていった。それが普通なんだよ。なのにお前だけが違った、どうしてだか分かるか?」


 男は手の中でナイフをもてあそんでいる。赤く染まってないところがないはずなのに、ときどき鋭い銀色が反射してちらついた。


「俺が事件を起こすまで、お前は一般人だった。あの日が来なければ、お前は普通の大人になって、野球の夢を追って挫折ざせつして、同級生とともに追いかけた夢について語るだけの、ただの一般人になるはずだった。でも全部ひっくり返った。全部失った。その現実から目を背けるために、無理やり前に進もうと復讐なんてだいそれた名前まで付けて自分に言い聞かせ、復讐相手のいない復讐のためだけに、お前は刑事になった。当たってるだろ?」


 男が首を傾げた。フードの奥から青い光が強くきらめいた。

 一瞬のはずなのに、あまりの強い光に眼の底が痛む。


「お前は刑事になりたかったんじゃない。ただ、あの日が来なければ失わなかったはずの日々を取り戻そうと必死に生きてきた。で? 現実はどうだ?」


 男の顔を見たくなくて蕗二は足元に視線を落とした。足音が近寄ってくる。徐々に大きくなる水音に、ガタガタと体が震える。足は血に絡みつかれたようにびくともしない。


「刑事になってあの日に戻れたのかよ。戻れてないだろ? 刑事になる意味なんて最初からなかった」


 うつむいた視界に入り込むように、男が身を屈む気配がする。


「この11年、全部間違いだった、全部無駄だったんだよ」


 ねっとりと嘲笑を含んだ声が擦り付けられ、ゆっくりと底なしの赤い闇に沈んでしまいそうだった。

 あの日から、もう11年も経っている。

 必死に足掻いて、復讐のために生きてきた。

 そのはずが、あの日から一歩も進めていない。

 そりゃそうだ、こいつの言う通りすべて間違っていたのだから。

 俺は目を背けるために刑事になった。

 怒りに身を任せてきた。

 正気に戻ってしまえば、ずいぶんと自分が馬鹿で、どうしようもない。

 今からやり直しなんて利くのだろうか。

 いや、何をやり直せと言うんだ。

 何度も何度も考えた。

 どうしたら、父は生きていただろうか。

 この結末をどうしたら避けることができたのだろうか。

 あの日が来なければ。

 あの場所にいなければ。

 あの時間にいなければ。

 結局たどり着くのは、真っ赤な血溜まりの中で、父の冷たい体にすがりつく自分だった。

 無力で、ただ父が目の前で死ぬ瞬間を見ているだけ。

 何もできない。

 何もできないのだ。


「馬鹿で可哀想な三輪蕗二くん。教えてやるよ、挽回ばんかいの方法を」


 細めたまぶたの隙間から、笑みを浮かべた男の口元が見えた。フードの下から覗いている男の口元は、なにからも解放された穏やかな笑みを浮かべていた。


「11年も無駄に生きてきたお前に、やり直すたったひとつだけ道がある。聞きたいか?」


 首から力を抜けば、自然と頷く仕草になる。

 赤い刃物がくるりと回り、持ち手が向けられる。


「今からでも間に合う。選べよ、殺人鬼おれを」


 腕が掴まれる。二の腕から、肘を伝い、手首を握られる。

 気遣われた心地のいい圧迫感。冷たくなった手を温めるように、甘い痺れがじわりと奥から広がる。

 力の抜けた自分の手から、渇いて赤茶色に染まっている黒い持ち手に視線を移す。

 鉄のびた臭いに喉が渇く。唾を無理やり飲み込めば、軽い痛みが走った。

 拳を握り、男の手をナイフごと払いのけた。


「違う、違う違う違う! お前は殺人鬼で、俺は刑事だ! お前とは違う!」


 男と距離を取れば、右手が突然重くなる。突然手の中に出現した物のせいだ。

 最初から持っていたように握りこみ、目の前に構える。

 5発の銃弾が入った回転式拳銃。

 照準は男の額。

 男は笑って、両手を広げて見せる。

 引き金に指をかけ、蕗二は絶叫とともに腕に力を入れた。

