File:4 サスペンデッドゲーム
大阪府警本部。
取り調べのルールは年々厳しくなっている。
刑事の脅迫によって冤罪が生まれた事が大問題になり、冤罪を防ぐために動画や音声録音がされるようになってからは、昔ほど閉ざされた場所ではなくなった。
と言うのは表向き。事実は逆だ。『犯罪防止策』が施行されてからは犯罪者予備軍、通称≪ブルーマーク≫の犯罪以外は認知されていない。蕗二たち【特殊殺人対策捜査班】が逮捕した一件に、マーク判定前の犯人はいたがかなり珍しいケースで、取調室に一度入ってしまえば、刑事たちの領域だった。
取り調べの時、犯人の万が一の逃走を防ぐため、容疑者は部屋の奥、刑事はドア側に立つ。
今、反対側に座って思う。はっきり言って居心地が悪かった。
逃走防止に腰をロープで括りつけられ、座っているパイプ椅子に繋げられている。目の前にはシンプルな机、向かいにはパイプ椅子がひとつ、ドアの横にはこちらに背を向けパソコンに調書を入力する刑事は置物のように沈黙している。ドアの向こうや透過鏡の向こう側の気配は嫌でも感じる。こんな場所で何時間も何時間も問い詰められたら、精神的に参ってしまうのも頷ける。
紙コップに入れられた水を口に含む。ぬるく、何も味のしない水をゆっくりと喉の奥に送る。
緊張から美味しくもない水を飲み干してしまう。
職務質問の相手は誰だろうか。
蕗二は紙コップに口を付けたまま、思い浮かぶ過去の仲間の名前と顔を検索する。
大阪に5年で勤めていたこともあり、顔馴染みも多い。見ず知らずの人間とは違い、互いにどういう人間か知っている仲なら、容疑者と刑事ではなく対等に話ができるかもしれない。
ふいにドアの向こうが騒がしくなる。
首を傾げたとほぼ同時に勢いよくドアが開いた。
あまりの勢いにドアは大きな音を立てて壁に当たり、跳ね返る。蕗二が顔を上げれば、そこには熊のような男が立っていた。
その男を見た瞬間、蕗二が「げっ」と引き攣った声を上げたのを引き金に、男のこめかみに太く青い血管を浮かび上がった。
「お前、何さらしとんじゃ!」
建物が揺れるほどの怒声を上げた男。後ろで血相を変えた刑事たちが止めようとしがみついても止まらず、蕗二は襟を掴み上げられる。尻が椅子から浮き、蕗二が堪らず呻き声をあげる。
「白状せぇや! 俺はお前殺人鬼に育てた覚えはないで!」
唾が顔中に飛び散り、鼓膜が耐えられないとばかりに甲高い耳鳴りで訴えてくる。蕗二は降参だと顔の横に両手を上げた。
「み、三枝さん! ちゃうんですって!」
「なにがちゃうねん! どつき回すぞ!」
がくがくと首を揺すられながら首が締め上げられ、顔の皮膚が痺れながら膨らんだ気がした。蕗二は必死に男の肩を叩く。蕗二の様子を見て、周りの刑事たちも「あかんあかんあかん!」「三枝さんホンマやめたって!」と声を上げ、必死に縋りつく。そこでやっと三枝が襟元から手を離した。持ち上がっていた腰が座面に落ちる。締め上げられていた喉が解放され、水に戻された魚のように息を吸い込むが、慌てすぎて噎せ返る。吸っては咳で吐き出してしまう苦しさに視界が涙で霞んだ。
机の上、倒れた紙コップを見つめながら背中に冷たい汗が滲む。
三枝は警察からも、ここ周辺の地元民なら誰でも知っている有名な警察官だ。人情深いが落雷のように遠くまで響く大声が目立つため、脅迫で一度訴えられたことがある。が、彼が現場から退けられない理由はただ一つ。決着がつくからだ。怪しい人間というのは、職質や取り調べで何とかやり過ごそうと話が進まないようにすることが多々ある。身長が平均値以下で体が細い男または女性、特に現場に出たばかりの若い警察官は、舐められてしまい余計話が拗れることがある。だが、この男が出ると一瞬で片が付く。かつて組織犯罪対策課に所属をしていたこともあり、迫力が全く違う。どれほどかと言うと、ヒグマに遭遇した時と同じくらい本能的に命の危機を感じる。
