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ルナティック・ブレイン 【-特殊殺人対策捜査班-】  作者: 橋依 直宏
Consider 7 朝露に濡れるベゴニア
64/97

File:4.5 セーフティバント




 取調室から出て、すぐさま端末に指を滑らせる。

 父の命日参りの道中、椋村むくむら五百森いおもりに家に送ってもらったびと感謝のメールをしていた。そう、同窓会当日、参加メンバー全員から無料連絡専用アプリで連絡先を交換し合っていたのだ。そのメッセージには読まれたかどうかを目視で確認できる【既読】のマークは付いていなかった。「緊急の連絡がある、すぐに返事が欲しい」と文字を打ち、二葉ふたば小松こまつ山梨やまなし以外のメンバーに送信する。五分ほど待ってみるが、既読マークに反応はなかった。もちろん、全員暇ではない。たまたま読まれていない可能性もある。だが、どうしても誰か一人でも繋がってほしかった。じゃないと、不安と恐怖に圧しつぶされそうだ。

 たった一言、あの日は本当にただの同窓会だっていう一言が欲しかった。

 しかし、誰一人として繋がらなかった。

 たまらず、真っ暗に沈黙する端末に悪態をついてしまう。通りすがりの女性がこちらを不審ふしんそうな目で見て、足早に離れていくのを、不快と感じる自分に苛立いらだつ。

 追い打ちをかけるように傷口が痛んだ。かばうように左腹を押さえるが、透明な指が爪を立てて傷口を押しているんじゃないかと錯覚するほど、痛みはひどくなるばかりだ。

 壁に背中を預けると、無機質なコンプリートから冷たさが染みる。冷たさが痛みを麻痺まひさせてくれたのか痛みが少しだけ和らぎ、浅くなる呼吸を意識的に深くする。

 自分は、こんなに弱かっただろうか。

 父が殺され、警察官を目指し、東京で【特殊殺人対策捜査班】に配属されるまで、恐いものがあっただろうか? いや、無かった。相手がたとえ奇声を発していようがナイフを振り回していようが、率先して現場に向かい、犯人を逮捕してきた。自分が傷つくことはどうでもいい、ただただこれ以上あの日のように命が奪われるようなことが起きてほしくなかった。だから、≪ブルーマーク≫の犯罪をなくすためだけに生きてきた。そうやって生きてきた。何も間違ってない。

 何も、間違っていない。

 突然隣に気配が近づいてきた。鋭く腕を振る。肉を叩く乾いた音がした。

 振り払った手の先で、男が驚いた顔でこちらを見ていた。顎下に下げられている白い不繊維の使い捨てマスクで思い出す。確か山下の後ろにいた、マスクを着けていた刑事だ。


「す、すみません!」


 手を引っ込め、深く腰を折る。呆然とした様子だった刑事もつられるように頭を下げた。


「……いや、ええですけど。それよりどっか悪いんですか? えらい形相しとったけど」


 しまったと眉間をまむ。


「いえ、ちょっと気分が悪くて」


 顔色を見られないように顔を背けると、刑事はなぜか腰を折って深く頭を下げた。


「大変失礼しました」


 蕗二が首を傾けると、刑事はばつが悪そうに「逮捕状の件です」と呟いた。


「いや、その件は構いません。俺だって逮捕状請求すると思います」


 逮捕は正しい判断だ。敏感すぎるマスコミなどはすぐに『誤認逮捕だ』と騒ぐが、あれはマスコミ用語で、厳密には俗語ぞくごだ。そもそも逮捕状は、犯人の逃走や犯行の証拠隠滅の可能性があり、早急な拘束が必要と判断されれば比較的簡単に請求できる。今回の場合は東京から帰郷している蕗二の逃走を恐れ、判断されたんだろう。


「それを、わざわざ謝りに?」


 問いかければ、刑事はあっと声を上げ、拳を開いた手に打ち付ける。


「思い出した! 三枝みつまたさんが呼んだタクシー来たんで、お迎えに来たんです」


 そういえば三枝みつまたがタクシーを呼ぶと言っていたが、有言実行してくれたようだ。


「お袋さんにもご心配をおかけして申し訳ないとお伝えください」


 ああ、そうだ。電話やメールをしても繋がらないのを分かっているのか、警察署に行く前にたった一言「終わったら連絡して」とだけ言われた。恐らく連絡があるまで、家でひとり待っているのだろう。意外とのんきにテレビを見ているかもしれないが、心配をかけるのも悪いだろう。蕗二は握りしめていた端末から手短に「無事終わった。帰る」とだけ打ち込んで、メールを送信した。