 発砲音が、空気を波打たせた。

 ゴトンと重い音を共に、跳ね上がる水音。

 弾丸は、フードの男にかすりもしなかった。

 血溜まりの中に蕗二が投げ捨てた黒い鉄の塊は、何も言わずに蕗二を見つめている。

 乱れて波打つ呼吸音が死にかけの獣のようで、ただただ耳障りだった。


「お前、何がしたいんだ?」


 感情をそぎ落としたまっ平らな声に、乱れたままの呼吸だけを返す。


「刑事をつらぬくんだったら、今のは撃たなきゃダメだろう。まさか、どっちも選べないって()こねる気か? 殺人鬼も刑事も選べない。曖昧あいまいにして中途半端に目を背けて、責任逃ればっかりだな。そんなんだから大切な物を落っことすんだよ」


 力なく垂れさがる腕を見つめる。

 分厚い皮膚、深く浅く刻まれた皺、うっすらと青く透けて見える血管、けして綺麗だとは言えない。

 指同士を隙間なく合わせてみても、どこかに隙間があって、少しずつ零れてしまう。


「どっちか選べ!」


 ゆっくり指を丸めて握りしめる。


「刑事になる気なんてなかった」


 男の身じろぐ気配。やっと落ち着いた息を吐いて、自分の口を一文字ずつ噛み締め動かす。


「親父の事はカッコいいと思ったし憧れてたけど、刑事になりたかったんじゃない。事件が起きなかったら、野球は続けてたし、やり直せるなら野球選手になりてぇよ」

「野球選手? 野球が好きってだけで、野球選手になりたいのかよ」

「そりゃあ、当たり前だろ。好きなことを仕事にしたいに決まってる。正直、栩木とちぎうらやましかったよ、夢を叶えちまうんだもんな。あいつは、天才だよ。俺なんかとは違う」

「嫉妬するわりに、ちゃっかりサイン強請ねだってたくせに」

「うるせぇ。これでも大人なんだよ」

「ただの強がりじゃないか、お前はそんな器用なやつだったか?」

「少なくとも、お世辞せじが言える程度にはな」


 乾いた笑い声がした。つられるように蕗二も笑う。

 そうだ、俺は背が高いし、声が大きくて威圧的で、強そうだ恐いとよく言われる。

 だがどうだ、中身を開けたら驚くほど臆病者で、世辞っていう名の嘘だって簡単につく。ぎゃんぎゃんわめいて威嚇する犬と変わらない、怖くて堪らないから見栄みえを張る。


「最悪だな、直視できない」


 堪らず首を横に振る。


「目を背けて、無かった事にして、知らないふりをし続けていたらどれだけ楽か……自分が聖人だって、正義だって思ってる方が、どれだけ楽なことか……」


 言い切らないうちに大きく踏み出す。男の息を飲む音が目の前にあった。

 仰け反った男のフードを握り込む。「やめろ!」怒声と悲鳴が混じる声に構わず毟り取る。

 あらわになったその顔に見覚えがあった。

 いや、見覚えがあるどころじゃない。

 ほぼ毎日絶対に顔を合わせている。


面悪つらわるすぎだろ、三輪蕗二・・・・・


 笑ってやれば、『俺』は鋭い舌打ちを返した。


「なんで、今更気がついた。今まで散々目を背けてきたくせに」

「目を背けるなって言ったのはお前だろ。刑事になった本当の理由は、殺意(お前)から目を背けるためだったんだよ」


 目を逸らし続けていた記憶がある。

 夏の日差しで白く光るグラウンド。

 授業や宿題、野球の事でいつまでも話し込んだチームメイトたち。

 繋いだ手から、じわりと溶け合うあおいの体温。

 思い出せないほど些細ささいな話で盛り上がった家族三人。

 明日も来ると信じて疑わなかった、何気ない日常さえも……

 一瞬にして失い、一変した。

 腫物はれものを扱うように戸惑う視線。

 興味本位でねっとり撫で回されるような視線。

 どちらも嫌で、部屋に引きこもった。

 カーテンで遮った窓の向こうには青く晴れた青空、何気ない会話を交わす学生たちの声、鳥のさえずりや草木が風で擦れあう音、車やバイクのエンジン音が聞こえる。今までと変わらない日常がある。