話は逸れたが、つまり三枝がこの場に出てきたと言う事は、警察はとっとと事件を終わらせたいと言う事だ。
向かいのパイプ椅子が軋みを上げる。咳が落ち着き顔を上げれば、腰を下した三枝が腕を組んでいた。
「三輪、お前も刑事や。俺が何言いたいか分かるやろ」
低く威嚇する三枝に、蕗二は背筋を伸ばした。
「その前に、小松が亡くなったってホンマなんですか?」
恐る恐る問うた蕗二を、三枝は鼻で笑う。
「何もなかったら警察は動かんで」
そうだ、逮捕状が発行されたと言う事は、何か証拠があると言う事だ。
蕗二は覚悟を決め、事の始まりを思い出す。
「大阪に帰ってきたんは一昨日。母に同窓会があるって言われて、19時半に店に行きました。5分前には着いたと思う。で、その店の前で五百森と会って、一緒に店に入りました。店の中で奈須、二葉、椋村、小松に山梨がおって」
蕗二は指を折りながら、人数を確認する。
「何時か確認してへんけど、途中で栩木が来て、そっからひたすら飲みました。10時くらいまで店で飲んでたんは記憶にあるんやけど、それ以降は覚えてません。ただ次の日、起きて母に確認したら、椋村と五百森に連れ帰ってもらったってのは、聞きました」
そこで三枝は片眉を器用に上げ、首を捻った。
「お前、どないした? 記憶ぶっ飛ぶほど飲まへんやんけ」
「すみません……」
それ以外の言葉が出ない。蕗二は警察の集まりでも、まったく酒は飲まない。でも、なぜかあの日はよく酒が回った。10年ぶりの再会と許しを経て、いつになくはしゃいでしまったのだろう。
蕗二のつむじに三枝の言葉が降ってくる。
「『酒で記憶がない、覚えてへん』は、ぶっちゃけ通用せぇへんで。凶器が被害者と一緒に見つかった。で、お前の指紋が出とんねん」
溜息混じりの声に、蕗二は顔を上げる。
「三枝さん。そもそも、小松は……どう、亡くなったんですか」
数々の現場で、遺体を見てきた。眠るように亡くなっている遺体を、ほとんど見ることがない。刺され、殴られ、苦痛に歪み、時に顔の造形が分からないこともあった。
小松に何があったのだろうか。
無邪気で子供のような奴だった。素直すぎてたまにキツイ言葉が刺さることはあるが、裏表のない正直さにチームが険悪になることもなかった。あいつが殺される理由が浮かばない。
上げた視線が、気が付けばまた膝の上の拳を見ていた。
「ホンマに知らんねんな?」
かけられた言葉に、ただ頷く。
「撲殺や。頭ボッコボコになっとった。腕や背中にも防御創があるから、かなり抵抗したんちゃうか?」
同情するように三枝は重い溜息を吐いた。
「凶器は、まあ撲殺定番の金属製のバットやった。今まで見たことないレベルでバットが曲がっとったから、犯人は残酷やっちゃで。ほんで、その持ち手からお前の指紋が出てきた」
そこで言葉を切った三枝は首を傾げた。蕗二が目を見開いて、三枝の顔を凝視していたからだ。無理もない、蕗二はムカデが背中を這い上がったような寒気に襲われていた。
「どんなバット、ですか。もしかして、サインが入った奴ですか?」
言葉を発するごとに口の中が干からびていく。
「サインはあらへんかったけど、まあ、一回見てみるか?」
三枝は隣に立っていた刑事に掌を向ける。刑事は脇に抱えていたタブレット端末を三枝に渡す。三枝は画面を指先で突き、左右にスライドさせると画面を向けてきた。それを見た瞬間、震えが止まらなくなった。
栩木が二葉に渡したサイン入りの金属バットだった。
ただし、店で見たときは栩木のサインが書かれていた。それがない。だが、バットのブランドは一緒だ。
そういえば、バットを贈った栩木、貰った二葉はグリップに触っていただろうか?