 瞬間。突然大きな音を立てて背後のドアが勢いよく開いた。

 なんだと振り返れば、部屋から器用に後ずさりながら中年の男性が出てきた。愛想笑いをしているが、顔はどう見ても引きつっている。それを追って女性が一人出てきた。男性に指を突き立て、大声で詰め寄っている。その女性をなだめようとしているのか、もう一人女性が出てきた。後ずさっている男性と宥めている女性は警察の青い制服を着ている。詰め寄っている女性は一般人だろう。

 それを見たマスクの刑事は、呆れた表情でわざとらしく大きなため息をついた。


「こっちもまだったんか……」


 刑事は女性をなだめに参戦する。

 彼のセリフから、蕗二が取り調べを受けるよりも前から、女性は部屋にいたようだ。何かの相談に来たが、対応が不服だったのだろう。まあ、警察ではよくある話だ。24時間付きっ切りで護衛してほしいだとか、パトカーで迎えに来てほしいだとか無茶ぶりもよくされる。断れば税金泥棒扱いなのだが……

 面倒ごとに巻き込まれる前に帰ろうかと蕗二はきびすを返そうと思った。今は休養中で刑事ではない。だが、蕗二を引き留めたのは、困ったことに刑事の勘だった。

 女性にどこか覚えがあった。記憶の引き出しが開きそうで開かない。もはや職業病、気になったら首を突っ込みたくなる刑事の性分に負け、騒ぎを聞きつけた警官でできた人垣を覗き込む。身長が頭一つ飛び抜けるため、人の向こうに埋もれる女性を覗くのは簡単だった。

 肩まである赤みの強い茶髪を振り乱し、男女関係なく警察官に噛みつかんばかりの女性。

 その面影に野球部の男たちに交じり、スカートをひるがえし共に戦った仲間の少女が重なった。


「あ、あおい……?」


 思い出した衝撃のまま口にすれば、彼女は機敏に反応した。怒りの矛先を向けるような強い視線に、人垣が自然と蕗二の前で分かれる。蕗二は手を上げて敵意がないと体で示した。


「久しぶりやな、三輪蕗二や。……覚えとる?」


 恐る恐る問えば、女性は眉を寄せ、蕗二に焦点を合わせるように目を細めた。


「ふき、じ……?」


 彼女の表情がほどける。爆発的に逆立てていた気配が急速に収まっていくのを感じ、ほっと息を吐いたのもつかの間、突然肩をつかまれた。


「なあ! 蕗二、旦那だんな知らん!? 昨日から帰ってぉへんねん!」


 激しく揺さぶられ前後にブレる視界に気分が悪くなってきて、葵の手を引き剥がした。


「待て待て待て! 旦那って言われても俺知らんし!」


 言葉に叩かれて我に返ったのか、葵がはっと息を飲む。気まずいと言わんばかりに視線をそらし、ぽつりと言葉を漏らした。


「と、栩木とちぎやねん……」


 聞き間違いかと思った。だが秒針がカチカチと時を刻むごとに記憶が噛み合っていく。同じ野球チーム、栩木とちぎの電撃告白、左手の薬指に嵌まっていた中央にダイヤが飾られたシルバーとホワイトゴールドのリング。葵の指にも全く同じものが……


「はあああッ!? 栩木の結婚相手って、お前やったんか!?」

「シーッ! 声がでかい!」


 葵の右腕が大きく後ろに引かれた。あっと思う暇もなく、固く握られた拳が鳩尾みぞおちにめり込んだ。

 一切防御していなかった腹部への衝撃に、蕗二は背中を丸めて腹を押さえた。


「ごめん! 久々やったからつい……大丈夫!?」


 悲鳴を上げた葵に蕗二は手を上げて無事だと示す。


「あー、今ので思い出した。その拳、確かに葵や。強くなったな……」

「いやいやいや! そこ思い出すポイントちゃうやろ! なんで拳で思い出すねん、脳筋か!」

「脳筋はお前や! 何で会って二言目で拳が飛んでくんねん! ゴリラか!」

「ゴリラはあんたやろ! どーせ暇やったらアホみたいに筋トレしとるんやろ!」


 つかみ合いになったところでわざとらしい咳払いがすぐ隣で聞こえた。蕗二と葵が顔を向けると、先ほどのマスクの刑事が拳を口に当ててこちらを見ていた。


「一応警察署内なんで、お静かにお願いします」


 刑事の言葉に、対応に当たっていたのだろう警察官も勢いよく頷いた。


「落ち着いてお話ししましょう」

「そうそう、ちょっと奥進みましょう」

「ちょっと目立ってきたんで」


 一様いちように頷く警官たちから厄介払いしたい魂胆こんたんかと思ったのだが、周りを見れば手続きをしてきた一般人がこちらを見たり、端末を掲げているのが見える。慌てて顔を背けた葵の盾になるように立ち、身をかがめて警察たちの人が気に隠れた。同じく身をかがめたマスクの刑事が人垣の反対方向を指差す。