 それなのに、この部屋だけ切り離されている。

 手のひらに収まり、煌煌と白い光を放つ液晶端末に指を滑らせれば絶望しかなかった。

 世間は犯人や事件のことを覚えている。

 でも、被害者の事なんてまるで知らないのだ。

 とっとと立ち直れ、うじうじ泣くな、悲しむな、ショックで立ち直れないなんて甘えだ。

 世間の空気が責め立てる。待ってくれない。次に進めと急かされる。

 誰も助けてはくれない。誰も聞いてはくれない。

 この世界はあまりにも理不尽だった。

 俺は初めて、生きてきた世界の残酷さに気がついた。

 テレビやネットで専門家という偉そうな大人たちが、犯人についてあれこれ憶測を並べて勝手に議論している。SNSや動画配信では会ったこともない赤の他人が、人のことを知っているかのようにべらべら勝手に意見を垂れ流す。食べ残しの腐敗物に群がる蠅のように、どこからともなくやってきて、耳障りな羽音が飛び回っている。そのくせ、一か月もすれば新たな話題に飲まれて、忘れられていく。なかった事になっていく。初めから存在しなかったように。


 もういいや。


 そんな声が、はっきりと耳の奥で聞こえた。

 悲しみや怒りがどろどろと沈殿していたヘドロのように渦巻いた腹の底から、鈍い音を立てて大きな泡がひとつ沸き上がるような、得体の知れない感情だった。

 もううんざりだ。

 何も聞きたくない。

 何もかも目障りだ。

 もう疲れた。

 もうどうでもいい。

 こんな理不尽な世界、消えてしまえばいい。

 何もかもなくなってしまえばいい。

 投げやりにも聞こえた声。

 だが、頭は冴えていた。

 まるで一世一代の決意のような、はっきりとした確かな感情。


 蕗二の中で、殺意が産声を上げたのだ。


 そんなまさか。

 腹の中で、生まれたばかりの殺意を抱えて呆然とする。

 一度も考えたこともなかったはずの感情が、今まさに生まれてしまった。

 堪らず悲鳴を上げる。

 全身が汚い気がした。体を掻き破いて、湧き上がった感情を引きずり出したいとさえ思った。

 父を殺された自分自身が、父を殺した殺人鬼と同じ感情があるなんて思いたくもなかった。

 あり得ない。あり得ないはずなのに、殺意は狂ったように泣き喚いている。

 殺意なんて感情が、自分の中にある事が許せなかった。

 だってそうだろ、殺意なんて普通は持たないはずだ。

 殺人は悪い事なのだ。他人の命を奪うなんて、許されない。

 殺意を感じる醜い自分の方こそ、いなくなるべきだ。

 誰かを殺すくらいなら、自分を殺せば誰も犠牲にならない。

 そうだ、自分一人がいなくなったところで、何か変わるとも思えない。

 今だってそうだろう、誰も気にしない。みんな忘れていく。

 それなのに、一人置いて行かれる。いつまでもいつまでも、苦しいまま。

 いつになったら楽になれるんだ。

 いつまでも苦しいままなのか。

 もう戻れないのなら、こんなに苦しいだけなんだったら。

 もう終わりにしたっていいじゃないか。

 もう、嫌だ。

 楽になりたい。

 楽になりたい。

 楽になりたいだけなんだ。

 ふと見上げた天井。

 何の変哲もないスイッチのひもが、黒く垂れさがっている。

 音もなく、輪を描いて左右に揺れている。

 重い肉塊をぶら下げて、紐がきしむ音が聞こえた。


「そう、直視できない」


 目の前の男は歯を剥いて笑った。


殺意おれは存在しちゃいけない、人が人を殺すなんて、普通あってはいけない感情だ。けど、俺は確かなお前の中に生まれた感情そんざいだ。11年、何度だって殺意おれを感じただろう。憎いって、殺したいって、お前は何度も思った」