思い出せない、だが俺がバットを触ったのは、あの一瞬だけだ。
蕗二は椅子を倒しながら立ち上がる。腰紐が蕗二を制止しようと腰を引くが、吠えるのは止められない。
「二葉の、二葉の店にバットがあるか、調べてくれ! お願いします!」
頭の中で、繋がらなかった点と線が結びつこうとしていた。
鳥頭から借りた資料によれば、二葉の後頭部に何かぶつけた跡があるとあった。あれは冷蔵庫にぶつけたんじゃない。バットで後ろから殴られた痕だったかもしれない。
犯人は二葉をバットで殴り殺そうとしたのかもしれない。だが殴り殺してしまえば、殺人として捜査されてしまう。だから犯人は、隠蔽するためにわざと七輪を置き、まだ生きていた二葉を一酸化中毒で殺害した。だが、なぜ俺は今犯人にされている? 違う。犯人は俺が警察だと知っていたとして、二葉の事故死を嗅ぎ回っていたことを秘かに観察していたとしたら? 犯人にとって不都合だ。だから、罪を被せようとしたんじゃないのか?
気ばかりが焦り、刑事たちに抑え込まれて椅子に座らされても、心臓は暴れ回っていた。
座ったまま様子を観察していた三枝は、突然振り返り、部屋の片隅で調書を取っている刑事の肩を叩いた。
「一回止いて。こっからは事件関係ないことしゃべるさかい」
刑事は頷き、ノートパソコンを閉じた。三枝は机に肘をつき、気の立った猛獣のような蕗二に顔を近づけた。
「俺も、ちょっと気になっとんねん。指紋も何も、バット以外なーんも出てこーへん。奇妙やろ? まるでお前が犯人やって誘導されてる気がしてしゃあない」
両肘を机に突いただらしない格好で蕗二を見ながら、三枝は顎を撫でる。
「お前、頭カアアッて来たらよう吠えよるけど、反撃以外で人を殴いたりするんは見た事ないさかい、もしかしたら酒に薬されて潰された可能性もあるんちゃう? その間に、バット握らせて犯人に仕立て上げたとか……一昨日盛られたんやったら、もう検出できひんか」
伸び始めた髭を探すように顎を撫で回していた三枝は蕗二の隣に立っていた刑事に視線で問う。厳しいですねと頷かれ、三枝はせやんなと天井を見上げた。
肩をほぐす体操のように首を左右に振りながら唸っていたが、唐突に動きを止め、蕗二を見据えた。
「答えにくいかも知らんけど、同級生に恨まれるような事、あったんか?」
「恨み……」
恨みなんて、ひとつしか思い浮かばない。野球部を勝手に去ったことだ。だが、同窓会の日、許されたと思っていた。そう言ってくれた。あれは、自分を嵌めるための、罠だったの言うのか。
口では許すと言って、そんな嘘をついてまで、
全員≪ブルーマーク≫が付いていないのに、あの場に俺が現れて、突然思いついた犯行だっていうのか?
いや待て、じゃあ二葉と小松が殺される理由は? 二人は反対したのか? だから殺されたのか?
だったら見殺しにしてくれた方がよかった。二葉の奥さん泣いてたじゃねぇか。俺が一人死んでたら、丸く収まったんじゃないのか?