「お知り合いやねんやったら、一緒にタクシー乗ったらどうですか?」

「タクシーはどこに?」

「こっちです」


 そう言って刑事は身をかがめて足早に移動を始めた。蕗二は固まっていた葵の背を押す。


「葵は……あー、えーっと、栩木とちぎさんも行きますよ」


 葵は蕗二の顔をじっと見つめる。なんか顔についてるかと首を傾げたところで、葵が刑事の後を追った。その後ろを追いつつ、人目が付いてきていないか確認する。

 どうやら有名人の婚約者と言う事もあって、身をていしてバリケードを保っているのだろう。追手の姿は見えない。取調室の前を通り過ぎ、資料室や会議室など狭い通路を右左と曲がって、階段を下りれば、駐車場にたどり着く。そこに警杖を持った青い制服の警官と黒いベストに白いシャツを腕まくりした初老の男が立っていた。そのかたわらに予約済みの電子表示がされた黒いタクシーが一台止まっている。蕗二たちの顔を見て、初老の男は素早くタクシーの後部座席のドアを大きく開けた。

 珍しいな。蕗二は失礼なほどタクシー運転手を観察してしまった。

 タクシーは今、有人タクシーと無人タクシーの2種類が存在する。

 一般に7割普及している自動運転システム(ADS)は、緊急時に備えて人が運転席に座っていなければいけない。だが、2042年現在、日本は超級少子高齢社会で人材不足が深刻だ。対策として、コンビニなど小規模施設の無人化、受付案内係はアンドロイド化が急速に進んでいる。東京、神奈川、大阪、愛知、福岡、北海道では、バスやタクシーなど一定の場所を周回するような物は、運転手を必要としない完全自動運転が主流になりつつある。運転手の過労防止に抜群の効果があると同時に、客から暴行や強盗、また運転手によるストーカー行為や性的暴行などの犯罪防止にも貢献こうけんしている。もし外から無理やりこじ開けようとすれば、警告アラームが大音量で鳴り響き、現在位置情報が近くの警察署と交番に届くようになっているため、深夜は人気が高い。

 蕗二と同じく珍しさでか、一瞬立ち止まりかけた葵を先に乗せ、蕗二も乗り込む。ドアが閉まり、これまた年齢を感じさせない動きで運転席に座った運転手が行き先を尋ねてくる。


「あおい、じゃなかった栩木さん、家は?」

天王寺てんのうじ

「天王寺の何処?」


 そこで葵はなぜか首を横に振った。さらに胸の前で腕を組むと座席に深く腰掛けてそっぽを向いてしまった。住所を知られたくないのだろう。防犯意識が高い事は良いことだ。


「すみません、天王寺駅まで」

「あいよ」


 タクシーは滑らかに走り出す。警備の警官に促され、地下駐車場から這い出せば、一瞬目がくらむ。

 まばたきをしている間にタクシーは裏道から大通りに出て、他の車に紛れ込んだ。

 静かな車内。何かを察しているのか、運転手は一言もしゃべらない。

 窓の外で足早に流れていく景色を見ながら、蕗二は内心、動揺が収まらなかった。

 栩木の姓にしているのなら旧姓になるが、彼女は日向ひゅうがあおい

 同じ高校の同級生で、野球部のマネージャー…………そして蕗二の初恋の相手であり、彼女だった。

 高校一年生で野球部に入部し、初めて顔合わせの時、恋の芽生えを初めて感じた。

 葵は、蕗二の好みストレートど真ん中だった。審判に力強く「ストラィィッ!」と舌を巻き気味に言われるだろう。違うクラスだったが、部活で毎日顔を合わせているうちに、グラウンドと夏空と太陽が似合う彼女にどんどん惹かれ、小さな恋心は雑草のごとくみるみる成長し、つぼみは膨らんで重く頭をもたげた。この思いをどうするべきか悩んでいたある日、突然事態は動いた。

 忘れもしない、夏合宿の帰り。昼の暑さがまだ残り、じっとりと汗ばんでいた。陽はすっかり落ちていて、危ないから送ると言って一緒に帰った。たわいのない話をして、彼女の家の前に着いた時。突然、別れるのが寂しいと思ったのだ。何かに背中を突き飛ばされるように付き合ってほしいと告白した。葵の驚いた顔を見て、しまったと思ったくらいだ。顔が爆発するほど真っ赤にした蕗二が言い訳を口にするよりも早く、「いいよ」の返事。予想外の展開についていけず間抜けな声を出してしまい、葵が腹を抱えていたのをはっきりと覚えている。