 フードを掴んだままの手に爪が立てられる。ジワリと食い込んでいく痛み。ぎらついた刃物と同じ赤い眼がこちらを見ている。こちらを飲み込もうとしている。強すぎる視線を蕗二はまっすぐ受け止める。


「そうだ。残酷でみにくて誰も助けてくれない最悪で理不尽なこの世界の誰かを、またはどう足掻あがいても何もできずにただ父の死体にすがった挙句に殺意を生んだ自分を、殺したいほど憎くて堪らなかった」


 暗い部屋で死の幻想に手を伸ばしたその直後、菊田がやってきたのだ。

 喪服のような黒いスーツに身を包んだ菊田が、亡き父について淡々と事務的に、でもときどき感情が溢れて声が上ずったり早口になったり、不規則に変わる菊田の声を聴いているうちに、これだと思った。

 警察に、いや刑事になれば、この殺意を収められるんじゃないかと。


「だから、刑事になったんだ。刑事になれば、引き金を一回引けば死ねる自殺の道具が合法で手に入る。もしそれができなくて、人を殺しそうになっても、一番近くに裁いてくれる人がいる。最悪撃ち殺されたって構わなかった」


 あの日から、すべて狂ってしまった。

 もう普通に戻れないのなら、どう狂っていようが構わないじゃないか。

 衝動に突き飛ばされるように渋る菊田を言いくるめて、同級生との関わりを完全に閉ざし、埃を被っていた教科書たちを再び開き、一回り遅れて高校を卒業すると同時に、警察学校の門をくぐり抜けることができた。

 警察の象徴である濃紺の制服に身を包み、使命感を持って警察官を目指す人々の中、俺はどこまでも自己中だった。そんな汚い自分を誤魔化すために、殺意の上に言い訳を重ねた。誰に聞かれても納得するように、父を失った復讐だと≪ブルーマーク≫が憎いと言い続けているうちに、目的と理由を見失った。


「自業自得だ、三輪蕗二。隠したって隠し切れないんだよ。いつしかバレる、その時またお前は独りぼっちだ。誰も助けてはくれない。刑事にしがみついたって、誰もお前を救ってはくれないんだよ!」


 殺人鬼おれの胸ぐらを掴み上げる。

 手が振り払われるよりも先に無理やり抱き寄せた。

 腕の中でびくりと跳ねた体を逃がさないように力を込める。


「お前の言う通りだよ。俺に刑事である資格なんて、最初からなかったかもしれない。やりたいことでもない、嘘ばっかりついて、仲間にも迷惑をかけた。もっと警察になりたがってる優秀なやつに席を譲って、もっと早く、お前を選べばよかったかもしれない。その方が、ずっと楽だったはずだ」


 一度狂ってしまったら、もう戻れない。過去をやり直すことはできない。どの道を選んでも、ああすれば良かったとか、きっと後悔ばかりするんだろう。いっそのこと、狂ってしまえば楽だった。

 分かっているくせに、そんな自分の醜い姿を隠そうともした。

 絶対的に許されない殺意という感情を抱き、死にたがりの自己中野郎から目を背け続けて、自分を見失って、余計に狂っていった。


「でも、刑事になった11年を無駄だったとは、思わない。他人に自慢できるもんじゃねぇかもしれないけど、確かに俺は11年を生きてきた。それを何も知らない誰かに、どうこう言われる筋合いなんてこれっぽちもない。だから、もうちょっとだけ、刑事を続けてみるよ。もういいやってなったら、お前を選ぶ」