調理場だってあった。店で殺して、解体して、全員で手分けして捨てちまえばよかったのに……
怒りや悲しみに戸惑い、自暴自棄。次々と湧き上がる感情が多すぎて、今自分の感じる感情が分からない。長く正座をし過ぎたような痺れが、頭の奥からやってくる。何も考えたくない。頭が重くて、机に肘をついて額を押さえる。
現実逃避を許さないとばかりに肩が掴まれ、体が揺すられる。億劫な視線を隠そうとせず、手の下から三枝を見上げると、真剣な眼差しが向けられていた。
「釈放や」
言葉の意味が分からず、眉を寄せれば三枝をもう一度はっきりと言葉を発音する。
「しゃ・く・ほ・う。取り調べは終わりや」
音を立てて立ち上がった三枝は、蕗二の腰紐を解くように腕を振りながら指示する。突然のことに、蕗二は思わず腰紐を解く刑事を止めるほど混乱した。
「いやでも……いいんですか?」
見上げた先で、三枝が呆れた表情を浮かべる。こちらの混乱を汲んでくれたのか、三枝は肩から力を抜いて、背を撫でるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「お前、顔見てみ? 死人みたいな顔しとるわ。落ち込むんは好きにしてくれて構わんけど、早とちりは絶対あかんで。犯人捕まえて、本当の理由聞いてからにしとき」
肩に手を置かれ、労わるように優しく叩かれる。
眼の奥が熱さで痛んで目を瞑る。そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。理由を聞かなければ。突然家族を失った家族にも顔向けができない。そして、真実を知るのも自分への罰だ。
何も知らずにただ逃げるのは、父を殺して自殺した犯人と同じことだ。
瞼を上げる。強い光を灯した蕗二の目に、三枝は口の端を持ち上げた。
「ええな、その表情。ほんじゃ、早よ帰る準備しーや?」
「はい」
腰紐が解かれ、所持品検査で預けていた液晶端末や財布をポケットに入れているとドアが勢いよく開いた。勢いがあまり、壁に跳ね返ったドアに体をぶつけた刑事は、少し大げさに痛がっている。
「なんや落ち着きないやっちゃなぁ、どないした?」
「し、失礼いたしました」
背筋を伸ばした刑事は口の端に手を当て、三枝に耳打ちをする。大人しく聞いていた三枝の目が鋭く変わっていく。
「何が、あったんですか……」
蕗二が机を回って近づくと、気まずそうに視線を彷徨わせる刑事。三枝は苛立たしく、後頭部を掻き毟る。
「お前の扱いは今、部外者や。詳しく言われへんけど、今しがたある男に捜索願が出たんと、もう一人遺体が見つか……」
「誰ですか!? まさか、山梨じゃないですよね!?」
食いかかった蕗二に、三枝も他の刑事たちも驚いて目を剥く。
小松とよく一緒にいたのは山梨だ。小松が巻き込まれたのなら、山梨もいた可能性がある。ただの憶測だ、当たっているわけがない。そう思いたいが、三枝の反応でうっすらと勘づいてしまった。
三枝と顔を見合わせた刑事はこれ以上話せないと首を横に振る。しかし、三枝は口を開いた。
「捜索願が出されたんは、栩木友也。そんで、見つかった遺体は山梨聡」
慌てる刑事を三枝は手で制し、なおも続ける。
「死因は、また撲殺や。科捜研から小松良介が撲殺された時のバットと同じやって鑑定結果も出た。もしかしたら、被害者の二人は同じ場所に居って、殺されたんかもしれへんな。他の同級生が無事かどうか確認中や。もちろん、お前も危ないかもしれん。タクシー呼んだるから、おかんと家で大人しく待機や」
眉間に深い皺を刻む蕗二の鼻面に、三枝は人差し指を突き立てた。
「ええな、三輪。お前の気持ちも分かる。せやけど、容疑はまだ晴れてへんで?」
目頭に力を入れ蕗二を睨んだ三枝は、指を離すと強い力で肩を掴んだ。表情は一変し、近所で古くから付き合いのある世話焼きのおやじのように馴れ馴れしい笑顔を浮かべる。
「それに、お前は犯人ちゃうって、ご両親安心させなあかん。あとはあれやな、俺の判断が間違ってへんかったって、カッコつけさせてくれへんか? よろしく頼むでぇ?」
蕗二の二の腕を痛むほど強く二回叩くと、三枝は足早に刑事を引き連れて部屋を出て行く。
その背に向かって蕗二は背筋を伸ばし、深く腰を折って最敬礼をした。