 そこからは手を繋ぐまでが精一杯の、はちみつをたっぷりと溶かし込んだ水にレモンを数滴垂らしたような、飲めば飲むほど喉が渇いてしまう、切なく甘い関係を保った。

 部活、勉強、恋人。毎日が充実しすぎていたほど、青春を謳歌おうかしていた。

 しかし、その日々は一瞬で壊れてしまった。

『あの事件』が起きたのだ。

 父が死んで生活は激変した。復讐の道を歩むことを決めてからは、野球チームどころか、恋人の葵でさえ一方的に避けた。別れを告げることもなく、卒業と同時に疎遠になった。

 その気まずさと同時に、元恋人だったことを意識してしまい目も合わせられない。

 そんな自分が「最低な奴だ」と遠くからののしる自分がいる。

 自分から避けたくせに、再会して恋心を思い出しているのか。お前が別れを告げなかったのはエゴだ。相手が結婚していて焦っても今更もう遅い、と指をさして笑っている。

 分かっている。一番自分が分かっているのだ。笑う自分から背けるように目をつぶった。


「そこで止めて!」


 突然の大声が車内に響き、運転手が慌ててブレーキを踏みこんだ。衝撃で腰が浮いたが、助手席に手をついて衝突はまぬがれる。後ろから鳴らされるクラクションにまぎれ、ドアが開く音。顔を向ければ開け放たれたドアの向こう、走る葵の後姿が目に入った。突然のことに驚きすぎて口を開けたまま放心する蕗二に、タクシーの運転手は慌てて振り返った。


「兄ちゃん! 早よ追っかけたれ!」


 運転手の声にはっと我に返る。電子カードを取り出す間もなく「お代はええ! 頑張れ」と運転手が親指を立ててウィンクをして見せた。「ありがと」と言葉を置き去りに、蕗二は開け放たれたままだったドアから飛び出した。四車線の道が入り組んだ交差点。蕗二が葵の姿を見つけたのは、はす向かいの歩道だった。歩行者信号が切り替わった直後だ、葵の背後を追うには信号をもう一つ待たなければいけない。そんな暇はないと、目の前の信号を渡った。

 道路を挟んで反対の歩道を走る葵を追う。葵の赤みの強い茶髪が肩に当たって跳ねている。

 一体何なのだ。蕗二は混乱したまま彼女の後ろ姿を追い続けた。

 途中で歩行者信号がちょうどよく切り替わり、葵が走る歩道へと移動する。待ってくれと声を上げても、葵は止まらない。それどころか一度も振り返らない、まるで追ってくるのを分かっているようだ。

 葵の目的がはっきりしない。一体どこに向かっているのだろうか。

 付かず離れず、一定の距離を保ったまま追跡する。

 と、動物の声が聞こえた。左に視線を投げれば、天王寺動物園が見える。

 タクシーから飛び出して、一キロほどの距離を移動していると言う事だ。

 額から汗が流れ落ちる。眉が受け止めるのを感じ、指の背で払えば、指先から汗がしたたり落ちた。足に自信はある。が、病み上がりの今では体力は落ちている。その証拠に息が乱れ始めていた。

 体力の残りを考えて、捕まえるならもう時間はない。

 信号を渡り、阪神高速道路の高架下をくくり抜け、蕗二が追い付こうと足に力を入れた時、突然葵が左に曲がった。蕗二は慌ててブレーキをかけつつ、後を追って左に曲がる。

 細い住宅地を迷いなく進む葵。こうと言うのか。

 舌打ちを飲み込んだ時、視界にある建物が飛び込んできた。あっと声を上げる。

 立ち並ぶマンションの間に紛れて現れた、銀色に太陽光を反射する鉄骨造のタワー・通天閣つうてんかく

 なにわのエッフェル塔と呼ばれるそのタワーは、1956年再建された物だが、免震工事や改修工事を重ねながらも立てられた当初とほとんど変わらない形を残し、今も観光名所として有名だった。2014年60階建て超高層ビル・あべのハルカスが徒歩20分ほどしか離れていない駅前にできても、人気はおとろえることはなかった。

 観光客の間を縫うように走る葵は、通天閣の下にある通天閣わくわくランドと書かれたやたらとカラフルな入口をくぐり、階段を下りていく。地下にある有名なお菓子メーカーや即席麺の店舗を横切ってその奥、通天閣へ上るチケット売り場へとたどり着く。いつもなら行列が絶えないのだが、タイミングよく人の波が途切れていたらしい。葵の背後に立てば、投げ付けられるようにチケットを渡された。胸元からひらりと落ちそうなチケットを掴む蕗二を尻目に、葵が再び移動を始める。駆けるような速さで階段を上った葵は、通天閣の展望台へと通じるエレベーターに乗り込んだ。汗だくで息切れを起こす蕗二に添乗員は笑顔でお疲れ様ですと声をかけてくれた。膝に手をついて葵を睨むが、視界に入っていないとばかりに無視される。他の観光客と交じり、会話を交わすこともなく一気に地上約87メートルの展望台へ押し上げられる。