「そうやって、また置いていくんだろ」


 怒りを隠そうともしない声とともに、腕の中で体がよじられる。隙間なく押さえ込んでいるはずだが、ぴたりと合わせている腕に筋肉や骨が動く感触が伝わってくる。おおすごい、流石俺だな。なんて笑いをこらえて喉を鳴らすと、唸り声がした。


「もう無理だろ。目を背けたって、もう殺意(お前)をなかった事にできない。だったら、殺意(お前)も、この先の未来に連れて行くよ」


 悲しくて辛くて寂しくて死にたくなるほど殺したかった俺の、大切な感情。

 こんな暗闇に、ひとり置いていくなんて寂しすぎるから。


「なんだよそれ」


 呆れた声。ふ、っと短く息を吐く気配。硬く強張っていた体が寄りかかってくる。


「ずいぶんと待たせやがって」

「11年だもんな、長かったよな」


 背中を擦って、幼い子供をあやすようにてのひら全体で一定の間隔で優しく叩く。

 恐る恐る、腰に回ってきた腕に抱き返される。安堵あんどの息を吐いたのは一体どっちが先だったか。


「嫌になったら、いつでも選べよ」


 突き放すような強さで、それでいて名残惜なごりおしむように体が離れる。

 まばたく。血濡れの男は血に溶けるように、水音を立てて消えてしまった。

 波打っていた血溜まりが、赤い彼岸花へと姿を変えていく。

 白く輝く青空の下、彼岸花が咲いていた。


「そうだな、これも置いていけない」


 振り返って思い出して、縋ったらだめだとばかり思っていた大切で幸せだった思い出たち。

 置いていきたくないから、手放したくないから、壊したくないから、忘れたくないから。

 大切だからこそ、奥の奥にしまい込んで、触らないようにしていた。

 でも、違ったんだ。

 忘れることはない。壊れることもない。しまい込んで大事に蓋をするんじゃない。

 過去として通り過ぎていくけれど、確かにあったことだから。

 一緒に持って行ってもいいんだ。

 名前を呼ばれる。

 目の前に立っていたのは二葉、小松、山梨、そして葵だった。

 じゃあな、元気でな。

 肩を叩いては去っていく。


「もう大丈夫やな」


 ひと際強く肩を突かれる。振り返らなくったって、分かっている。


「ああ、もう大丈夫や」


 蕗二は強く頷いてみせる。


「次会う時はいっぱい話そうな」


 だから、またな親父。

 大きく温かな手が肩を叩き、握り、去っていく。

 その温かさが引くと同時に目がめる。

 長い夢を見ていた。

 気だるい体とすっきりとした頭。

 白む空を見上げ、顔にかかる雨粒に目を細める。

 目の前に立つ蕗二と同じくずぶ濡れの少年。

 顔に貼りついた黒い髪の向こうで、眠っているように瞼が降りている。


「俺、もういいんだな」


 声に応じ、伏せられていた瞼がゆっくりと上がる。

 黒い眼が柔らかな光を反射して、肯定する。


「ええ、もう十分ですよ」


 緊張の糸が、音を立てて弾けた。

 目の奥が熱くなって、目の前が端の方から滲んでいく。

 咄嗟に指で目頭を押さえるが、遅かった。

 人肌と同じ温かな水が指を伝って、手のひらを濡らして、手首へと流れていく。

 肌を流れる感覚がむず痒い。手で擦って拭いとっても、次から次に幾筋いくすじも流れて止まらない。

 瞼を固く閉じても、瞬かないように開けても零れていく。

 落ち着かせようと息を吸えば、鼻が詰まって満足に吸えない。

 苦しくて口を開ければ、あああ、と声が漏れる。

 上ずった泣き声に、引っ張られる。

 止まらない、止め方がわからない。

 あの日置いてきた感情すべてを吐き出すように、子供のように泣きじゃくった。


 水溜まりを跳ねる雨音は、柔らかいねぎらいの拍手に似て、暖かで柔らかかった。








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