 エレベーターが到着すれば、人の流れはおのずとある一点に流れる。

 目を細めて口角を限界まで引き上げて笑い、足を投げ出して座るのは「ビリケンさん」の愛称で知られ、全身金色の福の神が目に入る。足の裏を撫でると何でも願いを叶えてくれる言い伝えがあり、ひと撫でしようと観光客の列が途絶えない。

 栩木が無事見つかるようにと祈願でもするんだろうか。しかし、葵は歩く速度を変えなかった。ビリケン像を通り過ぎた先には、またしてもチケット売り場。またもやチケットを押し付けられる。汗だくの蕗二と終始無言の葵。物珍しそうな視線を係員に向けられつつ誘導され、蕗二は舌打ちを飲み込んだ。チケットと引き換えに、腕輪型のタイマーを装着し、鉄製のスライドドアを抜けた。鉄骨階段を二階分上がってたどり着いたのは、特別展望台だった。

 強化ガラスの床に、柵の下半分は強化ガラス、柵の上半分はワイヤーで仕切られているので、360度全面ほとんど遮るものがない。人一人すれ違うのがやっとの場所、高所恐怖症でなくてもなかなか肝が冷える。

 冷たい風がねぎらうように髪を撫でて汗を引かせてくれたが、蕗二は落ち着かなかった。

 口をきいてくれない葵はもちろんだが、通天閣は学生時代にデートしたことがある場所だった。

 なぜわざわざこんな場所を選んだのか、ますます葵の意図がつかめず、ズボンのポケットに手を突っ込んで、そわそわと足を揺する。

 無言を貫く葵の背を追って、回廊を半周した時だった。


「10年や」


 先を歩いていた葵が振り返らずに呟く。


「うちは10年ずっと待っとった」


 立ち止まった葵の背を見つめる。体の横で握られた葵の拳が震えていた。


「なんで、今なん? よりにもよって、うちが参加してへん時に限って参加すんねん。ほんま腹立つわ」


 とがめるような強い口調に、蕗二は慌てて反論する。


「それは、たまたまや! 俺は、誰が参加するのかも、なんも知らんかった」

「はあ!?」


 葵が振り返る。その視線から逃げるように、蕗二は俯いた。

 ガラスの透ける足元にぞっとする。強化ガラスは今ここで跳び跳ねたところで割れるようなものではない。

 分かっているのに心許なくてたまらない。ここから逃げろと心臓が胸の内側を激しく叩くせいで、息が苦しくなっていく。溺れたように口を開けて必死に空気を吸い込みながら、なんとか声を絞り出した。


「仕事で、ちょっとヘマして、療養と親父の墓参りついでに、帰ってきただけや。同窓会は、直前で知って、その、ホンマは参加するつもりもなくて、たまたま……」


 言い訳がましい奴め。

 足元の影がこちらを指差して笑っている。


「違う、俺は、謝りたくて……」


 何が違う、本当は期待していたくせに。

 可哀想な自分を慰めてもらいたくて仕方なかったくせに。

 だけどな蕗二。残念だが、あいつらはお前を問い詰めたくてずーっと待っていたんだよ。

 何もかも忘れたふりをして、現実から目を背けた弱虫野郎を待っていた。


「仕方ないだろ、あいつのせいで、俺は……」


 これ以上聞きたくないと耳を塞いでも、影の言葉は頭の中に響いてくる。

 お前はいつも、そうやって何でも人のせいにする。

 甲子園で負けた時も、監督の指示が悪いと思っただろ。父親が死んだのは、あの犯人のせいじゃない。腰が抜けた無力なお前を庇って、父親は死んだ。

 違う、違う違う違う! あいつさえ、あいつさえいなければ……!

 そう叫ぼうとした喉が締め付けられたように締り、ひゅっと音が鳴る。

 本当に?

 お前が戻らなければ、二葉ふたばは死ななかったんじゃないのか?

 二葉だけじゃない、小松も山梨も、栩木も……俺が戻ったから、死んだんじゃないのか?

 酒で忘れてしまった同窓会の日。本当に忘れているのか。

 また都合よく、記憶にふたをしているんじゃないのか。

 本当は、あのバットで、あの場にいた全員を殺したんじゃないのか。

 刑事と言う職業であれば、証拠を消すこともできる。だって捜査の手順を知っているから。

『刑事さん、あれでしょ? 憎い相手が殺せなくて、どうすれば良いのかわかんないんだ? ……いいや、本当は全部分かってるんだ』

 畔見あぜみが背後に立って笑っている。幻覚だ、分かっているのに振り返る事すらできなかった。畔見は蕗二が逃げられないように肩をつかんで、耳に声を擦り付ける。

『憎い相手なら、殺したって構わないと思うでしょ? ≪ブルーマーク≫を殺したくて堪らないんでしょ? だからずっとずっと銃を持ってる。俺にだって銃を向けたじゃないか。頭をぶち抜きたかったんでしょ? 警察なら、正義の名のもとに、殺人だって許されると思ったんでしょ?』

 鼓膜の奥に張り付いた、男の高らかな笑い声。

 血溜まりの中、父の血に濡れた『あの日の俺』が、まっすぐ俺を指差していた。

 殺せ! ≪ブルーマーク≫を殺せ!

 いつの間にか、右手に金属バットが握られていた。血濡れのバット。

 目の前に、顔が分からなくなるほど、叩き潰された男たちが血溜まりに転がっている。

 悲鳴を上げそうになり、押さえた自分の口元が、笑みで歪んでいる。

 人を殺して、笑っている。

『忘れないでよ。俺とお前は同類だ』

 俺は、俺は……!


「蕗二!」


 どっと胸に衝撃。顎の下に見えた頭頂部。びくりと跳ね上がる体を押さえるように細い腕が胴体にからむ。緊張と恐怖に胸の内側から心臓が激しく脈打つ鼓動を、聞き逃さないと耳が押し付けられている。心の奥を覗かれるような恐怖心に、引き剥がそうと肩に手をかければ、胴体を締め付ける力が強くなる。


「離せ」

「嫌や! うちはまだ、なんも言うてない!」

「うるさい!」


 怒声を浴びせ、葵を引き剥がす。小さく悲鳴が上がり、よろめいて後ずさった葵を睨みつけた。


「んな事、言われなくったって分かってるよ、なんで今さら戻ってきたか聞きたかったんだろ? 懐かしかったからだよ! 謝れば、またあの頃みたいに戻れると思ったんだ!」


 強い風が吹いた。夏の、蒸し暑くて青々とした草木の匂いがした。

 アブラゼミやミンミンゼミが競うように鳴きかわす。

 目を細めるほど強い日差し。グラウンドの真ん中、深い青に浮かぶ真っ白な入道雲。

 バットが球を打ち出す、高く澄んだ音。

 どんまい、ナイス、しまってこー。チームメイトを励まし合う掛け声。

 ユニフォームを着た仲間が、次々と蕗二の背を叩いてグラウンドに駆け出していく。

 陽炎の向こう、こちらに手を振る夏服の葵の姿が見えて―――。

 とっさに強く目を押さえた。じゃないと零れてしまう。

 本当は、忘れたことなんてなかった。

 目を背けて、思い出すなとむりやり蓋をしてきた。

 怖かったのだ。決心が揺らいでしまうから。

 でも、時々蓋を開けて、覗いていたのだ。

 みんなと過ごした一瞬一瞬が、すべての輝きが羨ましくて、辛くて、寂しくて……

 蓋をこじ開ければもう戻せない。分かっていた。だからほんの少し覗くだけ。そっと蓋を戻して忘れたふりをしていた。

 戻りたい。戻れない。狭間でずっと揺れていた。

『あの日』をなかったことにして、戻りたい。

 押さえつけていた楽しかった頃の思い出は、どんどん溢れるばかりで、ついに、蓋をこじ開けてしまった。

 しかし結果はどうだ。蓋を開けたばかりに、みんなの幸せを壊してしまった。

 こんな事、望んでいなかった。


「俺が馬鹿だった。会わなければよかった……戻りたいと、願わなければ、こんな事には……」


 膝から崩れ落ちる。このまま、足元が消えてしまえばいいと思う。

 そしたら、全てから解放されるのにと。


「なあ、蕗二。覚えてる?」


 後頭部に落とされる平坦へいたんな言葉に、びくりと肩が跳ねる。


「あんたクローバーくれたやろ? 指輪にしてくれたやつ……」


 蕗二は小さく頷く。学生時代に四葉のクローバー探しが流行ったのだ。練習の合間に四葉のクローバー探しに付き合わされた。一時間以上かかり、やっと見つけた葵がたかが葉っぱ一枚にはしゃぐ姿が愛おしくて堪らなくなった。だから手渡された四葉のクローバーの茎を編んで、指輪の形にして返したのだ。その時の会話は思い出せないが、葵が笑っていたのだけは覚えていた。


「あれな、まだ持ってんねん。捨てようと思ったことは何回なんべんもあるのに、結局ずっと本に挟んだまんま、旦那にも言うたことない、うちの大切な宝物や」


 うつむいたままの蕗二の正面、そっとしゃがみこむ気配。震える肩に乗せられた手から、じわりと暖かな体温が伝わってきた。


「蕗二が、うちらのこと、最悪な思い出として覚えてるんやったら、忘れた方がええやろうし、捨ててくれたって構わへん。でも、うちにとったら、大切な思い出やねん。だから、蕗二も大切やって、言ってくれたら嬉しいな」


 優しい声音に顔を上げれば、泣く子供を慰めるように、葵は優しく笑っていた。

 本当に、いいのだろうか。

 手放せなかった美しい思い出を、握りしめたままでいいのだろうか。

 他人の血溜まりに立つこんな自分に、そんなわがまま、許されるのだろうか。

 助けてほしいと叫ぶ心と、許さないという声がせめぎ合い、頭の中を埋め尽くす。

 心が掻き乱されて、正体が危うくなりそうな体に細い腕が伸ばされ、包み込まれるように抱き締められた。


「おかえり」


 葵の強く澄んだ声に、影も、畔見の声も、あの日の笑い声も、すべて吹き飛ばしていく。

 ああ、この言葉が欲しかったのだ。ただいまの言葉は嗚咽おえつとともに飲み込んで、唇を噛み締める。自分よりも細い体をき抱き、すがりつきたい衝動を、拳を握って押さえつける。一度(すが)ってしまえば、何もかも耐えられなくなってしまう。耐えろと震える体を言い聞かせれば、分かっていると葵が背中を心地いい強さで叩いた。まるで子供のようだ。情けないなと自分を自嘲じちょうしながらも、今だけだからと言い訳をして細い肩に頭を預けた。

 いつまでそうしていたのだろう。

 葵が長いため息とともに言葉をこぼした。


「10年か……」


 驚きと哀愁あいしゅうを混ぜた声。


「正味、高校2年やから……11年やな。ホンマ信じられへんわ。なんか、こうしゃべるとなつかしい気もするし、なんか変な感じやな?」


 くすくすと笑う声に跳ねる肩から、そっと顔を上げる。

 晴れやかな笑顔がそこにあった。

 葵の赤みがかった髪が、光に照らされて金色に輝いている。風が吹けば、肩からふわりと浮き上がり、髪先の一本一本が輝き、眼が離せない。

 ああ、やっぱり。葵には太陽が似合う。

 ちらりと葵の薬指に巻きついた金と銀の金属に視線を落とす。


「結婚、おめでとう」

「……ありがとう」


 葵は指輪を見つめ、指の腹で懐かしそうになぞった。

 栩木とちぎからの告白を思い出しているのだろうか。

 白いウェディングドレスをまとう葵の姿を想像してみる。

 きっと似合うんだろうな。

 その隣に顔を赤くして照れる栩木がいて、みんなから祝福の拍手を受けるのだろう。

 嬉しさと寂しさでほんの少しだけ、心臓付近が握られたように苦しい。

 気づかれないようにそっと息を吐きだす。

 と、伏せられたまつげの下で葵の瞳が、不意にかげった。考えを読まれたんだろうか。まさかなと思いながら、蕗二は葵の言葉を待つ。覚悟が決まったのか、ゆっくり瞬くと瞳から陰りは消え、強い視線でこちらを見上げた。


「なあ、蕗二。……あんた、なんで警察署に居ったん?」


 逃げるように立ち上がれば、追って葵も立ち上がる。


「取り調べを、受けてた」

「取り調べ? ……何を疑われたん?」


 間髪入れずに問われ、蕗二は蚊の鳴くような掠れ声で答える。


「殺人の、容疑や。とりあえず、釈放しゃくほうはされたけど……」

「なあ、もしかしてやねんけど、うちの旦那……栩木とちぎがいなくなったんと、関係あったりする?」


 はぐらかすべきだと思った。だが、まっすぐ向けられる瞳を見て、たまらず後頭部を掻きむしった。


「後悔しても、責任は取られへんで」


 警戒するように眉を寄せつつも頷く葵に、言葉を噛み砕きながら少しずつ吐き出す。


「小松が、亡くなった…………山梨と二葉も、死んだ。関連はまだ分からんらしいけど」


 言葉がみ込めないのか、瞬きを繰り返していた葵の目が、はっと大きく見開かれた。


「待って、あんた殺人の容疑って……まさか、殺されたって事!?」


 蕗二は答えなかった。しかし察してしまったのだろう、白い顔で耐えるように口を覆った葵の肩を、なぐさめるように撫で下ろす。


「俺も何があったか分からへん。でも、同窓会の後から、誰とも連絡がつかへん。栩木も……分からん」


 ポケットから端末を引き出し、画面を展開する。通知を確認するが、やはり着信はない。メッセージを読んだ証拠の『既読』マークもついていない。


「葵も危ないかも知らへん。実家にいったん帰った方が」

「あんたは? あんたは、来ぉへんの?」


 被せるように放たれた言葉に視線をそらせば、葵の声にとげが立つ。


「うちは……旦那が帰ってくるまでは、ここを離れへんで。蕗二、あんた今、大阪ちゃうところで働いてるんやろ? だったら、そっちに行き。そしたら、とりあえず犯人からは逃げられるで」

「そんなの一時しのぎにしかならんやろ。だったら俺がおとりになって犯人と闘った方がよっぽどマシや」

「アホか! 脳筋のうきんもたいがいにせぇや! あんたまたお母ちゃん悲しませるんか!」


 母の嗚咽おえつが耳奥によみがえり、蕗二は唇を噛み締める。


「俺は……」


 突然甲高い電子音が遮った。手に握っていた蕗二の液晶端末からだ。

 竹輔からだろうか、慌てて画面を確認すれば、電話じゃない。無料連絡専用アプリからの着信だった。

 相手は、奈須なすからだ。息を飲む暇もしく、通話開始のボタンをタップする。


『助けてくれ!』


 音が割れるほどの絶叫が蕗二の横っ面を叩いた。


「おい奈須どうした!」

『追われてる! 殺されるかも知らん! その前にお前に、お前に言わなあかんことがある!』


 電話の向こうで、衣擦きぬずれの音と激しい呼吸音から、奈須は今走っているようだ。


「今どこだ!」

「え、あ、公園だ! 浪花なにわこうえ……」


 音が途切れた。無機質な電子音だけが続く。蕗二は黒くなった画面に鋭く舌打ち、葵の腕を強引に引っ張った。


「来いッ!」


 有無うむを言わさず、階段を駆け下りる。並ぶ人を押しのけるように駆けながら、頭の中で地図を開いた。

 奈須が言おうとしていたのは、恐らく浪速なにわ公園だ。ここから約二キロ。走れば15分ほどの距離にあったはずだ。通天閣を下り切ったところで「待って!」とつかんでいた腕を振り払われる。もう一度掴もうとすれば、手を叩き落とされ、脅すように睨めば、鬼の形相で睨み返された。


「あんた、おかしいと思わんの!? さっきまで連絡つかへんかったのに、このタイミングで連絡つくとか、絶対変やん!」

「だとしても、行くしかないやろ!」


 葵の言う事はもっともだ。今の今まで連絡がなかった事がおかしい。

 奈須には不可解な点もある。犯人の可能性は残ったメンバーの中でも高いだろう。

 だが、犯人と決まっていない。まだ見捨てるわけにはいかない。

 これ以上、誰も死なせるわけにはいかない。

 口を開きそうな葵を遮り、言い聞かせるように両肩を強く掴む。


「頼むから、お前は警察署に行ってくれ! 俺が何とかするから」

「あかん!」


 悲鳴に似た声を上げ、葵は蕗二の服を掴んだ。


「またどっか行くとか言わんといて! もう待つんは嫌や!」

「迎えに行く!」


 大きく開いた目に言い聞かせるように、もう一度はっきり口にする。


「迎えに行く。もう逃げへん、絶対に戻るって約束する」


 葵の手から力が抜けた。その隙に、観光客を出待ちしている無人タクシーに近づく。

 端末からタクシーのアプリを開き、タクシーのフロントガラス上部にあるQRコードを読み取れば、後部座席のドアが自動で開いた。


「いいか。大阪府警まで行って、三枝みつまたっていう刑事に全部話して」

「蕗二」


 威嚇いかくするような低い声とともにすねを蹴られた。

 強烈な痛みに腰を折る。文句を言おうと開けた口を塞がれた。

 柔らかな感覚。葵の顔が離れ、してやったと口角を上げて悪い笑みを浮かべていた。


「待ってるからな。すっぽかしたら、顔面グーパンチやで」


 ぱたんと軽い音を立ててタクシーのドアが閉められる。

 呆然と立ち尽くし、思考が正常に戻った時には、赤いテールランプが車の列に紛れるところだった。

 思い出したように手が持ち上がる。恐る恐る顔に近づいた指が唇に触れた瞬間、体が燃え上がるように熱くなって、溶けるように屈みこむ。子供のように膝を抱え、耐えきれず熱い溜息を吐く。


「勘弁してや……」


 かすれた呟きは観光客のざわめきに混じって、誰にも聞こえなかった。










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